武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

008. ヌエネン時代のゴッホ

2018-10-09 | 独言(ひとりごと)

 この程ゴッホの作品「白いボンネットの婦人」が競売に懸けられ 6,600 万円で広島のウッドワン美術館が競り落とした。というニュースの断片をポルトガルで興味深く聞いていた。オランダの田舎ブラバント地方の風景に思いを馳せながら…

  作品は中川一政が所有していた遺品の中に混ざっていたとのこと、ご遺族も中川一政もゴッホの本物とは知らなかったのだろうか?
  始めは参考価格をたったの1万円位と考えていた。という話であった。
  ゴッホ財団に問い合わせて本物だということが解った。とのこと。

  この絵は 1885 年にオランダ、ブラバント地方の田舎の村ヌエネンで描かれた「馬鈴薯を食べる人々」の為の一連の習作であろう。
  「パイプをくゆらせる農夫」「白いボンネットの婦人」「白いボンネットの娘」とそれぞれ沢山の習作を残している。
  「馬鈴薯を食べる人々」も一点だけではない。

  実はわたくしごとの話で恐縮だが僕が中学生の時にこの「白いボンネットの娘」を模写している。
  だから僕は最初その話題の「白いボンネットの婦人」も中川一政が若い頃に模写したものだろう。と直感的に思ったがその直感は見事に外れたという訳だ。
  中川一政の模写だとしても1万や2万では安すぎるが…

  ゴッホはヌエネンで 1884 年から 2 年間を過した。
  それまでハーグで子持ちで妊娠していた可哀想な娼婦シーンを助けようと献身的な気持から同棲するに及んだのだが、淋病に感染して入院、周りからはしだいに見放される様になり、シーンとの生活も破綻するに到りハーグを後にする。
  その後しばらくはドレンテ地方の田舎で泥炭地帯の風景やそこで働く人々を描いていたが、孤独に耐え切れずに、父の牧師館の転任先のヌエネンにやってきたのだ。

  ヌエネンは機織(はたおり)と農業で生計をたてる、何百年もの間生活習慣も方言もいっこうに変えようとしないような小さな村であった。
  村人の殆どはカトリック教徒であったから、父のプロテスタントは少数派である。
  そこに得体の知れない見るからに異様なしかも訳の判らないイーゼルやキャンバスを抱えて村の中を歩き回るゴッホが現われたものだから、村人の怪訝な気持は相当なものだったのだろう。
  血走った眼をしてキャンバスにきたない色をただ塗りたくって売れもしない絵を描いて働きもしないでぶらぶらしている、訳の解らないプロテスタント牧師の胡散臭い30歳にもなる息子である。
  それに加えてハーグでの娼婦シーンとの噂がヌエネンにも伝わってきていた。

  それでもゴッホはヌエネンの風景や農夫、機織をする人などを沢山描いた。

  牧師館の隣にはこの村では少数派のプロテスタントの母親と 5 人の未婚の姉妹が住んでいた。
  この村から一歩も出た事が無い姉妹の内の一人マルゴは恋に憧れていた。
  そしてゴッホに恋をした。当時 30 歳のゴッホより 9 歳年上の 39 歳であった。
 ゴッホは今まで幾つも恋をして全て破れてきたけれど、相手から恋焦がれるのは初めての経験であった。
 やがてゴッホからもマルゴを愛するようになっていった。
 二人は結婚を考えるようになったが、周りは全てが反対であった。
 とりわけマルゴの母親と姉妹たちの反対は激烈であった。
 マルゴには祖父が残してくれた少しの遺産があったのでそれでなんとか暮らせると思っていたが、その金目当てのゴッホと結婚をするのなら、母親は遺産は渡さない。と拒絶した。
 ゴッホは弟テオからの仕送りがあるのでそんなものはいらない。
 一緒にどこか別の土地で暮らそうと言ったが、マルゴにしてみればそれは出来ない。
 想い余ってマルゴはゴッホが野外で絵を描いている傍で服毒自殺を図る。

