武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

127. チョコレートにトウガラシ Chocolate com pimenta

2015-08-31 | 独言(ひとりごと)

 露店市の食堂のショーケースにはムース・ド・ショコラーテ(チョコレート・ムース)とアロス・ドース(ライスプディング、米プリン)しか残っていなかった。少し迷ったがアロス・ドースを注文した。

 

チョコレートにトウガラシ

 この食堂では、今まであまりデザートは食べなかったのだが、きょうに限って甘いものが欲しくなって食べることにした。鶏の炭火焼が少し塩辛かったのかも知れない。それにピリピリ(モーリョ・デ・ピメンタとも言うトウガラシ、タバスコ)を掛けすぎた。

 先月の話では、マサゴ画廊のNACKシニア展でジャズ好きの友人が同席し、そんな話から「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」へと話が発展したが、今回も同様、マサゴ画廊に親友、米吉(アロス・フェリシア)がチョコレートを携えて来てくれたところから話を始めようと思う。

 米吉は僕の古くからの親友である。高校美術部以外の親友で、悪友と言っても差し支えない。良いことも悪いことも全て米吉と一緒にやってきた本当の悪友である。いや、良いことなど一つもない筈だ。高校の1年から同じクラスで、何かにつけ一緒にワルさをやってきた。教室に立たされる時も一緒だった。

 僕はずっと美術部で、先月の話にも書いたように、3年生の時にはバンドも結成した。米吉はバンドにも美術にも無関心で、全く関係のないところの悪友という訳である。

 3年生の時に僕はバンドを結成したが、米吉は生徒自治会の副会長に立候補した。僕に応援演説を頼んできたので引き受けざるを得なかった。僕が足を引っ張ったにも拘らず見事副会長に当選してしまった。

 その以前から米吉はお喋りである。お喋りであるがあまり話が巧いとも言えない。僕はどちらかというと聞き役で、適当に聞いている。話の半分くらいしか聞いていないのかも知れない。あるいは聞きながら他のことなどを考えていたりする。でも良く聞いてみると理にかなっていたり、感心するところも無きにしも非ずである。

 僕と米吉を一緒に見て呉やんはすかさず「何で長続きしているのかが判ったわ。漫才のボケとツッコミや」と言った。僕がボケで米吉がツッコミという訳である。そうすると、もう50年以上のコンビになる。

 先日、米吉がマサゴ画廊にやってきたときはチョコレートの講釈を盛んに述べたてていた。要するに「身体に良いからもっと食べなければならない」という訳である。それを1時間でも2時間でも喋り続ける。同じ事を繰り返すのではなく、次から次に資料が出てくる。脳みその中に資料が折りたたまれて入っているのだ。人の名前や細かい年号まで次々に飛び出す。まるでコンピューターの様だが、米吉はコンピューターはしない。根っからのアナログ人間である。

 僕以外にもその話を聞いていた人は4人ほど居たが、皆が半分しか聞いていないか、全く聞いていないかのどちらかだろう。馬耳東風である。

 米吉は「きょうはひとつチョコレートの話をしてやろう」と余程覚悟を決めてマサゴ画廊に入ったに違いない。自宅の河内天美の遠方から拾った様なクソボロママチャリでやってくる。途中、スーパーで徳用袋入りチョコレートを買ってきている。仕事をしながら横で聞いていた画廊の奥さんも多分半分しか聞いていないのだろうと思うが「面白いわね~」などと相槌を打つ。危険なお世辞だ。

 チョコレートは中米原産だそうだ。と言うより、チョコレートの原料のカカオ豆が中米原産で、それをコロンブスがヨーロッパに持ち帰り、今のチョコレートに発展していったというほうが正しいのかも知れない。当時は固形物のチョコレートはなく、飲物のチョコレート、つまり日本で言うところのココアとして使われていた。

