まず、帯にある宣伝文句から。
>「善悪ってなに?誰が決めるの?」
とある。
単純に答えを言ってしまえば、
善悪は良心と倫理観に従って、善と悪の線引きを信じるものが
勝手に引いた境界線であり、善、もしくは悪、あるいは両方を信じる者が
その采配を決めている。
もし、成長の人格形成過程において、その形質が歪に歪められてしまったのなら、
あるいは、真っ直ぐに純化されてしまったのなら、
もしくは、裏返って、違うものに変化してしまったのなら、
そこには新しい着眼点、新しいアイディア、新しい神が現れる。
つまり、視座が変わるということだ。
この物語において重要なことは、
少女が愛犬のリトルを失う行為を、
生物的な反作用の中で、何年もかけて理解しようとしている点だ。
つまり、彼女は犬が死ぬということを、瞬時には理解できなかったし、
また、我々人間の方に、大人とか子供とかのものさしを持って来る前に、
ひとつの孤独な生き物として、例えば「知恵を振り絞って考えることの出来る猿」
としての立ち位置だったとしても、目の前に起こっている【死】というひとつの出来事を、
そう簡単に解ることなど出来ようか?
もし、理解に行動や経験を伴なう必要性があるとしたら、
例えばそれがパズルのようなものだったとしても、
ぐるぐるとキューブを回転させることでしか解らない人も居るし、
バラバラに分解しないとわからない人も居るし、
回さなくても瞬時に解答を導ける人も居るだろう。
だが、残念なことに、死は生の向こう側にある。
こちら側ではない。
にも関わらず、少女は大人から「天国」という嘘を教わってしまう
それをまったくのジョークや嘘として処理できれば
ことはもっと単純で簡単に折り合いのつくものかもしれないが、
もし、ある種の無知と純粋さによって、
無垢な魂のありかを探し出すトリガーとなってしまったとしたら、
少女はもう、引き金をひくしかないのだと思う。
それは死が持つ暴力性や優しさによって達成されるものではないが、
人の物差しがその計測を邪魔する。
人を殺すことは決して暴力的でも優しくもなく、
もっと冷たい温度の無い現象に過ぎない。
だが、そこへは人が意味を介入させる。
「少女が親を殺すとはどういうことか?」
「子どもが大人を毒殺するとは何か?」
「主人公はいかにして母を殺すに至ったか?」
いわばもう、これは読者に向けて延々と説教のように語られる
オリジナルの供述調書だ。
現象を人が事件にする。
そして、事故にする。
踏みつぶした蟻に許しを乞うのは、蟻の命に人と等しい価値があるからではない。
許されたいという動機を持つ者だけだ。
蚊を殺すことと人を殺すことに差をつけるのは、
その、両者に価値基準を適用できる者だけだ。
もし、姉がリトルを殺したら、
彼女は豹を愛したか?
という問いが生まれる。
毒殺のオリジナルは、ライオンにあるのでも、
彼女にあるのでも、グルムグンシュにあるのでもなければ、
グレアムヤングにあるのでもない。
「白衣を着た男性獣医」にあるのだ。
この切り取った、小さなBookの世界観において言えば。
だけどそのことについては多くを語られない。
少女にとっては愛する母親から初めて教わった
「生き物を殺すということ」であり、
その恩を、愛情を、行動で示さなければならないのだろう。
これは優等生にありがちなパラノイアであり、
良い子で居ること と 権力者 との間で起こる葛藤なき
宗教的行為でもある。
もし、リトルという器に入った魂の意志が、
略奪されない秘密の部屋で行われる孤独な行為であったのなら、
きっとこうはならなかった。
自己が確立できない間に行われる「育てる」という行為の憑依試験の中で
あのふさふさした被毛を撫でながら、衰弱していく犬を見つめる行為の中に
新しい自分を発見したかもしれないのだ。
だが、残念ながらリトルは
そして少女の自己は、確立されるよりも前に、
ライオンの檻の中で育っていく忠実なモンスターの僕(しもべ)なのだ。
育った愛で飼い主を食い殺す新しい息吹だ。
ぼくは例の事件が起きた時、
glmugnshu -グルムグンシュ-
を読み漁った。
繊細な心を感じさせる文才と、
子供の中にある特有の闇の匂いを感じ取ることの出来る
貴重なサイトだった。
どうしても、僕はその少女と比較しながら、
桂木涼子(風矢信介)を見てしまう。
たぶん、僕はこの本の忠実な読者にはなれないだろう。
本を読む前に、多くのことを知りすぎて居る。
それでも、読んでいくうちに、ハッとさせられることは
何度かあった。
もし、この本を弱さで読み取ることの得意な人が見たら、
この少女の心を、弱いものだと勘違いするかもしれない。
もちろん、そうした読み取りはその本人にとっての
真実の供述調書となりうるものなのだと思うけれど。
最後に、この文章を読んでくれた読者のあなたに、
この言葉を捧げたい。
「――なんだよ。みるなよ! 足が一杯になるだろ!」
>「善悪ってなに?誰が決めるの?」
とある。
単純に答えを言ってしまえば、
善悪は良心と倫理観に従って、善と悪の線引きを信じるものが
勝手に引いた境界線であり、善、もしくは悪、あるいは両方を信じる者が
その采配を決めている。
もし、成長の人格形成過程において、その形質が歪に歪められてしまったのなら、
あるいは、真っ直ぐに純化されてしまったのなら、
もしくは、裏返って、違うものに変化してしまったのなら、
そこには新しい着眼点、新しいアイディア、新しい神が現れる。
つまり、視座が変わるということだ。
この物語において重要なことは、
少女が愛犬のリトルを失う行為を、
生物的な反作用の中で、何年もかけて理解しようとしている点だ。
つまり、彼女は犬が死ぬということを、瞬時には理解できなかったし、
また、我々人間の方に、大人とか子供とかのものさしを持って来る前に、
ひとつの孤独な生き物として、例えば「知恵を振り絞って考えることの出来る猿」
としての立ち位置だったとしても、目の前に起こっている【死】というひとつの出来事を、
そう簡単に解ることなど出来ようか?
