武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

100. 僕たちのセトゥーバルの住まい-Residencia-

2019-01-15 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルに移り住んでまもなく23年(2012年8月現在)になる。

 最初はセトゥーバルの下町アロンシェス・ジュンクエイロ通りの古い建物ドナ・ヴィアの家の3階、北側の部屋に2年ばかり居た。

 その後、この丘の上のマンションに移り住んだのだが、それも20年を越えたことになる。

 4階建てで一つの階に左右2軒、全部で8軒が一つの入り口から出入りする。郵便受けは玄関ホール内にあり、郵便配達人は8軒全てのベルを押して何れかの家庭から開けて貰う。部屋の玄関脇にインターホンがあり、そのボタンを押すと下の玄関ホールが開く仕掛けだ。エレベーターはない。玄関ホールにはポルトガルのアズレージョが施され、階段は桃色大理石で出来ている。と書けば余程の高級マンションかなと思われるかも知れないが、至って普通、むしろ中の下くらいの所得者住宅であろう。

 裏側の半地下に元駐車場があるが、それを酒屋が全部買い取って改装し倉庫として使用している。酒屋といってもビールやワインは扱わず、高級ウィスキーやブランデー専門で時折トラックが出入りしていたが、最近は倉庫も他へ移転したのかトラックの出入りはない。

 各家庭には先ず玄関ホールがあり、北側にベッドルームが3つあって、南側に居間と台所があり、東に風呂場、玄関ホールの側にトイレがある。

 ベランダは2畳ほどの小さいのが南と北にある。日本の様に洗濯物でベランダが占領されることはない。他のフラットも全く同じ広さだが、ベランダをアルミサッシで塞いで温室風にしていたり、二部屋をぶち抜いて広く取り部屋数を少なくしているところもある。我が家はその北側の2部屋をアトリエとして使用している。

 20年も経つといろいろと出入りもあった。我が家のお向かい4階の左は3家族目であるが、その他は最初からのところも多い。

 日本式に言うと1階の右側にマリアさんのご夫妻がずっと替わらずに住んでおられる。ご主人はヘビースモーカーでかなり足も弱りお歳を召されたが、マリアさんはクルマを古いシトロエンからホンダ・ジャズの新車に乗り換えて相変わらずお若い。

 その向いはロドリゴさん。最初はご夫妻が住んでおられて、その後、娘夫妻が一緒に住みだして、可愛らしいまるで天使の様な女の子がやがてつぎつぎに二人生れた。暫くは狭いところに6人が住んでいたことになる。数年後に若いご夫婦は近くにマンションを買ったらしく引っ越して行かれた。その後はロドリゴさんご夫妻もアレンテージョに農場を買ったとかで、行ったり来たりの生活がしばらく続いたが最近はめっきり姿が見えなくなった。それこそ半年に1度くらい顔を見るくらいで、アレンテージョの生活が余程快適なのか、めったにこの建物には帰って来なくなっている。1階の左は殆ど1年を通して空き家同然ということだ。

 2階のポーリンさんご夫妻はご高齢だったけれど、最初にご主人が亡くなられて、暫くは奥さんが1人暮らしだった。その後、老人ホームに入っておられたが、数年前に亡くなられた。そこは近くに住む娘とパリに住む息子の持ち物になって売りに出されたがなかなか売れないらしく、しばらくはブラジル人の宗教家の家族が借りて住んだりしていたが、今は又、空き家で売りに出されている。

 2階の左はマダレナおばさんが今は猫と一緒に1人で住んでおられる。移り住んで来た当初はご主人のメルローさんと娘のアナモニカも一緒だったがアナモニカは彼氏が出来て結婚し、近所のマンションに引っ越して行った。すぐに可愛いい男の赤ん坊も生れて、時々はマダレナおばさんに見せに来る様だ。アナモニカ自身も最初は無職で嘆いていたが、やがて遠く離れたヴィアナ・デ・アレンテージョの税務署に職が決まり、せっせと辛抱して通っていた様だが、今はセトゥーバルの税務署勤務で、僕たちが税金を払いに行くと、奥の席から出てきて手伝ってくれる。奥の席と言う事は少しは出世しているのだろう。貫禄も付いてきている。

 3階の右側、つまり我が家のすぐ下の階にはフルナンドさんが居るが、最初から南アフリカと行ったり来たりで年の三分の一くらいしか住んでいなかった。大学教授で定年退職し、南アフリカでの勤務も終り、行くことはなくなった様だが、元々リスボンにも家があり、先日から不動産屋の張り紙がしてあって、売りに出されている。でも今も時々は立ち寄る様で、来れば声が大きいので階段じゅうに響き渡りすぐに判る。その下のポーリンさんの部屋も売りに出されているから8軒の内2軒に張り紙があることになる。

 3階の左はカフェを経営しているトニーさんの家だが、トニーさんは既に居ない。トニーさんの奥さんは数年前から足を悪くして階段の昇り降りが大変そうだ。当初はまだ子供だった孫娘がずっと一緒に住んでいるが、ポルトガル人女性の変貌ぶりには目を見張る思いだ。子供の頃の面影は全く消えて、向こうから挨拶をされても「あれっ、誰だろう」などと思ってしまうことがある。適齢期のはずだが未だ独身の様だ。