 そんな事件があってから父の教会に礼拝に訪れる村人はますます少なくなっていた。
 ゴッホは父の牧師館を出て行かざるをえない。
 運良く村の中に二部屋を貸してくれるところが見つかった。

 事件の後、ゴッホの父親も突然亡くなってしまう。

 そんななかで知り合ったのがデ・フロート一家であった。
 貧しい土間の一部屋しかない小屋に一家五人は住んでいた。
 畑で自分たちで収穫した馬鈴薯だけを常食とし、週に一度だけ一切れのベーコンが付いた。
 ゴッホは一枚につき僅かな金額 1 スーのモデル料を支払ってこの家族を描いた。
 「白いボンネットの婦人」はその時に描かれたうちの一枚であろう。

 事件の後完全に村八分にされていたゴッホをカトリックとかプロテスタントとかといった垣根を越えて友人として暖かく迎え入れてくれたこの極貧の家族、デ・フロート一家をゴッホは真の「聖家族」と感じていたにちがいない。

 部屋も永くは借りる事が出来なかった。
 そしてこのヌエネンの部屋を出て行かざるを得ない日の 12 日前から制作に取り掛かったのが、このデ・フロート一家を描いた「馬鈴薯を食べる人々」である。
 習作を重ね、試行錯誤の挙句最後の日にようやく「馬鈴薯を食べる人々」は完成した。
 その湯がいたじゃがいもの湯気が立ち昇る画面には、ほっこりとしたじゃがいもの「温かさ」「香り」までをも描くことに成功した。
 ゴッホはデューラーにもひけを取らない的確なデッサン力を身に付けたのだ。
 そしてこの極貧の「聖家族」によってミレーの「晩鐘」に匹敵する崇高な精神性をものにすることが出来たのだ。

 その「馬鈴薯を食べる人々」は弟テオの家の居間の暖炉の上に生涯飾られていた。
 今もアムステルダムのゴッホ美術館の特別いい場所に展示されている。

 印象派やジャポニズムの影響によって思いっきり明るく、太陽の光に満ち溢れたアルル時代やサン・レミ時代そしてオーヴェール時代のゴッホの作品は素晴らしいが、デューラーの的確なデッサン力やミレーの崇高な精神性を自分のものにしようとしていた、このヌエネン時代の集大成的作品「馬鈴薯を食べる人々」とその一連のゴッホ作品も僕は大好きである。

 もう一つ私事で恐縮だが、絵を気に入ってくれて、ポルトガルで貧しい生活を送っている僕を「応援してやろう」というお気持から沢山コレクションしてくれていたT氏は名画のコレクターでもあった。
 ルノアール、ピカソ、ブラック、ルオー、シャガール、ローランサン、ヴラマンク、ビュッフェ等のたくさんの名画とゴッホのヌエネン時代の「白いボンネットの婦人」もコレクションされていた。
 だから最初中川一政のコレクションという話を知る前は、その競売に懸けられようとしていたゴッホは、てっきりT氏のコレクションをご遺族が手放されたものだろうと思った。が絵の写真が出てきて、見てすぐに別の絵だと判った。
 T氏のそれは確かもっと正面を向いた「白いボンネットの婦人」であった。

 生前中川一政は本当にこの「白いボンネットの婦人」がゴッホの本物だとは知らなかったのであろうか?
 また中川一政はいつ頃、どのようにしてこの絵を入手したのであろうか?
 興味は尽きない。VIT

 

(この文は2003年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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007. ポルトガルでの運転

2018-10-09 | 独言(ひとりごと)

 昭和40年4月8日。18歳で運転免許を取ってから殆どを車と共に過ごした。
 スウェーデンに住んだ時もすぐにポンコツマイクロバスを買って、それでヨーロッパをくまなく見て歩いた。
 ニューヨークに住んだ1年だけは車を持たずに自転車の生活だった。
 自転車でマンハッタンをどこまでも移動した。

