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嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

バランスの異様さを数える。

2006年10月25日 07時00分15秒 | Weblog
銀河系には1000億を超える星があり、
生後八ヶ月の赤ん坊には1000億を超える脳細胞がある
無秩序内における秩序系の構築として
バランス機構があるのだとしたら
人間の人口が60億というのは少なすぎる。
戸籍登録者のみが60億だとしても
バランスから考えればまだまだ少ない。

今後、宇宙船地球号における乗組員の食糧問題、エネルギー問題を
より効率的に解決していっても
はたして千億人が地表だけで住めるのだろうか?
多分住めないだろう。

潜在的な可能性としては、より重力の強い方向へ小さく、
より重力の弱い方向へ大きく拡散していかねばならない。
逆説的に言えば、地下に住む生物ほど小さく、無機質に近い生き物ほど小さく、
空に広がる生物ほど大きく、
より有機的な生き物ほど大きくあらねばならない。

恐竜に想像力がどの程度あったのかは、よく知らないが。

単純問題、考えているのが脳細胞だけだったと仮定しても、
想像する生物は1000億くらい生きてるんだろうか?

逆に考える。

脳細胞を持った動物は、はたして1000億くらいなのか?

その中で、言葉を発する動物はどれくらいいるのだろう。
もちろん、イルカやクジラや鳥や犬も彼らにしかわからない音声を発しているとして。

数え方が、そもそもおかしいような気がする。
なんの基準で一千億のしきい値としているのだろう。

脳の機能ブロックの数だけ、彼らのニューラルな世界に隔たりとして、
大きな物理の壁があるとしても、
特殊な電波を持ってして、
彗星が電気の生態刺激を天体系に送る程度には
なんらかの電波は伝わっているのだろう。

足りないのは、エネルギーや食料や時間なんかじゃなくて
たぶん、チャンネルなんだと思う。
五次元の世界を開くためには、僕らの感覚はまだ、
特殊な感性を持ってしても、まだまだ全然足りない。

見ることや、聞くことや、触ることや、味わうことや、嗅ぐことは、
十分に、この世界を知るために機能しているのだと肯定しても、
それでもまた、全く持って感覚のチャンネルは足りない。

新しいチャンネルを開かねばならない。
新しい世界を渇望するがごとく、
必死の想像力で、
妄想力で、
記憶力で、
まだ見ぬ予感の力で、
未来を切り開かねばならない。

イマジネーションが、この空想のような幻映だけを手に入れる力が、
もうすぐ感覚器官の一つに数えられる日は近い。
もっともっと切実に、未来と終わりを願わねばならない。

「形」を超越せねば、
超越数の謎もまた、解けない。

形を超えろ。
始まりと、終わりを飛び越えろ。
死の数を発見しろ。

はやく死ね。
俺は、はやく死ね。

気が触れている。
誰か、僕を数えてくれ。

残り時間は、僕が数えるから。

ごじのにじのにっき

2006年09月09日 19時56分43秒 | Weblog
今日、五時の虹について、珍しく、日記を書こうと思う。

五時過ぎに、思い立って外へ出かけた。
近所のスーパーまで水を入れに出かけただけなんだけれど。

特に何か余分なものを持って行こうとは思わなかった。
それでも一応、電話と財布だけはポケットに入れて出た。

外は晴れていたけど、何か細かいものがさわさわと降っていた。
あまり気にせずに歩いていたら、眩しい暖かさのある強い光に照らされながらも
何故か霧雨が小雨に、小雨から雨に、だんだんと大粒の水滴へと変わっていった。
僕は空を見上げて、天気を確かめようと思った。
天気と言うよりは、天候、と言うべきだろうか。

青い空に、灰色の雲に、虹がかかっていた。

まぁいいや、傘なんかいらねぇ、と思いながら歩いていたのが
功を奏したというか、なんだかラッキーだな、と思った。

そしてこないだ話した友人が虹について語っていたのを思い出した。
二重の虹を生まれて初めて見た!
と喜んで話していた。

もしかして、と思いながら
歩を進めて景色を覗き込んでみれば。
そこに広がっているのは、彼の言っていた二重の虹だった。
なんだか不思議な気分になりながら、
僕はそのことについて考えた。

