武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

113. 哀悼 めがね

2014-03-30 | 独言(ひとりごと)

 めがねはもうこの世にはいない。昨年11月に亡くなっていたらしい。12月に催した僕の個展の1ヶ月前には既に亡くなっていたことになる。

 

 めがねと知りあったのは高校3年生になったばかりの時、1964年という年号が正しいかどうか、恐らくその頃だ。思えば長い付き合いであった。

 

 眼鏡をかけていたからめがねだったのだろう。知り合った時には既に皆からそう呼ばれていた。正式の名前も皆は知ってはいたが、名前を呼ぶ友人たちは居なかった。他の友人たちも名前ではなく、お互いにそういった呼称で呼ばれていて、そういうものであった。

 僕がそのめがねたちのグループと知りあった最初はイノコである。同じ北田辺で乗り降りするからか、通学電車で顔見知りになり、やがて話す様になったのだと思う。そのイノコのグループにフー子ちゃん、マッサン、メガネ、タガヤさんなどが居た。他にも数人はいたが呼び名は忘れた。タガヤさんだけは何故か本名だったのが、今思うと不思議な気がしないでもない。めがねたちは羽衣学園という女子高の女子高生だった。いわゆるお嬢さん学校で、お金持ちの子女たちが通っていて、中学から短大までの一環校だった。ちなみに僕はそのめがねたちのグループからはヒトシクンと呼ばれていて少々こそばゆかった。

 

 僕は私学の男子高に通っていた。高校では美術部で活動をしていた。年2回の展覧会に出品するのが大きなイヴェントであって、高校には絵を描きに通っていた、と言っても過言ではない程、絵に夢中な高校生活を送っていた。絵を描きに通っていたといっても普通高の進学校であったから勿論授業は普通である。自慢することではないが、勉強は全くしなかった。そして3年生になった時、絵だけではなく、何か今でないと出来ないものをと思って、文化祭に向けてビートルズをやろうとバンドを結成した。

 

 ビートルズをはじめるきっかけを話すと長くなるが、書いてみようと思う。

 その頃の大阪の男子高校は殆どが丸刈りであったが、他の高校でもほぼ一斉に同じ長髪運動なるものが起こっていた。僕たちより上の世代が既にその運動を起していて、僕たちの世代が何もしないでその恩恵に預かったという訳である。僕は中学生までは丸刈りではなかったので、高校に入って初めて丸刈りになった。でも長髪運動のお陰ですぐに長髪にすることになった訳である。僕は美術部であったからか、画家風に髪の毛を伸ばし放題にしていた。要するに散髪屋が好きなほうではなかっただけなのだ。押さえつけられてじっとしているのが嫌いなのである。

 そんな僕に向って、ある友人が「たけやん、ビートルズみたいやな~」と発した。僕はたけやんと呼ばれていて、今でも一部からそう呼ばれている。その友人は流行の西洋音楽に詳しく、僕なども聴きはじめていたジャズなどにはことのほか詳しい奴であってよく音楽の話もした。

 そんな話の中「そのビートルズて何やねん」と聞いた。未だビートルズがたった1枚のドーナツ版を発売したばかりの時で、殆どだれもその存在を知らない頃であった。その1枚のドーナツ版は「ラヴ・ミー・ドゥー」である。でもラジオからはプリーズ・プリーズ・ミィなど別の歌も流れはじめていて、早くLP版が出ないかなと待ち遠しく思った時期でもある。

 そのビートルズを文化祭でやろうという訳であった。文化祭の前に体育祭があった。その仮装行列で僕たちはビートルズに扮した。仮装行列では他にも女装したマキシムの列もあった。僕は友人から頼まれてイノコからマキシムのスカートを借りた。イノコたちは体育祭に見学に来ていて、僕のビートルズ姿を見て「エレキやるの~」と目を輝かせた。あとで知ったのだが、イノコはギターの弾き語りでいろんなポップスを唄えた。勿論、フー子ちゃんはその先頭で、歌がことのほか旨かった。後に「五つの赤い風船」のリードヴォーカルとしてプロで活躍したことは知られている。ビートルズも一気に有名になり、文化祭のビートルズも成功して、その後も暫くはバンドを引きずっていた。そんな話は又別の機会にするとして、イノコたちとはますます近くなっていた。そのグループのめがねはファッションに目覚めていて。自分で服などを作っていた。イノコから借りたマキシムのスカートはめがねの手製であった。