 4階、つまり我が家の向いは昨年からウクライナからのご夫婦と一人娘の3人が住んでいる。ご主人は大きな人で、奥さんのオルガは美人で愛嬌が良い。娘はまだ高校生だが身長はオルガより高い。以前の住民に比べればもの静かな暮らしぶりで、早朝には3人とも仕事と学校に出かける様だがドアの開け閉め階段の昇り降りなど殆ど物音がしない。土日は家にいるがそれも静かだ。MUZに言わせると洗濯物の干し方もポルトガル人と日本人もそれぞれ違うが、ウクライナ人も独特だそうだ。

 4階の向かいは初めはコエーリョさんのご家族で子供が2人居た。子供も大きくなって狭くなったと言って同じセトゥーバルの新しい大きなマンションに引っ越して行かれた。

 その後に入ったオートールさんご夫婦は生まれたての赤ちゃん連れで引っ越してきたが、その赤ちゃんも見る間に大きくなってやがてMUZの身長を追い越し、僕の身長までも追い越してしまった。又、コンドミニオ(管理組合)の会合の時など僕たちに英語で通訳もかって出てくれた。そのオートールのご家族も狭くなったと言って町の反対側に新しく建った広いところに引っ越して行ってしまった。

 管理人は8軒が1年ずつ交代ですることになっていたが、我が家は日本に帰る期間も長いので出来ないし、フルナンドさんもそうだ。ポーリンさんもいないし、ロドリゴさんもいない。仕方なく4軒で代わる代わりやってくれていたが、その内、オートールさんが管理費を免除という条件で一手に引き受けてくれた、が引っ越して行ってしまった。

 その後、2年前からは、ポーリンさんの娘の提案で管理会社に任せることにした。

 管理会社の仕事は皆から管理費を集めること。(管理費は酒屋も2軒分を支出している。)共有部分の電気代の支払い。階段や入り口ホールなどの清掃費の支払い。共有部分の故障修理などだ。そして年に1回、その収支報告。それは毎年、1月のある日、玄関ホールに皆が寄り集められて行われる。

 ところが今年はつい先日2回目が行われた。収支報告に続いて、建物を塗り替えようという提案だ。

 前回の塗り替えは未だポーリンさんがご健在な頃で、ポーリンさんの提案だったが、すぐに実行された。あれから10年以上も経っている。今回は建物の外壁全体で16,851ユーロがかかるらしい。酒屋も加わっているから、1軒につき1,685ユーロの支出だ。毎月の管理費の余剰金では賄えない。

 我が家は今のところ大丈夫だが、家によっては雨が浸み込むところがあるらしく、塗り替えによってそれは防げるらしい。でも1,685ユーロはどこの家庭も痛い出費だ。

 「雨が浸み込むのは南側だけだから南側だけの塗り替えにしてはどうか?」と管理会社からの提案もある。南側だけなら余剰金を加えて1軒に付き300ユーロの支出。「300ユーロなら良いだろう」と皆の意見が一致しそれに決定をした。

 7月から4ヶ月に亘って月々一軒につき普段の管理費とは別に75ユーロずつを特別に支出しなければならない。そして塗り替えは10月と決定した。筈である。

 そしてその管理会社に先日赴き我が家ではまとめて300ユーロを支払おうと申し出た。が「ちょっと待ってください」と遮られた。

 決定したと思ったのは早とちりなのか、或いは先日には欠席をしていたフルナンド教授あたりから異議申し立てがあったのか、まだ正式決定はしていないのだそうだ。

 マリアさんもオルガもマダレナおばさんもそれについては何も言わない。

 それにフェリアス(ヴァカンス)の時期だ。

 まあ、何か言ってくるまで閉じ籠っていることにしよう。

2012年7月24日 VIT(2012年8月号)

 

 

(この文は2012年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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099. 文章は水涸れ-Escrito-

2019-01-14 | 独言(ひとりごと)

 このコーナー、2月にアップしてまもなく7月。5ヶ月の長きにわたってお休み。いざ、何か書こうと思っても頭の中から文章が涸れてしまっている。
 毎年日本に帰国している間の2~3ヶ月はお休みと決めているが、今年は特別長かった4ヶ月の日本滞在。元々、乏しい文章力、何処から手を付けてよいのやら、ホームページビルダーの使い方まで忘れてしまっておぼつかない。涸れてしまった井戸を回復するのにはどうすればよいのやら、とりあえずパソコンの前に座ってキーボードを叩きながら雨乞いのおまじないをするしかなさそうだ。

 日本から戻って1ヶ月。「えっ、未だ1ヶ月。」という感じだが、1ヶ月にしては実に密度の濃い1ヶ月であった。
 申請をしてまもなく1年も経とうとしているのに未だ再発行されていない運転免許証をめぐって2度、3度とACP(ポルトガル自動車協会)に足を運んだし、前もっては支払えないため延滞金を含む住居の固定資産税。クルマの税金の払い込み。車検。その指摘によるちょっとした自動車修理。デジタルに替わった為のテレビの買い替え。配線工事。

 それから画材を仕入れにリスボンまで1度、トラブルがあってもう1度。キャンバスロールを仕入れにリスボンの先のケルースのまだ先まで1度。そしてキャンバスを20枚ばかり張り、来年のNACKシニア展用の50号3点の制作開始。これは半ば。いや2分程度。おまけにアルコシェッテのアウトレットモールとピニャル・ノヴォの露店市。いやはや目まぐるしい。

