武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

037. 老練石だたみ工 Calceteiro

2018-10-31 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルの歩道にはたいていモザイク石畳が施されている。
 そしてそれは美しいと思う。
 石畳はヨーロッパの街を形成する上で欠かせない建造物なのかも知れない。
 2000年も前に造られたローマ街道遺跡にも石畳が残されている。
 現在のローマにもパリにもストックホルムのガムラスタンにもそれはある。
 いや最も現代的なフリーポートショッピングセンターにすら石畳が使われている。

 パリのセーヌ河畔などは少し大きな花崗岩が使われていて、子供はその石組みを利用してケンケン遊びをしながら親との散歩を楽しんでいる。
 ガムラスタンなどは10センチ角くらいの物がウロコ状に組まれていたりもする。

 ドイツをキャンピングマイクロバスで旅行中、石畳の広い広場を見つけてその夜の宿としたことがある。
 そう云ったのが普通のそんな旅をしていたのだ。
 ぐっすりと寝込んでいた夜中にガンガンとドアを叩く音で起こされた。
 「朝市の準備をしなければならないから、少し隅っこによけてくれ」と言う。
 その頃、あいにく我がマイクロバスのスタートモーターの調子が悪かった。
 エンジンが冷え切っていたので案の定エンジンはかからなかった。
 朝市準備人は人手をかき集めてマイクロバスを押して、石畳の広場をぐるぐる回り、エンジンをかける手伝いをしてくれたことがある。
 僕の寝ぼけた頭の芯に石畳のショックが響いた。

 ポルトガルはたいていが白い石灰岩で一つが6~7センチ角と小さい。
 それが繁華な所に行くと黒い石や茶色い石も混ざり、美しいモザイク模様に描かれたりする。
 アラビア的な唐草模様や魚やイルカ、あるいは船の絵が施されていたり、又は抽象模様や大きな波型のところもある。
 ここでも子供は波型に沿って走ったりスキップをしたりと、子供は何でも遊びの道具にしてしまうのだ。
 店の前などには店名やロゴマークのモザイクがあったりもする。

 

01.店の名前が書かれた歩道

 

02.両替屋

その石をもっと小さく1センチ角にまでするとローマ時代のモザイク同様になる。
白と黒で横断歩道のストライプが作られているところもある。
ペンキ不要なのである。

03.石畳の横断歩道

 

04.イルカ

 ポルトガルの歩道には盲人用点字ブロックはない。
 石畳自体が点字ブロックの役割をしている様に思う。
 だからたぶん必要はないのだ。

 女性のハイヒールなどは細いかかとが目地に挟まってしまいそうだが、ポルトガル女性はその上を上手に歩く。

 かつては車道は黒くて硬い花崗岩の石畳であったが、最近はその上から無残にもアスファルトが流されてしまっている。
 時たまいまだに石畳の車道も残されているが、石畳の上をクルマが走るとうるさくてしかたがないし、スピードも出せない。

 アレンテージョのヴィラ・ヴィソーザやボルバなどの大理石の産地に行くと、まっ白い大理石のかけらで歩道が敷きつめられていたりもする。
 大理石はその性質から四角く割ることはできないから、その歩道は時たま尖っていたりもする。

 セトゥーバルなどで使われる石は四角く割れる、あらかじめ小さく割った石灰岩を運んできて、その場でまた模様や目に合わせて金槌を使い、手の上でさらに割って形を作ってゆく。
 見ていると金槌で面白い様に割れる。
 熟練石畳工の手に拠るからなのだろう。
 それが一旦石畳が完成すれば少々乱暴に飛び跳ねても割れることはない。

 

05.石畳の上でくつろぐポルトガルの犬

 石畳はセメントで固めないから時には剥がれたりもする。
 下地と目地には砂が撒かれる。
 石が組まれ目地に砂が撒かれて縦型の<かけや>でドスンドスンと固められる。
 最近は大掛かりなところでは機械が使われる。

 雨水は目地から地下に沁みこんでゆく。
 人通りの少ない所には雑草が生える。
 けなげにも可愛い花が咲いていたりもする。

 水道やガスの工事の時はつるはしの先を当てて剥がして、工事が終わればまた元通りに戻す。
 そんな時は大掛かりに5~6人の石畳工が石畳を張っていく。
 石を運ぶ人、砂を撒く人、石を並べる人、突き固める人と分業をして、結構な広さのところでも見る間に仕上げてしまう。

 自然に剥がれることもある。
 1個剥がれるとそれは少しづつ広がり、やがてぽっかりと空地ができる。
 そんなところを補修するのは、たいてい老練石畳工の仕事だ。
 石畳補修7つ道具をリヤカーに乗せて一人での孤独な作業だ。
 リヤカーには石,砂、水の入ったジョロ、金槌、縦型のかけや、熊手、箒、スコップなどが積まれている。
 それに忘れてはならないのが弁当とワインである。
 結構キツイ仕事には違いないが、鼻歌などを唄いながらローマ時代から同じやりかたで補修され続けているようにも思う。VIT

 

06.金槌で砂をならし石を割る

 

07.そして石を並べてゆく

 

08.リヤカーには石畳7つ道具が

 

09.目地に砂を撒き、縦型かけやで突き固める

 

 

(この文は2005年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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036. 滞在許可証 AUTORIZAÇÃO DE RESIDÊNCIA

2018-10-30 | 独言(ひとりごと)