 古くマヤ文明では紀元前2000年頃からカカオ豆を栽培していて薬として使っていた。カカオ豆にトウガラシをトッピングして食べるのだそうだ。少し前になるが、ブラジルのテレビドラマで「ショコラーテ・コン・ピメンタ」というのがあった。訳すとチョコレートにトウガラシとなる。ブラジルにはハチャメチャなテレビドラマが多いのでその類かと思っていたが、案外とマヤ文明からの伝統を継承しているのかも知れない。

 

 ヨーロッパにはチョコレート専門店が多いのに気付く。パリなどには至るところにある。ポルトガルにもあるがパリ程ではない。南米のパリと呼ばれるブエノスアイレスにもチョコレート専門店があった。ブエノスアイレスから遥か南、マゼラン海峡を渡ったところにフエゴ島がある。それより南はもう南極大陸しかない。そのフエゴ島にウスアイアという町がある。地球最南端の町である。町と言っても何もない。観光客が訪れるからホテルはあったのだと思う。僕たちも1週間ばかり滞在した。1週間ばかり滞在した、と言うより、滞在せざるを得なくなったのだ。

 南米大陸からフエゴ島へ渡るには飛行機しかない。しかもアルゼンチンの空軍が運用する飛行機しかないのだ。乗る前には乗ったことのある人から「宙返りするから」などと脅されていた。

 スチュワーデスならぬ、カーキ色の軍服を着た男の軍人さんが飲物とお盆にチーズを挟んだサンドウイッチを乗せてよろけながら客席にサービスに来る。軍服を着ているから軍人さんと判るが、指で押せばこけてしまいそうで気の弱そうな軍人さんだった。まるでチャップリンが軍服を着たような…。皆が1つずつお盆から受け取り食べる。残ったのか、又、回ってくる。2度目にはお客の手はあまり出ないと見えて、お盆のサンドウイッチは減らない。サンドウイッチは干からびて反り返ったりもしている。それを携えて何度も軍人さんは回ってくる。そんな飛行機であった。幸いなことに僕たちが乗った飛行機は宙返りこそしなかったが、かなり揺れることは揺れた。

 帰る予定の日、その飛行機が欠航となった。軍事クーデターである。世界初の女性大統領として注目を浴びた、イザベル・ペロンであったが、僅か2年足らずでの失脚となった。それでその何もないウスアイアに1週間足止めを食った格好になった。

 その何もないウスアイアに何と評判のチョコレート専門店があるのだ。行く前には僕たちは知らなかったが、ヨーロッパからの観光客はこぞってその店を目指し、買い求めていた。僕たちも買ってみたが、その違いは判らなかった。その時に実は初めてホワイトチョコレートなるものを味わった。1976年の話である。

 

 フランスのプロヴァンス地方にサン・レミ・ド・プロヴァンスという田舎町がある。あのゴッホがアルルで耳切り事件を起こした後、自ら望んで入院した精神病院がある田舎町である。その精神病院はサン・レミ・ド・プロヴァンスから2キロほどの郊外にあり、ゴッホはアルルから馬車でやって来た。そしてそこで後に代表作となる作品多くをモノにしている。「糸杉」「オリーブ畑」「囲われた畑」「穴あき岩の山」「アイリス」など名作ばかり数え切れないほどがある。なかでも「星月夜」は代表作中の代表作と言ってもよいものだと思う。

 「星月夜」はその病院の外れの小高い丘からサン・レミ・ド・プロヴァンスの夜景と星空を描いた作品である。その丘のあるあたりは今はローマ遺跡として整備されているが、ゴッホが居た当時は未だ発掘はされていなくて単なるオリーブ畑と丘だけであった筈である。その絵には黒々とした糸杉と月明かりを浴びて白く浮き上がる小さく尖がった鐘楼の教会が描かれている。何れも星空を貫く槍穂の様である。

 

「星月夜」73,7x92,1cm、 1889年6月作、ニューヨーク、近代美術館蔵

 

