武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

022. ポルトガルで車検 CONTROLAUTO

2018-10-18 | 独言(ひとりごと)

 数年前までポルトガルには車検というものがなかったらしい。

 以前は「よくこれで走るな~」というクルマがたくさん走っていた。

 それがEU統合のあおりだろうか?ポルトガルにも車検制度が導入されて走るクルマはみるみる新車が目立つようになった。

 

 4年前に新しくクルマを買った。

 その時にセールスマンのヴァルドマール氏に「車検はいつだ。」と尋ねたら「4年後だ」との答えだった。

 日本では新車でも車検期限のシールはフロントガラスに貼られている筈だがポルトガルにはそれがない。

 そしてそれからこの5月で4年が経った。

 6月に入っても何処からも知らせが来ない。

 心配になったのでヴァルドマール氏に電話をしてみた。

 電話のむこうでは「何キロ走った?定期点検か~?」などとのんびりしたことを言っている。

 「いや、買ってから4年が経つけど…」

 「ああ、それじゃ車検だね。先ずは工場に持ってきてみなよ!」

 

 2万キロには少し早いけれど、ついでに2万キロ定期点検をしてから車検場に行くことにした。

 

 日本では随分色んなクルマに乗ったけれど自分で車検場に行ったという経験はない。いつも整備工場まかせであった。

 

 30年も前の話だが、スウェーデンに住んでいた時は古いポンコツのフォルクスワーゲンマイクロバスに乗っていた。

 9人乗りの座席を取っ払って車内にベッドを作り、炊事道具を収納できる棚を作ったりしてそれでヨーロッパ中を旅していた。

 

 ある日ストックホルムの郊外を走っていて、後から走ってきたパトカーに止められた。

 「誘導するからパトカーのあとをついて来い。」と言う訳である。

 広い駐車場に停めさせられた。

 「今からはこのクルマを運転してはイカン!トンネルバーナ(地下鉄)で帰りなさい!このクルマは車検が切れている。車検場の予約が取れたらここに取りに来なさい。」

 

 その時は夜だったせいもあっててっきり警察の駐車場と思っていたのだが、予約を取ってからクルマを取りに行ってみると、それは単なる大きなスーパーマーケットの駐車場であった。

 

 車検場に行って自分で運転をして検査を受ける。

 検査官が横に座ってライトだの、ウィンカーだのと指示をする。

 マフラーにホースを繋いで排気ガスの検査。

 クルマの下から金槌で遠慮なくガンガンと叩く。

 ところが僕のクルマはポンコツもいいところでガンガンとはいかない。

 金槌の頭がボソッとめり込んでしまうのだ。

 検査官も苦笑いのミゴト不合格であった。

 

 友人のガールフレンド、アグネッタのお爺さんが定年退職後趣味で自動車整備をやっているからという話を聞きつけたので、その人にお願いをすることにした。

 クルマとその車検場の不合格書類を持って行ったらその親爺さんは目を輝かせた。

 余程遣り甲斐があると思ったのだろう。

 

 クルマを預けて帰ろうとすると孫のアグネッタが「今夜は見逃せないテレビがあるからそれを観てからにすれば」という。

 「ヨーロッパ音楽祭がある。」というのだ。

 「今年はスウェーデンが有力で優勝するかもよ。」

 その時に観たのがABBA(アバ)であった。

 そしてアグネッタの言うとおりABBAは優勝をした。

 

 その後ABBAが世界的な活躍をしたのはご存知の通りである。

 ABBAはしばらくして解散をしたが今でもABBAの快活な歌声は時々ラジオから流れる。

 そのABBAが流れるたびにその時のアグネッタの眼の輝きを思い出す。

 

 車検場では苦労をした。アグネッタのお爺さんにもご苦労をかけた。

 車検は3回目でようやく合格をした。

 

 ポルトガルで今回は整備工場でしっかり整備をしたし、まだ新車を下ろして4年目である。スウェ-デンの様には心配は要らない。

 ただタイヤに一つ問題があった。少しぽこッと膨れている箇所がある。整備工場では出来ないという。

 仕方がないので近所のタイヤ屋に行った。

 「新しく替えなくてもスペアタイヤと交換すればそれで良い。」と言って交換してくれた。

 「月曜日に車検を受ける。」と言ったらタイヤ周りに関して徹底的に調べてくれた。

 

 ヴァルドマール氏に「車検場の予約を取ってくれませんか?」と頼んだらその場で電話を掛けてくれたが、あいにく5時を3分回っていて電話は繋がらなかった。

 「セトゥーバルの車検場より隣町のピニャル・ノヴォの車検場の方が多分空いているし予約なしでも大丈夫だよ!」と言って簡単な地図を描いてくれた。

 それは全く簡単な地図と言うより落書きの様なもので、地図を描くより結局言葉で説明をしているに過ぎない。

 でもいつも通る道から少し入るだけの様だし、「小さくだけど標識も出ているから…」。

 車検場のことを [Controlauto] とも書き添えてくれた。

 

 次の月曜日、朝8時半にその場所に行った。

 いつも行く露店市への途中の工場地帯にその場所はある筈だ。

 目指す曲がり角には [Controlauto] の標識はなかった。

 替わりに [Centro de Inspecção/IPO] という標識ならあった。

 人気の殆どないその工場地帯に入った。

 標識を頼りに道を進んで行った。今度は [Controlauto] とある。

 とにかく間違いはない。が標識の書き方がまちまちで戸惑ってしまう。

 戸惑いながらもなんとか車検場にたどり着いた。

 

 既に4台のクルマが順番待ちをしていた。

 そのうしろについた。

 MUZがどんどん奥に入って様子を見にいった。

 奥まったところが事務所になっていたらしい。

 「代金を払ってきたよ~」と言いながら帰ってきた。

 車検代は 24,63 ユーロ(3202円)である。

 とにかく空いていることに間違いはない。

 2台のクルマが車検を受けている最中であった。

 それを見学をした。

 スウェーデンの方式とほぼ同じやり方だ。

 

 僕の番が来た時、検査官は心配そうな表情をした。

 僕がず~っと見学通路から心配そうな顔をして見ていたから検査官もかえって心配になったのだろう。

 「スモールライトが〇×〇×」「全光が〇×〇×」「前光が〇×〇×」「ウィンカーが〇×〇×」「ブレーキランプが〇×〇×」「バックランプが〇×〇×」「ワイパーが〇×〇×」「ウオッシャーが〇×〇×」「バックワイパーが〇×〇×」「バックワイパーウオッシャーが〇×〇×」などと前もって教えてくれたがそんなにいっぺんに教えられても覚えられない。

 結局順番を覚えてその通りにやればなんとかOKであった。

 

 30年前のスウェーデンと違うのはコンピュータのモニタがあることである。

 足周りも排気ガスもシャーシーも結局問題点は何一つなくすんなりOKとなった。

 最後に事務所に呼ばれて検査結果の書類とステッカーが渡された。

 「ステッカーはフロントガラスの右下に貼りなさい。次はこのステッカーにあるように2年後の5月です。」

 いわれる通りにステッカーを貼った。

 

 これで税金のステッカー、保険のステッカー、車検のステッカーと他のクルマと同様に3っつが揃って一人前のクルマになれた様な気になった。

 

 2年後までにはせめて上記ライトやウオッシャーなどのポルトガル語を覚えておいた方が良さそうだ。VIT

 

(この文は2004年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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021. 今川漆堤(うるしづつみ)公園

2018-10-17 | 独言(ひとりごと)

 僕が生まれ育った家からほんの2~3分のところに「今川漆堤公園」という名の公園がある。
 僕が子供の頃には公園はなかったから当然その名前もなかった。
 その場所が「漆堤」と呼ばれていたのかも知らないが僕たち子供にはどうでもよかった。
 どぶ川が上流でふたてに分かれて又交わっている。
 その場所は島になっていることになる。
 が橋がたくさんかかっているので島という感覚も薄い。
 昔は水門があって、そのあたりでメタンガスが発生してどぶ臭かった。
 それでもオニヤンマやシオカラトンボが飛び交っていて、僕は鳥もちや網で捕まえるのが上手かった。
 大雨が降ったあとには上流から野球のボールが流れてきて、それを橋の上から魚とりの網に竿竹を縛り付けた物を持って待ちかまえる者もいた。
 それまで堤の草などにひっかかっていたのが大雨と共に一気に流れだすのだ。

 また炭屋から炭俵を貰ってきて縄で縛りつけ川に浸け、しばらく置いて一気にひっぱり上げるとたくさんのドジョウが捕れた。
 アメリカザリガニもたくさんいた。

 いま水門はない。立派に公園として整備され、付近の住人の憩いの場になっている。
 相変わらずどぶ川の様に見えるが大きな鯉が泳いでいるのが見える。
 ホームレスらしき人たちが釣り糸を垂らしている。
 いろんな木が植栽されていて、その中でも桜が一番多い。
 春には花見で賑うのだそうだ。
 昔は桜など一本もなかった。
 川の向こう側は田んぼやネギ畑ばかりで溜池や肥溜めもたくさんあった。
 いまそんなものはどこを探してもない。
 マンションや町工場など建物ばかりになってしまっている。

 先日ポルトガルに戻る前、その生まれ育った家で3泊をした。
 その前日、宮崎を発つ日に軽いぎっくり腰をやらかしてしまった。
 初めての経験である。
 宮崎を出発するその時に部屋の前の落葉が気になってほうきで掃き始めた。
 その時にやってしまったのだ。

 大阪での一泊目は腰が辛くて朝は4時頃から悶々としていた。
 5時半に堪らなくなってベッドから這い出した。
 朝刊などを見ていたが、歩いた方が楽に思えたので「今川漆堤公園」に散歩に出掛けた。

 早朝からたくさんの人たちが散歩を楽しんでいる。
 犬との散歩の人も多いが一人二人で歩いている人もたくさんいる。

 僕の前を歩いている人は草笛を鳴らしながら歩いている。
 上手いものだ。
 よく聞いて見るとそれは阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」だ。
 歩くリズムがその「六甲おろし」に合ってしまうのだ。
 僕だけではなくそのあたりを歩いている人は皆が皆「六甲おろし」に歩調を合わせている。
 草笛の音色が高くて大きいからだろう。ついつい合ってしまうのだ。
 でもぎっくり腰にこの歩調はキツイ。

 50歳代から70代くらいの女性が多い。
 2~3人連れからもっと多いグループが同じ方向に向っている様な気がする。
 今川漆堤公園は細長く1キロほどに渡っている。
 その中ほどに少し広くなったところがある。
 どうやらその場所に皆が集合している様子である。

 そうかお袋は生前、まだ元気な頃、ここに朝の体操にやってきていたのだ。
 そんな事を楽しそうに話していたのを思い出した。
 世代は移り変わっているのかも知れないが、それが今も続いているのだ。

 今川漆堤公園の先端まで行って戻ってきた時には体操が始まっていた。
 殆ど95パーセントが女性だ。
 女性たちが100人ばかり扇状に広がったその要のところに年の頃は50代か僕と同年代か、1メートル90センチもありそうなすらっとしていてロングヘアーのそれこそプロのジャズダンサーの様なかっこ良い一人の男が体操を指導しているのが見えた。
 傍にはラジカセが置いてあったが未だ準備体操らしく音楽は流れていない。
 準備体操と言っても激しく腕をぐるぐるまわしたりしていて、ぎっくり腰の僕には見ているだけでキツイ。

 普段の僕ならこういった場面ではすぐさま隅っこででも体操の仲間に入ってしまうのだが、この時ばかりはその男を羨望の眼で見るより他にはなかった。
 それどころか、この元気な女性たちに出来ることが自分には出来なくて本当に情けない思いをした。

 ポルトガルに戻ってきて1週間。
 ポルトガルの気候風土が余程僕に合っているのか?
 御蔭様でいつの間にかぎっくり腰も治ってしまっている。
 さあ、ぼちぼちラジオ体操でも始めて元気を取り戻すとしようか…?
VIT

 

(この文は2004年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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020. NACKのサイト

2018-10-17 | 独言(ひとりごと)

 昨、2003年12月に「ポルトガルのえんとつ-MUZの部屋」がこのサイトから独立して一人立ちした。

 MUZはせっせと一人で更新に努め少しずつ充実したサイトを作りつつある。

 

 その勢いを駆って僕は大胆にも出身高校の美術部OBのサイトを立ち上げるべく奔走した。

 「奔走した。」は大げさである。

 昨年定年退職された恩師F先生への年賀状の隅っこに「僕にやらせてみてください」と書いただけである。

 それと現職の美術部顧問のY先生にその旨メールを送った。

 そして管理人を拝命し2004年1月中旬から少しずつ作りはじめた。

 

 僕が高校を出てから早いもので40年になろうとしている。

 私学であるからその美術部顧問の先生に転任はない。

 昨年退職された恩師F先生がづーっと変わらずにお一人でやってこられた。

 だから卒業生は年代を問わずその恩師によって繋がっている。

 

 不定期刊行誌「NACK」というものを作っておられて、僕の現役時代は7号から11号までの発刊であった。

 その後も毎年一冊ずつの発行で今までに34号が発行され35号を準備中との事である。

 このNACK誌は現役のための機関誌ではある。とのことであるが広くOBを繋いでいる。

 その「NACK」誌発刊は今の現役のY先生が受け継がれておられる。

 

 卒業生の中には美術に関した職業の人も多い。

 デザイナー、イラストレーター、絵描き、漫画家、美術教師等々。

 

 僕が卒業してしばらく経った頃に卒業生が寄り集まって「展覧会をしようと」いう話になったらしい。

 1970年のことである。その第一回展には僕も参加した。

 その次の年には僕は外国にいたから参加はしていないがその後もその「NACK」展は続いている。

 「NACK」展も毎年途切れなく続いて今年34回目を先日開催された。

 

 そんな活動をサイト面で紹介したい。という思いと海外に住んでいても自分でも参加したい。

 という思いがあって「NACKサイト」を思いついた。
 実際サイトと言う物は海外であろうが、日本国内であろうが、ハンディはさほど感じない。
 それと日本国内に居る人は皆が結構忙しい。
 僕は彼らに比べれば比較的閑でもある。

 絵を描いたり、スケッチ旅行に行ったり、本を読んだり、メルカドや露店市に買物に出かけたり、ポルトガルドラマのテレビを寝そべって見たり、といった日常であるが…

 少しずつなら「NACK」サイトを作っていくことは出来るかもしれない。と思った。
 どこまで出来るか判らないがとにかく始めてみる事が肝要かとも思った。
 そうして今一ヶ月が過ぎようとしている。

 やはりNACKの仲間は良いものである。
 予想以上の皆の協力の賜物で着々と充実してきている。
 現役のY先生もお忙しいなか奔走して頂いている。

 話は変わるが先日芥川賞の発表があった。
 受賞したのは2人の若い女性である。
 本当に今女性が元気である。文化面でもスポーツでも。
 もちろん文章はパソコンで書く。
 そんなことを話題にする番組(ニュース)の中で、もっと若い女子高校生がベストセラーの作家として活躍している、という話もあった。
 授業の休み時間などでも良い文章が思いついたらすぐに携帯電話に文字を打ち込み自宅のパソコンにその都度転送するのだそうである。
 携帯もパソコンも使いこなしているな~。と驚きである。

 でも考えてみると「NACK」サイトも同じようなことをやっている。
 K君は自分の作品を携帯電話で撮って写メールでポルトガルの僕のメールに送ってくれる。
 それを僕はちょっと修正を加えてNACKサイトのK君のページに載せている。
 まあ作品写真としてはちょっと無理があるかも知れないが一応は出来ている。
 驚くべきことが出来る時代になったものだと感心している。

 NACK「掲示板」を見るのは僕の日常に加わった。
 ポルトガルの僕もであるが、東京に住んでいるNACK仲間も大阪の仲間も今、高校時代当時の様に雑談が始まっている。
 いずれメキシコからの書き込みもあるかも知れない。或いはそれ以外の国からも…。
 高校の時に言い忘れた事、喋りたりなかった事、今後の方針と雑多な内容が飛び出してきている。
 NACK以外の人からの書き込みも加わりその枠は少しずつ広がっている。
 そして毎日のアクセス数は驚くばかりでこのサイトを追い抜くのも時間の問題である。

VIT

その後、ジオシティーズが閉鎖になり「NACK」サイトも閉鎖しました。

(この文は2004年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。この文章はブログに移しますが、NACKサイトはジオシティーズ閉鎖に伴い閉鎖しなければなりません。ご了承下さい。始まった2004年当初はNACK会員各位のご協力もあり、充実したものにもなりましたが、最近は書き込みもなく、サイトよりも新たな物、フェイスブックなどが主流となりつつある様です。)

 

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019. ラミレス社のツナ缶

2018-10-17 | 独言(ひとりごと)

高校時代からの絵を描く仲間から唐突にも次のようなメールが届いた。

[日本→ポルトガル]

武ゃん 手紙着いた?そちらへ届くのに何日ぐらい普通はかかるのですか?

追伸 ラミネス社の魚のカンズメ、ロシアに輸出するために作った少し塩のきいた分などスーパーに売っていますか。

カタプラーナ鍋を使ったことがありますか。

一番小さいので直径何センチぐらいでいくらぐらいするものか教えてほしい。

日本との時差と云うか日本の21:00はそちらの何時なのですか?

 

高校時代と大学でも、僕は武やんと呼ばれていた。

手紙が日本から何日くらいかかるのかやら、時差が何時間なのかを問題にしているのではない。

「カタプラーナ」という単語を何故この男が口にするのか?

勿論、ポルトガルに住んでいる者にとって「カタプラーナ」なる物は知っている。

でも何故彼が…?

それと不可解なのは「ラミレス社」の魚の缶詰め?

これは一体何なのだ?

塩の利いた分?ペットフードではないのか?

これは聞いたこともない。ポルトガルの会社なのか?