 ポルトガルに住んでみようと思った時はちょっとそれまでとは違った、今までの生活とは180度違う生活を考えていた。

 ポルトガルに移住する直前に住んでいた宮崎県では車なしでは絶対に生活できない山の中に住んでいたものだから、次は街なか、それも漁港のある港町に住むことを夢見ていた。
 そしてその通りにした。
 街なかだから車は必要なし、どこにでも歩いて行ける。

 そしていわゆる文化的?な生活ではなく、もう少し不便でもゾラやゴッホの時代的な、ヨーロッパの昔ながらの暮らしを体験してみたかった。
 ポルトガルにはそんなノスタルジックなものを感じていた。
 その通り、最初に借りた部屋にはおんぼろの小さい冷蔵庫だけは付いてはいたものの、台所には200年も使っている様な大きな煙突がかぶさっていたし、洗濯はバスタブでばしゃばしゃと手や足でしなければならなかった。
 テレビは片すみに置かれていたが、白黒でそれも殆ど映らなかった。
 掃除も箒と雑巾のみで全く基本的なやり方だ。
 そんな具合で100年前とまでは行かないが、少なくとも車や電化製品からは全く開放された生活だった。

 ポルトガルに住み始めて殆ど毎月の様にスケッチの旅に出た。
 列車であったり、路線バスであったり。
 幸いポルトガルの交通費は安い。そしてバスや列車の旅を楽しんでいた。
 何年かはその様にした。

 ところがバスなどで目的の町に行くその途中に良さそうな、スケッチをしてみたいような小さな村などを通過する。
 そういう時は残念ながら指をくわえてバスの窓からただ眺めているだけ。
 途中でバスを降りてしまうと、次のバスは明日までなし。宿もなし。ということになってしまう恐れもある。そういうことがたびたびあった。あわててタクシーを捜しだし、それで隣町まで行くはめになる。

 いつの間にか主要都市には殆ど行ってしまった。
 あとは交通の便の悪い小さな町や村だけが残っている。
 そんな訳で、いつの頃からかスケッチ旅行に時々レンタカーを使うようになった。
 その様な自分の車なしの生活が10年続いた。

 そして3年前いよいよ車を買うということになる。
 当初考えていた、ポルトガルでは昔ながらの生活。と言うのもすっかり忘れ去って今は大型の冷蔵庫もあるし、全自動のドラム型洗濯機。掃除機。カラーテレビが2台とサテライト。
 そしてパソコン。車。
 と以前にも増して文化的?な生活をしている。
 ゾラはどこへ行ったのか?ゴッホはどこへ行ったのか?
 当初の意気込みはどこへ行ったのかと我ながらお恥ずかしい次第であるが…

 それまで国際免許で乗っていたのを、その時ポルトガルの免許も取った。
 ポルトガルの免許に期限はない。

 車はフランスのシトロエンSAXOと言う1100㏄の小さな車にした。
 色は白で5ドアの5速マニュアルでガソリン車。
 ポルトガルでは最もポピュラーな、どこにでもある大衆車である。

 ポルトガルにはいわゆる国産はない。
 正確には国産はあるが国産企業はない。ということだ。
 だからあらゆる国の車が比較的等しく走っている。
 アメリカ車もあればドイツ、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スペインそれにポーランドや韓国車。勿論日本車も多い。
 正確には国産はある。と書いたが、それは例えばトヨタはもう40年近くも以前からポルトガルのポルトに工場を持っている。
 わが町セトゥーバルの町外れにはフォードとフォルクスワーゲンの大きな工場がある。
 ポルトガル産のトヨタ、フォード、ワーゲンという訳である。
 その他にもたくさんの企業がポルトガルに工場を進出している。