 2ヶ月半の日本滞在を終えてポルトガルの我が家に戻って来ると、先ず玄関にある郵便受けの片付けをしなければならない。

 ぎっしりと紙が詰っているのだ。

 

 最近はインターネットをしているせいか、友人知人からの手紙は少ない。

 それに帰国していることは、そういった人には知れ渡っていて、その間に手紙をくれる人もいない。

 

 ぎっしり詰っている紙は、主に電気、水道、ガス、電話の使用量のお知らせ。自動車倶楽部の機関誌、ピッツアや旅行、スーパーの広告、それにセトゥーバルの無料の新聞などである。

 それが、これでもかというくらいにぎっしりと詰って固まりあっている。

 郵便受けから取り出すと、スーパーのレジ袋一杯にもなる。

 

 そんな中にしわくちゃに折れ曲がった「滞在延長許可受け取り」ハガキが混ざっていた。

 この1月10日に申請していたものが、ようやく許可が下りたのだ。

 

 ポルトガルの滞在許可は面倒なものだ。

 

 日本人ならヨーロッパの国では3ヶ月間までは旅行者として滞在はできる。

 それ以上になると何らかのかたちで滞在許可を取らなくてはならない。

 

 僕はかつてはスウェーデンやアメリカでも滞在許可を貰っていた。

 スウェーデンでは学校に行って、学生として滞在許可を延長していた。

 初めは3ヶ月ごとの延長がやがて6ヶ月になり、1年になりといった具合でその都度、警察本部のその窓口に行き面接をするわけである。

 学校に通っていたから滞在理由もはっきりしていたので、大して面倒なものでもなかった。

 

 アメリカではアルバイト先の雇い主が保証人になって弁護士の事務所に連れて行ってくれた。

 その同じビルの中に健康診断の診療所もあり、一つのビルの中で全て事が足りた。

 それ相応のお金を払えばやがて1年分の労働許可(H2)が貰えた。

 それで4年までは延長可能とのことであった。

 合理的で、さすがアメリカはマネー次第の国だとも感じた。

 

 その点ポルトガルは面倒である。

 いや、以前に比べるとどこの国でも、複雑で面倒になってきているのかも知れない。

 

 住み始めて初めの頃はその「旅行者の3ヶ月」を利用して国外に旅行をしていた。

 旅好きの僕にはいやでも3ヶ月ごとに旅が出来る訳だから好都合であった。

 少しでも国境を超えて戻ってくるとそれからまた3ヶ月が始まるという考えだ。

 おかげでスペインのセビリアやパリなどにはたびたび出かけて楽しんでいた。

 

 でもいつまでもそういうわけにもいかなくなった。

 EUが一緒になって国境がなくなる、という話も出てきていた。

 スペインやフランスではもはや国外に出た事にはならなくなる。

 その都度、3ヶ月ごとにモロッコまで行くか、日本に帰るかというはなしになってくる。

 それで遅ればせながら滞在許可申請をしたのである。

 住み始めて4年くらいは経っていたかも知れない。

 

 もう既に住みはじめていたから申請はなおさら面倒であった。

 日本に帰国した折にわざわざ東京のポルトガル大使館まで出向いた。

 許可が下りるまでは1年近くもかかるらしい。

 その間、日本にずーっと居る事が出来るわけがない。

 セトゥーバルの留守宅はそのままで、描きかけの絵も放置したまま。

 最初の許可はポルトガル国内では貰えないとのことで、最寄の外国である、スペインのセビリアの領事館で貰う手続きをしておいて、許可が下りるやそこまで貰いに行った。

 

 それからはセトゥーバルの外国人登録事務所(SERVIÇO DE ESTRANGEIROS E FRONTEIRAS)で1年に1回、毎年の延長申請である。

 その都度、無犯罪証明書や銀行の残高証明書など必要書類を集めなくてはならないのである。

 

 (必要書類は「ポルトガルのえんとつ-滞在許可を延長しなくちゃ」のなかに詳しく掲載されています。)

 

 やがて、許可は2年間になり少しは楽になったかと思ったが、その2年に一度といえども大変さはむしろ増していた。

 セトゥーバルの外国人登録事務所にはアフリカからの黒人たちで溢れかえるようになって、座る椅子も少なく立ったままで、しかも狭い中で長時間待たされるのは大変な苦労である。

 申請書類を提出する時と、申請が下りて受け取る時の2回である。

 

 受け取る時にはある程度の料金を支払う。

 今回のハガキに書かれている料金はいやに高いな、と思っていた。

 日本人はお金持ちだから、取れるところから取ってしまおう。

 との考えでぼられているのではないのだろうか?