すぐさま返事を出した。

 

[ポルトガル→日本]

郵便は通常で5日~1週間くらいだと思います。メールに慣れたら郵便の遅い事。

でもこれでも日本=ポルトガル間は早いのですよ。ポルトガルとフランスはもっと掛ります。

セトゥーバルから車で1時間の町まで2週間掛ったこともあります。

 

ラミネス社の魚の缶詰め。とは急に何ごとですか?

何の事か訳が解りませんが今度大型スーパーに行った時に調べておきます。

ただここセトゥーバルは古くからオイルサージンで栄えた街です。

その歴史は古代ローマ時代まで遡ります。

カタプラーナ鍋とはどこからそんな情報を仕入れたのですか?我家にはカタプラーナはありません。(2018年現在はあります。)

時々レストランで食べる時出てきますが。

これも銅版の厚いもの薄い物によっていろいろでしょうが。

それも今度調べておきます。

 

時差は 9 時間です。日本時間 21 時でポルトガルの正午です。

 

このメールを出してすぐにスーパーに買物に行く機会は訪れた。

メールが来て、返事を出してすぐだから、幸い忘れることはなかった。

すぐさま荒物売り場に行って、カタプラーナの価格をメモした。

缶詰め売り場ではラミレス社のものをすぐに見つけることが出来た。

そして一個を買ってみた。

家に帰ってすぐに返事を書いた。

 

[ポルトガル→日本]

きょうスーパーに買物に行ったので忘れずに調べてきました。

カタプラーナはそのスーパーには一種類しか置いていませんでした。

直径 27 センチの普通に良く使う大きさだと思います。

価格は 28.60ユーロだから 3700円くらいです。

勿論打ち出しの銅製ですが、スーパーのものだから上等品ではないのでしょう。

荒物専門店に行けばもっと豊富にあるのでしょうが…。

夏祭の露店市には銅製品の専門店が2~3軒毎年出ていますが、そういった店のほうが良い物を売っているようです。

ラミレスの缶詰めも見てきました。

小さいのから大きいのまでいろいろありましたが、全て味付けの違うツナ缶でした。

ポルトガルの会社なのですか?ラベルにポルトガルの国旗がデザインされています。

以前から知らずに見ていたのでしょうけれど、他のメーカーのよりかなり割高でしたが、試しに一個買ってきました。

385 グラム一個が 3,62 ユーロ(470円)もしました。

工場はペニシェとマトシーニョとなっています。

ペニシェはポルトガル中部の港町で大きな漁港があり、何度か行きました。

半島に突き出す様に城跡があります。

今は美術館とカルチャーセンターになっていますが、独裁政権の頃は政治犯の刑務所に使われていたとのことです。

マトシーニョはポルトガル第二の都市ポルトの隣町です。

やはり漁港で美味しくて高級なレストランが何軒かあり、だいぶ以前ですが一度そんなレストランに入ったことがあります。

 

以上本日調べてきたことの報告です。

でもこれは一体何なのですか?日本でも売っているのですか?

ラミレス社のツナ缶

さらに返事が届いた。

[日本→ポルトガル]

唐突な質問に答えてくれて有難う・・・・

ツナ缶はいろんな種類があり沢山輸入もされていますが、ラミレス社のカンズメは輸入されていません。

ただフランス土産とロシア土産で同じメーカーなのに塩味がかなり違う、ロシアの方が塩辛く今なら白菜と煮るだけでなにも加えなくてもあっさりとおいしいものでした。

冬にいろんな鍋料理に飽きたとき思い出します。

ただし、メーカーの製品管理が悪くて、たまたまそうだったのか、国別に味を変えているのか定かではありません。

私の中でポルトガルのラミレス社のロシア経由のものが最高、もう一度食したいと思った訳です

 

カタプラーナ鍋はアサリの酒蒸しに,鯛の姿酒蒸しに、熱伝導が良さそうで旨味を逃がさない構造、それでいて圧力釜でないので食素材の素材感をなくさない優れものの感じがする。

以前居酒屋も経営していたこともあり、食べることも、料理することも好きなんです。

 

以上のやりとりが一両日で出来てしまう。

まったくEメールとは便利なものだ。

これが郵便だと片道5日づつとしても一ヶ月はかかってしまう。

 

その後、「ラミレスのツナ缶の味はどうだった?」

というメールが来たがまだ食べていない。

 

あいにく今我家に白菜はない。

ポルトガルにも白菜は売ってはいるがいたって貴重なのだ。

今度白菜が手に入ったら早速やってみることにしようと思う。

それまでラミレスのツナ缶はおあずけ…。

戸棚に飾っておこう。

 

たぶんこれはロシア経由と同じ、塩辛い分だと思う。

だいたいに於いてポルトガルの缶詰めはどれも比較的塩辛い。

 

もう一つ問題の「カタプラーナ」であるが、

 

 

直径 30 cm、高さ 14 cm。

これらのメールの後、今はある我が家のカタプラーナ鍋。友人からの頂き物だが上等である。

 

今度の夏祭りの時にでもひとつ買っておくべきかな?(だから買ってはいない)

VIT

(この文は2004年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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018. 真冬の雨あがり・小さなドライブ・スケッチの旅

2018-10-16 | 旅日記

 

 雨もあがり天気が良くなったので急に思いたってスケッチ旅行に出かけることにした。

 思いたったのがもう昼近くになってからだ。

 とりあえず一泊くらいは出来る様にとパジャマと下着の替え、洗面道具を大急ぎでリュックに詰めた。

 クルマのエンジンをかけていざ出発。

 でも別にどこに行かなければならないというあてはない。

 

 セトゥーバルの町を抜けて国道10号線沿いのガンビアの入り口にある、以前にも入ったことのある食堂で先ずは腹ごしらえ。

 この食堂はいつも地元の人やトラックの運転手たちで満員。

 今日は少し早めなのでまだ席はある。

 

 本日の定食。

 コジード・ア・ポルトゲェーサ(野菜と豚足、サラミなどの煮込み)とフランゴ・アサード(鶏の炭火焼)を注文。

 食事をしながらどこに行くかを考えた結果、昨年にも行ったことのあるポルテル Portel を目指すことにした。

 食事が終る頃には5人ほどが立って席の空くのを待っていた。

 

 アルカサール・ド・サルからアルカソヴァスを抜けポルテルまでずーっと田舎道を走る。

 ところがアルカサール・ド・サルからアルカソヴァスへ抜ける道は先日降り続いた大雨のせいか穴ぼこと水溜りの最悪の悪路。

 ほとんどクルマは通らないがたまにすれ違っても全てトラックかRV車。

 乗用車では無理なのかもしれない。

 ラリーの気分で穴ぼこをよけながら走ったが時々は「ガツン」とやってしまう。

 時速はせいぜい20キロしか出せない。

 ところどころに土が盛られている。

 穴ぼこに埋めるための土が用意されているのだろうが、その盛り土もよけてハンドルを切らなければならない。

 

 小さな野鳥がたくさん道に出てくる。

 コウノトリもところどころに巣をかけている。鷹の様な猛禽類が空を舞っていた。

 道路脇に猟犬の檻を牽引したクルマが駐車してあったから、このあたりで狩猟をしているのだろう。

 ウサギだろうか?イノシシだろうか?鹿かもしれない。

 道路標識に鹿の絵が描かれたものがある。

 けっこう森は深いようだ。

 松とユーカリそれにコルク樫。

 このあたりは夏の山火事にはさいわい遭わなかったようだ。

 

 やはり南国アレンテージョだ。

 真冬だというのに黄色と白の小さな花が沿道を埋めつくしていちめんに咲いている。

 でも春にはこんなどころではない。

 これに赤、青、紫が混色してまるで錦の絨毯を敷きつめた様になる。

 

 かなりの距離を走ってようやく悪路から抜け出した。

 悪路から抜け出すと田舎道とはいえ真っすぐなので90キロくらいは出てしまう。

 スピードは意識して70キロに押えて走行。

 

 アルカソヴァスに到着。でもこの町は今回はノンストップで素通り。

 アルカソヴァスは何度も来てかなりのスケッチをしているし、油彩にもたくさんなっている。

 

 アルカソヴァスからは道も立派でポルテルにあっというまに着いてしまった。

 町の入口からの風景がみごとなのだ。

 ポルテルのお城と街並みそれに手前にオリーヴ畑がある。

 この風景を以前もスケッチして20号の油彩に描いたのだが、一旦は仕上げてもどうも気に入らないまま消してしまった。

 絶好のモティーフなのだが巧くはいかなかったのだ。

 今日は以前とはほんの少しだが角度を変えてスケッチをしてみた。

 何度も挑戦してみる価値はある。

 スケッチが巧くいっても油彩にならない時もあるし、逆にスケッチがもひとつでも油彩にしたら巧くいく場合もある。

 いずれにしろ僕のやりかたは先ずはスケッチをする事が肝腎なのだ。

 

 スケッチブックはいつもクルマのトランクに入れてある。

 鉛筆もベストのポケットに入れてあるのだが今日はカッターナイフを持ってくるのを忘れた。

 最近はテロの関係で飛行機に乗る時はカッターナイフとかハサミとかは厳重で持ち込めなくなった。

 そのせいでベストのポケットやリュックにはカッターナイフを入れなくなったのだがうっかりしていた。

 しかも今日に限って鉛筆は一本しか入っていない。

 芯が折れたら大変だ。力がはいりすぎてよく折ってしまうのだが今日はなんとか折れなくて済んだ。

 次からは鉛筆とカッターナイフもクルマのトランクに入れておく方が良いようだ。

 

 以前来た時は閉まっていた城門は今日は開いていた。

 城壁の上に登ってそこからもスケッチをした。

 手前に赤瓦のドーム屋根の古い建物があって曲がりくねった道沿いに丘の上まで小さな建物が軒を連ねていて重なり具合が面白い。

 これも20号くらいの油彩にできるかもしれない。

 お城は城壁と塔だけであとは空っぽである。

 ポルトガルの城はほとんどがこういったものである。

 彫刻が施された柱の一部などが転がっている。

 当時はさぞや立派なお城だったのだろうと偲ばれる。

 

 今日は悪路をかなり走ったので後になって疲れがどっとでたようだ。

 予定通り一泊することにした。

 クルマもラリーを完走したごとくに泥だらけである。

 明日はどこかで水道場を見つけて洗ってやらなければならない。

VIT

 

(この文は2004年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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017. ポンタヴァン旅日記 (下) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

ポンタヴァン旅日記(上)

2003/10/29(水)曇り時々雨 ポンタヴァンPont Aven-カンペルレQuimperle-ル・プルデュLe Pouldu

 

 朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。今日はトレマロ礼拝堂Chapelle de Trémaloに行く予定だ。

 トレマロ礼拝堂にはゴーギャンが描いた黄色いキリスト像がある。

 

 ホテルの年配の方のマダムに尋ねると4キロの道のりだという。

 往復で8キロはとても歩けない。

 道もよく判らないし雨も降っているのでタクシーを呼んでもらうことにしたが「タクシーが来ない」と言う。

 マダムは「歩くしかないわね。途中の道は散歩には素晴らしいですよ。

 往復で2時間だからバスにはギリギリ間に合うわね」と簡単に言ってくれる。

 朝食が済んだ頃には雨もあがっていたので歩くことにした。

 幸い標識は出ているのでそれに従って行けば道に迷う事もないだろうと急ぎ足で歩き出した。

 町外れから森の道に入った。

 しばらく行くとまた道路標示があって《トレマロ礼拝堂まで500M⇔ポンタヴァンまで700M》と書いてあった。

 合計で1200メートルしかないわけだ。

 ホテルのマダムは歩いたことがないのだろう。ホテルを出てからたった20分で着いてしまったのだ。

 途中は本当に素晴らしい散歩道であった。

 栗の木がたくさん生い茂っていてその実をいがごと道いっぱいに落していた。

 だれも拾わないのがもったいなくて不思議であった。

 どんぐりもたくさん落ちていたし、野生化したような小さなリンゴも足の踏み場もないくらいに落ちていた。

 昨夜の雨で落ちたのかもしれない。

 それに紅葉も美しい道であった。標識には《愛の散歩道》と書かれてあった。

 

リンゴ

 

トレマロ礼拝堂

 

クリ

 トレマロ礼拝堂はそれ自体絵になる可愛い礼拝堂であった。

 礼拝堂の内部の正面にはゴーギャンが描いた黄色いキリストはなかった。

 マリア像とか他の聖人像が何体かがあったがキリスト像はなかった。

 どこかに貸し出しでもしているのであろうか?と思った。

 あるいは貴重なものだからどこかの博物館入りになったのであろうか?とも思った。

 聖人像たちはやはり彩色木彫でカンペールの博物館で観たのと同じ様に面白みがあって素晴らしいものであった。

 

 狭い小さな礼拝堂であるが一番うしろまで下がって全体を見てみることにした。

 そうすると天井から少し下がった梁のところに薄ぼんやりとキリスト像が見えるではないか。

 入口の所にホテルにあるような時間が経てば自動的に切れる仕組みの電灯のスィッチがある。それに飛びついた。

 まさしくゴーギャンが描いた黄色いキリストがそこに浮かびあがったのだ。

 名もない木彫師が作った素朴なキリスト像であるが、僕にとっては絵を描き始めの頃からゴーギャンの《黄色いキリスト》として慣れ親しんできた絵のモデルである。

 ちょっと大げさな表現であるが『感動的』な出会いであった。

 

聖人彫刻

 

黄色いキリスト

 

トレマロ礼拝堂内部

 今までは単なる黄色いキリストとしか考えていなかったが、この旅を通して感じたことは、この黄色いキリスト像が木彫、つまり木であったというのはゴーギャンにとって重要な要素であったのだ。

 もちろんブルターニュの家具(リ・クロ)。その木彫装飾。木骨煉瓦造りの家屋。

 どれもポンタヴァン派の画家たちとは切っても切れない関係にあったと言うのが理解できる。

 それにジャポニズムの浮世絵木版画が加わる。

 観光客の誰一人も訪れない。落ち着いてゆっくり眺めることが出来た、まったく静かな礼拝堂であった。

 

 来る時は途中の標識までは急ぎ足だったのが帰りはのんびりと《愛の散歩道》を引き返した。

 町外れまでくると家の庭に季節はづれの紫陽花が二輪、蔦の紅葉と競い合う様に鮮やかなブルーに咲き誇っていた。

 町に戻ってもバスの時間まではまだまだあったので港まで行ってみることにした。途中は軒並み画廊が林立していた。

 大きな岩がごろごろと川にころがりまるで日本の渓谷の様な景色である。

 ところどころで水車が回っていた。

 

ポンタヴァンの水車

 なるほど100年前からのリゾート地であったことがよく分る。

 港には今は豪華なヨットが数隻停泊してあった。

 

 ホテルでチェックアウトを済ませる時「次はル・プルデュに行く予定だけどそこにホテルはありますか?」と尋ねてみた。

 「ああル・プルデュね。あの村にはマリー・アンリの家があるものね」

 「えっ、マリー・アンリ?」

 「そうですよ、ゴーギャンが家の天井、壁、ドアに絵を描いたところですよ」

 

 意外であった。そんなところが残されているとは思ってもみなかった。

 当時ル・プルデュにも女性が経営する下宿屋があってお金がない画家からは下宿代を請求しないので、それをよいことにゴーギャンたちはたびたびここに滞在して絵を描いていた。

 といった話は知ってはいたのだが、まさかその家が今も残されていて見学が出来るとは…。

 それならばどんな事があっても観てみない訳にはいかなくなった。

 

 ゴーギャンの画集にはル・プルデュの絵がよく出てくる。

 海辺に立つ十字架の水彩画があって、その十字架だけでも見ることができればよいと当初は思っていた。

 どんな村なのか?海の色は。波の音は。それと美味しい牡蠣が絶対に食べる事ができる漁村だと信じていた。

 でも交通の便が悪かったり、天気が悪くなったりする様だったら、このル・プルデュはパスをしてもよいとも思っていた。

 でもそうはいかなくなった。どんなことをしても絶対行かなければならなくなったわけだ。

 

 ポンタヴァンのホテルを出る時には再び雨が降り出した。しかもかなりのどしゃぶりになった。

 バスは5分程遅れてやってきた。昨日ここまで乗ってきた時と同じ運転手である。

 ル・プルデュに行くには一旦カンペルレに行かなければならない。

 そこからル・プルデュ行きのミニバスが運行されているとのことである。

 

 カンペルレの駅前には2台のミニバスが停まっていた。

 運転手がいたのでル・プルデュ行きを聞いてみたらバス停に張ってあるその時刻表を指し示して「次は17時半です」という。

 人の良さそうなその男は「俺がその運転をして行くのだがね」と付け加えた。

 

 まだ昼すぎであるからこの何にもない町で半日も待たなければならない。

 地図を見るとル・プルデュまでは僅か17キロ程の距離である。

 タクシーで行く事にした。でも駅前のタクシー乗り場にはタクシーは停まっていない。

 

 とりあえずは腹ごしらえ。サンドイッチでも食べようと駅前カフェに入った。

 ところが食べる物は何も置いてない。「その先にスーパーがあるので買ってくれば?」とカフェの人は言った。

 まあなければル・プルデュまで我慢すれば海産物の旨い物が食える。

 コーヒーだけを飲んでいるとタクシー乗り場に一台のタクシーが停まった。

 大急ぎでコーヒーを飲み干しリュックを担いでタクシー乗り場に走った。

 

 でもそのタクシーは客から呼ばれて来ていてやがて列車が着くのだという。

 「1時間あとなら戻ってきて乗せていくがね。」

 「他のタクシーを無線で呼べないのですか?」

 「いや俺はこの町のタクシーじゃないのでね」

 

 そうこうしている内にもう一台のタクシーがうしろに止まった。

 ポンタヴァンのホテルのマダムに教えてもらったル・プルデュのホテル「オテル・パノラミクへ」と言うと「ああ」と運転手は親しげに答えた。

 