 僕たちはその教会のすぐ側のホテルに泊まった。僕たちが泊まった夜にはあいにく星空はなかった。プロヴァンスの郷土料理レストランで夕食を済ませ、散歩がてら大回りしてホテルまで帰ることにしたが、教会の裏手の建物、その半開きになったドアから明かりが漏れていた。覗いてみると、数人の女性たちが立ち働いているのが見えた。チョコレート工房である。

 フランス語でチョコレートのことを「ショコラ」という。ポルトガル語では「ショコラーテ」となる。日本で言う「ココア」も「ショコラーテ」である。

 

 「ショコラ」という2000年製作のハリウッド映画がある。時は1959年。舞台はフランスの田舎ランスケネ村。

 主演のジュリエット・ビノシュが実に魅力的だ。ジュリエット・ビノシュはパリ生れだが、フランス人の舞台監督を父に、母はポーランド人の女優。

 「ショコラ」の監督はラッセ・ハルストロムというスウェーデン人。それにジョニー・デップなど多彩な俳優人が脇を固めている名画といっても良い作品だ。

 フランスの田舎町ランスケネ村に赤い頭巾を着た母と娘が北風と共にやって来た。「ショコラ」の魅力を伝え広めるためである。

 尖塔のある小さな教会広場の横にそのショコラの店が作られた。古い家を改装してのヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)の手作りである。店には自ら携えてきた中米の置物なども飾られ、店の名前は「マヤ」。

 古い因習に囚われている保守的な小さなランスケネ村。ヴィアンヌはそれぞれの村びと一人一人に合ったショコラを調合して作り食べさせる。ショコラの店「マヤ」は村人達の人気を集めるかに見えたが、村の有力者、厳格な宗教指導者は「ショコラは悪魔的で堕落した食べ物だ」とミサを通して排除しようとする。

 保守的な小さな村ゆえに堅苦しい因習は人々の心を閉ざしてしまう。やがては社会に歪が生じ、その矛先は犯罪や差別、いじめ、家庭内暴力などに向わせる。夫からの暴力に脅かされている妻は人の物を取ったり、万引きをしたりと心が不安定になる。そんな女を演じるのが監督の妻であるスウェーデン出身の女優レナ・オリン。「マヤ」でもショコラを万引するが、やがて夫の暴力から逃れ、トランク一つを携えて「マヤ」に身を寄せ、ヴィアンヌと一緒にショコラを作り始め、生き生きとした人生を取り戻しはじめる。レナ・オリンは1990年作品「ハバナ」でロバート・レッドフォードの相手役を勤め注目を集めた女優だ。「ハバナ」は革命前夜のキューバを舞台にプロのギャンブラー(ロバート・レッドフォード)と革命運動の女性闘士(レナ・オリン)との恋と運命を描いた、90年代版「カサブランカ」と言われた見応えのある作品だ。「カサブランカ」のイングリッド・バーグマンとは比較は出来ないけれど、レナ・オリンも同じスウェーデン出身女優だが、全く違う魅力を発揮している。

 話を「ショコラ」に戻そう。ヴィアンヌの娘のアヌークは村から村へと渡り歩く生活に嫌気がさして、いつも母を困らせる。そんな時、ヴィアンヌは娘に決まってこんな話を聞かせる。

 『昔々、おじいちゃまのジョルジュ・ロシェはオル・レ・バンの町で薬局を開いていました。1927年の春、薬剤師協会は自然の中の医薬を研究するため、中米への探検隊を組織しました。ジョルジュおじいちゃまは真っ先に志願したのです。そこで、古代マヤ人が聖なる儀式に用いた、トウガラシ入りのカカオを飲みました。昔からマヤではカカオは心の鍵を開け、運命を解き放つと信じられています。ジョルジュおじいちゃま自身の心も解き放たれ、村の美しい娘チザと恋に落ちました。ジョルジュおじいちゃまは敬虔なカトリック教徒でしたが、教義を曲げてその娘と結婚し、ヨーロッパへ連れて帰ります。私の母で、あなたのおばあちゃまですよ。娘にも恵まれ、つまり私です。幸せな日々を送っていましたが、部族の長老が警告していたことが起こります。元々チザは、北風と共に村から村へと渡り歩き、古代の薬を処方する流れ者でした。ある朝、ジョルジュおじいちゃまが目覚めると二人の姿がありませんでした。チザとヴィアンヌは古代の薬カカオを処方しながら村から村を渡り歩く運命だったのです。』という話を娘アヌークに言い聞かせます。