 「ここは一つ文句を言ってやろうか?」とMUZは怒っている。

 

 日本から戻ってきて2日後にその事務所に出かけた。

 朝一番は混むので以前なら空いていた昼すぎに出かけたが、やはり満員であった。

 番号札は30番以上も先だ。

 黒人たちは受付の人とのやりとりを喋りに喋りまくっている。

 受付の女性もけんか腰のやりとりだ。

 あれではお互いストレスがたまって大変だろうと思う。

 とにかく書類が揃っていないのだろう。

 僕たちも最初のころはああだった。

 

 待合室内は黒人たちでごったがえしていたのでベランダに出た。

 生ぬるいけれど風が吹いていて気持が良い。

 市の中心にあるサン・ジュリアン教会が間近に見える。

 そしてその前に広がる古い赤瓦が美しい。

 すぐにアフリカ、カーボ・ヴェルデからの子供もベランダに出てきた。と思えば出たり入ったりと落ち着かなく一時もじっとしていない。

 小学校高学年くらいの少し大きさの違うそっくりな兄弟が入れ替わりたち代わり。 子供にとっては窮屈で退屈でしかたのないことであろう。

 両親は待合室で他の人に聞きながら書類に書き込みをしている最中だ。

 書き込みに一段落が終わったのか、親父も出てきて、ひょいとベランダの手すりに腰をかけたのには驚いた。

 けっこう高い手すりだから、バランスを崩して一歩間違えば12メートル程もある下の石畳までまっさかさまだ。

 僕は見ているだけで足元がゾワゾワしてきた。

 なにしろこのベランダより低いところに鳩が卵を温めているのを覗き見えるくらいの高さなのだから。

 

 番号札を取ってから待つこと2時間半、ようやく自分の番がまわって来た。

 僕たちは既に手馴れたもので「お願いします」とだけ言って、あとは無言でそのしわくちゃになったハガキを差し出した。

 もうすっかり顔なじみになった受付の女性も笑顔と無言で僕たちの許可証を探し出すのみだ。

 許可証を探し出したら、受け取りにサインをして、指紋を取られる。

 そして料金を支払う。

 指にべっとりと付いた墨を、手渡されたウエットティッシュでぬぐいながら、許可証に書かれた期限をみると、これまでの2年ではなく、なんと5年間になっていた。

 料金は高いはずで5年分であったのだ。

 

 せっかくだから、少なくともあと5年はポルトガルに住まなくてはならないだろう。

VIT

 

(この文は2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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035. ゴッホが観た絵

2018-10-29 | 旅日記

 このところ毎年秋にサロン・ドートンヌとル・サロンに出品するための2枚の100号をパリまで運んでいる。

 一ヶ月以上も先のル・サロンを観ることは無理だとしてもサロン・ドートンヌだけでも観てから帰るためには搬入から始まるまでの一週間から10日をフランスで過ごすことになる。

 その間いつもいつもパリの美術館見学というのでも良いのだけれど、せっかくだからというのでパリ周辺の佐伯祐三の足跡を訪ねてみよう、と思い立ったのがもう何年前になるだろうか。

 モランやクラマールといったところは佐伯祐三でしかない場所だが、佐伯祐三を訪ねてオーヴェールに行くと、そこにはたくさんの画家たちの足跡がある。

 ドービニー、ピサロ、セザンヌ、ヴラマンクそしてゴッホ等々。

 それなら佐伯祐三の次にはゴッホの足跡もと、一昨年はアルルとサンレミ・ド・プロヴァンスに足をのばした。

 そしてその時にまだ見切れなかったプロヴァンスを今回は歩くことにした。

 

 ゴッホがあの忌まわしい<耳きり事件>を起こした6日前、ゴーガンがゴッホを伴って見学をしたモンペリエのファーブル美術館。

 もともとはアルフレッド・ブリュイアスという富豪のコレクションであろうか。

 他ではあまり観られないモンペリエ出身のファーブル(1766-1837)という画家の作品が一堂に集められてこの美術館の名前が理解できる。

 

01.彫刻家/1812/ファーブル

 

02.聖サウル/1803/ファーブル

 

 パトロンのA・ブリュイアスはたくさんの画家や彫刻家たちに自身の肖像画や肖像を作らせている。

 この作品も一種の肖像画と言えるのであろう。

 田舎道でスケッチに行く途中のクールベとブリュイアスとその執事がばったりと出会って挨拶を交わしている、

 クールベの「ボンジュール ムッシュ クールベ」(クールベさんこんにちは)はこの美術館の目玉だ。

 

03.クールベさんこんにちは/1854/クールベ

 

04.ブリュイアスの肖像/1853/クールベ

 

 ドラクロアまでもがこのパトロンの肖像を何点も描いている。

 ファーブル美術館ではなくてブリュイアス美術館でも良いのではないか、と思える程この人の肖像がたくさん展示してある。

 

 ゴッホとゴーガンがどんな気持でこれらの作品を観て回ったのであろうかと想像しながら観てゆくのも楽しいものである。

 この美術館にはゴッホやゴーガンが観たであろう作品(ファーブルの他にラファエロ、ボッチチェリ、ジオット、スルバラン、テオドール・ルソー、プーサン、ドラクロア、クールベ、コロー等)と、それ以外、ゴッホとゴーガンが見学した以後の作品もたくさん収蔵されている。

 ドガ、カイユボット、ヴァン・ドンゲン、ボナール、マティス等と珍しくユトリロの母、スザンヌ・ヴァラドンの作品、そしてデュフィや現代美術も展示してある。

 がしかし残念ながらゴッホとゴーガンの作品は一点もない。

 

 ゴッホが船や教会、荷馬車を描いたサント・マリー・ド・ラ・メールへも足をのばした。

 教会はそっくりそのままの姿で残っているが、もちろん望むべくもない荷馬車は今はない。

 漁船の形もすっかり現代風に変わってしまっていて、その当時の船の形や色彩はむしろ我がセトゥーバルに面影が残っている。

 

05.サント・マリーの漁船/1888/ゴッホ

 

06.サント・マリーの教会/1888/ゴッホ

 

07.馬車/1888/ゴッホ

 