 ホテル・パノラミクからは名前の通り海が見渡せた。黒々とした海に大きな白波がたっていた。

 ホテルのマダムに「メゾン・マリー・アンリ」を尋ねると「ホテルの横の道をまっすぐに1.4キロ先のカフェ・レストランの隣ですよ」と教えてくれた。

 さすが海からの風は冷たい。夏場ならおそらく開いているのであろう所々ある店は全てが閉ざされていた。

 途中海岸通の公園の中にツーリストインフォメーションの建物があったので寄っていくことにした。

 次の《メゾン・マリー・アンリ》は3時半からだという。なんでもガイドが付くらしい。

 

 《メゾン・マリー・アンリ》の入口を確かめてから隣のカフェ・レストランに入った。

 それほどは時間がないからサンドイッチくらいがちょうどよい。

 「サンドイッチはありますか?」というと「ない」という。

 仕方がないので他を当ってみることにした。

 すぐ側にもレストランがあったが閉まっていた。ここも夏場のリゾートシーズンしか開いていないのだろう。

 クレープの看板を見つけたので行ってみた。

 クレープ屋の前は大規模に掘り返されていて道路工事の真っ最中であった。ブルドーザの音がうるさい。

 工事の人が近寄ってきて「通るのか?」と聞く。

 「いや、そこのクレープ屋が開いているかだけ知りたいのだ」と言うとわざわざ見に行ってくれた。

 戻ってきて「いや、開いてない」という。

 

 MUZは遠くの方から見ていて「あたりまえやんか」と言っている。それもそうだ。

 仕方がないので再び最初のカフェに戻ってビールだけでも飲むことにした。

 結局この村で開いているのはこのカフェと泊まっているホテルとインフォメーションの3軒だけである。

 それと3時半には隣の《メゾン・マリー・アンリ》が開く。

 ビールを注文して「ポテトチップスがあリますか?」と聞くと、それも「ない」。

 「でもクローク・ムッシュゥだったら出来るけど…」と言うではないか。

 “それを何故もっと早く言わないの!そうすればうろうろしなくて済んだものを。”

 でもこれでなんとかめでたく昼食にありつけたわけである。

 

マリー・アンリの家入口

 3時半を5分過ぎて隣の《メゾン・マリー・アンリMaison Marie-henry》の扉を押した。

 既に3人の観光客が来ていた。

 受付の女性が「2人で9ユーロですよ。」「説明はフランス語でしますけれど分りますか?」

 「分らない時はいつでも質問してください」と言いながら英語で書かれたプリントをくれた。

 他の3人の観光客はいずれもフランス人である。

 入口の扉は鍵を閉めてしまってその受付の女性が皆を案内していった。

 

 大きなはきはきとした張りのある声と強弱をつけた話っぷりはまるで演劇を観ているようで内容が解らなくても思わず引き込まれてしまう。

 ゴーギャンが住んでいた部屋。相棒のマイエル・デ・ハーンが住んでいた部屋。

 行水用の大きなブリキのたらいが置いてある部屋。

 などどの部屋にもポンタヴァン派の画家たちの絵や版画が飾られていた。

 マリー・アンリの寝室にはエミル・ベルナールの油彩もあった。

 僕が目を近づけて熱心に観ていると、ガイドの女性は「これは本物ですよ!」と強調していた。

 各部屋にはポンタヴァン派以外にもマリー・アンリが当時からコレクションしていた様々な絵が飾ってある。

 英泉、晴信、歌麿などの浮世絵版画も5点ほどの本物が飾られていた。

 

 2階から見学して階下に下りた。

 ガイドの女性は一階の扉をおもむろに開けた。

 壁からドアから全てに絵が描かれている。

 中には画集で見慣れている絵もたくさんあった。

 「もちろん外せるものはみんなアメリカの美術館が持っていってしまって、今は印刷が張ってあるけど雰囲気は当時のままですよ」

 観光客は僕たちも含めて皆が圧倒されていた。

 

 僕は『月と6ペンス』の最後のシーンを思い描いていた。

 ブルターニュを旅するにあたっていろいろな本を読み漁った。

 と前にも書いたが『月と6ペンス』サマセット・モーム(角川文庫)もその内の一冊であった。

 この本を最初に読んだのは僕が高校生の時だった。その後も何回か読み返した好きな本の一冊である。

 『月と6ペンス』はゴーギャンをモティーフにして描かれた小説だと誰もが分る。

 でも主人公の名前はチャールズ・ストリックランドというイギリス人でゴーギャンのようにフランス人ではない。

 有能な証券取引人だった主人公は突然妻子を捨て画家になる決心をする。

 やがて自分の絵の真髄を求めてタヒチに渡る。

 最後には頼病に冒されるが、自分の住む小屋の天井から壁からドアまで全てに絵を描く。

 そしてチャールズ・ストリックランドの絵は完成をみる。

 原住民の妻アタに「自分が死んだらこの小屋もろとも燃やしてくれ」と頼む、壮絶な最後である。

 その小屋はサマセット・モームが描いた架空の物だと僕は思っていた。

 でもその下敷きになっていたのがこの《メゾン・マリー・アンリ》なのだろう。

 

 帰りもう一度ツーリストインフォメーションに寄って海辺に立つ十字架の場所を尋ねたが、その存在自体判らなかった。

 

 一旦ホテルに戻った。ホテルの向かいにはレストランがあるが、今日は休みだという。
 夕食はどうすれば良いのだろう。

 海産物や牡蠣どころではない。夕食からあぶれる恐れさえ出てきた。

 小さなスーパーも店の一軒もない。

 でも最悪の場合でも親戚の人から頂いた小袋のおかきがある。

 それにコンカルノーで買ったビスコットも半分は残っている。飢え死にすることはない。

 あとはメゾン・マリー・アンリの隣のカフェに望みを繋ごう。

 昼に見た時、黒板にチョークで肉料理のメニューなら書いてあった。

 

 7時過ぎに再び凍える道を歩き出した。

 カフェに着いて「レストランは開かないのですか?」と尋ねると「開かない。夜に開くのは夏場だけだ。」とのこと。

 カウンターでビールを飲んでいた客たちが口々に「レストランなら4キロ先にある。」と教えてくれるがこちらには車がないのでわざわざ夕食を取るために4キロも歩けない。

 もう既にホテルから1.4キロを歩いてきているのだ。

 

 昼のクロークムッシュゥが結構旨かったので、もう一度それを食べる事にした。

 それしか残された道はなかったのだ。

 ただし夕食なのでダブルで注文した。それに例によってシードルの大瓶。

 よほど僕たち二人は情けなく惨めな顔をしていたのだろう。

 キッチンで奥さんと相談してきたのか「よかったらサラダも出来るけど?」と言う。

 サラダも二人前注文した。デザートには昼からショーケースに入っていた、プラム入りのカスタードケーキがある。

 仕上げにはやけくそでカルバドス(この地方で産するリンゴの絞り粕から抽出した強い焼酎)を飲んだ。

 立派なディナーになった。

 

 クロークムッシュゥといえば思い出すことがある。

 かつてスウェーデンでストックホルム大学に通っている時に夜中にレストランでコックのアルバイトをしていた。

 夕方から夜中の3時までキッチンにはたった一人での勤務である。

 百貨店の前にあるレストランだから昼時は猛烈に忙しい店だった。

 夜は経営者も交替し、黒人のピアノ演奏が入りバーが主になる。

 一通りの食事メニューはあるのだが、殆ど注文はこない。一日にほんのひとつか二つ。

 でも一応のことは出来なければならないから給料は良かった。帰りには毎日自宅までのタクシー代がでた。

 夜中になってよく注文が来るのがクロークムッシュゥだった。

 僕はクロークムッシュゥに腕を振るった。

 クロークムッシュゥはその店で評判になりますます注文が増えた。

 「いったい誰がクロークムッシュゥを注文するのか?」と聞いたことがある。「娼婦」との答えだった。

 それは仕事にあぶれた娼婦のささやかなディナーになっていたのである。

 

 良い気持ちでカフェを出た。

 気温はますます下がっていた。

 そして満天の星空がそこにあった。これほど美しい星空を見たのは久しぶりである。

 セトゥーバルでは昼間は雲一つない快晴でも夜になれば雲がでだして星空の美しい夜空をあまりみたことがない。

 もっとも早寝早起きを心がけているせいもあるが。

 ホテルまでの1.4キロを星座を眺めながら帰った。

 みち半ばまで戻った時である。

 北斗七星の取っ手のあたりから大きな流れ星がこぼれ落ちるのを2人で目撃したのである。

 

ブルターニュの家

 

月明りのル・プルデュ夜景

 

2003/10/30(木)曇りのち雨 ル・プルデュLe Pouldu-カンペルレQuimperle-ヴァンヌVannes

 

 その日は祭日でミニバスの運行はなかった。同じ道をタクシーで戻るしかなかった。

 同じタクシーを頼んだが昨日とは違う女性の運転手であった。

 カンペルレに着いて料金を払おうとするとメーター料金よりも安い金額で良いと言う。

 往復割引が付いているのかも知れない。

 「またカンペルレに来る事があったら、私のタクシーを使ってください。」と言って名刺をくれた。

 本当にそんな日が近い内に来れば良いと感じている。

 

 カンペルレからは列車である。ブルターニュの古都ヴァンヌでもう一泊してからパリに戻る。

 ヴァンヌに着くとまた雨であった。

 駅前のホテルでも良かったのだが最初に泊まったレンヌのホテルが良かった。

 そのチェーン店がこの町にあることを知っていたので、雨の中そこまで歩いた。

 

ヴァンヌの洗濯場

 

ステンドグラス

 

ヴァンヌの家

 

ヴァンヌの木靴屋

 ヴァンヌでは美術館見学の予定はない。街を楽しめば良いことにしていた。

 先ずはカテドラルを観た。内部は一部工事中であったがここでもステンドグラスが美しかった。

 フランスにはステンドグラスの美しいカテドラルが各地にある。

 雨が降っていたので雨宿りのつもりで《ヴァンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Vannesにも入った。

 全体に大きな作品が多くて、ルーベンスやドラクロアの作品もあった。

 

 雨は降ったり止んだりである。傘をさしたりたたんだりが忙しい。

 初めから傘を持たないでアノラックのフードだけでびしょぬれになっても平気な観光客がたくさん歩いていた。

 港にも行ってみた。「今夜は絶対に牡蠣を食べるぞ。」と決心していた。

 その日の夕食は港の近くの城門の内側で見つけたブラッセリーに決めた。

 

 早くからそこのカフェでビールを飲みながらレストランの開くのを待った。

 7時にレストランが開いてすぐに席を移したつもりだったが、もう既に何組もの客が座っていた。

 今夜は牡蠣だけではなく、表のメニューに掲げてあったシーフードの盛り合わせを頼む事にした。

 蟹、手長海老、普通の海老、2種類の巻貝、あさり、それに牡蠣の盛り合わせである。

 豪華に注文してしまったが、蟹や海老、巻貝などはセトゥーバルの自宅でいつも生きた新鮮なものを食べているのだから

 やはり牡蠣だけにしておけば良かった。

 

ヴァンヌの家並み

 

ヴァンヌの街門の家

 

ヴァンヌ夫妻の木彫

 

店先のシードル

 

2003/10/31(金)曇り時々小雨 ヴァンヌVannes-パリParis

 昼すぎのTGVでパリに戻る日である。

 ヴァンヌの町角でサンドイッチとペリエールを買って乗り込んだ。

 二人席であるが喫煙席しか取れなかったのだ。

 喫煙席と言うのは困ったものだ。

 以前のどこでも喫煙できた時代より今の喫煙席は嫌煙家にとってはきつい。

 愛煙家が禁煙車に座っていてタバコが吸いたくなると喫煙車にやって来て空いた席を見つけて吸い始めるのである。

 吸い終わると又自分の禁煙車両に戻って行く。

 それが入れ替わり立ち代わりだから、喫煙車両から動けない嫌煙者は堪らない。

 見渡すと幼児も何人か乗っていた。この問題は何とかしなければならないと思う。

 

 今は飛行機は全部禁煙になったから愛煙家は大変だろうと思う。

 でもそれになる前に一度大変な思いをしたことがある。

 僕たちは禁煙席を希望したのだが、禁煙席の一番後ろの席で次の列からは喫煙席になっていた。

 前の方の禁煙席に座っている愛煙家が入れ替わり立ち代わり喫煙席にタバコを吸いに来るのだ。

 僕たちの席にはタバコの煙がパリから日本に着くまでずっと漂っていた。

 

 TGVの喫煙車両では幼児が祖母らしき人に絵本を読んでもらいながら、無邪気な可愛い声でずーっと唄を歌いつづけていた。

 祖母らしき人も一度もタバコを吸っていなかったから、僕たちと同じ様に禁煙席が取れなかったのだろう。

 モンパルナス駅に入った時には唄はぴたっと止んでいたので見てみるとすやすやと眠っていた。

 ああいった子供に害が及ばなければ良いがと心配する。

 

 モンパルナスからメトロに乗り換えていつものルクサンブールのホテルに入った。

 フロントの男は僕たちの顔を憶えていた。毎年1~2泊しかしないがもう10年近くもこのホテルを使っている。

 空港との行き帰りにもパリをうろうろ歩くにもこのルクサンブールは僕たちにとって便利な位置にある。

 昨年からル・サロンの会場が替わったがそれにもメトロのクリュニューまで歩けば乗り換えなしのメトロ一本で行ける。

 

 ル・サロンの前にサン・ジェルマン・デ・プレにあるドラクロア美術館に向う。美術館の前に着いたのが5時半だった。

 今回も閉まっている。開館時間の表示をみると17時15分までとなっていた。

 ドラクロア美術館を訪れたのは4回目位だろうか?

 工事中であったり今回の様に時間切れであったりとなかなかうまくいかない。

 また次回に楽しみを残す事になった。

 

 さっそくル・サロンに出かけた。その日はベルニサージュ(オープニング)なので人で溢れていた。

 僕の絵は入口からすぐのところにあった。でも少し歪んでいるのが気になる。

 まっすぐに直してひと回りしてくるとまた歪んでいた。紐の取り付けが悪いのだ。

 人の多いのに閉口して早々に退散した。


2003/11/01(土)曇り時々小雨 パリParis-サン・ジェルマン・アン・レーSt.Germain en Laye-パリParis

 今日は忙しい。

 ホテルで朝食を済ませて《タヒチのゴーギャン展》が催されている、グランパレまでのメトロの路線図を調べているとMUZは「歩いたらええやん」という。

 メトロで下手に乗り換えをたくさんするより返って歩いた方が良いこともある。

 ちょっと遠いと思ったが歩くことにした。歩くのなら簡単である。セーヌ沿いに下って行けばグランパレに着く。

 でもルーブルのところからチュイルリ公園の中に入って紅葉を楽しみながら歩いた。

 

 グランパレに着いた時には既に200人位の行列が出来ていた。

 別の入口では「ヴイヤール展」が催されていた。そこにも少しの行列が出来ていた。

 随分経って、もう少しで開館という時間になって列に向って大声でアナウンスしている関係者がいた。

 側に来たので聞いてみると「今日の午前中は予約をしている人だけの入場です」という。

 「予約をしていないのなら午後1時からまたここに並んでください」

 

黄昏のグランパレ

 今パリでは同時にルクサンブール美術館で《ボッチチェリ展》ポンピドーセンターで《コクトー展》それにここグランパレで《タヒチのゴーギャン展》と《ヴイヤール展》が開かれている。そしてこの行列である。

 常設のルーブルやオルセー、ポンピドーそれにピカソ美術館やロダン美術館とたくさんの美術館が他にもあるのにこの人たちはどこからやってくるのだろうか?と不思議に思う。

 昔はどこでもこれほどの人だかりはなかった。世界中で美術ブームなのであろうか?

 

 午前中はサン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》に急ぐ事にした。

 一度行ったところなので地図も何も見ないで歩き始めた。

 セーヌを渡ったところのRERの駅から乗れば一本で行けると間違って思い込んでいたのだ。

 間違った思い込みのお陰で随分複雑な乗換えで時間もたっぷりかかって、ようやくサン・ジェルマン・アン・レーにたどり着いた。

 駅から《プリウレ美術館》への道のりもすっかり忘れてしまっている。

 ちょうどとおりかかった在住らしき日本人に尋ねてみたが行った事がないという。

 方角だけ聞いて歩き出したら見覚えのある道にさしかかって無事プリウレ美術館の塀が見えた。

 

プリウレ美術館

 プリウレ美術館はかつてはモーリス・ドニの屋敷であった。

 ドニの手になる教会がある。ステンドグラスや壁画それにそのエスキース。

 ドニのタイル絵が天板として張られた木彫家具もあった。

 それにドニ自身が集めたコレクションがたくさんある。当然のことながらポンタヴァン派のコレクションが多い。

 ゴーギャンのタヒチでの素晴らしい木彫が2点あった。

 その内の一点は木の葉型の大きな皿に熱帯魚が二尾彫られ一本の繋がった紐のようなものを二尾がそれぞれの口にくわえている。

 

ゴーギャンの木彫

 

ドニの木彫レリーフ

 

ドニのドア

 これと同じ図柄を別の絵でも見たことがあるが、なにか意味があるのだろうか?

 それと珍しいモーリス・ドニの6号くらいの着色木彫レリーフも素晴らしいものであった。

 彩色の施し方はあのブルターニュの聖像の彩色に似ているとおもった。

 ここでもエミル・ベルナールやセリジェの作品とゴーギャンの油彩。

 

E・ベルナール

 

P・セリジェ

 それにボナールやヴイヤールの作品もあり結構見ごたえがある美術館であることを再認識した。

 でもパリの美術館の行列が嘘のようにここでは僕たちのほか一組の家族づれがいただけであった。

 庭に出るとブールデルのブロンズ像がいくつもあり、紅葉の蔦とコントラスト良く映えていた。

 

ブールデルと蔦

 こんどの旅は本当に強行軍で、お昼はたいてい電車かバスの中でのサンドイッチということになってしまった。

 サン・ジェルマン・アン・レーからの電車でもサンドイッチである。幸いフランスのサンドイッチはどこで買っても旨い。

 いや但し、フランスでのサンドイッチはパン屋で買うべしである。

 シシカバブ屋のサンドイッチは量ばかり多くてあまり旨くない。

 帰りはまともにシャンゼリゼに到着した。

 

 ゴーギャン展の入口に着いたのは1時をかなり過ぎていた。

 行列はたいしたこともなさそうで、2~30人づつどんどんと入って行く。

 入口でテロ対策の荷物検査をやっているのだ。

 入ればかなりの人でしかも多くの人が『電子解説』とでも言おうか?