 そんな村にジプシーの一団が流れ着く。そのジプシーの一人がジョニー・デップである。若いジョニー・デップは実に魅力的で、特にギターやドブロを弾くその音色は堪らなくいい。

 ショコラの魅力を伝え広めるため小さな村々を北風に乗って移動する母と娘。それはジプシーの生活習慣と共通する。ジュリエット・ビノシュとジョニー・デップは助け合い古い因習の村に立ち向かう。

 この映画のロケ地はブルゴーニュ地方、あのマスタードで有名なディジョンの北西約50キロにあるフラヴィニー・シュル・オズランという村だそうだが、僕にはプロヴァンスのサン・レミ・ド・プロヴァンスやフエゴ島のウスアイアをイメージすることも出来る。

 

 今の浜寺公園は僕たちが子供の頃にはアメリカ駐留軍の住宅地になっていて、僕が高校生の頃には、アメリカ兵は既に居なくて大阪府の管理地となっていたが、アメリカ式の住宅はそのまま残されていた。その中心地にレトロなアメリカ映画にも出てきそうなダンスホールがあり、僕はそれを借りてダンスパーティを催したこともある。そのあたりから通学していた高校の同級生によると、子供の頃には、アメリカ兵からよくチョコレートを貰ったよ。という話を聞いた。アメリカ兵はいつもハーシーのチョコレートを非常食として携帯していたのだ。

 山で遭難した人が、チョコレートで生き延びた。という話もよく聞く。僕たちは今でもちょっと遠出する時にはいつでも1枚の板チョコとマリアのビスケットをバッグにしのばせている。

 

 僕が小学生の頃、母はお菓子作りに熱中していた時期があった。未だ材料が殆ど揃わない時代で、いろいろと工夫して作っていたようだ。僕の誕生日に友達10人限定で招待するように言われた。誕生会をしようと言うわけだが、ぜんざいとチョコレートケーキを作ってくれた。ぜんざいは普通だと思うが、友人たちはチョコレートケーキには驚いた様で、僕は暫く鼻が高かった。

 鼻は高かったが僕自身はそれ程甘いものが好きな少年ではなかった。クリスマスケーキも好きではなかったし、特に巻貝の形のチョコレートパンは苦手であった。子供の頃の僕の好物はカツオの塩辛や九州の叔母さんがお土産に持ってきてくれる「蟹漬け」が大好物の少年であった。蟹漬けと書いただけで今でも生唾が出てくるのだが、シオマネキを殻ごと叩き潰し塩辛にしたもので、今も売られているが今のものは機械で潰されていて、滑らか過ぎて駄目で、昔のものは殻がそのまま残っていてその方が良かった。それにたっぷりと七味唐辛子をまぶす。子供の頃からうどんが好きでそれにもたっぷりと七味唐辛子をふりかけていた。食べ物の好みは年齢と共に変化してくる。子供の頃には見るのも嫌だった、あの巻貝のチョコレートパンも平気で食べる様になったけれどカツオの塩辛と蟹漬け、それに七味の効いたうどんは今も大好物である。

 

 昔、スウェーデンに住んでいた頃、ストックホルム大学の休みのたびにクルマで旅に出た。クルマはフォルクスワーゲンのマイクロバスで、車内で寝られるようにベッドも自分で作り、ある程度の料理も出来るようにしていた。まだ日本では知られていなかったが、ヨーロッパではオートキャンプ場はどの国にもどんな町にもあり、便利にクルマの旅ができた。