 夏の猛暑枯れを前に未だ花が残っている内にと、アレンテージョ地方の農家ホテルに1泊旅行。日帰りではエスピシェル岬に2度。フェリーで渡って対岸のトロイア半島に1回。

 そして先日はルーゾで2泊。ルーゾに行くのはこれが初めて。22年もポルトガルに住んでいるのに初めて。(絵のモティーフがなさそうなところには興味がないからだが…)
 ルーゾとはポルトガルで1番有名な水の湧き出る産地。スーパーでも5リッターや1,5リッターのペットボトル入りのルーゾの水は必ず売られているし、レストランで水を注文すると、ガラス瓶入りのルーゾの水が出てくることが多い。(我が家ではいつも違う産地の水を買うが…)

 ルーゾにはブサコという宮殿のある大きな森がある。その森はポルトガルを代表する国立公園とも言われている。日本からの団体ツアー旅行には必ずと言っていいほどブサコの宮殿で1泊というのが定番。(だったのだが最近はそれほどでもなくなったのかも知れない。)

 そのブサコの森に、森に咲く花の探索に出かけたのだ。アレンテージョの沿道や牧場の花はほぼ終り。涼しい森なら未だ違う種類の野草が楽しめるかも知れないと思って出かけた。(この2~3年はこの時期、エストレラ山に出かけて山の花の探索をしたのだが…。)

 ホテルに着くと先ずブサコの森の地図をくれた。ルーゾのホテルに泊るということはブサコの森を歩くと言うことなのだろう。
 次の日には森の中心にある宮殿までクルマで行って、そこを中心にして探索するつもりで、その日はホテルから近場の森だけを歩いてみた。
 すぐに階段道になり、水がしみ出て石段もなかば崩れかかっている。植生はシントラによく似ている。ジキタリスやエリカは今が盛り、そして既に花は終わってしまっている陰生のスミレ。
 森の中に入るとやはり涼しい。念のためとリュックにはウインドブレーカーを2着入れてあるし、道に迷って遭難しても大丈夫な様にLEDの小さな懐中電灯。一包みのマリアのビスケットと板チョコ、飴玉、ナッツ類と干し葡萄を少し、それにペットボトルの水。
 涼しいといっても歩くと身体が火照ってくるのでウインドブレーカーは着ないまま、結局リュックの中身で使ったのは少しの水だけ。1年で1番陽の長い6月下旬。鬱蒼として薄暗いと言へども、いつまでも明るい。道に迷うこともなかった。

 ホテルには屋内プールもあるし、部屋にはジャグジー付きのバスタブも備わっている。数十もの部屋があるのに、泊り客は我々を含めポルトガル人とフランス人などの老人ばかり5~6組程。三ツ星でビュッフェ式朝食付き、2人で1泊42ユーロはこの時期としては安い。

 翌朝、朝食を済ませ、ホテルのフロントでブサコ宮殿までのクルマでの道を尋ねると丁寧に教えてくれたが最後に「歩くほうが気持ちが良いよ~」とのことだったので歩くことにした。メルカドでパンと2種類のハムを買って出かける前にサンドウィッチの弁当を作った。リュックの中味は昨日と同じ遭難対策常備品プラス、サンドウィッチ。

 森には標識などが殆どないので、地図と照らし合わせてもどこをどう行けば良いのか判りにくい。 
 途中、木々の間から谷下の方にアジサイらしい明るいブルーが見えたので行ってみた。池があり、その周りはアジサイが今が盛りと咲き、椿が残り花を付けていた。そしてヘゴが遊歩道にたくさん植えられている。姿も見えない野鳥が美しい声で、森に響く大きな囀りを聞かせてくれる。アジサイや椿、ヘゴなどは人によって植えられたものだが、そんな中、いろいろな野草が負けじと花を付けている。歩いて来て良かった。ホテルのフロント係りに感謝だ。

 宮殿よりさらに上の森の木漏れ陽の中で昼食にしたが、こんこんと水が湧き出ている。まる1日森の中を遊歩道からもそれて藪こぎもし探索したけれど、あまりこれといって目新しい花も見つからなかった。でも森林浴は気持ちが良い。この豊かな森が美味しいルーゾの水を育んでいるのだ。

 ホテルの部屋からはまん前にルーゾの水汲み場が見える。歩いて1分だ。その反対側のカフェテラスに座ってビールとトレモス(ルピナスの実の塩漬け)でちょっと一杯。
 水汲み場には5リッターのペットボトルをたくさん抱えた人々がひっきりなしに行き交っている。近くにクルマを停めて10個も或いは20個もの5リッタータンクを持ち帰る人もいる。水の落ち口は10程もあり、順番待ちをすることもなく、水は汲み放題、無料だ。我々もあらかじめ6リッター入りのタンクを用意してきた。
 湧き出している場所には綺麗な玉石が敷き詰められていて、こんこんと湧き出ている様子をピラミッド型のガラスを通して見ることもできる。決して涸れることはなさそうだ。水は汲みだせば汲み出すほど、水脈はそこに集まり流れをより太くするのだろう。