 携帯電話の様な器械で作品の前に来たらその書いてある番号を押すとその解説が聞こえる仕組み、を入口で借りていてなかなか次へ進まないのだ。

 でもさすがいままで画集で観ていた本物がよく集められていた。

 アメリカのボストン美術館からロシアのプーシキン美術館から日本の倉敷のものまで、それにオルセーのもの、個人所蔵の物もあった。

 そしてやはり木彫と木版画も多い。

 ゴーギャンは画家であると同時に僕は彫刻師であるとここでも実感した。

D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

『われわれは何処から来たか?われわれは何か?われわれは何処へ行くのか?』の集大成的油彩大作(139.1X374.6)もボストン美術館から運ばれてきていた。

 が今まで画集で観なれていた印刷物とは全く異なった鮮やかな色彩に驚いてしまった。

 

 僕は今年日本に帰国した折にゴーギャンの小説『ノアノア』を探したが残念ながら手に入らなかった。

 その『ノアノア』の原画、原稿も展示されていた。

 

2003/11/02(日)曇り パリParis-リスボンLisboa

 

 いよいよポルトガルに戻る日。今日もスケジュールは目いっぱいである。

 ドゴール空港を15時45分発のエール・フランス機に乗る。

 ドゴール空港には2時間前の13時45分に着く必要があるのだ。ルクサンブールを13時に出れば間に合う。

 それまでに3つの美術館のハシゴをする予定である。

 朝食を済ませ、荷物をまとめてホテルのチェックアウトを完了しておいてリュックをホテルに預けた。

 ホテルからサンジェルマン大通りを歩いて先ずはオルセー美術館に行くのだ。

 今日は日曜なので美術館は無料である。

 オルセー美術館には今日の開館の9時を少し回っていたがすんなり入る事が出来た。

 エスカレーターで最上階まで上がってポンタヴァン派の部屋を観るのだ。

 途中ゴッホの部屋を通り過ぎた。横目で見ながら通り過ぎたが以前来た時とはかなりの絵が入れ替わっている。

 やはりオルセーにしろルーブルにしろポンピドーにしろしょっちゅう来なければ駄目だ。

 

紅葉のルーブル

 

夕映えのノートルダム遠望

 

エッフェルとA三世橋の欄干

 

オルセー美術館

 エミル・ベルナールとポール・セリジェの絵を初めて観たのがここオルセーであった。

 ここにも作品は少ししかないが今回の旅でたくさんまとめて観ることができたので僕には充分である。

 ゴーギャンの部屋ではタヒチ時代の絵はグランパレの特別展に行っていたので

 その分ポンタヴァンの絵が多く展示されてあったのは僕にとって好都合であった。

 この一週間でこれほど多くのゴーギャンをまとめて観たこともない。

 

 タヒチに向う前にゴーギャンはゴッホと弟テオの要請にしたがって、ポンタヴァンを去り南仏アルルでゴッホとの共同生活に入る。

 でもそれは2人の強烈な個性のぶつかりあいによって僅か2ヶ月で破綻を迎えることになる。

 しかしその僅か2ヶ月のアルル生活がゴーギャンにとっても、ゴッホにとってもその後の作品に大きく影響を与え転機になったことは言うまでもない。

 ゴーギャンが他のポンタヴァン派の画家たちよりは強さに於いても、文学性に於いても、また装飾性豊かな色彩の多様さに於いても一歩抜きんでているのにはアルルでのゴッホとの2ヶ月の共同生活を抜きにしては語れないのではないのだろうか?

 それはまたゴッホに於いても同様のことが言える。

 

 オルセー美術館を早々に退散して次は《市立近代美術館》に向った。RERを2駅乗ってセーヌを歩いて渡ればすぐだ。

 ところが行ってみると《市立近代美術館》は先月から一年間の工事に入っていて休館であった。

 

 仕方がない、あとは《ポンピドーセンター》を観るのみである。再度メトロに乗りシャトレで降りた。

 勝手知ったる駅である筈がひとつ出口が違うと戸惑ってしまう。

 

 ポンピドーセンターでも以前と展示内容が随分と違っていた。

 ルオー、マチス、ピカソ、ブラックなどの作品もかなりが入れ替わっていた。

 それに市立近代美術館にある筈のモディリアニとスーティンがポンピドーセンターに避難?してきていた。

 

 予定をしていたドラクロア美術館には4度目の挑戦で今回も観ることは出来なかった。

 市立近代美術館も工事中でかなわなかった。

 

 市立近代美術館では今回重点的に観てきたポンタヴァン派の後に続くナビ派とポンピドーセンターではフォーヴィズムとキュビズムをちょっとだけ覗いておきたかった。

 

 またドラクロアは近代美術に大きく暗示を与えている画家である様に僕には思えるから、そのアトリエをちょっとは見てみたいとかねてから思っているのだが…。

 

 今回のポンタヴァンへの旅はタイムリーにも《タヒチのゴーギャン展》に出くわしたこと、ル・プルデュで《メゾン・マリー・アンリ》の存在を知り、観ることが出来たことなど、思いもかけずに観ることができた、といったものを差し引いても予想以上に収穫の多い旅であった。

 そしてこの旅が今までにしてきた全ての旅がそうであった様に、今後の僕にとって宝物となることを確信している。

 

 ルクサンブールからドゴール空港までのRER内でもサンドイッチの昼食を取る事にしていた。

 日曜なのでいつものサンドイッチ屋は閉まっている。

 学生アルバイト風の男が駅の入口のところでサンドイッチとクレープの店を開いていた。

 僕たちの前に2人のパリジェンヌがクレープを焼いてもらっていた。

 僕たちはブルターニュで本場のクレープをさんざん食べたので、ここでは普通のチーズとハム入りのサンドイッチを注文した。

 男はクレープ台の上でサンドイッチを温めてくれた。

 今日もいまにも雪にでもなりそうなしんしんと冷える寒いパリである。

 

 パリからリスボンに戻ってくる飛行機では隣になんと半そでに短パンの髭顔男が座った。

 どこか熱帯の国から来てパリを中継してリスボンまでの旅の途中であろう。

 まさかタヒチではないであろうが、べつに聞くこともしなかった。

 さすがパリ出発の時には寒そうにはしていたがリスボン空港に着いた時には僕たちも服を2枚は脱がなければならなかった。VIT

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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017. ポンタヴァン旅日記 (上) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

 ル・サロンとサロン・ドートンヌに出品するための作品を持ってパリに行き、搬入してからその展覧会を観るためには始まるまでの1週間を何らかの形で潰さなければならない。
 パリの美術館をくまなく観て歩くのだけでも良いのだけれど、どうせなら「佐伯祐三の足跡を訪ねてみよう」と思い立ったのが1994年。
 画家がどんな環境に住み、どんな気持ちでそのモティーフを選び、何を強調し何を省き。というのを観察するのは、僕にとって勉強にもなるし楽しみでもあった。

 佐伯祐三の足跡を訪ねる旅はゴッホとも重複している。
 次にゴッホを訪ねるとまたいろんな画家との拘わりが出てくる。
 といった具合にそれ以後毎年、拘わりを求めた旅をしてきている。

 そうして今回はゴッホと拘わりの深い、エミル・ベルナールとゴーギャンらが活動した、ブルターニュ地方のポンタヴァンを目指す旅とした。

(文章は日記形式とし、かなりの長文になりました。一部美術に関し専門的で読みづらい箇所もあるかと思いますが、そういった興味のないところは飛ばしてお読み下さい。また関連した写真をカット的に挿入しました。大きくはなりませんのでご了承ください。下線の入った美術館のホームページへはリンクが繋がっています。但しフランス語です、併せてご了承ください。武本比登志)

 

 プロローグ

 ブルターニュのポンタヴァンという響きは僕の心の中でかなり以前から持ち続けていた。

 それは高校生の絵を描き始めの頃にさかのぼる。

 美術部顧問の恩師・藤井満先生から課外授業で教わった『美術史』

 その教科書に使われたのが福島繁太郎著『近代絵画』(岩波新書/昭和27年第1刷)であった。

 その中に《ポンタヴァン派》という記述が登場する。

 

 ポンタヴァン派《L'École de Pont-Aven》とはゴーギャンを筆頭にエミル・ベルナール、モーリス・ドニそれにポール・セルジェらが中心となって起った近代絵画史上重要な位置を占める絵画革命のひとつであった。

 セザンヌの理論的背景とジャポニズム(浮世絵)の影響を受け後のナビ派やフォービズム、キュビズムそして抽象絵画へと発展、暗示を与えたことになる。

 それまでは印象派による光線の分割理論によって七色の色彩を混色することなく点描で表わしていたものを、浮世絵版画からの発想による黒い線の縁取りの中は点描ではなくて原色や混色した平塗りでもって、そしてその色は自由に最も自分が好きな色を塗れば良いのだ。

 といった自由な発想がポンタヴァン派であると思う。

 それは色や塗り方だけではなく大胆な構図、装飾性、モティーフにも自由な考えは広がって当然のことであった。

 芸術とはひとつの抽象作用であるという《サンテティズム》(綜合主義)を明確に表わした。

 

 縁取りのことを《クロワゾイズム》と言う。

 僕は油彩を描き始めた当初からこの縁取りを多用してきた。

 もっとも僕の場合黒ではなく赤土色であるが…。

 そんなこともあってかポンタヴァン派には人一倍興味があるのかも知れない。

 

 そしてこの程ようやくブルターニュのポンタヴァン行きの実現にこぎつけたわけだ。

 でもいざブルターニュへ行くとなるとその資料は殆ど見つからない。

 インターネットで検索してみても薄っぺらな観光案内しか見つからなかった。

 

 ゴーギャンと並んでポンタヴァン派の中心的画家エミル・ベルナールはポンタヴァンにいる時やパリにいる時に頻繁にゴッホと手紙のやりとりをした。

 そのゴッホからの手紙をまとめて『ゴッホの手紙』(エミル・ベルナール編)として出版した。

 エミル・ベルナールはその他にも『回想のセザンヌ』と言った著書を著していることでも知られているが、それらの本の中にもポンタヴァンについての記述は殆どない。

 

 色々読み漁ったあげくひとつの興味深い文章を見つけた。

 あまのしげ著『ゆらぎの時代-環境文化誌』(リトルガリバー社)の中の《ブルターニュの小箱》という章の記述である。

 僕たちもパリに住んでいた時によく行った《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市。

 そこでもう30年も前になるがひとつのコーヒー挽きを買って今も日本に帰った時には使っている。

 著者のあまの氏が見つけたのは《木彫りの小箱》。

 《木彫りの小箱が想像を掻きたてブルターニュへの旅を誘う》という書き出しである。

 それはヨーロッパに於ける木の文化について触れられていて興味深い。

 僕はこれを読んでブルターニュではあまの氏が言うその木彫の寝台《リ・クロLit-clos》をしっかり見て来ようと思った。

 

 2003/10/25(土)曇りのち小雨 セトゥーバルSetubal-リスボンLisboa

 

 親戚の人が団体旅行でポルトガルに来ているという突然の電話が入ったのでリスボンで逢うことにして自宅は一日早めて出発した。

 当初の予定なら朝4時に起きてセトゥーバルを5時発のローカルバスに乗らなければならなかった。

 パリに行く時はいつもそうしているのだが、今回はそういう訳で親戚の人が団体で泊まる予定の同じホテルに一泊することにした。

 幸いリスボン空港に比較的近い位置にそのホテルはあった。

 それでもホテルを朝5時半には出発しなければならない。

 

 2003/10/26(日)曇り リスボンLisboa-パリParis-レンヌRennes

 

 リスボンを発つ日はちょうど夏時間が終って冬時間に変わったその朝で一時間得をした。

 パリで出品の手伝いをしてくれている画材店のマダム&ムッシューMは昨年で永年営業してきた画材店を閉じた。

 今までならその画材店に絵を持って行けば良かったのだが今回からは自宅に持ってゆく必要があるわけだ。

 同じモンマルトルの18区なのだが自宅には行った事がないのでうまく逢えるかどうかが心配だった。

 

 その日のうちに行くブルターニュの最初の町レンヌ行きのTGV(フランスの新幹線)の切符をド・ゴール空港のTGVの窓口で先に買っておくことにした。

 モンパルナス駅を予定の15時05分発ではちょっと不安だったので、2つ遅らせて17時05分発を買うことにした。

それでも7時過ぎにはレンヌに着くことができる。

 

 だが禁煙席はもう既に満席で喫煙席ならあるという。それでも仕方がない。

 思ったよりも結構混んでいるようだ。他の区間も心配になったので、次の日のレンヌからカンペール行きも、そして帰りのヴァンヌからモンパルナスもまとめて買っておくことにした。

 カンペールからヴァンヌのあいだはTGVではなく、普通の列車かバスでの移動になる。

 その間に目指すポンタヴァンがある。

 

 モンパルナスでもし時間が余ってもぶらぶら歩いて、久しぶりに《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市を歩くのも悪くないとも思っていた。

 18区のムッシューMの家の前まで来るとムッシューMが寒い中、家の前まで出て待っていてくれた。

 おりしも2~3日前からヨーロッパにはかなりの寒波が来ていて例年に増してパリは寒く、ポルトガルよりは15度程も気温は低かったのだが…

 お陰でル・サロンとサロン・ドートンヌ用の二枚の100号はすんなりと預ける事ができた。

 画材店のあったところと自宅はすぐ1ブロック程であったのでその場所のメトロを目指して歩き出そうとするとムッシューMは「メトロならこちらの方が近いですよ」と言う。確かにメトロ駅がもうすぐそこに見えていた。そのメトロ駅にはユトリロの絵になって見慣れている《ジュール・ジョフリン教会》があった。

ジュール・ジョフリン教会

 そこからモンパルナスには15程も駅があるものの乗り換えなしの一本で行くことができる。

 そんなわけでモンパルナス駅には2時過ぎには着いてしまっていた。

 

 切符売り場に行き「15時05分発に変更が出来ますか?」と尋ねたところすんなり切符が取れてしまった。

 僕たちには好都合の禁煙席で、しかも20ユーロもの金額が戻ってきた。

 「なんで?」と尋ねたら、ひととおりぺらぺらと説明してくれたが、それでも解らない振りをすると、切符売り場の女性は「いらないのなら私が貰っとくわよ!」と笑っている。

 これで《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市には行けなくなってしまったが、予定どおりブルターニュに明るい内に着ける。

 

 それでも1時間程の時間が余ったのでモンパルナス高層ビルの横から延びている、

 以前にも行った事のある露店市に行ってみることにした。

 今日は日曜日なのでやっている筈である。

 以前この露店市では美味しそうな暖かいソーセージとシュクレの盛り合わせが売られていたので、それを買い込んでTGVのなかで食べるつもりである。

 

 行ってみると露店市ではなくテント張りの展覧会会場になっていた。

 そしてそのテントは果てしなく続いている。

 テントのひとつのコーナーはそれぞれの個展会場になっていて10点づつ程の展示である。

 ル・サロンがまもなく始まろうとしている時期にまるでかつての《サロン・ド・リュフュゼ》(落選展覧会)の様相である。

 全てを見ることは出来なくて途中からモンパルナス駅に引き返した。

 

 駅の売店でサンドイッチとペリエールを買って列車に乗り込むことにした。

 戻ってきた20ユーロでサンドイッチ代を払ってもまだおつりがきた。

 リスボンからの飛行機のなかで機内食が出たので遅い昼食をTGVの中でするのは当初からの折込済みである。

 

 僕たちの席は18号車になっていて、手前から1号車だからホームを延々と歩かなければならなかった。

 車両は20号車までで、機関車両が前後と中程にも二両が付いていて全部で24両編成の超長車両である。

 どこかの駅で切り離すのかも知れない。

 僕たちの席は4人掛けである。さっそくテーブルを引き出してその上にサンドイッチの入った袋を乗せた。

 TGVが動きだすとすぐにでも開いて食べるつもりである。

 

 出発間際になって向かいには中学生くらいの女の子が二人座った。

 祖父母とおぼしき二人が見送りに来ていた。

 たぶんブルターニュから祖父母の住むパリに週末を利用して遊びに来ていたのかも知れない。

 テーブルが小さいのが不満らしく、もっと大きく出せないのかとやってみたくて僕たちのサンドイッチの袋を一旦どけてくれと言う。

 そうしてやってみるがそれ以上は大きくはならない。

 

 TGVが走り出したので僕たちはすぐにサンドイッチを食べ始めた。

 サンドイッチの袋がなくなったテーブルにその女の子はキャンバス地で出来た大きな手提げ袋の中身をぶちまけた。

 自分の持ち物をこの際整理したかったのだ。

 CDモニター、数枚のCD、ゲーム機、雑誌、それにクッキーの箱とジュース、その他もろもろ。

 CDをセットし耳にイヤホンをつけ、クッキーの箱とジュース、雑誌を一冊だけ残して荷物を再び袋の中に詰めなおし雑誌を読み始めた。

 僕たちはこのTGVが停まる最初の駅ブルターニュの入口レンヌで降りる。レンヌにはわずか2時間で着く。

 その2時間のあいだ雑誌をみたり、ゲームをしたり、CDを聴いたり2人で笑いあったりと、手提げ袋ひとつで随分手軽な旅のようにも見える。

 まるで隣町に買い物にでも行く様な感じである。

 いまTGVを使えば本当に短い時間でフランス国内どこにでも気軽に行ける。

 しかも日本の新幹線ほどは運賃も高くはない。

 

