ときおり、唐突に大事な事に気付く。
外からはきっと妄想に聞こえるだろう。
それでも、失くなるという事の本質は変わらない。
だから失くす事を恐れずに、現実を恐れるということの不思議さを
彼らはうまく理解できないかもしれない。
しかし、理解できないとは言い切れない、
彼らもまた、同じように失い続けているのだから。
扉を閉じて考える
部屋について考えるのではなく、
閉じられていることについて。
そして、閉じても閉じてもなお、失われる世界について。
現実に、感覚の上で痛みがあるということは
そこに叫びがあるということで
それがすなわち神経を通って伝わるという事でもあるのだけど
神経を切っても痛みは消えない
痛みのこだまが消えないということではなく、
痛みは決して消えない
そしてまた、痛みも失われる。
喪失は、恐怖ではなくむしろ叫びに似ていて
それが悲痛な叫びであるほど失われ、
死した事によって伝わる。
破壊されたものこそが、本当に何かを伝える事ができる
逆説的に、何かを破壊せねば、何かを感じる事はできない。
「この世界は、常に失われ続けている」
これは声だろうか、それとも痛みだろうか。
繋がっているものに対して、何かを伝えるとはどういうことだろう
例えば糸に対して、音を伝えるというのはどういうことだろう。
糸で向こう側へ音を伝えるとしても、
向こう側は見えはしないし、そしてまた、糸に音が伝わっているのかどうか
それがよくわからない。
厳密に言うと、目に蒼さを伝える事はとても難しい
目が青さを通して碧さや蒼さを伝えてしまうのだから。
そしてまた、わかるかわからないかと言えば、
分かたれたものが分かり
理解されたものが解り、
そしてその悲痛の叫びの中で、
目は青さを伝えようとしてしまうのだから。
喜びに似た喪失の中で
僕は自分の色がとても不確定な事を知る。
器としての自分、無くなり続ける自分の中で
通過儀式のような自分を感じて
まったくもってベクトルにはならない自分を知る
それは多分、自分を知ったことにはならないんだと思う。
主観で思い続ける限り、決して客観にはならない出来事のように。
とはいえ、僕もまた、主観が決して存在しない事を知る者として
客観が存在しない事を知っているが故に、
それは同軸上にあるものと考える。
あるいはまた、同軸状として考える。同軸場としても考える。
はたしてまた、失われるのは世界の方だろうか、自分の方だろうか、
と考える。
考えてはいけない事だと言われたこともあるが
考えずには居られないほど切実な痛みを伴うからこそ、
それを守り続けた者の言葉だと捉える事もできる。
そしてまた、
多くの者にとって、失われるのは自分の方なのだろう。
おそらく僕にとっても、それが同時に失われている死した僕にとっても、
失われるのは世界の方なのだ。
それが裏返しの出来事であるかぎり、僕と世界は繋がらない。
世界が失われても、僕が失われても、自分が壊れ続けても、
結局僕が死して居ることに変わりはないのだ。
変化するものにとって、変わらない死の壁がある限り、
世界はいつだって防壁に囲まれた中で、
有限性に似た祈りの中で、無限という理想を願い続ける箱でしか無いのだ。
それが四角かったとしても、丸かったとしても、平ぺったかっとしても、
例えまっすぐであったとしても、
それが死の壁に阻まれ、ずっと閉じられている限り、
世界は永久に閉じられたままで、
決して開かれる世界になりはしないのだ。
僕等はどこにも開かないという嘆き、
それは僕だけに与えられた嘆きではないのだ。
にも関わらず、僕にしか僕の声が聞こえないという事実は、
いかんともしがたいジレンマなのだけれど、
そうした事実の認識は、やがて事実自身がゆがめられていくことによって
きっと違う認識へと変わってゆくのだろう。
あてのない旅だ。
とても、宛のない、ゆく宛のない旅だ。
にも関わらず、世界は歪み続け、
決して真っ直ぐでは居られないのだから、
この世界の強制進化はいかんともしがたい。
もちろん、退化の意味においても。
忘れられる事には慣れている
忘れられる痛みにも、
憶えたフリをする者の嘘にも、
どんな悲痛な嘆きにも、
死する者は慣れている
にもかかわらず、
忘れられる事に怯えながら歪んでいく自分は
いったいどんな器の形で外から見えるだろう。
もっと死の外へ広がるように、
もっとまっすぐに広がるように、
形の無い形の中で、永遠に似た形を探す行為は、
はてしなく馬鹿げている。
それでもなお、
感覚はとても痛い。
繋がっているのか繋がっていないのか、
感じているのか感じていないのか、
わけがわからないながらにも、
いつだって白さは失われていく
透明な存在になるために、
いつでも僕の体は壊れ続けてゆく
どっちが痛いのか、どちらも痛いのか、
痛みを唱えるほどに無痛となるのか、
はがゆくもあり、はかなくもあり、かなしさを弄ぶような呼吸の中で
ずっと僕は、届かない手紙を書く
今も書いている。
ずっと、いつでも、見えない場所で書いている。
外からはきっと妄想に聞こえるだろう。