 文章でも絵画制作でもそれと同じ様に思う。書かなければ涸れてしまう。描かなければ涸れてしまう。描けなくても先ず、例えば赤を塗る。その赤が気に入らなければ違う赤を上に被せる。或いは赤の横に緑を置いてみる。人によっては青かも知れないし、黄色かもしれない。そこに人生観の違いが生じるし個性が生れる。そして次の色を乗せたくなる。さらにどうしようかと課題が生じる。そうして絵が生れてくる。先ず色をのせることから始まる。
 豊かな森を育てて涸れさせないことが大切だろうけれど、もし涸れてしまったら先ずそうする他ない様におもう。
 さて、涸れてしまった僕の頭の中の文章、文字を拾い集めることから始めることにしよう…。VIT(2012年7月号)

 

(この文は2012年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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098. 父の想い出

2019-01-13 | 独言(ひとりごと)

 父、武本憲太郎は今年(2012年)5月28日100歳5ヶ月と10日の生涯を閉じました。

 最後は自宅で兄の介護の元、眠るように息を引き取ったそうです。

「新居浜のでべら」武本憲太郎・油彩・サムホール

 明治44年12月18日、武本幸三郎と君代の5男として愛媛県新居浜市に生れました。兄は4人、姉は2人。7人兄弟の末っ子です。すぐ上の姉は未だ103歳を越えても元気で居ます。

 何でも岡山県の山あいには今も武本姓ばかりが住む小さな村があると聞いたことがありますが、武本家の先祖で判っているのは1700年代に尾道に住む福山藩士、竹ノ内小十郎の子、嘉平太が尾道、向島で塩田を営み、その際、竹ノ内から武本に改名したという記述が残っています。

 僕の祖父、幸三郎は先祖が作った財産で金貸業を営んで居た様で、そのかたに美術品を集めるのも仕事で目利きもあったようです。趣味も兼ねていた様にも思います。

 父の4兄のうち2人が医者でしたが、祖母の家系には医者が多く、先祖は今治城のお抱え医者をしていた様で、祖母自身も薬剤師の免許を持っていました。新居浜の屋敷の玄関土間には大きく立派な薬箪笥があったのが印象的でした。

 お屋敷は広く蔵もありましたが、蔵とは別に神社の近くにあったことからか、庭の一角には地車(だんじり)が収まっている黒く塗られた大きな地車(だんじり)車庫もありました。

 祖父が亡くなった後の祖母の晩年は大きな屋敷に1人住まいでお琴の先生をしていました。生徒さんの出入りも多く、座敷にはお琴が幾つも立てかけてあったのを覚えています。

 父は子供の頃は剣道少年でありましたが、祖父が集めた美術品に囲まれても育ち、美術好きの少年でもありました。父と祖父はそんな家系にあって、異端児だったのかも知れません。父は小学校の頃から絵を描くのが好きで上手で、先生から教室の黒板にチョークで虎を描かされた、と言う話も聞いたことがあります。

 画家になりたくて、親戚中の反対を押し切って東京美術学校(現東京芸大)を受験しましたが、失敗に終わりました。滑り止めの為受験した日大芸術学部には合格しましたが、反対を押し切ったため仕送りもなく授業料が払えずすぐに中退となりました。当時は未だ武蔵野美大も多摩美大もない時代でした。

 就職試験ではいろいろと受けたそうですが、公務員の大阪府庁なら絵を描く時間が取れそうだということで、そこに入りました。最初は守口保健所勤務だったそうで、その頃に知り合った人たちとはその後も長く付き合っていたようです。

 大阪府庁の美術部に入り、中ノ島洋画研究所に通い本格的に絵を描き始めます。講師には鍋井克之、国枝金蔵、古家新などが居ました。古家新が会員だった戦前の二科展に父は何度か入選しています。

 軍の召集では未だ戦禍がそれほど激しくなる以前でしたので、大連あたりに赴きましたが、何冊かのスケッチブックも残しています。父はあまり戦争での話はしませんでしたが、死ぬ思いもしたそうで、戦友たちのお陰で生きて帰ってこられた、と言っていました。

 未だ戦時中でしたが退役してやがて母、千登瀬と結婚をしました。母は父より13歳も年下です。地方公務員なので大阪以外への転勤はなく、それからはずっと大阪生活です。僕の兄は昭和19年生れです。僕は戦後の昭和21年生まれ。妹は昭和24年で兄妹共が大阪生れです。

 僕が物心ついた頃には父は大阪府庁で通商課の観光係というところで係長をしていました。既に部下が何人かいましたが、僕が知る主な仕事は外国人むけの観光パンフレットなどを製作していました。

 父は戦後は古家新などが創設した行動展に出し始めました。まもなく会友にはなりましたが、府庁の仕事の方が忙しくなりなかなか制作の時間が取れないのも悩みでした。それでも画家仲間とスケッチ旅行にはしょっちゅう行っていた様です。

 行動美術の仲間にはパリで住み絵だけで生活が成り立っている画家も居て、とても羨ましがっていました。絵を描く時間がなかなかとれないと言っても、僕の子供の頃の僕の家は油絵の具のポピーオイルの匂いで満ちていました。友人の家が大根の煮る匂いがするのに対して、僕はポピーオイルの匂いのする我が家が気に入っていました。

 その頃の公務員は薄給で、父も絵の具代を賄うため半ドンの土曜日には自宅で近所の子供たちを集めて児童画絵画教室をしていました。僕もその生徒の一人でした。

 行動展の関西支部やその他の会などが集まって創造美術と言うのも立ち上げたのもその頃ではなかったかなと思います。そんな行動美術や創造美術が会員たちに児童画教室を推進していた様で、天王寺美術館で催される展覧会には必ず児童画展が併催されていました。