 100年前のゴーギャンの時代はどうだったのか?と考えてしまう。

 TGVも飛行機もない時代、煙を吐く汽車はあったにしろ線路のないところは馬車か歩くしかなかった。

 そんな時代にゴーギャンといえベルナールといえ随分気軽にパリとポンタヴァンの行ったり来たりを繰り返している。

 いやポンタヴァンには限らず、パナマやタヒチ、マルケス島、アルジェリアなどとほんとうに気軽に世界中を歩き回っているのには驚きである。

 

 TGVはほぼ満席である。出入り口の補助椅子にも人が座っている。

 僕たちがフランスを訪れるのは展覧会の都合でいつもこの時期なのだが、今回も車窓を流れる紅葉が美しい。

 寒すぎたり、天気が悪かったりまた日も短く旅をする条件としてはあまり良くはないのだが、紅葉だけは本当に美しい。

 それとホテルなどは空いているし格安で泊まることができる。

 

 今回の旅でもいくつかの美術館を観る予定を立てている。

 レンヌの《レンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Rennes

 カンペールの《カンペール美術館》Musée des Beaux-Arts de Quimper

 《ブルターニュ博物館》Musée Dèpartemental Breton

 それにポンタヴァンの《ポンタヴァン美術館》Musée de Pont-Avenである。

 

 またパリに戻ってから自分の出品している《ル・サロン》Le Salonを観たあと

サン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》Musée du Prieuré

パリの《市立近代美術館》Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris

《オルセー美術館》Musée d'Orsay《ドラクロア美術館》Musée National Eugène-Delacroix

《ポンピドー現代美術館》Musée National d'Art Moderneを予定している。

 勿論それらの美術館内の全てを観るのは無理なので《ポンタヴァン派》に関連深いところだけをポイント的に観ていくつもりである。

 

 ところがリスボンからパリへのエール・フランスの機内で、その機内誌を見ていて”あっと驚く記事”を見つけてしまったのである。

 『タヒチのゴーギャン』と題した展覧会がパリのグラン・パレGrand Palaisでちょうど催されているのである。

 ゴーギャンはその時期ポンタヴァンとタヒチを行ったり来たりしている。これを観ない手はない。
 昨年はちょうど『モディリアニ展』がホテル近くのリュクサンブール美術館で開かれているのをポルトガルに戻る前日に気がついて戻る日に朝早くから列に並んだのに飛行機の時間が迫って時間切れで見ることが出来なくて悔しい思いをした。

 そんな事もあったので今回はその機内誌をよく調べておこうと思っていたのだが、これほどのタイミングの良さだとは想像もしていなかった。

 

 TGVはきっかり予定通り17時08分にレンヌ駅に到着した。

 駅前のホテルに大急ぎでリュックを下ろし、早速《レンヌ美術館》に行ってみることにした。

 予定では明日の朝からの見学だが、もしかしたら1時間くらいは観ることが出来るかも知れない、と思ったがあと5分で閉館となっていた。

 切符売り場の黒人女性は「今日はもう時間はないわ。明日にしたら。明日は10時からだからね」と言う。

 出来たら少しでも予定を早送りしてあとの予定になかった『タヒチのゴーギャン展』を見なければならないと思ったからだが…。

 

 しかたがないので薄暗くなりかけた旧市街を歩き回った。

 木骨煉瓦造りの家並が続く。上階に上るにしたがって道に張り出している。

 また上階に上るにしたがって隣に食い込んでいたりもする。

 隣は隣でまた更に隣に食い込んでいる。まったく面白い。

 柱は太くセピア、赤、緑と様々な色のオイルステンが塗られまるでアンデルセンやグリム童話の世界か、「まるでブリューゲルの絵の中にでも入り込んだようだ。」とあまの氏は書いているが全く同感である。

 なるほどあまの氏の言うヨーロッパの木の文化がこの街にも息づいている。

 同じフランスでも南のプロバンス地方とはあきらかに違う。

 むしろドイツなどの北ヨーロッパで同じ様な建物を見ている。

 

 ヨーロッパはローマ帝国が支配した時代からどうも石の文化の様に見られがちだが、どうして木というものも見過ごすわけにはいかないのだ。

 そう言えばスウェーデンの伝統的な建物も木造であった。

 ノルウェーはベルゲンにはヨーロッパ最古?の木造教会があった。

 

 ひときわ明るく輝いている地区があったので行ってみることにした。

 夜の露店市でも開かれているのかな?と思ったのである。

 行ってみると大きなメリーゴーランドであった。

 そのメリーゴーランドが面白い。乗り物一つ一つがまるでボッシュの絵の世界から飛び出てきた様である。

 あるいはハリーポッターのイメージなのだろうか?子供たちは大喜びで興じていた。上の方でひきつっている子供もいる。

 このレンヌにはここの他、狭い地域に3つものメリーゴーランドがあった。

 

レンヌの木骨煉瓦造りの家

 

メリーゴーランド

 

レンヌの街並み

 

レンヌの通り

 

2003/10/27(月)快晴 レンヌRennes-カンペールQuimper

 

 その朝も早くから街を歩き回って、10時の開館と同時にレンヌ美術館に駆けつけた。

 入口には既に幼稚園児が20人ばかりとその先生たちが4~5人で列をつくっていた。

 その美術館は博物館も兼ねていてエジプトの発掘品、ギリシャ時代の陶器、ローマ時代、イコン、と一通り美術の歴史順に展示がされている。

 ルーベンスの迫力のある大作がある。本当にルーベンスの作品はヨーロッパ中どこの美術館にもある。

 シャルダンJean-Baptiste Siméon Chardin(1699-1779)の2点の静物画が素晴らしかった。

 

 18世紀の絵が飾られている部屋に幼稚園児が座り込んで美術館員の説明を受けている。

 やがてゲームが始まった。美術館員が一枚の絵の部分写真を持っている。

 「この絵はこの部屋のどこにありますか?」という部分当てクイズなのだ。

 子供たちは一枚一枚絵の前に立って「ノン」「ノン」などと可愛い声で答えていた。

 僕たちはそういったところもひととおり観ながら《ポンタヴァン派》の部屋に急いだ。

 

 印象派のシスレーやカイユボットのいい絵もあったが、ゴーギャンのピサロやセザンヌの影響をそのまま受けている初期の静物画も興味深く観た。

 そしてエミル・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セルジェなどのポンタヴァン派はさすが充実していて、じっくり観ることが出来た。

 またピカソの時代の異なった絵が数点、現代美術のサム・フランシスまで、エジプトから20世紀までと実に幅広い。

 

 この日のレンヌからカンペール行きのTGVも予定していた時間の切符は取れなくて2時間遅れである。

 お陰でレンヌの街はゆっくり堪能する事は出来たが…。

 

 TGVはレンヌを14時11分に出てカンペールに16時23分に着く。

 お昼は少々味けがないが駅で軽くリンゴ入りクレープとシードルのハーフボトルで済ますことにした。

 でもこれもブルターニュ式である。

 

クレープ屋の看板

 レンヌからのTGVは昨日のよりも更に満席であった。

 入口の補助椅子にも座れなくて立っている人もいる。

 僕たちの席も別々である。

 しかも窓が小さくまるでスペースシャトル(乗った事はないが)のようでもあり、監獄(入った事はないが)のようでもある。

 1時間ほどの途中の町、ロリエントで殆どの人が降りてしまい、それからカンペールまでは4人席に2人だけでゆっくりする事が出来た。

 カンペールでは美術館と博物館の2つを観る予定なので今日中にひとつはどうしても観ておかなければならない。

 カンペールにもTGVは定刻通り16時23分に到着した。

 

 レンヌでは駅前のホテルが想像以上に良かったのでカンペールでも何も考えずに駅前の一番目立つホテルに飛び込んだ。

 後でよく見てみるとその隣にもっと設備の良さそうなホテルがあったのだが…。

 ここでもリュックを放り投げてカンペール美術館に急いだ。

 

 美術館に着いた時には薄暗くなりかけていたがその日は充分に観賞する事が出来た。

 ここでも初期のゴーギャン[Paul Gauguin](1848-1903)をはじめ、エミル・ベルナール[Emile Bernard](1868-1941)モーリス・ドニ[Maurice Denis](1870-1943)、ポール・セリジェ[Paul Serusier](1864-1927)に加えて、クロード・シュフネッケル[Claude-Emile Schuffenecker](1851-1934)、アンリ・デュラヴァレェ[Henri Delavallee](1862-1943)アンリ・モレ[Henry Moret](1856-1913)、マキシム・モウフラ[Maxime Maufra](1861-1918)ジョルジュ・ラコンブ[Georges Lacombe](1868-1916)、マイエル・デ・ハーン[Meijer de Hann](1852-1895)シャルル・フィリジー[Charles Filiger](1863-1928)、モーゲン・バラン[Morgens Ballin](1871-1914)アルマンド・スギャン[Armand Seguin](1869-1903)、ロドリック・オコーナー[Rodric O'Conor](1860-1940) 、フェルディナンド・プィゴドウ[Ferdinand LoyenduPuigaudeau](1861-1930)、ウラディスラヴ・スレヴィンスキー[Wladyslaw Slewinski](1854-1918)といった、ポンタヴァン派の画家たちの作品がひととおり網羅されていた。

 やはり後のタヒチのゴーギャンに比べるとどれももう一つ強さや個性といったものに欠けるのかも知れないが、その当時の競い合って新しいもの、独自のものを捜し求めていた息ずかいを感じ取ることが出来る充実した展示であった。

 

 フランスに来た時はいつも何度かは牡蠣を食べる事を楽しみにしている。

 フランスの牡蠣は旨い。

 今回は特にその産地のブルターニュである。勿論この時期が旬でもある。

 そんな訳だから「毎夕食には牡蠣ばかり食べまくるぞー」と張り切っていた。

 パリでもニースでも牡蠣は氷をびっしり敷きつめたお盆のようなものに盛られて出てくる。

 レンヌではあまりの寒さにとても氷に乗った牡蠣を注文する気にはなれなかった。

 暖かいシーフードスープと暖かいムール貝を注文した。

 カンペールでは牡蠣専門店のある市場の隣のブラッセリーに入った。

 ここではいくら寒くても牡蠣を食べないわけにはいかないだろう。

 暖房も効いていたので思い切って12個づつの24個を注文した。旨かったがやはり身体が凍えた。

 身体を暖めようとムール貝のクリームソース煮を追加注文した。それもぺロリと平らげてしまった。

 デザートにはブルターニュではフロマージ・ブランが良い。甘くないヨーグルトのようなものだから。

 それを食べたら再び身体が冷えた。いずれにしろ食べすぎである。

 

カンペールのカテドラル遠望

 

氷の上の牡蠣

 2003/10/28(火)快晴 カンペールQuimper-コンカルノーConcarneau-ポンタヴァンPont Aven

 

 その朝は芝生にもベンチにも真っ白に霜が降りていた。

 先ずは昨夜入ったブラッセリーの隣の市場に行ってみた。やはりセップ(まつたけもどき)が出ている。

 それに市場の中だけで3軒ものクレープ屋があった。

 カマンベール入りとハム入りのクレープを焼いてもらって歩きながら食べた。

 

セップ

 

クレープ屋さん

 

 ポルトガルと比べるとフランスの市場は小綺麗だがあまり元気がない。

 大型スーパーに客を取られて活気がなくなっているのであろうか?

 

 インフォメーションがあったので地図をもらった。そのインフォメーションの前に1枚のポスターが貼ってあった。

 なんと『ポンタヴァンのゴーギャン』と題された展覧会ポスターである。

 でも期間は7月12日から9月30日となっていて、残念ながらもう終っている。

 

ゴーギャン展のポスター

 

 パリといいここカンペールといい違う時期のゴーギャン展を同じ様な時期に催すとは…。

 《ゴーギャン》がいま流行っているのであろうか?

 

 カテドラル内部のステンドグラスも朝の光りを透して美しく輝いていた。

 パステル調で色の優しいモザイクがあったのでサインを読んでみると《モーリス・ド二》と書いてあった。

 

ステンドグラス

 

ドニのモザイク

 10時の開館を待ってカテドラルの隣のブルターニュ博物館に入った。

 先ずはこのあたりに点在する紀元前2~5世紀頃の巨石群の石のレリーフの展示である。

 

 それに教会の為の聖人の彫刻。これが彩色木彫でありどれもこれも面白い。

 ヨーロッパでは大理石の聖人彫刻が主流である。フィレンツェのすぐ隣シエナでは陶器の聖人像もあるが…。

 

 それにしてもこのブルターニュの聖人彩色木彫は面白い。

 まるで子供に見せる人形劇にでも出てきそうな、マリオネットとして今にも動き出しそうな温かみがある。

 街並みの家の柱にそのままノミを入れたようでもある。

 

 この博物館にあまの氏が言う大きな寝台(リ・クロ)が展示されていた。

 栗の木であろうか?扉とベンチの付いたずっしりといかにも重そうな大きな寝台(り・クロ)Lit-closが箪笥Armoireや揺りかごBercerまでが一体となったものにどっしりとした彫刻が施されている。

 

木彫家具

 

寝台,箪笥が一体となったリ・クロ

 

 展示室にはそのような木彫家具が所狭しと展示されていた。

 そんな中に囲まれていると、ゴーギャンがたくさんの木彫を彫ったのが当然のなりゆきであったかのように思われてくる。

 

 カンペールからコンカルノーそれにコンカルノーからポンタヴァンはバスである。

 コンカルノー行きのバスは駅前つまりホテルの真ん前をお昼の少し前に出発する。

 だから今日も昼食はバスの中でサンドイッチを食べる事にした。

 

 コンカルノーは城壁に囲まれた町が港の中に突き出た島になっていて橋ひとつで繋がっている。
 でもその島の中はみやげ物屋、売り絵画廊、レストランなどと観光的な色彩ばかりが目立ってあまりたいしたこともなかった。

 直径20センチほどもある大きなクッキーを焼いている専門店があったので一枚買ってみた。

 どうもこの島の名物らしくて「ビスコット」というらしい。

     

コンカルノー

ハロウィンの飾り

コンカルノーのビスコット屋

 次のポンタヴァン行きのバスには時間が余ったのでカフェのテラスでシードルを飲むことにした。

 気温は低いのだが天気が良いので陽の当るところでは陽射しが強くて気持ちが良い。

 ブルターニュ名物のシードルはアルコール分5%くらいと低いので僕にはちょうどよい。

 このコンカルノーでゴーギャンは船乗りと喧嘩をして怪我を負っている。

 ゴーギャンはシードルでは済まなかったのだろう。

 ここでもアルコール分70%のアブサンを引っ掛けていたのかも知れない。

 

 コンカルノーのバス停のうしろには椿の生垣があって蕾をたくさん付けていた。

 ゴーギャンをはじめポンタヴァン派の画家たちはたくさんの木版画を残している。

 浮世絵の影響なのだろうが、こうして観てくると昔からブルターニュでは木に細工をするというのは日常に行われてきたのが分る。

 版木には何の木を使っていたのだろう。棟方志功は「版木には椿が最も良い」と言っていたのを思い出していた。

 

 20歳くらいの女性がバスが行ってしまったのではないか?とあせりまくっている。

 僕たちは時刻表の5分前からバス停に座っていたが、そう言えば時刻はもう過ぎている。

 やがて5分遅れでバスはやってきた。バスの本数が少ないのでひとつ逃しても大変なのだ。

 でも乗客の殆どはその女性も含めてすぐに降りてしまってポンタヴァンまで乗っていたのは僕たちともう一人の3人だけだった。

 30分ほどバスに揺られていよいよポンタヴァンに到着した。

 僕たちを降ろしたバスはさらにカンペルレまで行く。

 ここでもバスを降りてすぐの広場に面したところにあったホテルに迷うことなく決めた。

 隣に美術館の看板が見える。リュックを置いてさっそくポンタヴァン美術館に出向いた。

 

ポンタヴァン美術館

 ここでは文字通りポンタヴァン派の展示が中心である。

 この時代のゴーギャンの作品が少しと、その他のポンタヴァン派の画家たちの作品がたくさん展示されていた。

 それとその当時の写真が展示されていて興味深いものであった。

 ゴーギャンや人の良さそうなベルナールは以前から少しは写真を見ていたがセリジェは初めてであった。

 髭面でいつも笑っていて絵からは想像ができない容貌である。

 恐らくゴーギャンが居ない時はこのセリジェがリーダー的だったのかも知れない。

 でもやはりゴーギャンがいなかったらポンタヴァン派という動きは出来なかったのだろう。

 

 美術館はポンタヴァン派の常設展示場と特別企画展示場になっていて企画展でもポンタヴァン派の画家たちの個展を定期的に催しているようであった。

 その日はポンタヴァン派よりは少し後の時代だが、ポンタヴァンゆかりのシャヴィエー・ジョッソXavier Josso(1894-1983)という画家の個展が催されていた。

 水彩と主に木版画の展示でモティーフとしてはブルターニュの風景には違いないのだけれど、木版の細かい彫り方や構図の取り方などまるで東海道五十三次の広重の様であった。

 

 夕方ホテルに戻ると「もしここで夕食を考えているのなら席を予約をしておいたほうが良いですよ」とのことだったので予約をしておいた。

 とても寒くなっていたしこれ以上歩き回るより…

 それになによりキッチンからは食欲をそそるとても良い匂いが漂ってきていた。

 7時半の開店を待ちかねて部屋を出た。

 ホテルの受付のマダムもウエイトレスに変身して、他の2人のボーイと共に大忙しである。

 すぐにレストランは満席になった。ポンタヴァンの町の人たちが大勢このホテルのレストランに食事に来ているのだ。

 町にはたくさんレストランがあったがどれも皆夏場のリゾート客向けで今の時期は営業はしていない様子だったから、

 このレストランに集中したのかも知れないが、なによりも味が良いのだろう。

 良い匂いがしていたのでここでも牡蠣は止してブルターニュ料理にした。

 さすが早い内に満席になるだけのことはあって、素材も味も盛り付けも第一級であった。

メニューは

t.Soupe de Poisson(魚味のスープ-チーズとさいころパンが別盛になっていて極深椀で出てくる。ブルターニュ風)

u.Lieu Jaune(鱈のシードルソース和え)

v.Eglefin Au Chou(キャベツと鱈のクリームソース和え)

x.Baba Framboise(木苺と3種類のソースのカステラ)

y.Charlotte Fromage Blanc(クリームチーズのシャルロット)

         
         

 ホテルは広場に面した良い部屋であった。

 部屋にはそれぞれポンタヴァン派の画家たちの名前が付けられていて僕たちの部屋は「Henri Moret」となっていた。

 アンリ・モレもポンタヴァン派の中心的画家でいい絵をたくさん残しているが、まだ印象派のピサロあたりから抜け出せないでいるように僕には思えた。

 窓からはゴーギャンたちが泊まっていた『グロアネク夫人の下宿屋』の建物と、入り浸っておそらく飲んだくれていた『カフェ・デザールCafe des Art』が見える。

 広場の名前は今《ゴーギャン広場》と呼ばれていて、ゴーギャンの胸像が建てられている。

 今までは快晴続きだったのが夜から雨になった。

   

カフェ・デザールと下宿屋

ゴーギャン像とホテル

ポンタヴァン旅日記(下)へ続く。

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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016. セトゥーバル版;備えあれば憂いなし

2018-10-14 | 独言(ひとりごと)

 我家の郵便受けにこの程(2003年11月)セトゥーバル市役所から以下の様な通告が来た。
 13年間セトゥーバルに暮らしているがこんな通告は初めての経験である。
 今年はポルトガル国中が猛暑による山火事で…それにこのところ災害が多い。
 2~3年前になるが北の方の町ポルトの上流にあたるカステロ・デ・パイヴァの橋が大雨で流され、ちょうど運悪く通りかかった満席の観光バスをはじめ多くの乗用車が橋もろとも流された。
 遺体は大西洋までも流されかなり離れたところに流れ着いた遺体もあるが、その大半は行方不明のままだそうで、その犠牲者は 70 人以上とのことである。
 ポルトガルは毎年のようにこの雨期には洪水に見舞われている。
 今年は山火事で山は保水力を失い、大雨が降れば一気に流れ下り洪水の危険性は例年より高い筈だ。
 それで市役所としてもかなりの危機感を持っているのかもしれない。
 原文を参照しながら検討してみようと思う。MUZVIT

O Serviço Municipal de Protecção Civil (市役所、市民保全サービス課よりの)
recomenda: (忠告!)

