老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

モラハラ 2

2009-05-31 11:14:14 | 風景
きのう書いたモラハラをネットで検索すると、世間一般ではどうも違った意味で使われていて、どうみても世間のほうが間違っているんじゃないかという気がしてならないのでシツコク今日も書く。
例えばこういう解説を読むと、日常的ななにげない会話の中でのハラスメントみたいに書いてあって、そういう定義だとセクハラもパワハラもアカハラもドクハラもイシハラもみんなモラハラの一種みたいなことになってしまう。きのう、ワタシが書いたモラハラは、モラルを振りかざして他人を一方的に攻撃するようなことで、その振りかざされたモラルが果たしてホントのモラルなのか疑わしい時にモラハラとして批判されるべき、というようなこと。

ハラスメント界のネーミングルールをみても、セクハラは性的なワイセツ性を帯びたハラスメントだし、パワハラは会社とかの権力を振りかざしてのハラスメントで、ドクハラやアカハラは医師や教師の地位を悪用してのハラスメントだから、みんなハラスメントの拠り所?のようなものが呼び名の一部になっている。それにならって日常的ななにげないことばなどで他人を傷つけることをどう呼ぶかとなれば、それは当然ニチハラとか、どうしても英語がいいならデイハラとか呼ぶべきだと思うのだが、それをモラハラと呼んではハラスメントなんてそもそも全部モラルに反しているわけだからセクハラとかパワハラとかアカハラとかドクハラとかの立場がなくなってしまう。
それをまた十羽ヒトカラゲにモラハラなんて呼ぶのはそこに全体の意味をあいまいにしようとか、本来の意味からはずれてそのコト自体の実態をすり替えようという狙いがある。それぞれの特殊なジョウキョウのようなものが見えなくなるから。

そういう言葉のすり替えはほかにもあって、たとえば買シュンということば。もともとは売るほうだったのがいつも間にか買うほうに視点が変わった。これについてはあのオオオカ信サンがアサヒの1面に連載されていたコラムで苦言を呈したことがあって、そもそも訓読みと音読みが組み合わさって熟語になるというのは日本語として美しくないし、それ以上になにかその裏の事実を覆い隠そうというコンタンがミエミエだというようなこと。
他にも差別用語とか言って、ことばにどんどん制限を付けていくようなやり方。障害者を障害者と書いてはいけなくて障がい者と書けとか、子供を子供と書いてはいけなくて子どもと書けとか、どれもこれもそういうことを言い出すヤツらの差別心というかモノごとを上っツラでしか見ない軽薄さ加減が丸出しのような気がする。
それと豚インフルエンザを豚肉が売れなくなるからって今さら別の言葉に言い換えても、それは最初のネーミングのときにもっと慎重に考えるべきだった。豚肉を食べても病気がうつるわけではないといくら言ってもそういうことを理解するコクミンでないのははじめからわかっていたはずなんだから。