彼が言ったから、
僕には今日、虹が見えたのだろうか。
あのとき彼が二重の虹について話さなかったら、
僕は虹が二重かどうか、確かめようと思っただろうか。

いや、先とか後とか運命っぽいとかそういうことではないのだ。
今、僕の見ているアレが、
というよりは、僕が今見ているコレが、
彼のいわんとしていた虹そのものなのだ、と、
そう思った。

彼に話す為のリアリティについて考えた。
あるいはそれを見たという証拠について。
そして僕はそれを観察しようと思った。

虹の赤っぽい方は外側にある。
そして紫っぽい方は内側にある。
逆ではない。

虹は影の伸びる方向に出来る。
太陽と反対側の景色にしかその姿を確かめたり拝んだりすることは出来ない。
内側の虹は、非常にくっきりと色鮮やかに映っているが、
外側の二番目に発見した虹は何故かぼんやりとしている。
内側の虹から外側の虹へは、視直径で3~5㌢ほど離れている。
数百㍍に感じるが、数㌔㍍のような気もする。
二重虹の左側はややハッキリとしていて、右側はかなりぼんやりと薄くて見えづらい。

そして一番重要なコト。

虹の色は、赤色から始まっているのではないということ。
そして七色では無いということ。
七色インコというのが七色なのかどうかはよく知らないが、
一般的に僕の住んでいる文化圏では虹は7色だと言われている。
だけど僕が見たそれは、
僕が今日、空に描くように確認したその虹は、
およそ10色くらいはあった。
すごく適当に数えて、だけど。
赤色の外側には桃色のような色が見えていた。
赤ピンクというか、なんというか。
紫色の内側には、茶色や灰色が見えていた。
そして赤紫というか、紅色のような色も。
虹の端っこはとても曖昧でぼんやりぼうっと浮き染み出るかすかな色がある
その色は、きっと紫外線の色であり、赤外線の色であると思う。
僕らが見ている虹の光は、そしてその色は、たぶんそれぞれの世界によって
きっと色んな風に違うんだと思う。
そして僕は、紫外線や赤外線の色を知る。
いや、紫内線や赤外線というべきか。

可視光線の範囲は、人によってどれくらいの差があるのだろう。
可聴域でさえ、20Hz~20kHzという範囲には、かなりアナログ的な曖昧さと、
いい加減でへんてこな個人差がある。
隣のテレビのリモコンの音を聞き分ける人間が居るように。

僕はなんだか、その虹を見たことを少しだけ幸せだと思った。
あるいは別な言い方をすると、じつはほんの少しだけ、
誰かを許そうと思った。
あるいはこの世界の事を、少しだけ許してもいいんじゃないかと思った。

たぶん、美しかったんだと思う。
僕にとって、その景色が。

歩きながら空を見上げる人間はどれくらいあるだろう。
そして雨の日に傘をささない人は、どれくらいあるだろう。
つまりそのような不思議で不幸な景色の確率は、どれくらいあるだろう。
「確率」と、呼ばない方がいいのかもしれない。
確率とは言えないような気がする。

ほんの少しの気まぐれで、
ほんのひとにぎりのヒトだけが 短い時の中で光を見る。
そういった偶然は、はてしなくいい加減でどしゃぶりの不幸の中で
不幸を味わった数だけ通り過ぎていく
雨の日に、目を合わそうともせず、通り過ぎる人の数だけ、
そこには瞳の水滴が降る。

僕が今日、ぼぅっと光浮き出る強いスペクトラムから受け取った何かは、
はたして幸運と呼べるものなのかどうかはわからない。
だけど僕はその景色を美しいと言おう。
そしてその景色を、その景色を見て美しいと思ったことを、
忘れないようにここに書いておこう。

やがて薄く薄く忘れられていく、
僕の中にある強い光とともに。

ねむたい議論とねぼけた主張。そして宇宙の自殺。

2006年08月31日 09時27分14秒 | Weblog
「不良債権としての『文学』」(「群像」2002年6月号)   大塚英志
どうやら僕等が抱えている問題は相当根深いものであることに気付きました。
ここでうだうだ議論を重ねる事は
おそらくもう、僕自身の停滞以外の何者でもないでしょう。
「本を売りたい」「本を作りたい」「本を書きたい」「何かを書きたい」「何かを伝えたい」
それらは曖昧に一体となっていたからこそ、
僕等は同じ場を共有できました。

