武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

181. 『リスボンに誘われて』(Night Train to Lisbon)Comboio Nocturno para Lisboa

2021-02-01 | 独言(ひとりごと)

 コロナ禍で様々な規制が発令されている下、全く民主的な選挙でマルセロ・デ・ソウザ大統領が再選された。投票率は前回を上回る60,5%。現職マルセロ・デ・ソウザ大統領は圧倒的な強さで60,7%の250万票を獲得、他の6名の候補者を寄せ付けず圧勝した。前日の投票所にはマスクをした有権者が2メートル間隔で長い行列を作っていた。

ポルトガルの映画ポスター

 その夜のテレビで2013年公開のドイツ、スイス、ポルトガル共同製作映画『リスボンに誘われて』(Comboio Nocturno para Lisboa)を観た。もう3回目だろうか。いや、4回目かもしれない。良い映画なら何度観ても良い。繰り返し見ることによって細かいところまで見えてくる。とは言っても英語のままで字幕スーパーはポルトガル語なので、なかなか細かいところを見るには時間がかかる。

 『スイス・ベルンの高校で古典文献学を教えているライムント・グレゴリウス(ジェレミー・アイアンズ)57歳は、多様な言語に精通し、チェスの名士で、同僚や生徒から畏敬される存在だが5年前に離婚し、孤独で退屈な日々を送っていた。ある雨の日、通勤途中のライムントは橋から飛び降り自殺をしようとする若い女性を助けるが、授業開始時刻は迫っている。彼女がついて行きたいと言うので授業を見学させることに。授業の途中で彼女はコートを残したまま姿を消した。ライムントが残された赤いコートのポケットを探ると小さな古い本が出てくる。本にはライムント馴染みの古書店の座判が押してあり。その古書店へ行く。「昨日若い女性が買った本だ」とまでは分かったが、女性の手がかりはつかめない。本から紙切れがはらりと落ちた。それは出発間近のリスボン行き列車のチケットであった。駅に駆けつけたライムントだったが、彼女を見つけることができず、動き出した列車に咄嗟に飛び乗ってしまう。列車の中で本を読み始めたライムントは本の内容に心を奪われ、著者であるアマデウ(ジャック・ヒューストン)を訪ねてみたい衝動に駆られる。しかしアマデウは若くして亡くなっていたことを知った。本はアマデウの死後、妹のアドリアーナ(シャーロット・ランプリング)によって100冊だけ作られた本であった。リスボンの坂道をさ迷い歩いていたライムントは坂道を猛烈な勢いで駆け下りてきた自転車に追突され眼鏡を壊されてしまう。新たに眼鏡を作ろうと、リスボンの眼鏡店を訪ねる。検査技師の女性マリアナ(マルティナ・ゲデック)は伯父ジョアン(トム・コートネイ)がアマデウを知っているという。そして彼女に連れられ渡船に揺られテージョ川を渡りセトゥーバル半島にある老人ホームに彼を訪ねる。これをきっかけにアマデウを知る人々を訪ね歩く中で、ライムントは1974年まで続いた独裁政権「エスタド・ノヴォ」時代のポルトガルにおけるレジスタンス活動に関わったアマデウの愛と青春を知ることとなる。』

 僕はリスボンから50キロほど離れた港町、セトゥーバルに住んではいるが、リスボンには随分と行っていない。コロナ禍になって、この1年は外出禁止令や自治体を跨ぐ移動の制限など様々な規制もあり、その間はもちろん一度も行っていないのだが、実はその前から随分と行っていない。