 府庁では通商課観光係に移ってからは父の場合全く移動がなかった様です。外郭団体には大阪工芸協会などもありました。

 そんな関係からか父は日本民芸協団の理事にもなりました。日本全国、時々は九州や沖縄などの民芸陶器の故郷を訪ねる旅にも参加しています。そして国内に留まらず、海外の民芸陶器や織物などを訪ねたりもしています。アジアや中東、南米などにも及びました。そしてその先々でスケッチを描いています。

 府庁から出張でヨーロッパへ行った事もありました。父の海外旅行は50カ国に及んでいます。

 僕が20歳代の頃には4年半をスウェーデンで過しましたが、その時にも出張の途中、父はストックホルムの我が家を訪ねてくれています。

 僕は40歳を越えてからポルトガルに住み始めました。その翌年にサロン・ドートンヌに入選をしましたが、それを観るためという名目で80歳になった父がパリとポルトガルに訪ねてくれました。そしてポルトガルで1ヶ月を過しました。パルメラで一緒にスケッチブックを広げたのは今では懐かしい思い出です。その頃は未だ下町の古い家に間借りをしていましたが、その後移り住んだ今のマンションのアトリエからはそのパルメラの城を望むことができます。

 僕はポルトガルに住み始める前は宮崎の妻の両親が経営をしていたドライブインをやり始めました。

 妻の両親とも学校の先生でしたが、多くの人を雇ってドライブインとビジネスホテルを経営していました。少し手を広げすぎたのか手が回らなくなり、僕たちが手伝うことになったのです。

 そこにも父はたびたび訪れてくれました。美しい澄んだ水を使っての鯉料理やそうめん流しを出す店でした。父はその鯉のあらいを美味しそうに食べてくれました。僕も鯉料理が得意になりました。

 僕は一日中忙しくて父とゆっくりする時間もありませんでしたが、父はそのあたりに出かけては油彩の風景画を仕上げて帰ってきました。僕などはとても絵になる様なところではないと思ってスケッチにもしませんでしたが、父の手に掛かると立派な油彩作品になっていました。そしてスケッチの帰りや庭からも野草を摘んできては生け花を生けて店に飾ってくれましたが、それは見事なものでした。
 父はこんなことも言っていました。「花屋で買うてきたバラでは絵にならん。茎が揃うてて面白うない。やっぱり、庭で自分で育てたバラでないと面白い絵にはならん。」

 そう言えばスウェーデンでも一緒にスケッチをしましたが、僕は「えっ、そんなとこ絵になるのん」と言ったのを覚えています。ポルトガルでも一緒にスケッチブックを広げましたが、不思議と同じ場所に立っても描く方向が違ったりします。

 僕は父から絵のことについて有言、無言でいろんなことを学んできましたが、やはり育ってきた時代、環境が違うのか、微妙に捉え方が違うのが面白いところです。

 父の風景画で一番新しいのはポルトガルの絵かも知れません。ポルトガルから帰って何年もかけてポルトガルのスケッチを元に油彩を描いていた様に思います。

 僕はポルトガルに移り住んでからは毎年何箇所かで個展をしています。父は日本国内での個展、その殆ど全てを観に来てくれました。個展の準備は宮崎の自宅でするか、実家(父の家)でするかです。準備の途中で備品が切れたりもします。「あっ、セロテープ切れてしもた~。」などと発すると、父はすぐさま自分の自転車を出して買ってきてくれたりもしました。90歳を過ぎた父がです。

 父が94歳の時だったか、僕たち夫婦がパリのサロン・ドートンヌの合間を縫ってミレーの生れ故郷を訪ねる旅をした時、その途上、小雨が降るシェルブールの町角をホテルに戻りかけたところ、日本に居る妹から携帯に電話が掛かりました。それは父が倒れたと言う知らせでした。パリからリスボンに戻る切符をキャンセルして急遽日本へ帰りました。

 手術は巧くいって一時は元気を取り戻したましが、歳も歳、徐々に弱っていった様に思います。
 99歳になった昨年の夏にも倒れました。兄からの電話で「覚悟しておいてくれ。」とのことでした。その後の電話では「少し回復をした。でも意識のあるうちに一度帰ってきてみてはどうか。」とのことでしたので、1ヶ月ばかり帰国することにしました。そして父との時間をゆっくり過すことができました。野田総理からの100歳を祝う表彰状も届き、僕の手で壁に飾りました。

 今年はポルトガルに移り住んでから1番長い4ヶ月ばかりを日本で過し、5月24日のフランクフルト経由の便でようやくポルトガルの我が家に戻ってきました。戻って2日目に兄から電話がありました。父が亡くなったという電話でした。

 その後、妹からメールが届きました。以下、一部を抜粋します。

 「亜基良兄から聞かれたことと思いますが、父は5月28日の午前0時過ぎに、眠るように亡くなっていたそうです。1時間ほど前には話もしていたとのことで、父は自分が亡くなったことに気づいていないかもしれません。兄は父があまりに静かなので様子を見ると息をしていなかったそうです。すぐに心臓マッサージをしながら田島先生に連絡をしたというのを聞いて、まだ生かそうとしていたのかとあきれましたが、兄には黙っていました。兄でなく私が当番だったら、きっと朝まで気付かなかったことだろうと思います。」
 兄と妹の介護には感謝をしたいと思います。
 そして兄の娘たち、看護婦さん、ヘルパーさんたちと多くの人たちに囲まれての最晩年でした。
 でもよく100歳までも長生きをしてくれました。

