武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

210. マンハッタンで自転車 Bicicleta em Manhattan

2023-11-01 | 独言(ひとりごと)

 ニューヨークに住み始めてすぐに自転車を買った。1975年の話だ。太く重い鎖と南京錠も同時に揃えた。

 ニューヨークに行くことは駒ちゃんに予め手紙で知らせておいた。

 駒ちゃんは僕たち2人の為に仕事とアパートまでも決めておいてくれたのだ。

 僕には『SOUEN』と言うアップタウン91丁目にあるマクロバイオティック料理店のコックの仕事。MUZにはミッドタウン50丁目の『NAKAGAWA』。高級寿司店のウエイトレス。

 アパートはその中間、ウエスト75丁目42番地、地上階のワンルーム。1部屋だがキッチンもシャワーもトイレも付いているし、セントラルパークまで歩いて1分。ベーコンシアターにも徒歩10分以内。地の利は抜群だ。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが住んでおられたダコタ館のすぐ裏手で、最寄り地下鉄駅はそのダコタ館が目の前のウエスト72丁目。

 駒ちゃんとはストックホルムで一緒だったのだが、日本からの船も一緒だったらしい。

 1971年7月、新潟港からジェルジンスキー号と言う元KGB長官の名を冠した船でナホトカ港まで大荒れの日本海を揺られた。船では2人だけの個室を与えられたものの、窓もない舳先の船底でこれでもかと言わんばかりに揺れた。ナホトカに着いた時には2人共ぐったりでこれでヨーロッパまでたどり着けるのかと不安な気持ちになった。それでも気を取り直して記念写真をとMUZにカメラを向けると5~6人のコサック人が一緒にどやどやと入って直立笑顔の姿勢を取ってくれた。その笑顔が僕にとっては何よりの励みにもなった。

 ナホトカからハバロフスクは夜行列車。ハバロフスクからモスクワはプロペラ機、モスクワからコースは別れ、ヘルシンキ行き、ストックホルム行き、そしてウイーン行きもあったが100人以上の若者たちが同じ船、片道切符でヨーロッパを目指したのだ。僕たちはストックホルム行きを選んだ。その中に駒ちゃんも居たことは後で知った。駒ちゃんから「一緒の船だったのですよ」と教えてくれたのだった。

 ストックホルムでの日本人は皆が仲が良かった。ストックホルムを拠点にヨーロッパ中を旅しその情報を交換したり、ストックホルムでの生活そのものを謳歌したり、中にはアメリカ経由でストックホルムに暮らす日本人もいた。溜り場は Tセントラレン前の図書館。図書館ではレコードなども聴くことが出来た。殆どが20歳代前半で音楽の話題にも事欠かなかった。駒ちゃんは学生時代にはトランペットをやっていたという。

 数年して駒ちゃんはニューヨークに旅立った。僕は「ははぁ、ジャズだな」と思っていた。

 僕たちはストックホルムで4年余りを過ごし、ポーランドを旅した折にアメリカ大使館に立ち寄り、だめ元でヴィザを申請したのだが、すんなりと取れてしまったのでヴィザ有効期限が切れる半年以内にアメリカに向かったのだった。

 ニューヨークに着いて先ずは駒ちゃんが働く寿司店『SAKURA』に立ち寄って寿司で腹ごしらえをした。そこでアパートと仕事のことを教えられて驚いたのだった。駒ちゃんは僕たちを驚かそうと思ってそれまでは伏せていたのかもしれない。兎に角有り難かった。暫くは何処か安ホテルでもと思っていたのだが、その日からアパートに住めることになったのだから。

 そしてマクロバイオティック料理店『SOUEN』のオーナーのタキさんは僕たちの為に弁護士を雇って<H2>と言うヴィザとMUZの為に<H4>のヴィザを取得してくれたのだ。H2は特殊技能保持者つまり日本食のコックなどに与えられるヴィザでH4はその妻に与えられると言うものであった。

 不法滞在、不法就労ではなく正規のニューヨーク市民になれたのである。

 ニューヨークでは1日中仕事に明け暮れるという生活だった。休みの日には美術館に行ったり、2本立て1ドルの映画を観たり、自転車でマンハッタンを隅から隅まで乗り回したり、いや、イーストにはあまり行かなかったし、ハーレムにも行かなかった。主にSOUENのあったアップタウンからヴィレッジやソーホーのあるダウンタウンまでか。未だ建設途中だったワールドトレードセンターの80階までは上ったこともある。そして夜には必ずジャズライブに通った。でもMUZとも駒ちゃんとも休みの日が異なるので一緒と言うことは殆どなかった。