●Limpe telhados,algerozes e chaminès;

屋根瓦、雨どい及び煙突の清掃。

●Arranje um anteparo de madeira ou metal para a porta da rua para evitar cheias em casa;

家を水害から守るため、材木か鉄板の遮蔽板を用意して入口からの水の進入を防ぐ。

●Limpe os ralos e sumidouros do seu quintal;

庭の排水口の清掃。

●Calafete portas e janeilas;

入口や窓からの水漏れ防止のためのコーキングの点検。

●Limpe ou substitua o filtro do exaustor de fumos;

換気扇のフィルターの清掃または取替え。

●Verifique o prazo de validade da mangueira do gás;

ガスホースの有効期限の点検。

●Previna-se co tra a gripe.Idosos e crianças devem ser considerados grupos de risco.

老人や子供たちのインフルエンザの予防等、周囲の地域住民が考慮する義務がある。

Tenha sempre em casa; (家庭の備え)

●Reserva para dois ou três dias de água potável e alimentos que não se estraguem;

賞味期限を確認して、2~3日分の飲料水と食料の備蓄。

●Rádio transistor e reserva de pilhas;

トランジスターラジオの電池の確認。

●Lanterna e reserva de pilhas;

懐中電灯の電池の確認。

●Valas e fósforos ou isqueiro;

蝋燭、マッチ、ライターの確認。

●Medicamentos essenciais para toda a família;

家族各人の薬、救急箱の点検。

●Agasalhos,reservas de roupa e objectos;

避難の際の衣類や所持品の用意。

●Artigos especiais e alimentos para bebés;

赤ん坊用の食品と衣類。

●Fotocópias de um documento de identificação para cada membro da família;

家族全員の身分証明書のコピー。

●Fotocópias de outros documentos importantes.

その他大切な証明書等のコピー。

SETUBAL Município participado (セトゥーバル市役所広報)

といった内容だがポルトガルではなくても日本でもどこの国にあっても共通の備えであろう。


さて、こうはしておれん。我家も点検に取り掛からねば… MUZVIT

(この文は2003年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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015. 石膏像とそのオリジナル大理石像

2018-10-13 | 独言(ひとりごと)

 石膏デッサンと言うものをもうかれこれ30年くらいはしていない。
 最初は高校一年生の時「大顔面の面取り」から始まって普通の「大顔面」、そして「アグリッパ」「ヴィーナス」「ブルータス」と描いていったように記憶している。
 それを繰り返し繰り返しやっていく。
 時々「闘士像」「モリエール」「アリアンス」「カラカラ像」といったものもやる。
 高校美術部にも結構いろんな石膏像があったわけだ。
 いろんな石膏像があったにもかかわらず、3年間「大顔面」しか描かなかった先輩がいた。
 他の石膏像を描いている現場を見たことがないし、油彩を描いている姿も記憶にない。
 「顔が大顔面に似てきている」と皆からひやかされていた。

 高校を出て天王寺美術館の半地下にある研究所でも随分と石膏デッサンはやった。
 高校にあった以外の石膏像もたくさんあったがどれも薄汚れていて描けるものは限られていた。
 そして東京高円寺のフォルム洋画研究所。
 ここはいつも人であふれていて僕は隅っこの場所しか確保できずに、いつもいつも遠くからの「ブルータス」しか描けなかった。

 それから大学に入ってからも課題として少しは描かされた。
 その時も「大顔面の面取り」から始まった。
 基礎の基礎からと言う訳だ。

 それ以来全く石膏デッサンはしていない。
 普通、学校とか研究所でないとなかなか石膏は描けない。
 それは石膏像がないからだ。

 石膏デッサンは絵画の基礎。
 ということが言われているから絵を描こうとする人ならたいていはやっているはずだ。
 美術大学の入学試験にも必ず出るから受験をする人はかなりの練習をする。
 東京に居た時は特に周りの人たちは東京芸大を目指している人ばかりで熱心さも相当のもので随分刺激にもなった。
 僕は高校を出て当初大学に進学する気持ちはなかったのだが、基礎だと思っていたこともあるし、描くのは嫌いではなかったので受験とは関係のない気持で描いていた。

 ところが高校を出て一年目に東京芸大を受験した。
 受験したといっても全くのひやかしで、どんな雰囲気なのかを味わってみるだけの受験であった。
 こういうふとどきな人間が居るから東京芸大の受験倍率が上るのだ。
 石膏デッサンで僕に割り当てられた場所は50人程入る部屋のど真ん中で、僕のイーゼルのすぐ前に大きなぼやっとした石膏像が近すぎる位置に見上げるようにして視界いっぱいにあった。
 それまでに描いた事も見た事もない像である。
 しかも手垢で汚れ、てかてかに光って、どこから光線が当っているのかも解らず、それまでやってきたデッサンとは全く異質なものでとても絵にはならないまま時間切れとなった。
 その時の石膏像は何であったのかも未だに判らない。

 その次の年に大阪芸大を受験した。
 その時はまっさらの「アグリッパ」であった。
 これは僕は何度も描いていたし、すらすらと描けたのだと思う。
 もう随分昔のことなのでどんな角度から、どの程度うまくいったのか全く憶えていない、が合格したのだから巧くいったのだろう。

 その「アグリッパ」の大理石原型はパリのルーブル美術館にある。
 「ミロのヴィーナス」とはそれ程遠くない部屋にあるが、ガラ-ンとしたところにあってうっかりすると見過ごしてしまう。
 全く人だかりはないし、監視もあまり居ない場所だから触ったりして感触を確かめることも可能だ。
 そっくりの「アグリッパ」はフィレンツェのウフィツィ美術館にもあるが、これは胸像の衣服の部分までもあり、やはり石膏像の原型はルーブルのものに間違いはない。
 でも顔の肉付きや表情などは全く瓜二つである。

 たくさんありすぎて何処のが原型か見当がつかないのは「シーザー像」「カラカラ像」である。
 ヨーロッパならどこの博物館にでもあるといっても過言ではないくらいたくさんある。
 どれをみても「あっシーザーだ」「あっカラカラだっ」とすぐに判る。
 広大なローマ帝国の隅々にまでその皇帝の姿、形を知らしめる目的で彫られ、各地に配置されたのであろうか?

 「ミロのヴィーナス」がルーブルにあるのは誰でも知っていることだが、やはりこの場所にはいつも人だかりが絶えない。
 高校にあった石膏の「ミロのヴィーナス胸像」は僕にとって描きづらい苦手な胸像であった。
 「ミロのヴィーナスの面取り」はもっと苦手であった。

 「ミロのヴィーナス」は僕たちが高校生の時にルーブルから離れて本物が日本にやってきた。
 京都の美術館は連日、美術館を何周にも取り巻く行列で、やっと「ミロのヴィーナス」までたどり着いたとしても立ち止まって観ることは許されなかった。
 ルーブルでもこの場所はいつも人が絶えないが一日中観ていても誰も文句は言わない。

 石膏の「闘士像」も頭の部分だけのものが一般的だが、ルーブルにあるのは全身像である。
 「ニケのヴィーナス」はルーブルのものも頭部だけで石膏像とそっくりそのままあばた顔の大きな頭である。

 フィレンツェのウフィツィ美術館の回廊の突き当たりにはレースのカーテンを透してドゥオーモのクーポラが間直に見える。
 そのレースのカーテンの前に「ラオコーン像」がある。
 でもこれは大理石には違いないがオリジナルではない様な気がする。
 「ラオコーン像」もいくつかの美術館で見た。
 確かに石膏像の原型だと思われるものをどこかの美術館で見ているが、もしかしたらローマのバティカン美術館だったかもしれない。

 石膏像の原型というとギリシャ彫刻、古代ローマ彫刻ともう一つの時代、やはりルネサンス時代のミケランジェロであろう。

 高校生の時「昼」「夜」と題されたメディチ家の墓の素晴らしいデッサンを眺めてはため息をついていた。
 眺めていたのは「アトリエ別冊」のデッサン教則本である。
 東京芸大に入るにはこういうデッサンが出来なければ駄目なのかと思っていた。
 たぶんその石膏像の全体像が東京芸大にはあったのだろう。
 大きなものだから何処にでもあるというしろ物ではない。

 そのオリジナルはフィレンツェのメディチ家礼拝堂の新聖器室にある。
 「昼」「夜」の男女の像。その上に「ジュリアンの像」が一体となっている。
 「ジュリアン」も全身坐像であるが、日本で見る石膏像は胸像が普通である。
 そしてそれに対する位置に「ロレンツェⅡ世の像」。
 それには「曙」と題された女性像と「黄昏」の男性像が一体となっている。
 それほど広いとは言えないが、この新聖器室自体もミケランジェロの設計である。
 そしてその壁にはミケランジェロの落書きが残されている。

 大きすぎて誰も手がけることが出来なくて、放置されていた大理石からミケランジェロは「ダヴィデ像」を彫り出した。
 これはフィレンツェのアカデミア美術館にある。
 まことに巨大な大理石像である。

 この像が完成した当時ミケランジェロはこの「ダヴィデ像」を美術館などの屋内ではなく広場に設置されることを望んだ。
 1504年1月25日にフィリッポ・リッピ、ボッティチェリ、ペルジーノそしてレオナルド・ダ・ヴィンチが加わっている美術家委員会が「ダヴィデ像」の置き場所について討議した。
 そしてミケランジェロの希望に従って市政庁舎の前に建立と決定した。

 その市政庁舎の前には今、その「ダヴィデ像」のコピーが設置されている。
 そしてもう一体、フィレンツェの街を一望できるアルノ川対岸の丘の上、その名もミケランジェロ広場にもそのコピーがある。
 いずれも実物と同じ巨大な大理石像である。
 そして本物は今、ミケランジェロが設置を拒んだ美術館の中にある。

 そのアカデミア美術館の「ダヴィデ像」の周りには大学生くらいの20人ばかりの若者がベンチに座ったり床にうずくまったりしてスケッチブックに鉛筆やサインペンを走らせていた。
 まあまあというのも何人か居たが大半は下手糞であった。
 「どういうグループか?」と尋ねてみるとどうやら美学生ではなくて医学生ということであった。
 それにしても本物のミケランジェロを課外授業でデッサン出来るとは羨ましい限りである。
 やはりイタリアならではかもしれない。

 そう言えば父が昔アルバイトで「服飾専門学校」に石膏デッサンを教えに行っていたこともあった。
 いろんな分野の基礎となるのだろう。

 このアカデミア美術館には「ダヴィデ像」の他にノミの跡が生々しい未完成のミケランジェロがたくさんある。
 これらもすごい迫力である。
 未完成の像がならんだ隅っこに「奴隷像」があった。

 ミケランジェロで見逃せないのがやはりフィレンツェのバルジェッロ国立博物館である。
 若い男性像の「バッカス」と円形のレリーフ風の彫刻「聖家族」
 共に美しい真っ白の大理石像である。

 その同じ部屋に「ブルータス」がある。
 これはまさしく我らが学生時代に親しく描いた石膏像の原型である。
 大きさもノミの跡までもそっくりそのままで、形はそっくりであるが色が違う。色がなんとも美しい。
 透明感のある飴色の大理石はルネサンスというよりも、もっと遠く初期ローマ時代の、あるいはギリシャ時代の深さを伝えている。

 そのバルジェッロ国立博物館の2階には、ミケランジェロの先輩格にあたるドナテッロの「聖ジョルジョ像」がある。
 これも石膏像の多くは胸像であるが、オリジナルは全身立像である。
 しかも背後にゴシック風の”壁がん飾り”と一体になった像である。

 これはこの博物館で見る前にフィレンツェの通りで見かけた。
 ヴェッキオ橋とドゥオーモを結ぶ繁華な通りの中間あたり、かつての穀物倉庫跡オルサンミケーレ教会の外側に他の彫刻たちと並んでやはり”壁がん飾り”と一体となった「聖ジョルジョ像」が通りの喧騒をよそに遠くを見晴るかしていた。
 当時はこの場所にオリジナルがあったのだろう。今はコピーである。

 石膏像の原型ともなると、それなりに偉大な彫刻家が彫ったか、歴史的にも芸術的にも優れた作品ばかりであるだろうけれど案外と旅のガイドブックなどには出ていなくて、見つけた時は「あっ、こんなところにあったのか」と感激してしまう。
 そしてその都度デッサンに熱中していた若き日のことが甦る。

 それにしても未だ「大顔面」のオリジナルには出逢っていないような気がする。
 果たして何処にあの大きな顔は隠れているのだろうか? VIT

 その後、検索で簡単に見つかったのだが「大顔面」のオリジナルは『ルーブル美術館』にあるそうだ。2世紀頃の大理石像で、マルクス・アウレリウス・アントニヌスと共同でローマ皇帝を務めたウキウス・ウェルズ帝(130~169年)という人物の半面だそうです。

 『ルーブル美術館』なら観ている筈だが大理石像の1部分で気が付かなかったのかもしれない。VIT

 

 

(この文は2003年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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014. ローマへの道

2018-10-12 | 独言(ひとりごと)

 「すべての道はローマへ通ず」
 ここはヨーロッパの一番西の端、大西洋が目の前に広がるポルトガルのセトゥーバルに居てもその実感はある。
 実際はローマからは随分と離れていておおよそ3000キロ。

 セトゥーバルの町外れにはローマの道と言うのが残されているし、ローマ橋もある。
 ローマの水道橋もサッカー場の側にひっそりと佇んでいる。
 いかに古代ローマ帝国が強大であったかが想像できる。

 フェリーで対岸のトロイアに渡れば、ローマ時代の「イワシの塩漬け工場跡」が遺跡として保存されている。
 オイルサージンの原型であろうか。

 かつてこのセトゥーバルはオイルサージンで栄えた町である。
 今も操業している工場も少しは残っているが、それ以上に工場跡がたくさんある。
 1914年~1952年の写真を見ると今の漁港はイワシ漁りの帆漁船でひしめきあっているし、工場では女工さんたちが手作業で缶詰め作業を行っている。
 工場から製品を運び出すのは荷馬車である。
 僅か50年~80年前の姿であるが、500年昔も千年前もそれほど変わっていない様な気もする。
 むしろこの50年で大きく様変わりしたのではないだろうか?
 その写真の工場は今では博物館として再利用されている。

[Museu do Trabalho de Michel Giacometti/Setubal]

 ローマ遺跡には釜の様な跡と浴場跡などもある。
 どれくらいの人が働いていたのか知らないがイワシ加工の仕事をした後、皆で一日の疲れを癒し楽しく風呂に入って汚れや汗を流していたのだろう。
 ローマの浴場らしく僅かばかりだがモザイクの跡が見てとれる。

 ローマ時代からこのセトゥーバルの人は脈々とイワシを加工し続けてきたのであろうか?