何故、KenさんがBFから間接的に追い出されて
(あるいは自発的に抜け出て)
今の現状に至ったのか、僕はようやくわかってきました。
それぞれの人達が、自分の場を、力点を、重力を、
必死になって守り続けているからです。
だけどそれは幻想です。
その必死なプライドの固持は、読者の前に立っていません。
このコミュがある種の閉鎖性の中で活発に議論され、
BLOG上で透明性を持って議論されなかったこと、
それは僕等が現実から目を背けているからです。

僕は、本を出したいとは本質的に願っていません。
これは、わどさんとの共同生活が失敗した事の、
本質的な原因でもあっただろうと思います。
僕がこの場に参加している限り、
BLOG FRIENDSは前進する事が出来ない気がしてなりません。

僕自身が頑なに守っているへんてこな場は、
たぶん既に現実が見えているあなた達の遙か後方です。
僕が何かを主張すれば主張するほど、
BFはその枠を広げる事でしか繋がりを保てません。
現状の小さな集団構成を維持している限り、
「本を売りたい」~「何かを伝えたい」までを幅広くサポートすることは
ほとんど不可能ではないかと考えます。

それゆえに、僕は僕自身が本を望むまで
「本」という場から退くべきであると考えます。
そしてまた、僕が「本」というチャンネルを選ぶならば
突発的に、衝動的に、僕自身のエゴによって
多分僕一人でどこかへ動きます。

今、僕に、「本を作るための友達」は必要ありません。
多分僕に必要だったのはBLOGの友達、だったような気がするから。
BLOGがなんであるか、それが明確化してきたことで
僕にとってのBLOGは可能性を失っていきました。
無くなったわけではありませんが。

mixiというある種の萎縮性
それは便利で仲良し、という見せかけの演技でもありますが
僕はmixiにもBLOGにもまだなんらかの可能性があると考えます。

ピラミッドを造りたいとは思わない。
遠くの時代へ向けて、まだ見ぬ他者へ向けて、
巨大な墓を見せたいとは思わない。
だけど、本を作りたいと思うことはあるかもしれない。
その時が来たらまた、僕は本について考えよう。
紙について考えよう。
文字について考えよう。

だけど今はまだ、僕に本は必要ない。
僕が今感じている心の呼吸は、
誰かの心の中で消費されて透明になっていけばいい。
形が解らないからこそ、伝わるものだってきっとあるだろう。

今の僕が望んでいる世界は
僕の為にある宇宙の自殺だから。

透過メタルの締き声をみながら

2006年06月07日 08時06分47秒 | Weblog
数日前、久しぶりにランキングに載ったのを見て
BLOGとは何かをやっぱり考えてしまう。

経済を動かしているのは
全体の中で5%の人間に過ぎないという話を聞いたことがある。
単なる統計的通説なのだろうとは思うけれど。

ブログは全体がでたらめに波打っている
その決まり切らない方向性の中で
ほんの一握りの人達がランキングに載せられるということの意味を
数を眺めながら考える

例えば丸さが、微分という蓄積された嘘の積み重ねで表現されるように
ランキングの数値が表す意味を、
遠くを見渡しながら考える

選ばれた千人ではない、削り取られた1000の形だな、とか
そんなことを。

でたらめにとんがっている。
決してピラミッドではないそれを
千の線引きはどこから削り取るだろうか。

あいまいな形から数値化される領域
その場所に留まる為に、走り続けるような意味は僕にはない。

いいたいことは それだけでいい つまり、「言う」

2006年02月25日 15時53分22秒 | Weblog
なんだかまたよくわからなくなってきた。

そもそも。
僕はブログに目的なんか無くったっていいと思うんだよ。

けどさ
なんだろう
よくわかんないんだけどさ

そうだなぁ、テレビという箱越しに
全く会ったこともない有名人を見たときでさえ

なんとなく、ね

(彼女は無理してんのかな?)

とか思うわけですよ

それって明らかに、僕の思い込みでしょ。
周りの期待がどうとか、そんなの関係ないよな
結局は自分が決めてやったことなんだろ。
それでそれなりの結果を残して、
本人も満足しているかのようなコメント発表してさ…

でさ、ふと目をこっちに戻せばさ

こっちはこっちで何かをやめる人がいるわけだ
しかもそれが、正しいのか正しくないのかよくわからんし
なんとなく寂しさを感じさせつつも
あたかもそれがねらいであったかのように
本人の決意じみた声明文までついてくる。

で、それがなんなんだ?
続けながら辞める道をとる?

