老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『一六世紀文化革命 2 』 山本義隆

2007-05-26 11:59:36 | 文学
毎日カバンにこの重たい本を入れてツウキンしたのもやっと終わり。科学の歴史を書いているだけなのに、読み終えて津波のようなカンドーが襲ってきた。山本センセがこの本を書く気になった本当の理由が、最後になってわかったからだ。

上巻のところにも書いたように、17世紀の科学技術の発展に先立って、16世紀に、それまで学問の世界からは蔑められてきた職人や技術者が、その頃から広まってきた印刷技術を活用して、自分たちの技術を世の中に発表してきた。カレラはそれまでの学問言語であるラテン語を使わずに、低俗と思われていた自分たちの言葉で本を書いた。それがその後の発展のもとになったのに、今日においてはその功績が忘れられている。そのことを掘り起こす、というのがこの本の目的だとセンセははじめに言っている。
それに沿って下巻でも、機械学、天文・地理学について、その頃に起きた地殻変動の実態を深ーく掘り下げている。そこまでは上巻の続きと言っていい。

で、そのあと、イギリスでのこの科学技術に対する変化が、イタリアやドイツやフランスやオランダとは、少し、というか、本当は根本的に違っていたことに着目し、そこからいろいろな歯車が狂いだしたのではないかと、、それが今日の地球温暖化とか、止まらない核開発とか、薬害とか、高度な情報化がもたらした精神病の増加とか、、センセはそういう具体的なことは述べていないものの、ソレが今の社会のマイナスの蓄積を産む最初のきっかけになったのではないかということを書いている。

じゃあ何が違っていたかというと、結局のところイギリスでは職人や技術者からの自発的な成果の公開というのはなくて、国家がそれをうまく利用したということだ。つまりほかの国ではアウトローな人たちが世の中をひっくり返すような勢いで自分たちの技術を広めていったのに対し、イギリスでは国が主導して、そういう技術開発を進めていった。そしてそのことが、産業革命以後、イギリスが世界の頂点に立った理由でもあるのだが、ある意味イギリスは「成功」したのである。
で、それがなんで間違いのもとになったかというと、イギリスでは技術者や職人は利用されただけで、技術発展を担っていったのはオックスフォードやケンブリッジの学者や学生などのごく一部の特権階級だった。そういう人たちは、仮説をたて、理論を導き出して、実験で検証するという、今でも行われている科学研究の進め方のようなことはうまかったから、実に効率的に研究が進んでいった。ところがそういう特権意識を持った人たちは、世界を支配しようとしている国家の意を受けて「自然」を力でねじ伏せるようなやりかたで「進歩」に向かって突き進んだので少しずつ歪みが生じていったというわけだ。
イタリアやドイツの技術者・職人との大きな違いは、その「自然」に対する姿勢にある。技術者・職人は自然から学ぶことで技術を高めてきた。自然を征服しようなどとはコレッポッチも思わなかった。それに対してイギリスのエリート達は自然からは学ぶものはない、くらいの傲慢さを持つようになっていったということだ。

ここまで書くと今の世の中の間違いのもとが見えてくる。原子力開発とか、遺伝子操作とか、自然を力でねじ曲げるような技術が今の先端だが、そういう国策研究の先にあるものが見えてくる。山本センセが本当に言いたいことだ。自然を尊重しつつ、素朴に社会へ貢献しようとした職人や技術者の姿勢を見直そうという考えだ。
見かたによっては山本センセは徹底的に後ろ向きで悲観的だ。ニッポン社会では後ろ向きは否定される。たとえば北朝鮮よりも超全体主義的なニッポンのカイシャでは後ろ向くとおこられる。何が間違っていたのかと思って、社長の過去の失敗を指摘しようモンなら永久に日陰モノ扱いだ。草むしりとか、倉庫の整理とか。壁に向かって1日中座らされるようなこともある。ニッポン人は北朝鮮のことを笑えないのだ。
やっぱり今は後ろを向いて間違いを捜す時だ。いつ道を間違えたのか。このまま温暖化が進めばあと100年もしないうちに滅びるわけだから、もう遅すぎるかもしれないのだが。

みすず書房、2007年刊。