 今ここからローマまで歩いて行く人は恐らくいないだろう。車ではどうかな?たぶんいると思う。

 かつて日本が信長の時代「天正遣欧少年使節団」として、九州片田舎の13歳程の少年四人(あるいは六人)伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、コンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノ(いずれも日本名は不明)が長崎からポルトガル船で(西暦1582年2月20日)出帆し、
二年半の歳月をかけリスボンに(1584年8月10日)投錨。
 このセトゥーバルもおそらく(9月6日頃)通って、各地で歓待を受けながら長い年月を費やして(1585年3月22日)ローマまで行っている。と言ってもスペインの途中からは船を使っているが…

 往復ほぼ同じ様な行程をたどり、長崎に戻ってきたのは1570年7月。
 実に八年五ヶ月の歳月が流れていた。
 日本では信長から秀吉の時代に変わっていた。
 それは古代ローマ時代ではなくて、16世紀文化の華ひらいたルネサンスの時代である。

 ローマ時代はリスボン(Lisboa)のことをOLISIPOと書いたらしい。
 セトゥーバル(Setubal)はCETOBRIGAと呼んでいた。
 ローマ街道はOLISIPO(リスボン)からTAGUS(テージヨ河)を渡り、EQVABONA(今のCoina/コイナあたりだろうか?)の船着場から、CETOBRIGA(セトゥーバル)を通ってSALACIA(Alcacer do Sal/アルカサール・ド・サル)EBORA(Evora/エヴォラ)そしてEMERITA(Merida/メリダ)へと繋がっている。

 メリダ(スペイン)には大規模なローマの遺跡が残されている。
 劇場跡、闘技場跡、浴場跡、橋、それに保存状態の良いたくさんの大理石彫刻や円柱が博物館で見ることが出来る。
 彫像の中にはカエサル(シーザー)やカラカラ帝などもある。
 それにモザイク。これも主だった物は博物館に展示されているが、それ以外にもおびただしい数のモザイクが雨ざらしで山積みされている。

 ローマ時代のモザイクはポルトガル中部の町コニンブリガでも保存状態の良いのを見ることが出来る。
 その他にもポルトガルの国中たくさんの場所でローマの遺跡は保存されている。
 いや今なお使われている橋や水道橋などもある。
 リスボンにしてもエヴォラにしてもローマの遺跡の上に今の町がある。
 もし掘り返してみたならぞくぞくと遺跡が出てくるに違いない。

 セトゥーバルも例外ではない。
 セトゥーバルの旧市街にある「ルッジェロ」の写真屋。
 その控え室の机の天板を開けるとローマ時代の井戸になっているのだから…。

 セトゥーバル郊外に保存されているローマの道をこの程訪れてみた。
 訪れてみた。と大げさに言ってみてもはじまらない。
 我家から車でほんの五分のところにあるのだから。
 いつも通る国道から少し脇道に入ったところにそれはある。

 幅はようやく馬車がすれ違うことが出来る程度。残されているのは僅か300メーターほど(実際は1キロほどでこれを書いた当時は知らなかった)だが、現代の物とはあきらかに違うアラビダ大理石などの磨り減った石畳に、そのいにしえの空気を感じ取る。
 原生化した小さなオリーヴの実がその石畳にたくさん散らばっている。
 おそらく今は羊と羊飼いくらいしかその道は使わないのだろう。
 野鳥が我々の行くのを警戒してか鳴声高く、まるでうぐいすのようにさえずっている。VIT

 

 

(この文は2003年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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013. 猛暑・山火事

2018-10-12 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルの山火事は世界中に報じられた。
 七月の末頃に各地で同時多発的に始まった山火事はどんどん新たな地域を求めて山林を焼き尽くすだけではなく農家や小さな村々をも飲み込み拡大していった。

 連日ポルトガルのテレビでも特別ニュース番組を組みその迫力のある映像を流したので僕も釘付けになって見ていた。

 ポルトガルの山火事は今年だけに限らず毎夏のことなのだがそれにしてもこの八月は悲惨であった。
 消防士を含めて多くの犠牲者も出た。

 ポルトガルには元々油分が多くて燃えやすいユーカリの木と松の木がたくさん植えられている。
 ユーカリはパルプの原料として植えられているようだ。
 ポルトガルの気候に適しているのか成長が早く採算性が良いのだろう。
 ドライブをしていてもユーカリ林の側を通ると、時たまよい香りが締め切った車内にまで忍び込んでくる。
 巨木の森も多くて森林浴にはもってこいでコアラでなくても気持が良い。

 ポルトガルでは大航海時代から新たな土地を発見すると、その土地にしかない植物を本国に持ち帰る慣わしがあって、ユーカリの木もオーストラリア大陸が発見されてかなり早い段階からポルトガルで植栽されていたらしい。

 ブラジルが発見されてジャカランタが持ち帰られ、日本が発見され椿と紫陽花がポルトガルに植えられた。

 松の木も利用価値は高い。
 そしてポルトガルには何種類もの松が植えられている。
 松の実はポルトガル人は好んで食べる。
 アルカサール・ド・サルの名物は松の実の砂糖菓子だ。
 松ボックリは炭火焼の火付けに便利だ。
 松脂(まつやに)を採取している光景も良く見かける。
 葉っぱからはテレピン油が採れるそうだ。
 テレピン油は掃除用の洗剤としても使われている。
 もちろん材木としても用途は広い。

 ヨーロッパの今年の夏はそれにしても暑かった。
 5~6年前に60年ぶりの猛暑と言う夏があってその時もかなりのものであった。
 セトゥーバルの町の温度計は51度を指していて驚いたことがあるが、今年はそれを上回り150年ぶりとの事である。
 フランスでは猛暑による死者が一万人だとか、びっくりする数字である。
 ポルトガルでも1800人に達したと発表された。
 なんでもポルトガルでは人が死亡してもその原因をよく調べないから、フランス程は数字が出てこない。のだとか冗談とも本気とも取れる噂が流れている。

 今年最も暑かった八月初旬にポルトガルでも最も暑いと言われている内陸部の町に一泊旅行をした。
 その時のことを書いて僕がある人にお送りしたメールがある。
 その一部をここに引用したいと思う。

拝啓、○○様

 ポルトガルは激暑です。今までにないアトリエの気温に(もちろんエアコン等はありません)100年前の猛暑のアルルでのゴッホの心境になって描いています。

 猛暑のポルトガルの山火事は治まるどころか、新たな地域へ広がっています。
 大気はますます乾燥して、からからの風が吹いています。
 一雨欲しい所ですが、雨は全く期待できません。
 日本では二ヶ月間も雨が降らないとなったら大騒ぎでしょうが、ポルトガルでは初夏から秋までは一滴の雨も降らないと言うのが例年通りで普通なのです。
 ですからこの時期、雨が降らないからと言って、雨乞いの踊りをする人もいませんし、雨乞いの祭りもありません。
 それでも幸いな事に日本の様に渇水の心配もあまりしません。
 やはり端っこにあるとは言えポルトガルも大陸の一部です、何百キロもの大河が国境を越えて流れていますし、地下水だって豊富にあるのです。
 むしろ八月のこの時期に雨が降ったら「異常気象だ!」と言って騒ぎ出すかも知れません。

 昨日一泊旅行で内陸の町のお祭に行ってきました。
 途中、山火事のニュースで伝えられているあたりとは違う場所ですが、大規模な山火事あとの側を通りました。
 そのあたりは松やユーカリではなく、オリーブとコルク樫の林でしたのでそれほど大規模にはならずに、ニュースにものぼらなかったのかも知れませんが僕の見る限りでは見渡す限りでかなり大規模なものでした。
 内陸に入ると暑さは尋常ではなく、クルマのクーラーをいっぱいにしていても外からの熱が伝わってきました。
 途中の村で「ちょっと休憩」とクルマから出ると本当に燃えあがるようでした。
 温度計を持って行かなかったのが残念ですが、恐らく50度くらいになっていたのかも知れません。
 目指す町には民宿が一軒だけありました。
 「エアコンのある部屋はないのですか?」と聞くと宿の主人は「なななんだってぇ!ええエアコン~ん?」と笑い飛ばすだけだし。
 もしかしたら内陸の町は砂漠と同じで昼間は暑くても夜になったら急激に温度は下がるのかな?と言う僕の浅はかな知識が一瞬頭をよぎり、たぶん大丈夫だろうと思ってしまったのです。
 それに新品らしき扇風機はあるし。「まっ、大丈夫やろ!」とその宿に泊まる事にしました。
 ところが温度は下がるどころか。新品?の扇風機は「グオーグオー」とうるさく熱風をかき混ぜるだけで、夜中に何回も水のシャワーを浴びて、裸になって濡れタオルを掛けて…。
 したがって寝返りも打てないし、お陰で今日は寝不足で身体はがちがち。

 それでお祭はどうだったかと言うと、お祭の屋台で一番乗りに夕食を取ったのですが脱水状態だったのでしょう。よく冷えた白ワインも一本空けて…またフランゴ(チキン)の炭火焼はたっぷりと粗塩がまぶされていて、その塩辛さが熱された身体にはことのほか旨くて…、ますます喉は渇き、その後広場で生ビールの黒を飲んだのですが、旨すぎて一気にいってしまったのです。
 いよいよ祭が始まるという時になって酔っぱらってしまって一旦宿に帰ってちょっと休憩…。
 そのまま暑さと酔いで再び出かける気力もなく、始まったお祭では下手糞な生バンドと舞踏会で人々の騒ぐ音が宿の部屋まで生で入り込んでくるし。
 その騒音と扇風機の騒音と猛烈な暑さの中、気も狂わんばかりの想いで、暑くて狭い宿の中で過しました。
 と書いてテレビのニュースを横目で見ていたら、その山火事の地区にぁぁぁ雨です。
 「奇跡」です。ニュースキャスターも笑ってしまっています。
 ほんの少しの雨ですがレポーター記者は嬉しそうに傘をさしています。
 あの時の騒音は「雨乞いの踊り」だったのかも知れません。
 敬具


 以上のメールでその時の猛暑の様子が伝わっただろうか?


 ポルトガルもようやく例年なみの過しやすい夏になり、山火事も鎮火したようだ。

 全国的にほぼ鎮火しようとしていたその日に、我家からほんの300メートルしか離れていない丘の上で山火事が発生して一瞬ひゃっとした。

 消防自動車が5台来て30分程で消し止めてホットしたが、燃え広がるのが早くてベランダから見ていてもかなりの迫力であった。



我家のベランダから2003/08/17撮影

 我家は丘の上にあるからいつも火事の時はいち早く発見できる。
 この場所から山火事を四回、レストランの火事を一回、一週間も燃え続けたパルプ工場の火事も我家からずーっと見えていた。
 この場所に消防署の火の見櫓があれば良いのにといつも思う。
 その他にも焚き火から燃え広がった小火(ぼや)は数え切れない。
 それにしても火事の多い国だ。
 僕の今までの人生の内でこれほど火事を見たことはない。

 先日の上の写真の火事の時も我家からなら何処で燃えているのかは一目瞭然で、どの道を通って行けば一番近道かはすぐに判るのに、消防自動車はあっち行ったりこっち行ったりしてなかなか現場が突き止められないらしくて、道を間違えて慌てふためいている様子が手にとる様にして見えて歯痒い思いをしたほどである。
 
 猛暑による自然発火による山火事。あるいはそれは自然の摂理。
 それによって土壌(地球)は生まれ変わり再生を計ろうとしているのかも知れない。
 あるいは地球は怒っていて人類はそれを教訓にいろいろと反省をする必要があるのかもしれない。

 でも今回のポルトガルの山火事は自然発火も少しはあるのかも知れないが、残念ながら人間の身勝手によっているところが大いに露呈された。

 一つにはタバコの投げ捨てによる山火事があると思われる。
 今日もクルマで少し出かけたのだが、前を行くクルマの運転手がタバコを吸いながら片手運転をしていた。
 タバコをくわえる時以外はずっと腕を外に出している。
 もちろん指にはタバコを挟んでいる。
 自分のクルマの中に匂いが移るのを嫌がっての事なのだろう。
 そして最後には火の付いたままぽいと捨てたのだ。
 タバコはころころと転がる。
 風に煽られて沿道の枯れ草に燃え移らないとも限らない。
 やがて枯れ草からユーカリの木に燃え広がり山火事へと発展するかも知れないのだ。
 僕は自然発火よりもタバコの投げ捨てによる山火事もかなりあるのではと思っている。
 なにしろ国道沿いから燃え広がった山火事がやたらと多いのだ。
 そして捨てた本人は「まさか、自分のタバコが…」とも考えていないのだろう。

 もう一つ。
 ポルトガルでは「山火事にあった山の木材は安くで業者が買うことが出来る」という制度があるそうだ。
 業者は木材を安く買うために、この空気が乾燥する夏に放火をするのだそうである。
 山火事に遭った木材が果たして材木として使えるのか素人考えでは疑問であるが、案外と一皮剥けば製材が可能なのだろうか?
 今年も放火犯が何人か捕まったようだが、こんな制度があるから放火が後を絶たないのだ。
 と言う話になってその制度を見直すということにはなってはいるそうだが。

 材木業者のそんな身勝手なやり口によって山奥の貧しい、火災保険などとは縁遠いところに住んでいるお年よりたちが焼け出されて泣いている姿を見ると堪らなく憤りを感じる。

 山を持っている人は或いは都会などに住んでいたりするお金持ちで、山にも充分な保険などを掛けているのだろうが、そういった山間部の僻地で倹(つま)しく昔から暮らしている貧しい人々や、お年寄りの家屋までをもこの夏の山火事は呑みこんでしまったのだ。

 人間はどこまで残酷で欲深く出来ているのだろうか?
 戦争にしたって、自然災害にしたって、先ず弱い立場の人たちから犠牲になるのだ。VIT

 

 

(この文は2003年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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012. メリーさんと蛍

2018-10-11 | 独言(ひとりごと)

 僕たちはポルトガルに来る前はしばらく宮崎県の山の中に住んでいました。
 それこそ庭をイノシシが横切ったり、山猿の群れが出現したりするところでした。
 清流が庭を取り囲むように流れていてカジカガエルもいい声で鳴いて楽しませてくれました。
 家のガラス戸を強く叩く「ボン」という鈍い異常な音がしたので行ってみると、そこにアカショウビンが気絶して転がっていた。という事も三度ほどあります。

 国道10号線に沿っていましたが一旦クルマが途切れると、そこは全く人里はなれた一軒家になってしまいます。
 用心にと思って、新聞屋さんに「犬が飼いたいから、どこか小犬でも生まれたところでもあれば世話をして下さい」と頼んでいたのです。

 やがて家に連れて来られた犬はとても番犬にはなりそうもないポメラニアンの「メリーさん」でした。
 小さいけれど小犬ではなくて立派な成犬でした。
 もう既に分別をわきまえた賢い犬で、お客さんや郵便配達の人には決して吠えたりはしませんでした。
 散歩の時でも一歩先を先導して歩くのですが、「そこを右」といえば右に行きますし「左」といえばくるっと左に方向転換をするくらい人間の言葉を理解している犬でした。
 本当に可愛い愛くるしい小さな「メリーさん」でしたが、僕の親しい友人からは「似合わない!」とからかわれたりもしていました。

 ご近所の老夫婦が「僕たちにだったら可愛がってもらえるだろう」と手放したのです。
 手放した理由はあえて聞きませんでした。
 「メリーさん」自身も新しい場所の居心地は良さそうに見えましたし、帰りたそうにもしませんでした。
 その老夫婦は「メリーさん」に時々会いに来られました。
 そして安心した様子で帰って行かれました。

 ある晩のこと「ワンワンワンワン」といつまでも吠えやまないものだから懐中電灯を持って見に行ってみると「メリーさん」は用水路に落ちてはい上がれないでいました。
 必死で助けを求めていたのです。
 「ドジな犬やな~」と思いながら抱き上げてやりました。
 普段は白っぽいベージュ色の犬なのに眼だけ残してまっ黒でした。
 夜中でしたがお風呂にも入れてやらなければなりません。
 僕のパジャマも泥だらけになってそれは大変な夜になりました。

 普段でも「メリーさん」はあまりお風呂は好きではありませんでした。
 それでもちゃんとわきまえていて、たらいの縁にきちんと前足を揃えて乗せて、いかにも「早く済ませちゃって下さいねっ!」とでも言わんばかりの表情で我慢をしていました。
 絶対に嫌いなのはお風呂の後のドライヤーでした。
 「ぐうおーん」というドライヤーに向って「ウ~」と牙を剥きだします。
 恐ろしかったのでそれ以来ドライヤーを使うのは止めにしましたが…。

 それからしばらく経ったある晩、再び同じ様に「ワンワンワンワン」といつまでも吠え続けていました。
 あの事件以来「メリーさん」は夜中には鎖に繋ぐことにしていたのですが「また鎖でもはずれて用水路にはまったんかいな~」と懐中電灯を片手に行って見ると「メリーさん」は庭の先にある川のほうに向って吠え続けていました。
 その川のほうに眼をやると、なんと蛍です。それもおびただしい数の蛍なのです。

 「メリーさん」にしてみれば訳の判らない光の乱舞に恐れおののいていたのかも知れませんが、僕たちには忘れられない夏の夜のプレゼントになりました。

 ポルトガルにも蛍は居るそうですが未だ見たことはありません。
 フランスの古い小説にも蛍が出てきたのを読んだことがあります。
 それはブルターニュ地方の避暑地の物語でした。

 今年は10月末頃にブルターニュに行くつもりをしています。
 展覧会の関係でフランスに行くのはいつも寒い冬です。
 たまには夏のフランスに出かけてブルターニュの蛍を一度見てみたいものですがフランスにしてもポルトガルにしても夏の夜はいつまでも明るいので蛍を見るにはいったい何時まで起きていなければならないのでしょうか? VIT

 

 

(この文は2003年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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011. 荷物の中味

2018-10-11 | 独言(ひとりごと)

 毎年日本で個展をするために日本へ帰る。そして2~3ヶ月を過してポルトガルへ戻る。
 往きも荷物はいっぱいだが帰りはそれ以上にどっさりである。
 食料としては日本茶と乾燥ワカメとヒジキ。日本人にはやはり海藻が必要だ。
 昆布はリスボンの中華食品店でもこの頃は手に入るので別に持ってこなくてもよくなった。
 それと少しの高野豆腐。少々かさばるがどれも軽いものばかり。
 往きに持っていった衣類はそのまま持って帰る。
 重いのは文庫本。毎年平均50冊ばかりを仕入れてくる。
 でも今年は案外と少なくて数えてみると16冊しか持ってこなかった。
 今年はパソコン関連は皆無。「大丈夫か?」
 携帯電話を買ってきたが未だ使い方が良く解らない。
 日本で買ったのに解説書は英語だし、メールもJ-フォン同士だけ。しかもローマ字のみ。
 果たして必要だったのかな?と思ってしまう。
 荷物はそれほど持ってきたつもりは無いのに空港で計ってみると何と二人分で43キロ。
 一人20キロまでだから3キロオーバー。
 なぜこれほどまでに重くなったのか?
 と荷物をひっくり返して見ると「百均」で買ってきた料理のレシピ本が11冊も出てきたではないか。
 一冊100円といえどもこれが重い。薄い本なのに紙が重いのだ。
 何時のまに買って何時のまに荷物の中に忍ばせておいたのか?
 それと「カスピ海ヨーグルト」の種。