 卒業目前の頃だと思う。ファッション誌「装苑」がファッションモデルを募集していることを知って、めがねは応募してみようと思ったらしい。その応募写真を僕が頼まれた。僕が自宅で現像、焼付けなどをやっているのをイノコが知っていて、それをめがねに言ったらしくて、それならと言うことになったらしい。僕は自信がなかったけれど「どうしても」と言うことになり引き受けざるを得なくなった。

 その頃は未だ競技場など何もなかった長居公園で撮影ということになって、めがねと待ち合わせた。顔写真と全身写真をキャビネ版に引き伸ばした。めがねは何故か僕に全幅の信頼を寄せてくれていて、写真もだが、ことのほか下手な僕の文字までを気に入って、その応募封筒の宛名まで僕に書いてくれということで仕方なく僕が書いた。

 でもそのファッションモデルの応募には残念ながら不合格であった。僕の責任は大きい。

 

 僕は高校を卒業して進学もしないまま、就職もしないままであった。何とか変化を求めるべく、東京でデッサンの勉強をすることにした。東京では映画の試写会に応募して封切前の映画をよく観たり、クラシックコンサートの無料チケットで楽しんだり、そして今まで読まなかった本を読んだ。そんな中にグリムやイソップ、アンデルセンなどの童話もかなり含まれていた。高円寺の古本屋では岩波童話が格安で出回っていたからだ。そして少しの手紙も書いた。イノコにも書いたがあまり返事は来なかった。筆不精なのだ。めがねにも書いたが、めがねの方がよく返事をくれた。ある時手紙に「どんぐりの王子様」という童話を添えたのを覚えている。めがねはそれをことのほか喜んでくれて、感激的な返事をくれた。

 高校を卒業して、しばらく経った頃だったと思う。めがねはお祖母さんの綾野町の自宅を受け継いでブティックを立ち上げた。天王寺から路面電車が浜寺公園まで繋がっているが堺市に入ったばかりのところに綾野町という駅がある。その路面電車駅から東西に伸びる道路沿いにその二階家はあった。そしてその1階をブティックに改装した。ブティックの名前を何か考えてくれとめがねに頼まれた。僕はその頃大阪に帰ってきていて大阪芸大に通っていた頃だ。僕は芸大同級生のMUZに相談した。MUZはいろいろ頭を捻った挙句「むうる」ではどうか?ということになり、めがねに言ったらめがねはことの他気に入った様だった。最後のるは小さく書いたるである。サインペンで書いたそのままがロゴ文字となった。めがねはその前にコットンハウスと付けて、コットンハウス「むうる」とした。可愛いプリントのコットン地でスキャンティーと言う下着をメインにしたブティックだった。

 オープンの時には大勢の友人たちが集まっていた。めがねの交友関係の多さに目を見張った程である。真新しいガラス張りのショーウインドウに「むうる」の文字と花のデザインを描いた。エナメルか何かが用意されていた。

 

 その後、1971年から僕とMUZはストックホルムで暮らすことになった。1974年のことだったと思う。突然、めがねが尋ねてくれた。パリで僕の住所を聞いてきた。とのことだったと思う。パリではその前前年だったか、大学の先輩のあまの、あーたんご夫妻にお世話になっていた。そのご夫妻から住所を聞いてきたとのことだったが、あまの、あーたんご夫妻とめがねの関係が判らないままであった。

 あまの、あーたんご夫妻とめがねを結ぶ関係にIKUOさんがいる。IKUOさんはパリで永くジュエリー作家をしておられる。僕自身はIKUOさんにはお会いしたことがなかったが、IKUOさんのお名前は高校生の頃、イノコからたびたびいくおちゃんとして聞いていた。その後パリで暮らしていると言うのもめがねからも聞いていた様にも思う。あまの、あーたんご夫妻もIKUOさんもパリに永く暮らしておられるので知り合いになったとしてもおかしくはない。

 