 僕がシトロエンにした訳。というほど大げさなものではないが、この国で一番よく走っているあまり目立たない車。をと考えたからに他ならない。
 それにもしかしたら展覧会の搬入のためフランスまで車で走っていくこともあるかもしれないし、その場合でもフランス車なら目立たないだろう。
 それと買おうと思った時に丁度モデルチェンジをしたばかりだった。と言うこともある。

 買ってから間もなく3年になるが未だ1万5000キロに満たない。
 リスボンに買物に出かけたりする時は路線バスを使ったりする。
 リスボンは車も多くて駐車をするにも大変だし、道も複雑で危険この上ない。
 車はほとんどセトゥーバル内での買物と田舎へのスケッチ旅行だけに使う。

 ポルトガルは世界でトップを争う重大交通事故多発国である。
 運転をしていてもひゃっとすることはたびたびどころではない。
 ポルトガル人の運転のマナーは最悪である。
 何重にも追い越しはする。ちょっとの隙間にも割り込みはする。
 そしてウィンカーは出さずに平気で直前に割り込んでくる。
 急発進、急ブレーキはあたり前。
 信号が青に変われば間髪を入れずに後ろからクラクション。
 スピードは驚くばかり。アクセルを目いっぱいに踏み込む。
 ポルトガル人は自分の前に車があるのに我慢が出来ないのか、まるでF1レースの様相である。
 とにかく危ない。
 それに道路標識も不完全だし、道路の設計もあまり感心しない。

 急に高速道が整備された。と言うこともあるだろう。
 ローンをし易くなって急にたくさんの人が車を持つことが出来た。と言うこともあるだろう。
 ポルトガルは車の性能の上昇と共に車の増加、そして高速道の発達。という歴史を持たない。
 車を与えられた時既に車は高性能で150キロ、200キロのスピードにも耐える。
 そしてその為の道もある。
 だが運転技術とマナーはそれに追いつかないというのが今の現状ではないだろうか?
 がそれに加えて民族性が大いに関係しているものと思わざるを得ない。

 懐かしい古い本で、もしかしたら違っているかも知れないが北杜夫が「どくとるマンボウ航海記」の中で実にうまいことを言っている。
 「馬の文化を持つ国の人の運転は穏やかだが、ロバ文化の国の人の運転は荒っぽい」と
 「馬は優しく接するとよく言う事を聞くが、ロバは荒っぽくひっぱたかないと言う事を聞かない。」
 「そしてそのまま馬から車へ、ロバから車へ乗り換えただけにすぎない。」と

 それに加えてポルトガルは血の気の多い「闘牛」の国である。
 シトロエンの運転席に座る時、まさにロバにまたがった血走ったポルトガル人と一緒くたに猛り狂った牡牛が放たれている「闘牛場」に一人丸腰で放り出される時程の覚悟が必要である。VIT


  以下ここに在ポルトガル日本国大使館より在ポルトガル日本人向けに定期的に送られてくる「大使館便り」平成 15 年 1 月号のなかから「ポルトガルの交通事情と交通安全対策」の項目の一部を抜粋したい。

<ポルトガルは世界で 1,2 を争う交通事故多発国と言われています。死亡事故件数も極めて高く、悲惨な事故現場に出くわすこともしばしばあります。ポルトガルの 2001 年の交通事故死亡者数は 1466 人で、人口がほぼ等しい東京都では 359 人ですから、約 4 倍の死亡者数となります(ポルトガルの人口:約 990 万人、東京都の人口:約 1200 万人)。日本とポルトガルは交通事故死亡者の認定方法が異なり、日本は事故発生時から 24 時間以内に死亡した場合を交通事故死亡者と認定しているのに対し、ポルトガルでは、即死又はそれに準ずるほど事故に近接した時間に死亡した場合のみを交通事故死亡者と認定していますので、人口と認定方法を同様にして両者を比較したならば、さらにその差は大きくなるものと考えられます。(以下略)>

 

(この文は2003年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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