いーんでない?別に。

で、なんなんだ、それが。

よーするに、自分的にはどうなのかって事なんよ。
僕的には、それがなんなのか。
どういう意味を持つのか
なんか嬉しいのか、悲しいのか、楽しいのか、悔しいのか
何か感情あるなら言ってみろ、と。

自分自身に問いかけるんだよ。

だけど。

何も生まれない。

嘘っぽい感情ばかりが
濁流のように屁理屈をならべたて
ありもしない幻想の虚数立体をパズル化し始める

僕は。

本質的には、君の事なんてどうでもいいんだよ。
だけどジッと何かを見つめて
何かを考えてしまうんだ

例えばそう、(良かったのか、悪かったのか)

意味無いね、うん、意味無い、ないない。全然無い。
知ってる。わかってる。気にしない。
嘘、無理、気になる。

なんなの?

しらねーよ、そんなもん。
オレの問題じゃねーんだ!!!

割り切るなんて簡単なんだよ
世界は全部背景なんだ
そして僕は透明なんだ

嘘っぽいくらいに。
世界の背景は原色の色で。
1600万色もあろうかというほどに。
塗り潰されていくんだよ

それがもう、ペンキを塗りたくっているように
べたべたと、アリアリと
ありありありありありーっと
全部見えながら見えていくんだよ

「うるさい!」

意味なんかわかんなくていいんだよ

聞け!

オレの話を。

嘘なんだよ、初めから。
この世界が始まった時から。
あるいは僕が生まれた時から。

ずっとずっと。
嘘ばかりを教えられてきた
全部見破り続けてきたんだよ。

オレには。
見えるんだ。

俺の姿が。

僕という衣を、守りながら虐める俺の姿が。

見えるんだよ

見えるっていってんだよ!

わからないだろうよ

読んでいるお前は。

見てないだろう、この景色を。
でもいい。
まぁきけ。
なぁ、聞いてくれよ

あのな、誰かが、何かをやめようとして
それはたぶん、その人の中では正しいんだ
いや、正しいとその人が思いたいんだ
それも知ってる。
いや、わかってる。
僕は、ずっと正しいことばかりを信じてきたから。

だけど、このごろすごく
よくわかんねーんだ

誰かが耳元でささやきかけるように
やさしく、やさしく撫でるような風が吹くことがあるんだ
髪のにおいがするんじゃないかと
その香りを探し求めて切なくなる時すらもある。

だけど俺は。

ずっと僕の姿を見てる
背中の瞳で。
      ただじっと黙って子供を見てるんだ。
僕が何するのか
ずーーーっと観察してるんだよ

そんな時、なぜか ふっと風が吹くんだ

そしてその風、声を運んでくると「思うことさえ」ある

力強いわけじゃない

むしろかき消えそうなほど弱いんだ

だから僕は … うずくまってじっと眺めるんだ
僕自身の姿を

「お前は何がしたいんだ?」
って自分の影に問いかける

 わ か ん ねぇ んだよ

わからねぇ…でも死にたい

俺はそう思うんだ

だから多分、書いてもこの想いは伝わらないんだよ
でも書く。
というか、書いてしまってるんだ
気付いたときにはもう、
この文章は書き上がってるんだよ。

それが俺の理由で
俺だけの理由で
俺のような理由なんだよ。

わかる?

もしわかるなら…

お前の言葉を語れよ。

たぶん、いいたいことはそれだけ。

言文不一致に苦しんでいた。

2006年02月01日 12時22分50秒 | Weblog
「コンプをしょって始めよう」

や、つまり。
自分の普段気になっているわだかまり
いらいら感を消すことなく
それを少し調べてみようかな、と。

1日くらい前から
不思議なことに色々な事がほどけ始めた
ずっと悩んでいたのだけれど
何故か突然色々な事がわかりはじめた。
妙に頭がスッキリして
「ああ、そうか、そうだったのか。」
と得心のいくことが急に増えた。
この現象がバイオリズムによる脳の働き方の問題か
あるいは意図的に過去に向かって投げかけた波紋の返り血か
詳しいことはよくわからないが
まぁ、以前よりだいぶ頭はスッキリしてるように思います。