 前述に映画の細かいところまで見えてくる。と書いたが、内容も殊更ながら小道具なども観ていておやっと思い当たる事がある。最初に観た時にも「へえ~」と思ったのだが、アウグスト通りの紳士服店である。僕はポルトガルに住み始めて間もない頃、この店でツイードのジャケットを買った。ショーウインドウに展示されていたのが柄も色も気に入って購入したものだ。既製服だが手直しが必要だったので数回は足を運んだ店である。僕が買ったのは1990年代だから映画の撮影よりは遥かに前である。でもそのツイードジャケットは僕にはあまり似合わないと思っているのと、セトゥーバルの気候には温かすぎる厚手のツイードで数度しか袖を通していない。今回3度目の映画を観て更に「ほっほー」と思ってしまった。何とジェレミー・アイアンズが僕のツイードジャケットとそっくり同じ色柄のツイードジャケットをその店で買っているのを映画の画面で見て取ることができた。(映画の中ではこの店でシャツを買った。となっているが、実際にはツイードジャケットだと思う。)しかもその店の深緑色のスーツバッグまで同じだ。悔しいけれどジェレミー・アイアンズにはそのツイードジャケットは非常に似合っていた。(映画のポスター参照)

 セトゥーバルに住み始めたのは1990年9月からである。住み始めた当時はマリオ・ソアレスが大統領でカヴァコ・シルバが首相を務めていた。マリオ・ソアレスはリスボン大学で教鞭をとっていた教員だが、独裁政権当時たびたび逮捕されパリ亡命を余儀なくされていた弁護士で革命後呼び戻され外相、首相を歴任し大統領となった。首相のカヴァコ・シルバは経済学者でポルトガルの経済を立て直した立役者だ。そしてマリオ・ソアレスはPS(社会)党でカヴァコ・シルバはPSD(社会民主)党で対立する党派である。その後も政権は変わったが、大統領と首相は常に対立党から選ばれていた。いわば捻じれ現象であるが、国民はそれを望んでいる様に思える。今回の選挙でも与党PSから女性候補が立ったが得票率12,97%とトップからは大きく引き離され次点に終わっている。懸念されるのは最近出来た右派が第3位に食い込んできたことだ。セトゥーバルは労働者の街と言われ、左派が強い。その右派の候補者がセトゥーバルに遊説に来た時である。住民たちは『ナチズムは帰れ』などと書かれたプラカードを持って、激しく抗議していた。しかしヨーロッパでは最近になって少しずつ右派の台頭が目立つ。

 セトゥーバルに住み始めて10年目にクルマを買った。それまでもポルトガル全国隅から隅まで旅は随分とした。列車やバスでの旅であった。リスボンにも今より頻繁に出かけていた。バレイロまで列車で行き或いはカシリャスまでバスで行きテージョ川を渡る渡船に揺られた。だからジェレミー・アイアンズとマルティナ・ゲデックが一緒に船に揺られているシーンも殊更懐かしく感じた。テージョ川を渡る船の後方に『4月25日橋』も見えたがエスタ・ド・ノヴォ独裁政権時代には『サラザール橋』と呼ばれていた。

 そもそもポルトガルに住みたいと思ったきっかけを書きたいと思う。

 1971年から4年余りをスウェーデンのストックホルムに暮らした。1971年の最初の年は夏から3か月だけを暮らし、寒くなり始めたので温かい南の国を目指した。途中、美術館などを見逃すことなく南下した。ストックホルムからパリまで何と2か月が経過してしまっていた。フォルクスワーゲンマイクロバスのポンコツをストックホルムで買い、寝られるように、自炊が出来る様に自分で改造をした。冬の寒さの中、2か月もクルマの生活だと暫くは落ち着きたくなる。でもパリの住宅事情は悪く、短期間の部屋など借りられる筈もなかった。パリ、ブローニュの森とヴァンサンヌの森のオートキャンピング場で春を待った。そして再び南下を始めた。スペインからポルトガルまで行くつもりであった。スペインもフランコの独裁政権国であったが3か月を過ごすことが出来たが、ポルトガルはヴィザなしでは3日間しか滞在が出来ないという厳しい国であった。ポルトガルもサラザールから政権を引き継いだカエタノの独裁政権の国であった。僕たちの旅はゆっくりで一つの国に1か月を目安としていたので3日間ではあまりにも短すぎると思い、ポルトガル入国は諦めたのだ。そしてスペインからモロッコへフェリーで渡った。1972年のことである。