 僕と父との最後の会話は、ポルトガルに戻る前日でした。父はいつものようにベッドに座ってうたた寝をしていました。手も足も布団から出ていましたので、手足をさわると冷たかったので、さすってやりました。父は「おかあちゃんの手は温うて気持ちええわ~。」と嬉しそうに言いました。僕は「おかあちゃんと違うで~。比登志やで~。」と応えました。父は照れ笑いの様に「ほっ、ほっ、ほっ」と声を出して笑いました。父はその時、どうやら母の夢を見ていたのかも知れません。僕は父の母との夢の時間を打ち破ってしまったことに多少の後悔をしています。

 母は10年も前に亡くなっています。今頃は天国で母との再会に喜んでいるのかも知れません。  

2012年6月12日、ポルトガル、セトゥーバルにて
武本憲太郎の次男、武本比登志筆

 

(この文は2012年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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160. アルガルベ地方小さな旅日記

2019-01-01 | 旅日記

明けましておめでとうございます。

 

2019年1月1日 (7:55)我が家のベランダから撮影の初日の出

160. アルガルベ地方小さな旅日記

 例年ならクリスマスにあわせてアルガルベ旅行をするところだが、今年は少し早めた日程になった。元々は油彩を描くためのモティーフを求めてポルトガル全国至る所に出掛けてはスケッチを描いてきた。年間50枚ほどの油彩を描くためのエスキースであるからそれ程は必要ではなかった。それでも長年にわたってのスケッチ、それが800枚1000枚と溜まっていく。

 数年前に思い立ってスケッチに淡彩を施し『ポルトガル淡彩スケッチ』というブログを始めた。それと一緒にメモ程度の日記を掲載している。これは毎日であるから、帰国で居ない時、旅行で居ない時は除いても年間200枚程のスケッチを掲載していることになる。それが先日で1600枚を超え2018年大晦日で1668景となった。

 当初は油彩用に描いたスケッチを描き直して淡彩を施していただけが、それでは間に合わなくなってしまって、今は淡彩スケッチを描くためのスケッチが必要ということになっている。

 今までもおおよそ他人の行かないところまで貪欲に足を延ばし描いてきた。でもまだまだ行っていないところも多いし、一度は描いたところでも立ち位置を1メートル2メートルずらすと、もう違う絵が出来上がってくる。

2018年12月20日(木曜日)濃霧のち晴れ。降水確率4%。

 朝食を済ませ8:30出発。少し通勤ラッシュ。濃霧。天気予報を見てからホテルの予約を入れたのだが、予報に濃霧までは予測がなかった。先日からフロントガラスが曇る。設定が旨く出来ていないか、排気口にゴミが詰まっているのか。或いは故障か。フロントには風が出ているのに曇る。弱いのだろうか?濃霧はいっそう強くなったり、弱くなったりでグランド―ラあたりまで。グランド―ラのリードゥルでトイレ休憩。

 ミモザの少し手前の松の大木にコウノトリが集団で巣を架けているのを以前から見ていたのだが、一瞬で通り過ぎてしまい、一度は停車して写真を撮りたいと思っていた。それがこの程、クルマ助手席の窓からの撮影が実現。

01.松の大木はコウノトリの集合住宅

 ミモザのドライブイン『サン・セバスチャン』でコーヒー休憩。コーヒーx2=1,40€。バカラウ・コロッケx2=2,60€。合計=4€。ヴィザカードで支払い。ヴィザは5ユーロからとのことで、5ユーロのレシートで1ユーロの現金でお釣りをくれる。このドライブインは例年クリスマス・プレセピオが飾られていて見るのを楽しみにしている。今年のものは昨年のよりは少し小規模だが可愛らしい。

02.ドライブインのプレセピオ

 もう既にアルガルベ地方、メッシ―ネスのドライヴイン・ガスステーション『ペトロソル』で昼食。豚ステーキのタマネギソース和え、ポンフリ、サラダ=7€。バカラウ・ブラス、サラダ=7€。ノンアルコールビールx2=2€。フルーツサラダx2。合計=16€。

 アルブフェイラの『リードゥル』で今夜のツマミの買い物、茹で蟹(サパテイラ・グランデ)9,99€。チョリソパン=0,79€。ピザパン=0,79€。箱入り赤ワイン1Lt=0,95€。リンゴ800g=0,99€。ミネラルウオーター(ルーソ)1,5Lt=0,57€。合計=14,08€。

 帰る日(22日)にリスボンの中華食品店『陳氏超級市場』のアルブフェイラ支店で買い物をして帰ろうと場所を確かめに行く。住所付近には『陳氏超級市場』はなかったが別の中華食品店があった。多分『陳氏超級市場』は撤退して他の人が経営を引き継いだのだろう。置いてある商品はだいたい同じ、ついでにツマミなどを買う。レシートを貰っていないのか、失ったのか、支払金額不明。おおよそ6~7€。