迷いがほとんど生じなくなった。
判断にかかる時間が飛躍的に短縮されています。
いいのかわるいのかしらん。
自分ではほとんど制御できない領域。
物事が簡単に割り切れてしまうということは
もちろん残酷な一面もあるだろうけれど
以前は何年も何年も悩みながら行っていたことが
素早く割り切れるようになったのなら
それはしばらくその状態を楽しんでみようと思うのだ。

で、ずっと気になっていた問題の、ヒントが見つかったので
メモとしての意味も込めて
ここにつらつらと書いておきます。
誰かが参考にしてくれれば嬉しいですが
まぁ多分何の役にも立たないでしょう。

金が無いので仕事せねば、
という問題が頭をかかげているので職業について調べていました。
そして速記という珍しい仕事があることに気付いた。

そもそも僕はぐねぐねと悩んで迷って考えている最中に
どうしてもその考えていることに書いていく速度が追いつきません。
タイピング速度はわりと平均的な速さで打てていると思うのですが
どうしても思考の方が速いのと、
そもそもどの言葉も自分の今のありようを示すものとしては
不適切な表現であるというイライラ感がありました。

そこで速記という仕事について調べていたら
どうやら速記符号というのを使って簡略化して記しているらしいのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E8%A8%98%E8%80%85
(ここを参照してねぃ)

で、その速記符号の種類の違いについて調べていたところ
様々な符号には、改良の歴史がある。
辿っていくと日本では田鎖綱紀という人が始めたらしい、と。

どうも日本では書き言葉と話し言葉はそれぞれが全く違うものだったらしく、
明治時代に言文一致運動というのがあって百年くらいかけて統一されたらしいのです。

この「言文一致運動」という単語は以前「わど」から聞いていたのですが
(わどさんちはココ→ http://blog.goo.ne.jp/wordblow/
単に標準語で日本を統一する政治戦略かと思ってスルーしてました。

僕は1978年生まれで、既に言文一致されている国語教育を受けていて
全くと言っていいほどに気付いていなかったのですが
方言という要素を省いたとしても、そもそも日本では話し言葉と書き言葉というのは
まるっきり違うものだったようなのです。

僕は京都の生まれですが 幼少の頃は東京に住んでいて
会話によってほとんどの言葉を憶えました。
ですからどうしても僕にとって言葉というのは
「話し言葉」としての性質が強いようです。
昔から読書をしない子供だったので「書き言葉」というものが
いまいちどういうものかわかっていません。

いつも心情をうまく吐露できないのは
僕が嘘吐きであるとか、言葉は心を超えないという
そのことなのかと思ってましたが
どうやらそれとは違う原因の一つが見つかりました。

とはいえ、複合的な要因の一つに過ぎないのでしょうけれど。

じゃぁ読書して読解力を高め、「書き言葉」とやらを勉強すればいいのかというと
話はそれほど単純ではありません。

インターネットにおいて2chをはじめ、AA(アスキーアート)や顔文字、
氏ね、といった誤表現の表現化などが起きていますが
そもそもは自分の思う気持ちをなんとか記号化して伝えたい、
という苦肉の策であることは変わっていないでしょう。

絵を描く、音楽を作曲する、といった別の表現方法へ走る道もありますが
ある意味でそれは「用意された道」です。
僕の望むところではありません。

そもそも僕は芸術よりも技術への関心の方が高い人間なので
わりとどうでも良かったりします。

それよりも気になるのは言文一致運動とやらが終わったかに見えて
じつは統一できてねーじゃん!という事がゆゆしき事態であるように思います。
僕にとって何よりも困るのは、
意図的に作られた書き言葉では「呼吸の個性」が全く表現できていないことです。

「呼吸が合う」という言葉があるように、
呼吸というのは何かを伝える上でとても重要な要素であると思います。

なんでかっつーと呼吸というのは人間にとっての基本的な周波数であるからで。
心臓の鼓動と同じくらい大事な要素だと思っています。

ただの句読点ではそれぞれの個人のうちに潜む、
本人すらも意識していない呼吸のリズムがほとんど伝わりません。

だから僕はもうちょい自分勝手な「はにゃ語」を模索することと思います。
別に決意ではなくて単なる予想なんですが。
予感は特に無いです。

今あるのは「なるほど感」くらいです。
はにゃ語でいうと「なる、ほど。」ですね。
ダチからパクった流行語で言うと「にゃるにゃるー。」
書き言葉で言うと「納得」ってのが一番近いのかな?

