嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

僕の居る場所

2011年09月01日 11時29分41秒 | 考え事
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【さよなら。】

今度こそ、僕は確実に死ぬ。死ねる方法を見つけたから。
さっき試してみた。今も呼吸が苦しいけど、生きている苦しみよりはマシだ。
だから、これが僕の遺書になる。

彼女のいない、この世界に生きていたくない。
でも、彼女を助けられなかったのは僕自身だ。
僕に全ての責任がある。
だから、僕は死ぬ。彼女の元へ行く。彼女だけじゃない。トリエラやなーパパも待っている。寂しくなんかない。
むしろ、この世界で生きている苦しみよりはマシだ。

今まで、色々とありがとうございました。
僕のことなんか忘れて、皆さんは生きてください。
僕の最期のお願いです。
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上記の文章は、すべて引用です。
最初の【】はmixi日記のタイトルだったので
本文と区別するために墨付き括弧を私が付加しました。

今年の5月5日、友人(大学時代の先輩)は
この遺書を残して亡くなられました。
また、その際に
「自分が自殺したことを隠さないでほしい」
と、本人が手帳に書き残していた事がわかっています。

この文中における彼女とは奥さんのことであり、
奥さんが亡くなった事に関しては
理由の推論や死因などについて、
生前の先輩本人から直接電話で詳しい話を聞いていました。

電話口で淡々と奥さんの死について告げる彼の様子から
なんとなくおかしな心理状態を感じ取ってはいたものの、
「先輩は奥さんが亡くなったこと、平気なんですか?」
とは恐ろしくて聞けませんでした。

実際のところ、まったくもって彼は平気では無かったのですが、
そのことを考えると、
少し薄ら寒いような気持ちになります。

また、前日の5月4日には
下記のような文章を遺していました。

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【死にたいのに死ねない。】

何度もね、10回以上方法を変えて首を吊ろうとしたんだ。
けど、ダメだった。うまくいかなかった。

彼女を死なせたのは僕だ。
彼女がいない、何の価値もない、この世界に僕はいたくない。

どうしてかな、ただ死にたいだけなのに。
どうして死ねないのかな。

彼女と過ごした幸せだった日々。
それはもう戻ってこない。
僕があの日、彼女のことをきちんと見ていたら、こんなことにはならなかった。

もう生きていたくない。
生きているのが苦痛でたまらない。
誰がどんなに慰めたって、たぶん僕には癒しにも、解決にもならない。

ただ、死にたいだけなのに。
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つまるところ、僕にはもともと為す術はなかったのです。
でも、本当にそうでしょうか?
本当に僕には、どうしようもなかったのでしょうか?
世の中の孤独には、いくつかの種類があります。
人の数だけ異なる孤独があり、
100人居れば100種類の孤独があると言うことも出来ます。
哲学的暴論で無理に切り取れば、孤独にも一般的側面と
個人的側面があるはずです。
個人的側面は100種類の孤独ですが、
一般的な孤独には、たった二種類しかありません。

「自殺するほどの孤独」と「自殺はしない程度の孤独」です。

わかりづらいので、
この文章に、自意識の代名詞を埋め込む。

「自殺するほどの彼」と「自殺はしない程度の僕」
両者の違い、境界線はどこにあるのでしょうか?

先輩の未来が絶望で埋まっていた、という話なら
僕の未来も絶望で埋まっているという点ではさほど違いはありません。
親しい人が亡くなった、という話であれば
僕も親しい人が亡くなっています。

少し話が逸れますが、最近あちこちの墓参りに行きました。
親戚のおじさん、母方の祖父、父方の祖父、姉。
爺ちゃんと姉貴に関して言えば、同じ家に住んでいた家族です。
僕は爺ちゃんのお通夜の時、式の参加を拒みました。
しばらく家に篭もって一人で迷ったあげくに、私服で少しだけ参加しました。
死が個別のものであり、特別であるのなら、
定式化され、一般化された黒い喪服の人達の儀式に、
僕は巻き込まれたくないと考えたからです。
爺ちゃんの死体はそのときにしっかりと棺桶をのぞき込んで確認しました。
翌日、僕は葬式に参加しませんでした。
家族や親族はみんな参加しましたが、
僕だけは参加しませんでした。

あの、亡くなった日の朝、寝ていた僕に届いた
明け方頃のうなり声ともうめき声ともつかない、
いままで聞いたこともないような、声と音の中間音。
婆ちゃんのすすり泣く声、救急車の音、
家族の声、関わりを拒否する僕の声。
耳から離れない記憶。

同じようにまた、僕には先輩と話した最後の電話の声が
今でも残っていて、ふとした拍子に思い出して
その声が聞こえるのです。

一つ大きな違いを言うのであれば
僕は亡くなった人を愛しては居ませんでした。
故人の一人一人に対して、僕なりの特別な記憶はあります。
姉貴が植物状態だったときの、あの冷たいけれど
生暖かいような、というよりは、生ぬるい、医薬品の混じったような体臭と空気の匂い。

会うたびに「きばってしんさいよ?」と独特の方言で
僕たち子供を励ましていた爺ちゃんの声。

色々なものが僕の側で通り過ぎて
死者たちの声は、十分すぎるほどリアルに聞こえていても
やっぱり僕は、彼らとは違っていて、生きている。
生に縋り付いている。

なにが違うのでしょうか?
彼らと僕と、いったいどこに境界線があるのでしょうか?
死にたくも生きたくもない。
絶望したときには死にたい気持ちにもなるし、
嬉しいことがあれば生きていたいと思う。
ほんの少しの違いで、気持ちは浮いたり沈んだりする。

何が違うのでしょうか?
彼らと僕と。
あるいは 僕と、君たちと。
もしくは、僕と君。

心のどこかで他者を捜して
ゆっくりと未来に振り返るように
僕は、今の過去を見ている。

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