 ホテルに14:30に到着。フロントにはチェックインする人で5~6組の列。部屋はA503。海も見えて良い部屋だが東向き。荷物を置き、ビーチを散策。泳いでいる少年もいた。ビーチのバーでビール、生ビールx1。ノンアルコールビールx1。合計=4€。別の道、ホテル・モニカ・イザベルの方からホテルに帰る。テニスコートの横で灌木に地味な黄色の5~6弁花。これは初見花。ホテルの正面入り口付近はブルー系のイルミネーションで飾られている。駐車場の10株程の椰子の木にもらせん状にイルミネーション。椰子の株元にはポインセチア。入り口を入るとプレセピオ。

 部屋のテレビで先日のセトゥーバル対ブラガの試合を観ながら蟹を食べる。映画は映らない。部屋は寒くて、暖房を入れ、風呂に2回入り、毛布を掛ける。星空、多くの漁火。ファーロ空港に降り立つ飛行機のライトが見える。そして潮騒の音。

2018年12月21日(金曜日)晴れ。降水確率0%。

03.ホテルの部屋からの日の出

 朝は真正面から日の出。7:50頃に朝食サロンに。初めは空いていたがやがて満席に。殆どが英語。ウエイトレスも英語。たっぷりと食べ、たっぷりと飲む。

 9:00出発。やはり『ズー・マリーン』は冬休み。寄り道スケッチをしながらサグレス岬を目指す。でもポルトガルの沿岸線はどこも都会化或いはリゾート化され、絵になるところは少ない。日本でいう寒漁村というイメージはない。寒村は内陸部にあり、僕のモティーフはそちらの方が多い。

 途中パールシャルという町に立ち寄り、少しスケッチをし『デ・ボーラ』でトイレ。ついでに店内見学、買い物。紙ナプキン=0,59€。シャンプー750ml=0,99€。ベニテングタケとマツカサのクリスマス・リース用飾り=7,99€。合計=9,57€。

 街を出ようとすると踏切線路、そして駅が見える。引き返し駅へ、撮影。丁度列車が到着、数人が乗り降り。ファーロとラーゴスを結ぶ線で1日に往復14本があるらしい。駅舎はレストランになっていて、コーヒーを飲む。コーヒーx2=2€。

 ラーゴスの手前でアンタの標識があったので行ってみた。綺麗に整備された『アンタ遺跡』で入場料が1人2€x2=4€。カタログ=1€。カタログも葡語の他に英語、仏語、独語、西語と揃っていた。初めて見る形のアンタだ。他にも2組3人の見学者。オリーブの木に小さな実が一杯成っていて道にもたくさん落ちていた。誰も収穫しないのか?勿体ない。

 サグレスの魚競り市場のレストランを目指したが休み。その手前のレシデンシアルのレストランも閉まっている。ベリッチェ岬のレストランも定休日。日本では金曜日は来ン曜日とか言って、お客は少なく定休日にしているところが多いとのことだが、ポルトガルでも金曜日はどうも定休日が多いようだ。

 アルガルベ地方では例年のクリスマス時期には既にアーモンドの花が咲いているのだが、今回は2~3日早いだけなのに一輪も見られない。

 サグレス岬の駐車場付近で野の花観察。やはりヴィオラ・ペルシシフォリア(桃葉スミレ)は咲いている。ロブレア・マリティマ(スイート・アリッサム)やアレクリン(ローズ・マリー)もたくさん咲いている。この岬のアレクリンは濃色が多い。しかし目新しい花はなし。

 ビラ・ド・ビスポの方角に帰ろうとすると『漁師の食堂』の看板。そちらに行ってみたがやはり定休日。その先にもう一軒レストランの看板。たくさんの商用車が路上駐車をしている。これは期待が出来ると入ってみる。入り口の黒板に今日のメニューは鶏の炭火焼き。冷蔵ショーケースには新鮮な鯵。これで決まり。鶏の炭火焼き=7,00€。鯵の炭火焼き=8,00€。生ビール=1,00€。ノンアルコールビール=1,50€。デザート2,5x2=5€。合計=22,50€。デザートを食べ終える頃には既に3時を回っていたので、ウエイターの小父さんはすぐに会計のレシートを持ってきた。「デスカフェイナードも注文しようと思っていたのに」と言うとデスカフェイナードを持ってきたが「もうレシートを切ってしまったのでコーヒー代金はいらない」という。なかなか良い店が見つかった。鯵などは新鮮で大きいのが7尾も付いていた。食べ切れないので持って帰ったが、ホテルでも食べられず冷蔵庫に入れておいて結局自宅まで持って帰った。日本人らしきカップルが居たが話はしなかった。旅行者だろうか?

 ホテルに帰る途中、ラゴアのジュンボGSでガソリンを満タンに。24,12Ltx1,369=33,02€。クルマの正面に大きな満月。ホテルに戻ったのは暗くなってから。部屋のテレビは映画もなし、サムスンで薄型テレビに代わっていたが画像が乱れ見にくい。エアコンの温度を上げる。

2018年12月22日(土曜日)晴れ。降水確率0%。

 7:50から朝食。今朝もたっぷりと食べ、たっぷりと飲む。アルブフェイラ出発前に中華食品で豆腐などの生ものも含め、買い物をして帰る予定なので、ホテルの冷蔵庫で1,5リッターのミネラルウオーター2本を昨夜から凍らせておいた。

