僕は時計の秒針の音が嫌いだ。
1秒ずつ、1秒ずつ、
僕の心をゆっくりと正確に切り刻む刃のような音だからだ。
出来ることなら僕はこのまま子供の心のままで居たい。
けれどいつも四角い時計は僕の心を四角い正確な流れに導こうとする。
僕はハッキリ言って生きるのがそんなに得意な方じゃない。
要領は悪い方だ。
いわゆるどんくさい生き方、というやつだ。
時間の流れを特に意識せず楽しく人生を過ごしてる人も居る。
時間を気にしてなるべく無駄を削って
自分のやりたい事だけやる生き方もあるだろう。
それはきっとエレベータに乗る時に
必ず先に「閉じる」を押してから「5階」に乗るボタンを押すとか
そんな程度のセコイ知恵なんだろうと思いながら
僕はぼんやりとした時間を過ごす生き方を選んでいる。
電車に乗るときに新聞を読んでいる
せわしないサラリーマンのような生き方は哀れだと思ったからだ。
僕はゆっくりと流れる景色を眺めながら歳を取りたいと思っている。
「だって人生そういうもんじゃん」
と何もかも割り切って生きる生き方もあるようだけど、
何も解ってないくせに「そういうもんじゃん」と無責任に言い切る生き方も僕は嫌いな方だ。
人生において見えない壁にぶつかるというのは
パントマイムをしているピエロが手で作った見えない壁に激しくぶつかるのと似ている。
その壁は人には見えないし、自分が作り出している壁だからだ。
けれど「何かにぶつかっているぞ」という感じは周りに伝わるようだ。
そんな感じに僕も「なんだかよくわからないもやもやしたモノ」に毎日ぶつかっている。
激しくぶつかると痛いけど、
ゆっくり絡まると痛くは無い。
どちらにしてもなかなか前に進めないのだけど。
目を閉じても聞こえてくる
耳を塞いでも聞こえてくる
大声を出しても聞こえてくる
決してやむことの無い音。
時計の秒針が僕を切り刻む。
だから僕は音楽のボリュームを目一杯大きくして音楽を聴くようにしている。
周りにはかなり迷惑かもしれないけど
ぬるま湯に浸かっているような空気を作り出してくれるから。
そんな僕の心はいつもどこかぎこちなく、
居心地が悪い身体に無理矢理収まっている。
気を緩めたらどこかへドロドロと流れ出てしまいそうな感じだ。
目の前にロープがあったらみんなは何を想像するだろうか?
僕はやはり首つりを想像する方だ。
なんとなく輪っかを作って、なんとなくぶら下がってみたくなる。
首つりをしながらギリギリに追いつめられて人生を考えてみるのも悪くない気がする。
こういうぼんやりした「なんとなく死んでみたい気分」
というのは理解できない人も居るだろう。
でも人の死は常に日常の裏側にあって「誰かに酷いことをされたから死ぬ」
とか「もう人生お先真っ暗だから死ぬ」というものでも無いような気がしている。
「ちょっと脇道にそれてみたら死んじゃった」
というのに近いかもしれない。
僕には別に人生を悲観する決定的な要素は何も無い。
もちろん輝かしい未来も無い。
世の中に流れている情報では満足できなくなってきたから
ちょっと日常を変えてみたくなって逝ってみようかと思ってみただけ。
小さい頃は世界がそこにあるだけで毎日ドキドキして生きていられたけど
僕の五感を麻痺させるほどの感動はもう身近には転がってないから
新しい刺激欲しさに死んでみようかというだけの事。
家を出る時のセリフはもう決めてある
「退屈だからちょっと出かけてくるね」
これでバッチシだ。
だって本当に退屈なんだもの。
相変わらず人間の目は2個しか無いし
口から手が生えてる人も居ないし
腕が千本ある人も居ないし
みんなちょっと賢いフリしてるだけの人間ばっかじゃん。
ホントは上も下も無くて丸い世界なのに
食物連鎖のイメージは何故かピラミッドだし。
ホントわけわかんないよ。
多分今は間違った時間の流れに居ると思う。
もちろん僕が死んで新しい世界に飛び立つわけち゛ゃぁ無いよ。
けれど僕の死んだ世界は主人公の居なくなった世界。
神に見捨てられた世界と同じくらいに非日常的な壊れた世界に変わるんだ。
それは悲しいと思う人も居るだろうけど
面白いと思う人も居るだろう
少なくとも僕は素敵な世界だと信じている
自殺者を人生の落後者だと言う時代はもうほどなく終わる。
これからは自殺が自由化するだろう。
僕は自殺者を世界の開拓者だと思っている。
これでやっと・・・・・・・時計の秒針を止める事が出来る!
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