 サント・マリー・ド・ラ・メールは当時から寒漁村にちがいないが今はリゾート化が進んでいる。

 パリなどと比べると随分暖かく、その時も10月だというのに海水浴を楽しんでいる親子連れがいた。とはいってもポルトガルよりは気温は低いのだが…。

 ゴッホにとってこの温度と夏の様な光線は余程うれしかったにちがいない。

 滞在した5日間にたくさんの作品を残している。

 

 それと今回の旅でぜひ観たかったのが、マルセイユ美術館のモンティセリ。

 モンティセリはその重厚なマティエールでゴッホに少なからず影響をあたえたマルセイユの画家だ。

 以前にオルセー美術館で静物画を一点だけは観ているが、ゴッホと同じ眼で是非ともこのマルセイユのモンティセリを観てみたかったのだ。

 6点の小さな作品と40号ばかりの婦人像で計7点。

 その内、ある1点、6号くらいの縦の風景画を観て、僕は思わずニャッとしてしまった。

 それはあまりにもゴッホが、サンレミ精神病院の前庭を描いた作品に似ていたからだ。

 

08.サンレミの病院の前庭/1889/ゴッホ

 

 ゴッホとゴーガンがモンティセリのこと、そして1888年12月17日、ファーブル美術館でのドラクロアやレンブラント、さらにクールベの作品の前で闘わしたであろう議論。

 112年前のそんなことに思いを馳せながらのゴッホの足跡を訪ねる旅になった。

 

 ついでにと言ってはなんだが、エクス・アン・プロヴァンスにも足をのばした。

 この地はセザンヌが生まれ育ち、終焉の地でもある。

 アトリエは大切に保存されている。

 セザンヌが繰り返し描いたサント・ヴィクトア-ル山がある。

 その山が見たくて足をのばした。

 セザンヌの足跡を訪ねるには、以前にも何度も訪れているオーヴェール・シュル・オワーズと昨年訪れたマルセイユ近郊のレスタック、そして、ここエクス・アン・プロヴァンスで完結という訳である。

 

 佐伯祐三、ゴッホ、セザンヌと足跡を訪ねて、次はゴーガン。

 とは言ってもゴーガンの場合そう簡単にはいかない。

 ノルマンディーのポンタヴァンには来秋にでもすぐに行くことはできるだろうが、タヒチやマルチニック島、さらにはパナマ運河にはそうはたやすくは行けない。

 以前、南米コロンビアから中米に向かう時、パナマは避けてカリブ海に浮かぶサン・アンドレス島を中継点に選んだ。惜しいことをした。

 

 ル・サロンは300年以上も続いている世界一長寿の展覧会である。

 かつてドラクロアも金メダルを獲っているし、後には審査員も務めている。

 一方クールベはその当時の古典的なル・サロンには常に挑戦的で「写実派」という新しい作品を出品し続け、そして審査員たちからは常に非難を浴び続けた。

 「ボンジュール ムッシュ クールベ」にもそんな姿勢が伺える。

 その姿勢は印象派や野獣派にも受け継がれ、やがて 1904 年にはル・サロンに反してフォービズムの画家たちの発表の場としてサロン・ドートンヌが起こることになる。

 時代は変わってル・サロンもサロン・ドートンヌもすっかり様子は変わってしまっている。

VIT

 

 

(2000年12月17日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.94」に書いた文を2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載した文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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034. ゴッホの足跡をたずねて

2018-10-28 | 旅日記

 セトゥーバルからパリまでサロン・ドートンヌに出品するための100号の絵を運んでいって、それが始まるまでの一週間をアルルで過ごすことにした。

 

 アルルではラ・マルティーヌ広場1~3番地のホテルに一ヶ月も前から予約を取っておいた。

 ぜひともその番地のホテルに泊まってみたかったからだ。

 ホテルは駅からほんの1~2分。

 ロータリーに面していてクルマはひっきりなしだし、そのロータリーに沿った公園には移動遊園地が出ていて、ひょっとしたら夜はうるさくて眠れないかも知れないとも思った。

 部屋はがら空きで「どこでもお好きなところをどうぞ」とのことであったが、あえてそのロータリーに面した2階の部屋にした。

 

 そのロータリーがラ・マルティーヌ広場である。

 かつてこのラ・マルティーヌ広場2番地に黄色い家があった。

 ゴッホの<黄色い家>である。

 

01.アルルの黄色い家/1888/ゴッホ美術館

 残念ながら今はない。

 ロータリーの外側のホテルの前の、今駐車スペースになっているあたりにたぶん建っていたものと思われる。

 ゴッホの絵の黄色い家のうしろに描かれている4階建ての家は今も健在だし、さらにうしろの汽車のガードもそのまま。

 黄色い家と雑貨屋はないけれどゴッホの絵の中の風景の、まさにその場所に泊まることができたというわけ。

 

 フランスでホテルはだいたいいつも2つ星程度に泊まることにしているが、ここは1つ星。

 名前は『オテル・ドゥ・フランス・エ・ドゥ・ラ・ガール』。

 日本語にすると<駅前フランスホテル>といったところか。

 かつてゴッホが食事の世話になっていた<ジヌウ夫人>のカフェ・ドゥ・ラ・ガール(駅前喫茶)がこの場所であったのかも知れない。

 