 ホテルを9:00出発、チェックアウト時に鍵のデポジット10€を受け取り、先日撮った花を朝の光で撮る。

 アルブフェイラ、ベラ・ヴィスタ地区の中華食品店『Folhas Queridas愛の葉っぱ』へ。土曜日の朝だからか、中国人常連客で賑わっていた。大根2,02kgx1,95=3,94€。白菜0,8kgx1,95=1,56€。即席ラーメン(出前一丁)0,60x6=3,60€。焼きそば乾麺418g=1,95€。餃子皮200g=2,50x2=5,00€。醤油(万家香)1Lt=3,50x2=7,00€。豆腐500g=1,30x2=2,60€。牡蠣油907g=4,95€。キッコーマン醤油1Lt=7,25€。油揚げ=2,80€。合計=40,65€。サーヴィスで凝った来年のカレンダーをくれたが、見にくくて恐らく使えない。凍らせた水と一緒に必要な食料、それに鯵を保冷バッグに。

 当初はヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオで話題のプレセピオを見学して、カストロ・マリム経由で帰る予定だったが、少々疲れたのでIC1で。スケッチをするつもりですぐに横道にそれた。それたすぐにはいい場所があったが、その後はなかなかスケッチの出来るような村はなく、代わりにアルブツス・ウネドが綺麗に群生しているところで撮影が出来る。

04. アルブツス・ウネド(イチゴの木)の白い花と赤い果実。この赤い実から特産の焼酎ができる。

 途中風変わりな標識、ヘリコプターとタンクローリーが水を汲める場所。小さな池があった。こんな水溜り程度の池でもヘリコプターで水が汲めるのだ。2018年8月に1週間燃え続けたモンシックの山火事もここからそれ程遠くはない。そう言えばその時のモンシックの山火事でユーカリと共にこのアルブツス・ウネドの木がたくさん燃えてしまった、とニュースは伝えていた。赤く熟した実を口に含んでも甘酸っぱくて美味しいのだが、赤い果実は蒸留酒の原料となり、アルコール度数46度もの強い酒になり、アルガルベ地方の特産品ともなっている。

05.水汲み場の標識

 いっぱいの朝露を受けて、エリカ・アルボレアも咲き始めていた。それとカモミールとアブラナ科の小さな花が一面に花盛り。この辺りは低地なのか湿度が高い。

 あちこちにため池がある。その先の地道を奥へ奥へと行くとやがて行き止まり。イギリス人のコミュンがあった。こんな奥地の古民家を買って、キャンピングカーも交えてイギリス人が数家族で暮らしているのだ。イギリスなどと比べると物価は安いし、暖房費はいらない。余程過ごしやすいのだろうと思う。それに加え、英語を話すポルトガル人は増えている。

 道は水没して行き止まりになっていたので元来た道を引き返し、舗装道路を行く。行くがスケッチの出来そうな村には行き当らず、お腹も空き始めたので、アルモドバール方面行きの道に出る。ようやく店が1軒。クルマが停まっていた食堂風の店に入ったが「昼食はやっていない。3キロ先にあります」とのことで3キロ先の食堂に入る。ほぼ満席。空いていた入り口付近の席へ。黒豚のステーキx2。ポンフリ、サラダ、ノンアルコールビールx2。デスカフェイナードx2。合計=16€。この辺りはどこも安い。黒豚のステーキが2枚ずつもついてこの価格。

 アルモドバールはつい先日もスケッチをしたところだが、再度歩き回ってスケッチ。少し大きな町ともなると、どこもクリスマス・イルミネーションの飾り付けがあり、スケッチの邪魔になるが、仕方がない。

 アルモドバールに着くまでに思った以上に難行したので、IP2に乗って、べ―ジャ経由で帰ることにした。

 西日はすぐに沈み、空一面に広がった夕焼けが美しい。美しい夕焼け空を楽しみながらゆっくりクルマを走らせたいところだが、他のクルマの流れに沿って、それ程広くもない道路を100キロ前後での運転。やはりフロントガラスが曇り始めたが、左側の吹き出し口のスイッチがオフになっていた様で逆にすると、曇りはほぼなくなる。

 フェレイラ・デ・アレンテージョからカナル・カベイラそしてIC1に入りグランド―ラ。グランド―ラの『コンチネンテ』でトイレ休憩。夕方のコンチネンテは買い物客で一杯。カフェに席が空いたのでデスカフェイナードx2。パスティス・デ・ナタx1。「コンチネンテのカードをお持ちですか?」で出す。合計=1,60€。

 家に帰りついたのが19:30頃だったか。いつもの駐車スペースは塞がっていて隣のマンションの前へ。買って帰った中華食品などを冷蔵庫に入れ、風呂に入り、テレビの映画も観ないでぐっすりと眠る。

 帰った翌日はアルガルベで買って来たベニテングタケのクリスマス・リースの追加をぶら下げ、ボーロ・レイ(ポルトガルのクリスマスケーキ)にアルブツス・ウネドの焼酎をたっぷりと振り掛けクリスマス気分を味わうこととなった。

 ちなみにボーロ・レイを食べる日は1月6日である。

 あまり描くところがないように思った旅だが、それでもスケッチブックの1冊が埋まってしまった。VIT

 

 

 

「ポルトガル淡彩スケッチ・サムネイルもくじ」

https://blog.goo.ne.jp/takemotohitoshi/e/b408408b9cf00c0ed47003e1e5e84dc2

 

 

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