完全を求めるより前に、近似値を模索する方が先かもしれない。
接するよりも前に、察することが求められているように。

味のさしすせそ みたいに はにゃ語のにゃにぃにゅにぇにょ でも吐くかねぃ?
もちつきみたいにさー!

ほぃでゎ~。

断りの返事を表白する

2006年01月28日 21時52分13秒 | Weblog
やは!
はにゃです。

僕はたぶん、以前と少し変わったかと思いますが
根本的な部分はあんまし変わってないと思います。

それに対して、あなたはあまり何も変わってないですね。
もうすでに、環境がほとんど変わらない状態に
日常生活が落ち着いてしまっているのかな?
だとすれば、それはそれで たぶん良いのでしょうけど。

あなたがくれたメール本文の大半ですが
基本的に方法論ばかりが目について
中身の大事さをほとんど感じません
おそらくは経験や勉強によって培われた、
あなた自身の職業的な おせっかいの癖なのでしょうけれど。

色々な箇所の前提が間違っているのですが
その中でも一番おかしな前提条件は

《喧嘩になりそうだから、今のところは同居しない方がいい》
という趣旨の部分です。

喧嘩以前に、僕はあなたと同居をしませんよ。
僕らはそんなにまで親しい間柄でしょうか?
そしてそもそもそういう関係性なのでしょうか?

僕はおよそ一年ぶりくらいに返した前回のメールで
あなたの事を「知人」と書きました。

文脈においての、その意味するところがわかってないのでは?
僕の理解力についての脳気質や精神性を分析されるのは結構なんですが
僕の現実がまるっきり見えてない。
それはもしかすると方法論が悪いのではなくて
僕が現実の具体的な出来事をあまりblogに書かないせいかもしれませんが。

もし、単にあなたが僕の寂しさを感じてメールを送ったのであれば
それはあなたによって解消されえるものではないと思います。
もっとあやふやで、ギリギリで、正体不明の、
かなり危険な他者による接触なのだと思います。

そして逆に、あなたがなにか寂しくて、人恋しくて
僕にメールをする機会を待っていたのなら
話を聞くことくらいはできます。
ですが、あまり親身になって現実的な相談にのる事は
ほとんどなにも出来ないものと思います。

何故かといえば、
僕は僕自身の身を立てることすら失敗している現状なのに
今、誰かと暮らすことなど無理だと感じているからです。
あるいは、過去の僕の経験が
同じ事を繰り返すことのないように
僕に歯止めをかけ続けるからなのかもしれません。

今は少し人間不信に近いような、
接触や刺激そのものに対する怯えのようなものがあって
僕はそれと向き合おうとして
ずっと何度も失敗している最中です。

とりあえずあなたが単なるおせっかいとして
何か別の意図でメールを下さったのなら、
無意味で適当なやりとりなぞは出来そうなのですが、

もし何か僕に好意的な印象を持ってのことでしたら、
あまり関わらない方が良いかと思います。

対等な関係での対話をきちんと続けていける自信がありません。

それにあなたは、どうも僕を美化し過ぎていて
そして同時に病気とみなしすぎている。

簡単に言えば思い込みや幻想があまりにも強すぎて
その妄想が次々と勝手なストーリーを組み立てています。

勝ち負けなどには拘らず、物事を二極化せず、
もう少し落ち着いて読まれてみてはどうでしょうか?

そんなわけで、
それぞれのURLは踏まないでおきます。
興味が起きなかったので。

怒っていると勘違いされても困るので
一つだけ、メッセージ性のあるものを。

つらいときに何度か、あなたの携帯に電話をかけました。
そして着信拒否されている事に気付きました。

そこで僕は…
あなたは【約束よりも自分の世界を重視する人】だと
勝手に判断しました。
別にあなたは悪くないです。
ただ、それはそういうものだという、そのことが残っただけです。