それでも、失くなるという事の本質は変わらない。
だから失くす事を恐れずに、現実を恐れるということの不思議さを
彼らはうまく理解できないかもしれない。
しかし、理解できないとは言い切れない、
彼らもまた、同じように失い続けているのだから。
扉を閉じて考える
部屋について考えるのではなく、
閉じられていることについて。
そして、閉じても閉じてもなお、失われる世界について。
現実に、感覚の上で痛みがあるということは
そこに叫びがあるということで
それがすなわち神経を通って伝わるという事でもあるのだけど
神経を切っても痛みは消えない
痛みのこだまが消えないということではなく、
痛みは決して消えない
そしてまた、痛みも失われる。
喪失は、恐怖ではなくむしろ叫びに似ていて
それが悲痛な叫びであるほど失われ、
死した事によって伝わる。
破壊されたものこそが、本当に何かを伝える事ができる
逆説的に、何かを破壊せねば、何かを感じる事はできない。
「この世界は、常に失われ続けている」
これは声だろうか、それとも痛みだろうか。
繋がっているものに対して、何かを伝えるとはどういうことだろう
例えば糸に対して、音を伝えるというのはどういうことだろう。
糸で向こう側へ音を伝えるとしても、
向こう側は見えはしないし、そしてまた、糸に音が伝わっているのかどうか
それがよくわからない。
厳密に言うと、目に蒼さを伝える事はとても難しい
目が青さを通して碧さや蒼さを伝えてしまうのだから。
そしてまた、わかるかわからないかと言えば、
分かたれたものが分かり
理解されたものが解り、
そしてその悲痛の叫びの中で、
目は青さを伝えようとしてしまうのだから。
喜びに似た喪失の中で
僕は自分の色がとても不確定な事を知る。
器としての自分、無くなり続ける自分の中で
通過儀式のような自分を感じて
まったくもってベクトルにはならない自分を知る
それは多分、自分を知ったことにはならないんだと思う。
主観で思い続ける限り、決して客観にはならない出来事のように。
とはいえ、僕もまた、主観が決して存在しない事を知る者として
客観が存在しない事を知っているが故に、
それは同軸上にあるものと考える。
あるいはまた、同軸状として考える。同軸場としても考える。
はたしてまた、失われるのは世界の方だろうか、自分の方だろうか、
と考える。
考えてはいけない事だと言われたこともあるが
考えずには居られないほど切実な痛みを伴うからこそ、
それを守り続けた者の言葉だと捉える事もできる。
そしてまた、
多くの者にとって、失われるのは自分の方なのだろう。
おそらく僕にとっても、それが同時に失われている死した僕にとっても、
失われるのは世界の方なのだ。
それが裏返しの出来事であるかぎり、僕と世界は繋がらない。
世界が失われても、僕が失われても、自分が壊れ続けても、
結局僕が死して居ることに変わりはないのだ。
変化するものにとって、変わらない死の壁がある限り、
世界はいつだって防壁に囲まれた中で、
有限性に似た祈りの中で、無限という理想を願い続ける箱でしか無いのだ。
それが四角かったとしても、丸かったとしても、平ぺったかっとしても、
例えまっすぐであったとしても、
それが死の壁に阻まれ、ずっと閉じられている限り、
世界は永久に閉じられたままで、
決して開かれる世界になりはしないのだ。
僕等はどこにも開かないという嘆き、
それは僕だけに与えられた嘆きではないのだ。
にも関わらず、僕にしか僕の声が聞こえないという事実は、
いかんともしがたいジレンマなのだけれど、
そうした事実の認識は、やがて事実自身がゆがめられていくことによって
きっと違う認識へと変わってゆくのだろう。
あてのない旅だ。
とても、宛のない、ゆく宛のない旅だ。
にも関わらず、世界は歪み続け、
決して真っ直ぐでは居られないのだから、
この世界の強制進化はいかんともしがたい。
もちろん、退化の意味においても。
忘れられる事には慣れている
忘れられる痛みにも、
憶えたフリをする者の嘘にも、
どんな悲痛な嘆きにも、
死する者は慣れている
にもかかわらず、
忘れられる事に怯えながら歪んでいく自分は
いったいどんな器の形で外から見えるだろう。
もっと死の外へ広がるように、
もっとまっすぐに広がるように、
形の無い形の中で、永遠に似た形を探す行為は、
はてしなく馬鹿げている。
それでもなお、
感覚はとても痛い。
繋がっているのか繋がっていないのか、
感じているのか感じていないのか、
わけがわからないながらにも、
いつだって白さは失われていく
透明な存在になるために、
いつでも僕の体は壊れ続けてゆく
どっちが痛いのか、どちらも痛いのか、
痛みを唱えるほどに無痛となるのか、
はがゆくもあり、はかなくもあり、かなしさを弄ぶような呼吸の中で
ずっと僕は、届かない手紙を書く
今も書いている。
ずっと、いつでも、見えない場所で書いている。
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