 僕はジャズライブに通っていたが、駒ちゃんがジャズライブに通っていると言う話は聞かなかったし、トランペットを吹いていると言う話も聞かなかった。仕事は一生懸命やっていて『SAKURA』のオーナーからは信頼されている様だったし、僕のオーナーのタキさんなどからも「駒ちゃん、駒ちゃん」と可愛がられていたが、休みの日には中国人の闇賭博場に日参していると言う噂もあった。いや、噂だけではなく本人からもその話は聞いていた。

 先日ジョセフ・ゴードン=レヴィット主演の『プレミアム・ラッシュ』という映画を観た。

 『プレミアム・ラッシュ』(Premium Rush)2012年。アメリカのアクションスリラー映画。91分。監督:デヴィッド・コープ。“人と車が激しく行き交うニューヨーク。究極のテクニックで大都会マンハッタンを疾走するバイクメッセンジャー、ワイリー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、ある日、知り合いの中国人女性ニマ(ジェイミー・チャン)から1通の封筒を託される。だが、これが悪夢の始まりだった。中国マフィアの闇賭博に身を染めた悪徳刑事マンデー(マイケル・シャノン)。闇賭博の負債をカタにそのニマの封筒を奪うことを中国マフィアから託されたことで、その執拗な追跡、背後にうごめく裏組織の黒い影、そしてニマを苦しめる政府からの弾圧…この封筒にはいったい何が隠されているのか、そして事件に巻き込まれたワイリーはこの危機を切り抜けることができるのか!”と言った映画。

 映画は現代のマンハッタンで、僕たちが過ごした1970年代とは少し違う。バイクメッセンジャーと言う仕事もなかった様に思うし、携帯もない時代。でも闇賭博は確かにあったし、自転車は映画同様、車道を走っていた。僕もクルマの間をすり抜けてマンハッタンの車道を走った。でもマンハッタンでも日本でもクルマの間をすり抜けたり、センターライン側を自転車が走るのは違反行為だ。自転車は歩道側、或いは路肩側の車道を走らなければならない。

 でもマンハッタンの歩道側にはクルマが止まって荷物の上げ下ろしなどをしていて、なかなか真っ直ぐは走れないのでついついクルマの間をすり抜けてしまうことになるのだ。

 僕はその時、市バスに乗って窓から見ていた。パークサイドウエスト通りを初老の白人男性が自転車に乗ってセンターライン側を走っていた。それを見たパトカーの黒人警察官2人が「センターライン側を走っちゃ駄目だ」と大声で注意をしたのだ。初老の男は「判った、判った」と言わんばかりに右手を振りそのまま左折してしまった。黒人警察官はパトカーから飛び出し初老の男を自転車もろとも突き飛ばしてしまった。そこまでしなくてもと僕は思ったが、黒人と白人との確執は今も昔も存在しているのだ。

 2020年だったか、ミネアポリスで白人警察官が黒人を地面に膝で押さえつけ窒息死させた『ジョージ・フロイド事件』は大きな抗議行動へと発展し警察官3人が懲戒免職処分になったが、その逆もあり得るのだ。

 そして70年代にもマンハッタンに自転車は多かった。

 SOUENでウエイターをしていた、デイヴィットもフランクも自転車通勤であった。僕もSOUEN前のブロードウェイの電柱に自転車を鎖で止めていた。後輪と電柱なら前輪だけが盗まれるし、前輪と電柱なら前輪を残して車体が盗まれるのだ。だから前輪と車体もろともを太い鎖で電柱に括り付けるのだ。

 僕の仕事は1人早朝からで、仕込みを一手に引き受けていた。日替わりの豆を煮たり、玄米を炊いたり、野菜をソテーしたり、天ぷら用の海老や野菜の下ごしらえをしたり、魚を下したり、デザートのアップルクランチを仕込んだりと言ったものだ。他の従業員はほぼ昼食時間の開店と同時にやってくる。行列の出来るマクロバイオティック料理店だったが、それでうまく機能していた。オーナーはタキさん。店長でマクロバイオティック料理指導はチカさん。ウエイターにデイビッド、フランク、ウエイトレスにヘザー・ブラウン、キャサリン。チカさんはウエイターにもなる。キッチンには僕の他にヤマちゃん、ミッちゃん、それに皿洗いに入れ替わり立ち代わり誰かがいた。たまにはタキさんやチカさんに連れられ中央卸売市場に魚の仕入れに行くこともあった。