それでは。

ある友人の日記を読んで。

2006年01月14日 06時56分04秒 | Weblog
うーん、、、と唸ってしまうような
複雑な内容の悩みが長い時間をかけてうまくまとめられていた。

ただ、これほどしっかりと文章構成をまとめる力があるのに
根本的に知恵が足りていない事に驚いた。

同じ失敗を何度も繰り返してしまい、
そしてそのたびに後悔して悩む。
そしてそのたびに何がいけなかったのか、
自分は一体何がしたいのかを考える。

ある意味では、誰もが抱えている問題かもしれません。

誤解を恐れずに言います。

僕は、その問題の解決方法を知っています。
過去に、一度乗り越えた事があります。

ですが、僕はあなたにそのアドバイスをして良いのかどうか、
それを僕が勝手に判断して良いものかどうか、
非常に迷います。

もし、あなたが僕を友人と思うのであれば。
絶交を覚悟で僕の意見や、批判や、提案を話すことができます。
今の僕に言えるのはここまでです。

思い上がりだと思ってもらっても構いません。
そもそもが僕の誤読や錯覚である可能性もあるし
既にあなたが気付いている事を指摘するだけに終わるかもしれません。

僕は。

ある人からそれを提案された時、非常に迷いました。
けれどその人はとても穏やかな人で。
人生そのものに対する余裕が感じられたんです。

アドバイスを聞いた数時間後、僕は家に帰ろうとしていたのに、
間違った列車に乗ってしまいました。
たぶん、頭がうまく働いていなかったんだと思います。
その時、電車に乗っている僕は、とても怖かった。
地に足がついていないような、自分がそこに居ないような感覚にとらわれた。
現実を見ているはずなのに、まるで夢を見ているようでした。
妙に現実感を確かめたくなって、
列車が来たとき、ホームから線路に飛び降りようかと思いました。

だけど、運良くしないで済んだ。

僕がここに居るのは単なる偶然です。

まぁ、それだけの話なんですが。

問題は無いです。
あなたが今のままのあなたでいること。
君が今の君のままであること。
その事を、僕は別に責めようとは思わないし。
どちらかといえば、僕にはほとんど影響のないことのような気もするし、
もしかするとすごく大事な事なのかもしれない。

あなたの黒目に、光が宿ることを。
あなたの選択が、未来のあなたにとって良いものであることを。

三歩下がって首を折る

2005年12月15日 01時24分23秒 | Weblog
いろんな事をやめたい
いつもそう感じてる
大きな話で言えば人生をやめたいし
小さな話で言えばblogやmixiや食事や人付き合いとか。
もうあんまり、誰かのために何かをしようとは思わない。
そしてまた、自分のために何かをしようとも思わない。
できれば植物人間の隣で一緒にすやすやと音も静かに眠っていたい

僕は自分の事を引きこもりや自閉症の類ではないかと疑っていた事もあったけど
正直いまとなってはほとんどがどうでもいい。
ただ、なにか漠然としたものにどっと疲れているだけだ
人間ってのは本当に疲れると思う
だから時々人間をやめたいと思ったりする
だから時々は子供のままでわがままにでたらめに振る舞ったっていいと
そう思って何かを叫んでいたように思う
だけどその叫びが誰にも届かず、何を変えることもできず、
ただそのまま大きな渦の流れの中へ飲み込まれていくだけなら
僕の心の暗雲は巨人の心を曇らせることすらできないだろう
それが悔しいとは思わないけれど
少しだけ残念だとは思う

いろんな場所でいろんな事を思って
いろいろ考えてそれで僕はどこかへふらふらと流されていく
もう流れることにも疲れた
自分を変えることも自分を保つことも
全てにあまりにもエネルギーを必要とするその欠片の在り方にも

崩壊していくだろうと思う

僕をこの世界に縛り付ける糸は、
もうそのほとんどが断ち切られてしまったように思うから
それをまた、1から編もうとするようなエネルギーは
僕にはもうないと思うから

だからもうすぐ、
ここは閉じる予定です。
その事を、少しだけ申し訳ないとは思うけれど
こんな愚痴だけのblogをただただ延々と続ける事には
ほとんど意味がないと思うのです。

応援してくれた人にはすまない、と思います。
だけどこれ以上、僕をここへ縛り付けないで下さい。
自らの意志で書かれていないテキストは、
人の首を絞める縄にしかなりません。

だけどまだ、僕にはここを閉じるだけの力もありません。
読者の全員を説き伏せるような言い訳も説得力も持ち合わせていません。
だからもうしばらく続けることになるでしょう。