02.ジヌウ夫人/1888or1889/メトロポリタン美術館


 1つ星といっても部屋にシャワーもトイレも付いているし、ベランダからはラ・マルティーヌ広場を通してカヴァルリ門を見ることもできる。
 移動遊園地がなければローヌ河も見えたはず。
 朝食も広場に面した明るいテラスで、ぱりっと温めてあるクロワッサンとエスプレッソのカフェ・オ・レそれに手作りマーマレード。
 なかなか気が利いている。
 忙しそうに働くその女将も少し若いけれどどことなく<ジヌウ夫人>に似ている様な気がする。


 アルルではゴッホが描いた場所を判るかぎり全て見て歩いた。

 

03.アルルの跳ね橋/1888/クレラー・ミュラー美術館

 

04.フォーラム広場の夜のカフェテラス/1888/クレラー・ミュラー美術館

 

05.アリスカン・ローマ墓地1888/クレラー・ミュラ-美術館

 

06.アルル病院の中庭/1889/オスカー・ライナー・コレクション

 

07.アルルの闘技場遠望/1888/ヴィンテルフール美術館

 

08.星空のローヌ河/1888/オルセー美術館

 

09.モンマジュール僧院遠望/1888/ゴッホ美術館

 

10.赤く色づいたぶどう畑/1888/プーシキン美術館

 

 ヨーロッパの良いところは100年経ってもほとんど変っていないこと。
 ゴッホの絵の場所がほぼそのまま残っている。

 アルルからサン・レミ・ド・プロヴァンスへも足をのばした。
 モンマジュールの僧院を通ってドーデーの風車小屋にも立ち寄った。
 ドーデーはゴッホが愛読した、ということだったので僕もポルトガルに住んで間もなくの頃、もう7~8年前になるか、一冊だけ「タラスコンみなと」という小説を読んだ。
 次にはぜひ「風車小屋だより」も読んでみたいと思っている。

 そして一級の観光地レ・ボー。
 中世の時代、1400年代に城があった岩山の廃墟。
 その岩山が圧巻。
 岩山をくりぬき、削り、柱や梁を差し込むための四角い穴。
 穴のたくさん掘られた岩の壁。
 どんな彫刻家もかなわない山ごと大きなまるで現代彫刻。

 サン・レミ・ド・プロヴァンスに到着したのは暗くなってから。
 町の入口でツーリストオフィスが目に付いたので飛び込む。
 まさに今、閉めようとしているところであったがホテルを紹介してもらう。
 ホテルは教会の前の広場に面したところ。

 翌朝は早くからサン・ポール・ド・モーゾール精神病院を目指す。
 病院はサン・レミ郊外、グラーヌム遺跡(ローマ神殿跡)と隣り合わせにあった。
 その病院は今も精神病院として使われていて見学は出来ないが、病院に付属の教会には入ることが出来る。
 その2階に当時ゴッホにアトリエとしてあてがわれていた6畳ほどの小さな部屋が保存されていた。
 部屋の前の壁にはゴッホが修道女長宛てに書いた礼状のコピーが張られている。
 びっしりと手書の文字で埋めつくされている。
 何が書いてあるのか分からないが、礼状ということは、サン・レミを出てパリからかオーヴェールから投函したものだろう。
 いずれにしろ死の少し前の手紙ということになる。
 ひとしきり部屋や廊下を眺めまわして後、窓の外に目をやって「あっと」目を見張った。
 そこにはあの<囲われた畑>そっくりそのままの風景があった。

 

11.囲われた畑/1889/個人蔵


 グラーヌム遺跡の発掘調査が始まったのは1921年。
 ゴッホがこの病院にいた時より22年後からのことになる。
 遺跡の規模はかなりのもので、我々は半日も居たが見学者は最初から最後まで我々2人だけで、出口のところで3~4人の観光客が入場するのにすれ違っただけ。
 そのローマ遺跡からゴッホの絵にある<穴のあいた山>を確かに見ることができた。
 ゴッホの絵では前景がオリーヴ園になっているから、その遺跡も発掘前はオリーヴ園だったのかも知れない。

 

12.穴あき山/1889/ウイットニ-コレクション

 

13.石切り場1889/個人蔵


 ゴッホが描いた<石切り場>もそのまま。
 その石切り場はグラーヌム神殿のために切り出した石切り場であったとは当時のゴッホにはどの程度判っていたことであろうかと不思議な感覚になる。

 グラーヌム神殿を見下ろす小高いところに立つとサン・レミの町が遠望できる。
 その風景を見てまたまた「あれーっ」と叫び声を出してしまった。
 あの<星月夜>の風景なのだ。

 

14.星月夜/1889/ニューヨーク近代美術館

 昼間なのでもちろん星はないが、絵の中の渦巻く星空の下に描かれた教会の塔と町並の風景がそっくりそのまま。
 あの<星月夜>はサン・レミの町を遠望した風景だったのだ。
 しかも昨夜はその教会の塔のまん前のホテルに偶然にも泊まったことになる。

 サン・レミからはゴッホが辿ったのと同じ道をタラスコンまで。
 ゴッホはここから一人でパリへ戻り、リヨン駅で弟テオの出迎えを受け、無天蓋馬車でシテ・ピガルへ。
 そしてヨハンナと初対面。
 3日後オーヴェールへ向かいラヴウ亭に下宿することになる。