 僕もMUZもストックホルムでは別々のレストランで働いていた。その隙間をぬってめがねと過したストックホルムでのひと時は今も鮮明に蘇る楽しい思い出である。

 めがねは未だ独身であった。

 ストックホルム、ニューヨークと暮らし、南米を1年かけて日本に戻ってきた。戻って来てMUZの故郷である宮崎で13年を暮らした。その間も毎年1回、大阪でのグループ展 に参加したが、その都度めがねは画廊を訪れてくれた。

 ポルトガルに住んで絵描きとして生活をするようになった。

 毎年、日本で個展を催す。その大阪での個展にもめがねは必ず顔を見せてくれた。

 ブティックはコットンハウスからマルシェに替わっていたが「むうる」はそのままである。パリの輸入雑貨なども扱い、コットンの下着などだけでなく、もっとファッション性のあるデザイナーブランドとして成功しているように思って嬉しかった。

 かっこよい男性とも結婚し姓が代っていた。そして男の子にも恵まれ、たいそう可愛がって育てていた様に思う。名前は祥平くんと言った。その頃は綾野町ではなく津久野というところの池の傍にモダンなコンクリート打ちっ放しの一軒家に住んでいた。そこにもマルシェ「むうる」の文字があった。僕は綾野町には2回行ったことがあるが、その津久野には1回だけ、その後移り住んだ太子町葉室にも1回だけお邪魔したことになる。いや綾野町の前に住んでいた金岡団地にも1回行ったことがあるが、殆どが別の場所で会っている。

 津久野の豪邸と白色のベンツを乗りこなすめがね一家は本当に成功者としか見えなかった。津久野の居間の広いテーブルで僕たちが話している傍らで小学生の祥平君が宿題の算数をすらすらと解いてゆく。

 まばゆいばかりの生活がそこにはあった。

 津久野から葉室に移ったのは何故だか僕には知る由もない。

 

 数年前の大阪高島屋の個展会場にめがねと祥平君がそろって来てくれた。そしてぽつりと「お父さんが1週間前に死んだ。」と言った。咄嗟にお父さんとは誰のことか僕には飲み込めなかった。「お父さんて誰?」と僕は聞き返した。ご主人のことである。癌だったそうである。

 僕はすぐにご冥福を伝えに葉室を尋ねた。葉室に行ったのはこれが最初で最後となった。二人で精一杯のご馳走をしてくれて、帰りには祥平君がCDをコピーしてくれた。ノラ・ジョーンズのRADIO。ノラ・ジョーンズはお父さんも好きだったらしい。ニューヨークのピアノジャズ専門ラジオ番組「MPR」に出演した時の録音で、ノラ・ジョーンズの中ではどのCDよりもジャズっぽくて素晴らしく、今もアトリエで常時かけている僕の一番のお気に入りだ。

 

 昨年、12月に催した大阪高島屋の個展の案内状はめがねと祥平くんの連名で投函した。祥平君は4月に、めがねは11月に既に亡くなっていたのを知ったのは後になってからのことだった。祥平君が亡くなっていたというのは12月になってから個展の会期中だったか、あーたんのシャンソンライブを聴きに行った翌日、あーたんから聞いた。めがねが亡くなっていた、というのもあーたんから1月2日に宮崎滞在中の自宅に電話で知らせてくれた。その前の12月の個展会期中に高島屋に葉室のめがね宛の案内状葉書が戻って来ていて胸騒ぎがしていたのだ。

 

 そしてきょう、パリのあーたんからめがねの遺品のパンタロンがセトゥーバルに送られてきた。まさにめがねの作品である。えんじ色のウール地でポケットのところがめがねらしく凝った造りで裏地にもセンスの良さが感じられる。そしてベルトのあたりの内側にピンクのシールが、それにはまさしく僕が書いた「むうる」のロゴマークが白抜きで、いかにも寂しげに縫い付けられてあった。

 

 これを書きながら僕は涙が止まらない。

 人には寿命というものがあって誰もがいつかは死ぬ。仕方のないことだが、もっと話したかったことや一緒に長く過したかったことなどめがねほど心残りな友人は他にいない。

 そしてこれほど寂しいことはない。

2014年3月25日 セトゥーバルにて武本比登志

 

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コメント (3)
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