貴重な体験があったのでちょっくら後ろの項目に突然飛びます。
引用は赤字で書きます。
第六章 「四銃士」活躍す その四──ラカンと分析的対話
ぼやけた世界がくっきりと見える現実感
それを成立させている条件はなんだろうか。
ラカン [Jacques Lacan](1901-1981)の鏡面段階論によれば
「まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している幼児的=ことばを語らない段階にいる子どもは、おのれの鏡像を喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は、私たちの眼には、範例的なしかたで象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、〈私〉はこのとき、その始原的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の弁証法を通じて〈私〉が自己を対象化することにも、言語の習得によって〈私〉が普遍的なものを介して主体としての〈私〉の機能を回復することにも先行しているからである。」(私の機能を形成するものとしての「鏡面段階」)
とりあえず第二の鏡面段階について語ってみよう。
自由な社会活動ができず、生活の拠点をわどさんに依存している幼児的はにゃ(まともな言葉を語らない)は、批判されると何故か喜ぶ。それゆえこの現象はブロガーの目には、駄目な人生のお手本として反面教師の一例を示しているもののように見えるのである。というのは、<私>はこのとき、その言葉の中にいわば妄想的に成り代わるわけだが、それはそれとして僕はこの文章の真面目さに飽きてきましたすいません。
本やテレビやネットや会話で得た知識から人はそれぞれ自分専用に知の宇宙を構成していき、そこには世界モデルと呼ばれるものが出来ていくわけですが、このように言語で形作られたソフトウェア的な世界というのは非常にあやういもので、現実の変化があまりにも急速な衝撃的場面に遭遇した時にゃぁあんぐりと口をあけてポカーンって言うしかないよね。
僕はわどさんから批判をどどどーっと一気に言われて正直ビビったのですが、まぁ基本的な事に関しては言ってる事はわかるのですよね。こないだ南無さんに言葉でぐるりと囲まれてカチャンと何かにハメ込まれたた時と似ていてやはりここでも僕は「父の像」に近いものを感じました。主体というものは、自己自身について語りつつ、知らず知らずのうちに他者となり、「他者の欲望」をもって自己に近づくというラカンの言葉通り、僕は一瞬何か自分に気付けたような気がしました。批判を受け取るのを拒否してしょっちゅう屁理屈論理防壁を張っているので基本的に僕は誰の言葉もあまりまともに受け取っていないのですが、引力が強い人というのがたまに居て、僕は特定の人から特定の条件で特定の言葉を受け取った時のみ、外部への扉が開かれます。
他人の意見の無茶な要求や不条理というのは論理性が破綻しまくってますが、これはこれでなかなか面白いもので、自分で普段言うような「はにゃ像」と他人の見ている「偏見はにゃん像」の矛盾を融合させ、新しく両者を包含するスーパーはにゃっちに昇華する事でレベルが1上がります。音楽も流れます。ちゃりらりらーん♪
で、現実っつーのは他者による認識の集合体みたいなもんで、現在は様々な細分化された境界線が引かれている事と思います。
ぼんやりした人には認識の曖昧な混沌宇宙があるんですが、それはまぁ、寝てる時の夢みたいな感じです。ネバーランドへようこそ♪
今後も適当に続きます。
引用は赤字で書きます。
第六章 「四銃士」活躍す その四──ラカンと分析的対話
ぼやけた世界がくっきりと見える現実感
それを成立させている条件はなんだろうか。
ラカン [Jacques Lacan](1901-1981)の鏡面段階論によれば
「まだ動き回ることができず、栄養摂取も他人に依存している幼児的=ことばを語らない段階にいる子どもは、おのれの鏡像を喜悦とともに引き受ける。それゆえ、この現象は、私たちの眼には、範例的なしかたで象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、〈私〉はこのとき、その始原的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との同一化の弁証法を通じて〈私〉が自己を対象化することにも、言語の習得によって〈私〉が普遍的なものを介して主体としての〈私〉の機能を回復することにも先行しているからである。」(私の機能を形成するものとしての「鏡面段階」)
とりあえず第二の鏡面段階について語ってみよう。
自由な社会活動ができず、生活の拠点をわどさんに依存している幼児的はにゃ(まともな言葉を語らない)は、批判されると何故か喜ぶ。それゆえこの現象はブロガーの目には、駄目な人生のお手本として反面教師の一例を示しているもののように見えるのである。というのは、<私>はこのとき、その言葉の中にいわば妄想的に成り代わるわけだが、それはそれとして僕はこの文章の真面目さに飽きてきましたすいません。
本やテレビやネットや会話で得た知識から人はそれぞれ自分専用に知の宇宙を構成していき、そこには世界モデルと呼ばれるものが出来ていくわけですが、このように言語で形作られたソフトウェア的な世界というのは非常にあやういもので、現実の変化があまりにも急速な衝撃的場面に遭遇した時にゃぁあんぐりと口をあけてポカーンって言うしかないよね。
僕はわどさんから批判をどどどーっと一気に言われて正直ビビったのですが、まぁ基本的な事に関しては言ってる事はわかるのですよね。こないだ南無さんに言葉でぐるりと囲まれてカチャンと何かにハメ込まれたた時と似ていてやはりここでも僕は「父の像」に近いものを感じました。主体というものは、自己自身について語りつつ、知らず知らずのうちに他者となり、「他者の欲望」をもって自己に近づくというラカンの言葉通り、僕は一瞬何か自分に気付けたような気がしました。批判を受け取るのを拒否してしょっちゅう屁理屈論理防壁を張っているので基本的に僕は誰の言葉もあまりまともに受け取っていないのですが、引力が強い人というのがたまに居て、僕は特定の人から特定の条件で特定の言葉を受け取った時のみ、外部への扉が開かれます。
他人の意見の無茶な要求や不条理というのは論理性が破綻しまくってますが、これはこれでなかなか面白いもので、自分で普段言うような「はにゃ像」と他人の見ている「偏見はにゃん像」の矛盾を融合させ、新しく両者を包含するスーパーはにゃっちに昇華する事でレベルが1上がります。音楽も流れます。ちゃりらりらーん♪
で、現実っつーのは他者による認識の集合体みたいなもんで、現在は様々な細分化された境界線が引かれている事と思います。
ぼんやりした人には認識の曖昧な混沌宇宙があるんですが、それはまぁ、寝てる時の夢みたいな感じです。ネバーランドへようこそ♪
今後も適当に続きます。
楽しい窒息死?
流行性腹筋振動感冒でしょう、うん。
もう、遠隔操作は勘弁してください(笑)。