 我々はタラスコンから一旦アルルへ戻り、又一泊してアヴィニヨンでTGVに乗り換えパリ・リヨン駅へ。
 サロン・ドートンヌで自分の作品を見、ハッと夢からさめ我に返った、というわけ。
 それ程、ゴッホを辿る旅はまるで夢の中の出来事の様に感動の連続であったのだ。

 次の日リスボンへ戻る便が夕方だったので我々もオーヴェールに行くことにした。
 オーヴェール・シュル・オワーズへ行くのはこれで4回目。
 以前はラヴウ亭がずっと修復工事中で中が見られなかったのが、やっと今回念願かなって見ることができた。
 やはり6畳程のせまいせまい屋根裏部屋。
 となりのヒルシフの部屋と共に当時のままに復元されていた。

 僕にとっては作品(絵)そのものだけでなく画家がその風景をどの様に捉え絵にしているのか、周りの環境も含めてどういう空気の中で描いたのか、或いは何をどうして省いたのか、又強調したのか。
 そのもの風景を通して作品を見直してみる、というのは勉強にもなるし、大きな楽しみでもある。

 今回の旅では充分な時間がなくモントーバンやサント・マリー・ド・ラ・メールまでは足を延ばすことができなかった。
 又機会があれば早いうちに訪れたいと思う。
 それとズンデルトとヌエネンにも是非行ってみたいと今、思っている。
 いや以前にはその近くは必ず通過していた筈であるが、あらためて行ってみたいと思う。
VIT

(1999年2月3日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.85」に書いた文を2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載した文ですが、2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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033. オーヴェール・シュル・オワーズ AUVER SUR OISE

2018-10-27 | 旅日記

 ポルトガルに住んでいても、年に何回かはパリに行く。
 いつも用事だけを済ませてとんぼ返りなのだが、一日、時間が出来たらパリ郊外のオーヴェールに行ってみたいと前々から思っていた。
 そしてそれが今回実現した。

 行ってみると案外簡単に行ける。
 しかもインフォメーションでは日本語の地図まで用意してあるのには驚いた。
 よほど日本人観光客が多いのだろう。

 オーヴェールは僕にとって、佐伯祐三の<村役場>や<オーヴェール・シュル・オワーズ風景>などが印象的で、その場所を見たいと思って行ってみたのだが、それよりもゴッホが最晩年を過ごした村ということで観光地になっているのだ。

01.「オーヴェール・シュル・オワーズ風景」1924年/佐伯祐三

 サンレミの精神病院から弟テオの紹介でガシェ医師の住むオーヴェールに移り住んだゴッホは、ピストル自殺するまでの70日間になんと70点の油絵と30枚のデッサン等をものにしている。
 その中には<オーヴェールの教会><医師ガシェの肖像><荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑>など力強い代表作も数多く含まれている。

02.「ガシェ医師の肖像」1890年/ゴッホ

03.「オーヴェールの教会」1890年/ゴッホ

 佐伯祐三が描いた<村役場>やゴッホが下宿していたラヴウ亭、そしてヴラマンクが描いた<オーヴェール駅>に面したメインストリートこそ今は車がひっきりなしに通っているが、一歩中に入るとゴッホが住んでいた当時そのままに静かなフランスの田舎の村のたたずまいがある。
 医師ガシェの家をもう少し先まで歩くとセザンヌの<首吊りの家>の場所に出る。

04.「首吊りの家」1873年/セザンヌ/オルセー美術館蔵

 ゴッホがイーゼルを立てたと思われるところにゴッホの作品の印刷物が掲示されていて、草木などはかなり繁ってはいるけれども、作品とそっくりそのままの風景がまだまだ残っているのが嬉しい。

 せっかくだから、ゴッホのお墓参り、と思って教会の坂道を登り始めた頃、それまで何とか保っていた空からぽつりぽつりと冷たい雨が降りだし、やがてまっ黒い雲と横なぐりの雨になってしまった。

05.「雨のオーヴェール」1890年/ゴッホ

 それでも刈り取られた後の麦畑には小ガラスが群れ飛び、ゴッホとテオの墓に着いた時にはもうぬれ鼠で、なにかゴッホのお墓参りに最もふさわしい様な気もして感激してしまった。

VIT

(1992年10月31日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.38」に書いた文を、2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載したものですが、2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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032. 着陸 LANDING

2018-10-26 | 独言(ひとりごと)

 かつていままで飛行機の着陸でこれほど恐怖感をおぼえたことはない。

 普通ならまだ明るいはずの到着時間なのに、リスボンの上空に到達した頃には既に空は真っ暗になっていた。
 パリで機体の到着が大幅に遅れ、それに伴って機内に乗り込むのがかなり遅れた。
 パリ出発が遅れたといっても、その割には案外とスムーズに乗り込んだ方だから、もしかしたらその遅れは取り戻せるのではないかと期待していたのだがやはり到着も遅れてしまったのだ。
 いつもどおりパリからリスボンへ向うフランス航空の機内は満席であった。

 ここ数年日本への飛行機チケットの買い方はリスボン-パリ/パリ-成田/成田-伊丹/伊丹-宮崎、そしてそれの往復を購入する。
 それ以外に日本国内でも宮崎-大阪間を2度往復した。
 したがって今回の帰国では離陸を10回、着陸を10回経験したことになる。

 成田からパリへの便も満席とまでは行かなくても8割程度も混み合っていた。
 3人掛けのシートに3人が座ったため、僕だけは別の列に引越しをした。
 一つおいて隣の席には赤ん坊連れのフランス人女性でその赤ん坊は大きな声で泣き騒いだりしていた様だが僕は常にヘッドフォンを耳にあてていたので気にはならなかった。
 なにしろ成田からパリに着くまでに4本半の映画を観たのだから…。