 今年持ち帰った特別のものがある。それは「けん玉」。
 日本に帰っている時に見たテレビで「南極の越冬隊員がブリザードの吹く冬、運動不足を補うために室内で出来る運動として何十年も前から「けん玉」を取り入れている」という話。
 日本けん玉協会南極支部までもがあるという。
 これは面白そう。と思って。ちょうど岡山高島屋での個展中、画廊の人とその話をしていて「「けん玉」などと言う物はどんな所に売っているのかな?」と聞いてみると「そこの玩具売り場にあるんじゃない」。
 画廊から同じ階の徒歩ほんの30メートルの玩具売り場に、なんとその「日本けん玉協会オフィシャルけん玉」を見つけたのだ。
 さっそく二個を買い求めた。
 こんなに身近なところにあったとは驚きであるが、考えてみるとそこは百貨店。何でもあるから百貨店。
 米子でもちょうど民芸玩具展示即売をやっていて、これは「日本けん玉協会のオフィシャルけん玉」はないけれど色が綺麗なのでこれも買い求めた。
 大阪の近所のスーパーで「百均市」をやっていてうろうろ見ていたらそこにも「けん玉」があった。
 安いだけのことはある貧相な「けん玉」ではあったが一つ買い求めた。
 結局4個の「けん玉」をポルトガルまで持ち帰ってきた。
 「けん玉」などはいままで触ったこともなかったがやってみると難しいけれど案外と面白い。
 「日本けん玉協会」の説明書を読んでみると正しい持ち方から始まっていろんな技があるし、上級の技などは自分にはとうてい出来そうにないけれど、級位認定制度や段まであってかなり面白そうである。
 始めて3日。級位認定の自己評価は「大皿連続20回、小皿10回」早くも九級である。
 「けん玉」にはまりそうで自分がこわい。
 今年は何をしに帰ったのだろうと思ってしまう。 VIT

 

(この文は2003年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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010. IL DE FRANCE 佐伯祐三の足跡を訪ねて

2018-10-10 | 旅日記

 今年もサロン・ドートンヌとル・サロンに出品した。
 最初に出し始めた 1991 年の会場はエッフェル塔が建てられたのと同じ時に万博会場として造られた 100 年前と同じグラン・パレであった。
 1994年からグラン・パレの老朽化によって改修工事に入るとの事でエッフェル塔近くのテントの会場に移ったのだが、テントの会場と言うのもパリでは伝統があるものなのだ。
 展覧会の他にファッションショーなども行われている。
 1887 年の博覧会の時にマネとクールベらがやったサロン・ド・リュフューゼ(落選展覧会)もテント会場であった。

 サロン・ドートンヌは 1904 年ルオーやヴラマンクらがフォービズムの発表の場として始まったといわれている。
 そのサロン・ドートンヌに佐伯祐三は 1925 年「コルドヌリ」と「煉瓦屋」を出品して初入選している。
 一時帰国のあと 1927 年「新聞屋」と「広告のある家」が再び入選。

 翌、1928 年 2 月の寒い一ヶ月間、サン・ジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランに写生旅行をしている。
 その 6 月パリの東、ヌーイイ・シュル・マルヌのセーヌ県立エブラール精神病院に入院。8 月死去。

 僕が佐伯祐三の足跡を訪ねてみようと思ったのはちょうどサロン・ドートンヌがテントに移った年だった。
 かつて天王寺美術館の半地下にあるデッサン研究所に通っていた頃、研究生は美術館の入場はフリーパスで、僕はデッサンに飽きると美術館をうろうろとうろつき回っていたものだ。
 その時々架け替えられる常設展で佐伯祐三を観ることができるのは楽しみであったし、そんな中で観た「モランの寺」は僕に強烈な印象を与えたのを昨日のことの様に憶えている。

 モランがパリの郊外にあるということは知っていた。
 それがどのあたりにあるのかフランスの地図を丹念にたどってみるけれど一向に判らなかったのだが、ミッシュランのイル・ド・フランス地方の地図を買い求めてすぐに見つけることが出来た。
 小さい村だからフランスの全国地図には載っていなかったのだ。
 パリの東方 30 キロ程のところにサンジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランがある。
 それは最近できたユーロ・ディズニーのすぐ東側にあたる。
 地図上の鉄道の線路をたどっていくとユーロ・ディズニーはリオン駅から RER(郊外電車)で行く事ができるが、モランに行くには東駅からの昔からの鉄道になっていてユーロ・ディズニーとは線がちがう。

 東駅の案内所に行き地図を示しながら「モランに行きたいのだけれど」と尋ねると「それならリオン駅からです」と即座に答えたので「おかしいな」とは思ったのだが半信半疑でリオン駅に行った。
 リオン駅ではインフォメーションと切符売り場が一緒になっている。
 そこでも同じ様に地図を示しながら聞くとインド人風の係員は、古文書館にでもあるような褐色に変色したぶ厚い文献を持ち出して調べ始めた。
 即答した東駅の案内所のフランス人の女性とは大違いである。
 その間にインフォメーションは切符売り場でもある訳だからたちまち長い行列になる。
 文献も二冊目。それと僕が示したミッシュランの地図。
 いろいろ見比べ検討した結果「Couilly-St-Germain Quincy」という駅「Villiers-Montbarbin」という駅が浮かび上がったのだ。
 モランという文字は一つも無い。そしてそれはこのリオン駅からではなく東駅からだ。
 やはり僕に間違いはなかったのだが、駅名と町名が違っているのでなかなか判らなかったのだ。

 東駅の案内所の女性は何故即答できたのだろうか?
 日本人は皆が皆ディズニーランドに行くとでも思っているのだろうか?

 「でもわざわざ東駅まで行くよりもこのリオン駅から RER に乗ってユーロ・ディズニーで降りて、近くだからバスも出ているだろうし…その方がいいかもね」とインド人風の係員が言ったのでそうすることにした。
 長い行列は既に一人も居なくなっていた。皆別の窓口に移動したのだろう。

 ユーロ・ディズニー駅に着き、停まっているバスの運転手にモラン行きを尋ねると
「たった今出たところで次は二時間あとです」ということだったので奮発してタクシーを使うことにした。
 タクシーはユーロ・ディズニーの周りを半周ぐるっと大回りして国道に出た。
 運転手は「モランのどこに行けばいい?」と聞いた。
 まあどうせ小さい町だからどこでもいいけれど中心にと思って「セントラルへ」と答えたはずが、運転手は「レストラン?」と聞き返した。「ノン、セントラル」。
 ほんのしばらく走っただけでタクシーは停まった。
 「ここがモランだけど、此処で良いかね」
 それはレストランの前だった。

 「ちょうど昼だしここで昼食とするか」とタクシーを降りてレストランの反対側に目をやると、なんとなんとそこにあの天王寺美術館で観た佐伯祐三の「モランの寺」が 1928 年当時のそっくりそのままの姿で僕の目の前にあったのだ。

 教会の周りを歩きながら、また佐伯がイーゼルを立てたと思われるあたりに立ってみると、僕はたちまち 70 年前の佐伯祐三の時代にタイムスリップしていた。

 レストランもまるで古くからの店の様で、佐伯祐三たちもこのレストランできっとお昼を取ったに違いないとさえ思えてくる。
 パリではあまり旨いフランス料理には当らないけれど田舎ではたいてい満足できる。
 ワインも一本空けてデザートにもピリッと辛口の珍しいチーズを食べて、大満足のモランでのひと時であった。

 ほろ酔い気分でローカル列車に乗りあっという間に次の駅「Villiers-Montbarbin」に到着。
 もう一つのモランである。

 画集では何枚も「モランの寺」があり、どれも「モランの寺」となっているため、同じ教会を何枚も角度を違えて描いたのかな?と当初は思っていたのだが、実は隣町の別の二つの教会を描いたのだったのだ。

 画家が描いたその現場に立って周りの環境や空気や温度やにおいを感じて、さらには歴史的背景を考慮して、そのモティーフをどういう風な捉え方をしているのかを考えるのは楽しい事だしとても勉強になるとおもっている。

 モランの他には佐伯祐三が最初の滞仏で住んだパリ郊外のクラマールにも行った。
 教会と町役場のある町の中心へは駅からまっすぐ伸びる道をかなり歩いた。
 さらに教会の後ろ側へ回って坂道を登ったはずれに佐伯祐三が住んだリュ・ド・スュッド2番地を見つけることが出来た。
 かつてはお屋敷でもあったのだろうか?古い塀がめぐらされた中に今は新しくマンションが建っている。
 入居者はまだ決まっていないのか、売出し中の看板がある。
 佐伯祐三は随分不便な奥まったところに住まいを見つけたものだ。

 帰りは駅まで戻るのも遠いし教会のところからバスが出ている様なのでパリ市内までバスにした。
 途中は町つづきで町工場やガレージ(自動車修理屋)コルドヌリ(靴屋)といったかつて佐伯祐三が描いたモティーフそっくりのパリ市内ではもう見られなくなってしまった街並みがあった。

 22 年ぶりにシャルトルにも行った。
 ここには世界一のステンドグラスのカテドラルがあるので観光客も多い。
 最初このステンドグラスを見た時はすぐにルオーの作品をオーバーラップさせて「なるほど」と感心した。
 ジャポニズムの影響でベルナールやゴーガンが始めたクロワゾニズムを更に進めたルオーだが、推し進めることによって古いステンドグラスに到達したことになったのではないのだろうか?

 そのカテドラルの裏手に美術館がある。
 美術館のはなれの館といったところにヴラマンクがまとめて 30 点ばかりがあった。
 普段なら見逃してしまうところだ。
 「トイレ」の矢印があって「ちょっとトイレ」と思って階段を下りたところ、そのトイレの隣にヴラマンクの館があったのだ。

 このシャルトルとヴラマンクがどういうつながりがあるのかは知らないけれど、佐伯祐三の足跡を訪ねる旅をした後だけに何だかヴラマンクのあの一喝が聞こえてきそうだった。
 「このアカデミック!」

 佐伯祐三はパリに着いて 3 日目に里見勝蔵に連れられて、オーヴェール・シュル・オワーズのヴラマンクのアトリエを訪ねている。
 その時に観てもらった 50 号の「裸婦」に対してのヴラマンクの一喝だ。

 その後、佐伯祐三の絵は急速に変わっていった。
 ヴラマンクの影響をまともに受けている作品も少なくはない。
 このシャルトルの美術館でもそんな佐伯祐三に影響を与えた様な作品がたくさんあった。
 いっぽう、その時代のフランスの画家の多くがそうであったように、ヴラマンクもまたジャポ二ズムの影響を受けていて、この美術館にヴラマンクの「屏風絵」があったのも面白い。
 ヴラマンクは時代によってかなり大きく作風を変えている。

 パリの北西ポントワースの近くオーヴェール・シュル・オワーズはゴッホの終焉の地。
 あのカラスの舞う麦畑でピストル自殺をした村である。
 ゴッホと弟テオの墓のあることでも知られているが、その他にもドービニィが先ずアトリエを構えたところでもある。
 ピサロもたくさんの作品を残しているし、セザンヌが「首吊りの家」やヴラマンクの「オーヴェール駅」など、多くの画家のゆかりの場所が数多くある。
 それらの画家たちと交流の深かったガシェ医師の家も残っている。

 ゴッホはこの村のいたるところを描いているが、ゴッホと同じ「村役場」と「オーヴェールの教会」を佐伯祐三も描いている。
 その頃から佐伯祐三はヴラマンク一点張りからユトリロの影響も見られ、そして独自の世界「広告の壁」へと進んで行った。

 佐伯祐三がクラマールの後移り住んだモンパルナス付近などは高層の駅ビルが建ち、僕達が初めて訪れた 1968 年~72 年頃と比べても少しは違っては見えるけれども、パリは本質的にはちっとも変わっていない気がする。
 ちょっと郊外へ足をのばすと 70 年前の佐伯祐三のモティーフや 100 年前のゴッホのモティーフさえもそっくりそのままの姿で残っている。

 モラン河はユーロ・ディズニーの北でマルヌ河と合流し、さらにマルヌ河はヌーイイの下流ヴァンサンヌの森でセーヌと出会い、セーヌはパリを横断しつつクラマール付近へ向って蛇行、さらに大きく蛇行を繰り返しながらポントワースの南でオワーズ河を抱き込み、ノルマンディー地方を悠々と流れやがて英仏海峡へと注ぎ込んでいる。

 英仏海峡に海底トンネルが開通して TGV や高速道が発達しても、河の流れは佐伯祐三やヴラマンクさらにゴッホがいた 70 年前も 100 年前も、そしてこれからの 100 年先、いやそれ以上何世紀をも変わることなく流れ続けるのだろう。VIT


この文は 1994 年に書いたものにこの度少し書き加えました。

 

(この文は2003年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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009. ムズ と ビット

2018-10-10 | 独言(ひとりごと)

 日本人が「R」と「L」の発音が苦手な様に、ポルトガル人には「H」の発音があまり出来ない。
 ポルトガル人に限らずラテン系の人たちは皆その様だが…。

 「HONDA」は「オンダ」「YAMAHA」は「ヤマア」「HITACHI」なら「イタチ」になってしまう。
 テレビのニュースキャスターでさえそう発音する。
 『「オンダ」と「ヤマア」がトップ争いをしています。あっ、「ヤマア」がカーブで抜け出した。』
 『あっ、「ヤマア」転倒。「オンダ」引っ掛けた。両者共転倒。「ススキ」抜け出した~っ。』と言った具合。観ている方もずっこけてしまう。

 僕の名前「HITOSHI」は「イトシ」。なんだか漫才師のイメージが強い。

 もちろん「H」の発音が出来る人もいて、それが自慢なのか、「ヒトーッチッ」などと呼ばれたりもする。
 画廊のペドロはいつもそうだ。

 まあどう呼ばれようと良い様なものだがこの際だから、「ヒ」に濁点を付けて「ビ」つまり「ビトシ」としてみたらどうか?と考えたのである。
 さらに「シ」も「チッ」などとなる恐れもあるので、外してしまって、簡潔に「ビット」「VIT」とした。

 ポルトガルには「VITOR](ビットール)という名前の人がいる。
 セトゥーバルのクラブサッカーチームの名前が「VITORIA」(ビットリア)という。
 「勝利」と言う意味あいがある。
 ポルトガルの一部リーグで今、12~3位のところをうろうろしている。

 イタリアには「ビットリオ・デ・シーカ」が居た。
 あの「靴みがき」(1946)や「自転車泥棒」(1948)の監督である。
 「自転車泥棒」は名画中の名画であるし、テレビでも何度もやっているので
殆どの人は観ていると思う。
 僕も何度観ただろうか?
 『主人公は自転車を盗られてしまう。
 看板貼りにとって自転車がなければ仕事にはありつけない。
 思い余って他人の自転車を盗ろうとする。
 あの、子供を先に帰して自転車を泥棒するシーン。
 子供は帰らないで建物の陰から隠れて見ているその前で、皆から寄ってたかって捕まってしまう。あのシーン。』
 あまりにも悲しくて、あまりにも残酷で…涙無くしてはとても観ていられない。
 「あんな時代に生まれてこなくて良かった。」と以前は思ったものだが、今世界中どんどん失業者が増え。
 あんな時代に戻りつつある…。様に思う。

 藤田嗣治は洗礼名をレオナルドとした。
 レオナルド・フジタである。

 クルマでもポルトガルに来れば名前が替わる、
 「日産マーチ」は「ミクラ」という。「トヨタビッツ」は「ヤリス」である。
 「スズキジムニー」は「サムライ」となる。

 そんな訳で
 「VIT」ならすぐに憶えてもらえるだろうし、呼びやすいだろう。
 と思ったのだが、実際には誰もそうは呼んでくれない。
 
 「MUTSUKO」にも同じような問題がある。
 「HITOSHI」よりも更に憶えにくい名前らしく、ようやく憶えても「ムチュコ」などと発音している。
 「MITSUBISHI」は「ミチュビチ」になる。
 ポルトガルで「ミチュビチ」の RV 車は人気が高い。
 ぬかるみではまってしまいそうな名前である。
 いっぽう「MATSUDA」は始めから「MAZDA」としてほぼ正しく呼ばれている。
 「ムツコ」も濁点を付ければ「ムヅコ」「MUZKO」略して「MUZ」とした。
 が実際にはまだまだ浸透はしていなくて、相変わらず「ムチュコ」であるが…。

 「MUTSUKO」や「HITOSHI」よりも、むしろ「TAKEMOTO」の方がポルトガル人にとっては憶え易い様だ。
 もっともポルトガルには「K」の文字はないから、「TAQUEMOTO」などと書いたりはするが…。
 ちなみに「TOKYO」は「TOQUIO」と書く。

 ポルトガル人に「TAKEMOTO」と書いた名刺を差し出したとしたら「HONDA」「YAMAHA」「SUZUKI」「KAWASAKI」の代理店の人と思うかも知れない。

 セトゥーバルのバイク屋さんに「TODIMOTO」と言う店がある。
 ルイサ・トディ大通りに面しているからTODI、
 「MOTO」には「モーター」とか「動く」といった意味がある。
 「地震」のことを「TERRAMOTO」と言う。
 大地が動く。のである。
 もし「寺本」さんがポルトガルに来たならば、すぐに憶えてもらえる?名前である。 VIT

 

 

(この文は2003年4月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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