 今ではユーロ圏で国境はないが、その当時は国境があり、国境を越える時にはパスポートの提示、荷物検査などもあるが、免税品を買うこともできる。その頃、MUZはタバコを吸っていた。ヨーロッパでは、とりわけ北欧ではタバコには高額の税金が掛けられている。それで免税のタバコというのは愛煙家にとっては有難いものだった。国境を越えるたびにMUZは1カートンのタバコを買い、僕はタバコを吸わないので、その代り、1枚のチョコレートを買った。その頃は甘いものは苦手だったので、出来るだけビターなシンプルなものを選んで買っていた。大きな分厚い板チョコである。それをほんの1かけらずつ割っては食べるのを楽しみにしていた。そしていざと言う時の非常食とも考えていた。

 ある日、久しぶりにチョコレートを食べてみようと、保管してあるところを探しても見当たらない。「どうしたのかな~」と言うと、MUZは「あんなのとっくの昔に食べてしもたよ~」と言うではないか。何十年も昔の話だが食べ物の恨みはいつまで経っても忘れられるものではない。それどころか、近頃は甘いものも好んで食べる様になったせいもあり益々恨みは増幅する。

 

 カカオは学名をTheobroma cacao、アオキ科、カカオ属の常緑樹。

 学名のTheobromaはラテン語で「神(theos)の食べ物(broma)を意味する。

 中央アメリカから南アメリカの熱帯地域が原産で、標高300メートルほどの丘陵地に自生する。

 現在では西アフリカのコートジボワール、ガーナ、ナイジェリア、カメルーンなどが主要な生産地で南米ブラジルと東南アジアのインドネシア熱帯域などでも栽培されている。

 

 米吉はマサゴ画廊で喋り足りなかったと見えて、もう一度会おうということになった。今度はバンホーテンのココア缶を携えてやってきた。僕の実家近くの幼馴染が経営する喫茶「英登(エイト)」で待ち合わせをしたが、僕は既にココアを飲んで待っていた。午後にコーヒーを飲むと眠れなくなるからだ。米吉は何故かコーヒーを注文した。

 米吉の言いたいことは「西洋医学や薬に頼るのではなく。その前に、チョコレートを含むバランスの取れた食生活を心がけ、適度の運動と、充分な睡眠で健康を保ち、それは経済的にも有効だし、長寿社会にあって、老後をより豊なものに出来る。」ということを語りたいのだ。そしてそんなことを閉店まで喋り続けた。英登のマスターは「よう喋るね~」と感心した様な顔をされていたが、早く店じまいに掛かりたかったことだろうと思う。

 僕は米吉に言われるまでもなく、もう10年も前から、朝食には「ショコラーテ」を飲んでいる。コーヒーも飲むがそれは10時のコーヒータイムとしている。

 米吉(アロス・フェリシア、米=アロス、吉=幸=フェリシア)はきょうもチョコレートを手に孤軍奮闘中である。いや、それはない。次のマサゴ画廊では、或いは喫茶「英登(エイト)」でどんな話が出てくるのか楽しみである。

 だいたい、お喋りの人は海外に住んでも言葉の上達は早い様に思う。お喋りでない人は余程、勉強してもなかなか上達しない。米吉はお喋りで外国語大学に行ったにも拘らず、海外生活はない。勿体ない話だ。一方、僕は全く上達しない言葉で、海外での苦労は堪えない。米吉と性格が反対であったら良かったかなと思う。

 普段は米吉ではなく米やん(ヨネヤン)と呼んでいる。僕は武やん(タケヤン)と呼ばれている。今回の文章に関して米吉と正式本名表記とした。僕の留守中でも、頑張れ相方、米やん。 VIT

 

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コメント (2)
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