 最近の機内食は愉しみがない。
 昔に比べると随分と質が落ちていると言わざるを得ない。
 航空運賃を考えるとそれも仕方のない話なのだが…。
 機内の楽しみはもっぱら映画である。
 その方は昔と違って個人用のモニターがあって、リモコン操作で幾つかある中から好きな映画を選ぶことが出来る。
 映画だけではなく、ゲームなども用意されていて退屈をさせない。
 僕などは眠たいのを我慢して必死で映画を観ているわけである。

 パリからリスボンへの飛行機ではそんなものは一切ない。
 ヘッドフォンもないので音楽すら楽しめない。
 仕方がないのでフランス語の機内誌をめくる。
 これがたいてい折れ曲がって表紙など引きちぎれていたりする代物だ。
 前の人がパズルを楽しんだペン書きが残されていたりする。
 でもこのフランス航空の機内誌の写真は素晴らしいのでいつも楽しみにしている。
 フランスに向う時には情報源になることもある。
 食事は貧相なもので期待はできない。

 この日は隣に肥ったポルトガルのおばさん、そして真後ろの席に刺青やピアスを付けた若い男のグループが座っていた。
 隣のおばさんは食事にあまり手をつけていない。
 余程口にあわなかったのかもしれない。と思っていたら、右隣にいるMUZも残している、珍しいことだ。
 鈍舌の僕だけがきれいに平らげた。

 いよいよリスボンに着陸というアナウンスがあった。
 2ヶ月半ぶりのポルトガルである。

 今年の日本ではどっぷり梅雨に浸かるのを覚悟していた。
 それもたまには良いだろうとも思っていた。
 ところがこれが雨は全く降らずに蒸暑さときたら猛烈であった。
 日本滞在中の前半に既にまっ黒に日焼けしてしまっていた程だ。
 岡山の個展中はまだ6月だというのに連日35度を上まわっていた。
 朝、ホテルを出て個展会場の髙島屋まで僅か5分の距離だが、陰がなく頭のてっぺんに容赦なく太陽が降り注いだ。
 傘は一度も開いたことがなかった。

 リスボン上空の機内アナウンスではリスボンの気温は20度と知らせた。
 飛行機の真下に懐かしい夜景が見える。
 4月25日橋、バスコ・ダ・ガマ橋。
 いよいよ前方にはリスボン空港がある筈。

 その時、機体は大きく傾いたのだ。旋回でもないのに…
 さらに逆に大きく傾いた、かと思うと左右に揺れだしたのである。
 一瞬乗客たちは息を呑んでいて静寂そのものであった。
 機内の照明は既に消灯されていて、禁煙とシートベルト着用サインだけが不気味に赤く照らしだされていた。

 操縦席の扉は閉じられていて中の様子を見ることは出来なかったが、恐らく操縦士たちは機体を立て直すのに賢明になっていたのだろう。
 やがて乗客たちはざわめきはじめた。
 「なんて下手な操縦なのだろう」
 隣のおばさんは十字を切っている。
 うしろの若者たちはさかんに指笛を鳴らす。
 どこからか赤ん坊の泣き騒ぐ声も聞こえる。

 僕は1968年に初めての海外旅行で飛行機に乗って以来、いままでに数えきれないくらい飛行機に乗っている。
 航空会社もいろいろだ。舗装されていない草原の飛行場もあった。
 かつて南米最南端のフエゴ島に渡るために小さな飛行機に乗ったこともある。
 そこに行くにはそれしか方法はなかった。
 前もって他人から聞かされたことは「あの飛行機はキリモミ状態に回転をするよ。」というものであった。
 小さなプロペラ機でアルゼンチンの軍が運行していた。
 それでも機内でサンドイッチと飲物が出た。
 軍服を着た男の客室乗務員がお盆に干からびたチーズ入りサンドイッチを何度も運んできたのだ。
 その場所はいつも強風が吹いていていつ墜落してもおかしくない。というはなしであった。
 僕たちが乗った日はそれ程風は吹いていなかったのか、回転はしなかった。
 それでもかなり揺れたことは揺れた。

 今回はそれ以上に揺れている。
 パリ到着が大幅に遅れたためそれを取り戻すために機体の整備が出来ていなかったのではないのだろうか?
 とにかくこのランディングは異常だ。

 「ドスン」と強い音と衝撃が走った。
 すぐに逆噴射音が始まって、かなりのハードランディングとはいえ、なんとか無事に着陸したようである。
 薄暗い機内では拍手が起こった。
 そう言えば昔はランディングするたびに拍手が起こったものだ。

 リスボン空港を出るとこれが7月とは思えないほど冷たく強い風が吹いていた。
 急いでリュックから上着を一枚取り出した。

VIT

 

(この文は2005年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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031. 地球は大きく世界は広いはずなのに

2018-10-25 | 独言(ひとりごと)

 「世界は狭くなった」などとよく言われるが、自分でクルマの運転をしていても地図ではほんの少しの寸法でもなかなか目的地に着かない。やはり地球は広い。
 オリンピックの入場行進などを見ていると、初めて聞くような国名もあったりして行ったことのない国の方が遥かに多いし、だいいち、毎年の日本とポルトガルの往復でもうんざりするほどの遠さだ。