それでも。

間違いなくここは数年以内に消えます。

ここは作者が不在の記号となるでしょう。
そしてその意味は、読者の数だけ存在し、
また読者のどうでもよさによって
ここもどうでもよくなっていくでしょう。

毒にも薬にもならない。
ここに書かれたテキストは。
もはやこの場所は、儚さすらも失われるために
読者によって作者が奪われ続けるでしょう。

かまわないよ。

読まれるために書いたんじゃない。
ただ、書かずにはいられなかっただけなんだ。

独立栄養植物人間になりたい。

2005年09月29日 08時38分44秒 | Weblog
体内に生態系を作って
飲まず食わずで寝続けたい。

独立栄養生物となって、植物人間のように寝続けたい。
現実の中で活動的に生きるのが嫌だ。

夢の中でずっと死について考えていたい。
そして眠ったまま少しずつ小さくなって
何よりも小さくなって、世界で一番小さくなって死んでいきたい。

二択を迫る人

2005年08月05日 02時14分45秒 | Weblog
今日、僕は何かを選択せねばならないのだろうか
残り時間がもう数えるほどしか無い
あと11時間くらいで、結論を出さねばならないのだろうか。

僕には、仕事を続ける理由がない。
僕にはお金がない
僕には時間がない
僕には与えられた仕事しかない
僕に技術は身に付かない
そして僕には夢しかない

食っていくだけのお金を渡されて
狭い部屋に拘束されて
そこに自由は無くて。

その社会の牢獄の仕組みは
家庭の牢獄とどう違うのだろうか

社会で働くことと、引きこもることの違いはなんだろうか

睡眠時間の違い
決断速度の違い
浪費力の違い

特にどちらがいいともわるいとも言えない
だけど、僕は今日、どちらかに決めなければならないのだろう
だけど、たぶん僕は自分で何かを決められない。

きっと、上司が適当に決めるだろう
誰も僕に何かを強制しなければ、
きっと昨夜の電話である女性に言われたように
僕は転職するとか定職に就くとか
そんな流れに乗せられるのだろう

僕の事をほとんど何も知らない人から、
30歳になる前に定職に就いた方がいいと言われた。
近未来の事でいいから将来像を決めろと言われた。

どうして人はこんなにも簡単に、
他人の人生にアドバイスできるのだろう。

みんな自分の世界があって、
その世界の価値観で物事を測りながら動いてる
そんな事は定説としては知ってる。

だけど…
誰も僕の事を知らないのに
驚くほど簡単に正解を決めるから
僕は不思議で仕方がない。

僕が何をしたいのかも知らないのに
僕が何をしたくないかも知らないのに
僕が何者なのかも知らないのに
それでも人は、人の人生を勝手に決められる。

驚くほど、暴力的な事に思うけれど
それはきっと、僕が僕の事しか考えてないからなんだろう

大人の世界のルールなんて知らない。
わずらわしい金の計算をするより
僕は普通に自分を諦めた方が手っ取り早い。

自殺の話はしなかった。
たぶん、すれば今すぐここを去らねばならないから
それが怖かったのだろう

僕は多分、迷う事が好きなんだ
そして迷わせてくれない圧力が嫌いなんだ
どうして人は僕をほっといてくれないのだろう
どうせ僕に出来る事なんて、何もありはしないのに。

会社に着く前に、実家に逃げたらいいのだろうか
でも実家は死に損ないの老人が嫌みを言い続ける牢獄だし
そこにだって僕の居場所は無いのだし
結局どこに逃げたって僕の居場所は無いのだし。

いつもの黄色い線から、三歩だけ前に進んでみようか。
狂っているほど前向きの人生。
けたたましい轟音が時間を止める空間。
その空間の引力と、僕はいったい何度戦ったのだろう

灰色の街が見える
浪費される時間が見える
何も考えてない自分が見える

僕はきっと、絶望にうちひしがれて涙する時間すらも
他人の暴力で奪われていくのだろう
そしてふと気付けば数年が経って
30の誕生日の壁と戦う事になるのだろう。

僕は30歳になれない。
28歳になる必要性も感じない。

誰も僕を必要としない
なのに誰も僕を無視してくれない
僕は世界の砂だ
こぼれ落ちる砂が
今日も地獄への時を数える
せめて時を刻むことが出来たなら
僕はもう、死んでもいいのに
それすらも出来ないから
僕はずっとここで苦しむ

光が見えない
影も見えない
失うものも見つからない
ただ、浪費される砂粒の世界で
僕は僕に流されていく

今日も砂は流れる
もうすぐ、宇宙は自殺する。

自殺する事だけが、僕の願い。

文体すらも、死にかけている。