もし、理解に行動や経験を伴なう必要性があるとしたら、
例えばそれがパズルのようなものだったとしても、
ぐるぐるとキューブを回転させることでしか解らない人も居るし、
バラバラに分解しないとわからない人も居るし、
回さなくても瞬時に解答を導ける人も居るだろう。
だが、残念なことに、死は生の向こう側にある。
こちら側ではない。
にも関わらず、少女は大人から「天国」という嘘を教わってしまう
それをまったくのジョークや嘘として処理できれば
ことはもっと単純で簡単に折り合いのつくものかもしれないが、
もし、ある種の無知と純粋さによって、
無垢な魂のありかを探し出すトリガーとなってしまったとしたら、
少女はもう、引き金をひくしかないのだと思う。
それは死が持つ暴力性や優しさによって達成されるものではないが、
人の物差しがその計測を邪魔する。
人を殺すことは決して暴力的でも優しくもなく、
もっと冷たい温度の無い現象に過ぎない。
だが、そこへは人が意味を介入させる。
「少女が親を殺すとはどういうことか?」
「子どもが大人を毒殺するとは何か?」
「主人公はいかにして母を殺すに至ったか?」
いわばもう、これは読者に向けて延々と説教のように語られる
オリジナルの供述調書だ。
現象を人が事件にする。
そして、事故にする。
踏みつぶした蟻に許しを乞うのは、蟻の命に人と等しい価値があるからではない。
許されたいという動機を持つ者だけだ。
蚊を殺すことと人を殺すことに差をつけるのは、
その、両者に価値基準を適用できる者だけだ。
もし、姉がリトルを殺したら、
彼女は豹を愛したか?
という問いが生まれる。
毒殺のオリジナルは、ライオンにあるのでも、
彼女にあるのでも、グルムグンシュにあるのでもなければ、
グレアムヤングにあるのでもない。
「白衣を着た男性獣医」にあるのだ。
この切り取った、小さなBookの世界観において言えば。
だけどそのことについては多くを語られない。
少女にとっては愛する母親から初めて教わった
「生き物を殺すということ」であり、
その恩を、愛情を、行動で示さなければならないのだろう。
これは優等生にありがちなパラノイアであり、
良い子で居ること と 権力者 との間で起こる葛藤なき
宗教的行為でもある。
もし、リトルという器に入った魂の意志が、
略奪されない秘密の部屋で行われる孤独な行為であったのなら、
きっとこうはならなかった。
自己が確立できない間に行われる「育てる」という行為の憑依試験の中で
あのふさふさした被毛を撫でながら、衰弱していく犬を見つめる行為の中に
新しい自分を発見したかもしれないのだ。
だが、残念ながらリトルは
そして少女の自己は、確立されるよりも前に、
ライオンの檻の中で育っていく忠実なモンスターの僕(しもべ)なのだ。
育った愛で飼い主を食い殺す新しい息吹だ。
ぼくは例の事件が起きた時、
glmugnshu -グルムグンシュ-
を読み漁った。
繊細な心を感じさせる文才と、
子供の中にある特有の闇の匂いを感じ取ることの出来る
貴重なサイトだった。
どうしても、僕はその少女と比較しながら、
桂木涼子(風矢信介)を見てしまう。
たぶん、僕はこの本の忠実な読者にはなれないだろう。
本を読む前に、多くのことを知りすぎて居る。
それでも、読んでいくうちに、ハッとさせられることは
何度かあった。
もし、この本を弱さで読み取ることの得意な人が見たら、
この少女の心を、弱いものだと勘違いするかもしれない。
もちろん、そうした読み取りはその本人にとっての
真実の供述調書となりうるものなのだと思うけれど。
最後に、この文章を読んでくれた読者のあなたに、
この言葉を捧げたい。
「――なんだよ。みるなよ! 足が一杯になるだろ!」
この主人公が正しいか正しくないか、そこに絶対的な答えは出せないと思うんですよね。ただまぁ、そこらで10人に聞いたら10人がおかしいって言うと思うけど。
個人的にはこの主人公の考え方を頭から否定はしないけど、じゃあ相手の気持ちも聞いてから行動しろよと。それじゃ自分も自己を押し付けてるだけだぞと言いたいです。
もっと理論的に納得させ、非の打ち所のないような動機なら面白かったけど、狂っていようとも人間味がある主人公のせいで、イマイチ面白くなかったです。
こんな内容なので、意識して読者に嫌悪感を持たせる文章にしたのかな。そう考えると、やはり才能があるということでしょうか。
主人公があんまり事件の少女と似てないんですよね^^;
参考にしただけで別の物語なんだと言えば
それまでかもしれませんが…。
>非の打ち所のないような動機
こういうのを求めるなら、
容疑者Xの献身
とかの方が面白いと思いますよ-。