 その後ストックホルムに舞い戻り4年余りを過ごし、その間、東欧を含めヨーロッパのあらゆる国を訪れたがポルトガルにだけは行かずじまいでアメリカに渡り南米も含め2年を費やし6年ぶりに日本に帰国した。

 日本では国道10号線沿いとはいえ山の中で飲食店を経営していた。絵もぼちぼちは描いていたのだが、10年程経った頃からヨーロッパの街並みの絵を描きたくなってきていた。

 僕が本格的に油彩を描きはじめたのは高校生の時だ。美術部に入って神戸の街並みや大阪の工場地帯などを建物が折り重なる様な構図で描きはじめていた。描くことが面白くて仕方がなかった頃だ。僕の絵の原点だろうと思う。もう一度原点に立ち戻り本格的に絵を描きたいという思いに駆られていた。そして油彩は油彩が発祥したヨーロッパでこそ相応しいのではと考える様にもなっていた。それには再度の移住しかない。移住の候補としてインドネシアやもう一度ストックホルムも考えたがイメージとしては南ヨーロッパが強かった。イタリアでも良かったし、南フランスでも、或いはスペインでも良かった。でもヨーロッパで一度も訪れたことがなかったポルトガルはどんなところかと考えていた。

 ポルトガルに住み始める3年前の1987年である。香港、ムンバイ経由、南回りのインドネシア航空でフランクフルトに降り立ち、かつて4年間を過ごしたストックホルムを目指した。折しもストックホルムではサッカーの国際試合が行われているとかで郊外にしかホテルが取れなかった。そして相変わらず物価は高くて、ここに住んだなら預金はたちまち底をついてしまうと思った。

 ストックホルムのガムラスタン(旧市街)を歩いていて画廊のショーウインドウに一枚の絵を見つけた。6号くらいの小さな絵で普段なら見過ごしてしまう古臭い画法の牧歌的な風景画で知らない画家の油彩だったが、タイトルに『ポルトガル風景』とあった。何の変哲もない風景画だが何処か味わい深く、まるで骨董品でも見るような、或いは描いた画家が最後まで手元に置いて愛でていた絵の様にも感じ、なにか「こんな絵もいいな」と感心した。そしてその夜、リスボンを目指し、パリ行きの夜行列車に乗った。

 次の年、油彩の道具を携え1か月のポルトガル旅行をしてみた。ポルトガルでなら幾らでも絵が描けると思った。

 日本で今までは山の中に住んでいたので、今度は港町に住んでみたいと思っていた。そして港町セトゥーバルに部屋が見つかった。セトゥーバルはリゾートっぽくもなく、大きすぎず、小さすぎもせず、庶民的生活臭のある僕にとっては理想的な町に思えた。そうして1990年9月から本格的に住み始めたのだ。住み始めた当初は1年も住めれば良いかなと考えていたが5年が10年になり、気が付けば30年である。そろそろ帰国をと考え始めた矢先にコロナ禍である。

 映画『リスボンに誘われて』のラストシーンがいい。

 スイスに帰ろうとするライムント・グレゴリウス(ジェレミー・アイアンス)をリスボンのサンタ・アポロ―ニャ駅まで見送りに来たマリアナ(マルティナ・ゲデック)が出発間際のベルが鳴り始めたホームで「Why don’t you just stay ?」(だったかな?)「何故、リスボンでは駄目なの?」「What did you say?」「えっ、今、何と仰いました?」

 

 日本の映画ポスターにはラストシーンが挿入されている。自殺しようとした若い女性の赤いコートだけ手に携え、着の身着のままでやって来たライムントだったのだが、ラストシーンのサンタ・アポロ―ニャ駅のホームではリスボンで買ったツイードジャケットを着、その紳士服店の深緑色のスーツバッグを手にしている。VIT

 

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