 僕は早朝からの勤務なので自転車で通っていたのだが、帰りは仲間と一緒なので自転車を押して歩いて帰ることも多かった。

 自転車は映画でワイリーが乗っていたような快速車ではなく、車輪が小さくハンドルとサドルは上下できる当時としては流行りの自転車であった。男女兼用で、勿論、休日の違うMUZも休みの日には使う。一人でセントラルパークなどをサイクリングしていたそうだ。

 その当時ヘルメット義務などはなかった。警察官だけはヘルメットをかぶっていた様にも思う。マンハッタンにはパトカーの警察官も居たが、乗馬の警察官も、オートバイの警察官も、徒歩の警察官もそして自転車の警察官も居た。

 先日観たジョセフ・ゴードン=レヴィットの映画で悪徳警察官ではなくワイリーを追いかける天敵、自転車の警察官も居た。その警察官がかぶっていたヘルメットはこの程僕が『リドゥル』で買ったヘルメットにそっくりなのだ。出来たら、ワイリーがかぶっていた様なヘルメットにしたかったのだが。

 ニューヨークを一旦引き揚げ、南米旅行に行くことが決まった頃だったと思う。SOUENには皿洗いとして入って来たのだが、ポルシェに乗っていたアメリカ人から「マイアミにマクロバイオティックの店を出したいと思っている。来てくれないか」と僕にオファーがあった。その前から僕が一手に仕込みを引き受けているのを見ていたのだろう。僕に「豆腐の作り方を教えてくれないか」などと質問をしていた。僕は豆腐の作り方は知ってはいて、一応は教えたが、日本レストランのコックだからと言って豆腐を一から作るコックもあまりいないと思う。SOUENではコロンバスアヴェニューにあった田中豆腐店から仕入れていたのだ。

 チカさんは僕がマイアミに行くことについては「それは駄目だよ」と即答してくれた。その後、南米旅行中だったので、どうなったか僕は知らないが、風の噂ではチカさんが開店の指導にマイアミ迄行ったと言う様な話を耳にした。

 僕たちが住んでいたアパートはイタリア系のアメリカ人が持ち主であった。住人はそれぞれ仕事を持っていてあまり顔を合わせることもなかったが全館ほとんど日本人が暮らしていたらしい。『BENIHANA』の花形コックなども居た。自転車は玄関ホールに「この自転車売ります」と張り紙をしたのだが、その日の内に日本人が買ってくれた。1年余りを乗ったにも拘らず新品同様だったし、重く太い鎖と南京錠迄付いていたのだから。

 映画『プレミアム・ラッシュ』を観ながら、マンハッタンを懐かしく思い起している。

 SOUENのオーナー、タキさんはその後、ポルシェに乗って交通事故死したという話は聞いた。僕たちの頃にはVWのステーションワゴンの地味なクルマに乗っておられたのに。昼食時間が終わって夕食時間までは一旦店を閉める。その間に僕を色んな店に珈琲を飲みに連れて行って下さった。その時の満面の笑顔は今も忘れられない。

 皆が同時に休みの時も何度かあった。ロングアイランドの先端まで船釣りに連れて行ってくれたこともあるし、ゴルフに誘われたこともある。セントラルパークでソフトボールをしたこともある。そして僕が誘って全員でジャズライブに行ったこともある。

 良いことばかりではない。黒人3人組のピストル強盗に襲われたこともある。それも3回も。一瞬の出来事で、その日の売り上げ全額を強奪されたのだが、3回共、従業員全員に怪我はなかった。

 その後音信不通になっている駒ちゃんはどうしているのだろう、などと思う。

 そういえば先日、ストックホルム時代の友人トニーさん、ワコさんご夫妻が神戸から宮崎まで会いに来てくださった折にも駒ちゃんの話題にものぼった。たぶん、マンハッタンで元気に過ごされているのだろう。

 出来ることなら今猛烈に会いたい人だ。そしてあの時のお礼を改めて申し上げたい気持ちで一杯だ。

 今から思うと、たった1年余りの短い期間だったが、あのマンハッタンでの生活は僕の人生にとって重要な位置を占めていることは間違いがないことなのだから…。

武本比登志

 

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