嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

僕は傷ついて死んでゆく

2007年01月30日 18時12分16秒 | 駄文(詩とは呼べない)
存在によって傷つけられていく心を
どうやって救うことが出来るというのだろう

あるだけでおそろしい世界から
どうやって逃げ出すことができるというのだろう

結局のところ、死に縋るようにしながら
死を恐れて過ごすしか無いのだ
あらゆる知的な好奇心が、対象となるものを傷つけるように
世界が存在することによって
僕の心はいつも傷ついてゆく

対世界恐怖症に対して
圧倒的に有効な手だては今のところ死しかない
世界と自分と僕とが同一直線上に展開されたとしても
それが同一平面として描かれたとしても
結局のところ、
僕自身が恐れる僕、
自分自身が恐れる自分、
世界自身が恐れる世界、
そうしたものは無くならないのだ

亡くすことできるのは、
いつも失われ続ける日常の中の死しかないのだ

結局のところ、
死が生の償いに似ていようが、
憧れに似ていようか、
崇高な理想であろうが、
唯一の神様であろうが、
なにがなんであろうとも、
死は同一性によって浸食してしまうのだ。

すなわち。
意識が対象に対して「君は同じだね」と語りかける行為は
主体として表層化していく意識の根底に
常に死がつきまとっているからなのだ。

「君は僕と同じように死ぬんだね」という嘆きと誘い。
「僕は死ぬよ」という声が、「君も死ねよ」という意味を含んでいる怖さ
そういったものは、
ここではいつも同一でしかないのだ。

世界と自分が同じもので出来ている限り、
延長されるその先に世界が繋がる限り、
僕と自分が同一化し、
世界は僕に干渉し続けるのだ。

世界を恐れ、自分を拒否し、僕が僕である事を証明できたとしても、
それは単に僕が死ぬという、そのこと自身によって起こる現象でしかないのだ。

諦めに、とても似ている。
諦めに、とてもよく似ている。

僕が死ぬという行為は、諦めに、似ている。

だからたぶん、多くの人にとって、
僕の死は生を諦める愚かさとして映るのだろう。
それが僕によって写されたか、相手から見て映っているのか、
そんなことはもう問題ではないのだ。

僕は死ぬ、そのことが、対象が死ぬことが、
自身の死に繋がってしまうほど、
意識は同一化されてしまっているのだ。

もしも。
世界から自分を切り離し、
世界に逆らい続け、
自分と意識を切り離し、
存在を超越できるほど、
『光が存在していないのなら。』
それは、あの暖かみのある光が、
あの白く突き刺さるような痛みが、
本当は、この世界に何も与えていないということでもある。

光は死ぬ。
光は人を照らさない。
光は消える。

そうしたことが、僕を消失させてゆく。
ゆくあてのない、真っ直ぐな旅も
どんな歪んだ空間も
場が、あるかもしれないという囁きも
光が失われる世界では
あっても、ないのと同じ。
なくても、あってもどちらでもいい。
そういう、どうしようもなく同一化された、
完全に開ききった閉鎖空間でしか無い。

だから僕等は、抽象化された概念が、
自分の創り出した思い込みが、
他者によってほどかれてゆくのを嫌う。
こんなにも固く結んだのに
どの糸も、誰にも熱を伝えない。
こんなにも、重力で歪んだ物質が、
遠くにいる誰かに、波を伝えることができない。

そういう開かれた恐怖が
痛みのない空中で
もしも、もしも、もしも、、、と‥
ただ、このまま、もしも、あったとしたら
もしも、なかったとしたら‥

そうやってほどかれてゆく

怖い。
僕は、世界が無くなってもいいのに
僕が亡くなることが怖い。

どうしてなんだろう。

僕は、どうして死んでゆくんだろう。