 それほど広い世界のとある場所でごくごく親しい友人と偶然出会ったりする。
 それも一度ではない、特殊な例をここに書こうと思う。

 名前は京田誠と星野利枝の夫婦。
 京田誠は大学の一年先輩で大学時代から手作りの色んな物を作る名人で、1968年頃の当時、なんば髙島屋でヒッピーの手作りフェアという催しが開かれた時は立派な皮のバッグを出品していた。
 僕もその時、京田誠に誘われて何とも知れない物を出品した。

 京田誠は卒業してすぐにインドのマドラス近くに住み染織の勉強を始めた。
 僕は当時インド音楽に傾倒していたビートルズが好きでラビ・シャンカールも好きでそれに色彩的にもインドに憧れを持っていた。
 ヨーロッパを3ヶ月くらいで美術を見て歩きながら中東を通りインドを最終目的地として、インドで1年くらい住んでみようという計画でMUZと一緒にナホトカ経由でストックホルムに入った。
 もちろん、京田誠がインドに住んでいた、という事実が僕に大きく影響を与えたのは言うまでもない。

 だが、僕たちのヨーロッパ滞在は3ヶ月どころか4年半にも及んだ。
 京田誠とインドではなくヨーロッパで会おう、ということになったのだが、そのうちお互いの筆不精がたたって居所不詳になってしまった。

 ヨーロッパでは当時難しいと言われていたアメリカのヴィザが取れてしまったので、僕たちはニューヨークに住んでみることにした。
 ニューヨークでは僕とMUZは別々の仕事に着くことになった。
 僕はハーレムにほど近いマクロバイオティック(自然食)レストランのコックとして雇われた。
 MUZはミッドタウンにあったすし屋である。
 他人に紹介されてすし屋の奥に行くと調理場から親しげに呼ぶ声が聞こえる。
 何と京田誠だ。

 インドで行方知れずになっていた京田誠がニューヨークのすし屋でアルバイトしていたのである。
 聞いてみると、インドではネパールの織物に興味を引かれ、それと繋がりが深く今も原始的な機織「原始機」の残っているグアテマラの織物の研究のため、今はグアテマラに住んでいるのだという。
 でも食っては行けないから出稼ぎ労働者としてニューヨークに来ている、とのことであった。

 その時は既に星野利枝さんも一緒だった。
 お互いが休みの日などは一緒に美術館を見学したりもしたが、彼らにはやがてお金も貯まってグアテマラに戻って行った。

 僕たちは1年間ニューヨークの生活を楽しんだ。
 毎週ジャズを聞き、美術館を観、ミュージカルを楽しみ、決して節約するつもりもなかったのだが、それでも僕たちにもお金が貯まった。

 貯まったお金で南米旅行をすることにした。
 先ずはリオのカーニバルにあわせてブラジルに飛んだ。
 それから、南下してフエゴ島へも渡り最南端まで行き、今度は西海岸を北上するというルートを取った。
 その間 10ヶ月を要した。

 もちろんグアテマラでは京田誠、星野利枝夫妻を訪ねることにしていた。
 ところがその南米を旅行中にグアテマラ大地震が起こった。
 そのニュースは旅行中の僕たちの耳にも入っていた。
 心配しながらもその目指す住所のところでローカルバスを降りた。
 あたり一面瓦礫の山であった。最悪にもそのあたりが震源地だったのだ。

 警察に行ってみたが、そこも天井が抜け落ち青空の下に机を置き警察業務をしていた。
 「日本人など判らない。でも外人がたくさん居るキャンプ地があるから…」と教えられ行ってみた。
 そこにはアメリカ人のボランティア活動の拠点があった。
 「ここにはアメリカ人ばかりで、日本人は一人も居ない」とのことであった。
 それ以上探しようもなく、あきらめて帰ることにした。
 「あーあ、京田さんたちも瓦礫の下敷きになってしまったのか。何と運が悪い。」と本気で考え、かるく手を合わせてその場を立ち去った。

 グアテマラではユカタン半島を廻りマヤ遺跡などを巡りながらカリブ沿岸の国ベリーズで遊んだのちやがてメキシコに入った。

 メキシコに入ってからも首都メキシコシティーに到着するまでに約1ヶ月を要した。
 メキシコシティーで博物館を見学していた時である。
 博物館は四方に建物があり、中庭を横切り別の展示場に行けるようになっている。
 その中庭を横切っていた。
 誰かが叫んでいる。なんだか「タケヤ~ン」と言っているように聞こえる。
 僕は高校時代、大学でも「武やん」と呼ばれていた。
 その声はこちらに近づいてくる。
 何と京田誠と利枝さんであった。

 「グアテマラ大地震では自分たちの建物はドイツ人が建てたもので頑丈だったので何とか大丈夫であった。
 その後、地震で何もかも生活が不自由になったのでカナダに旅行に出ていた。」とのことであった。
 とにかく無事を喜び合った。
 僕たちはアメリカに向け北上、彼らは南下しグアテマラに戻って行った。

 その後、僕たちは宮崎に住んだ。
 彼らもしばらくして日本に戻っていたようである。
 母校の大学で講師をしていたし、原始機の第一人者としてNHK教育テレビの講師としても活躍していたようだ。
 偶然にテレビを点けると彼らが映っていたこともあった。
 2度程は宮崎にも訪ねてくれた。

 僕たちはやがてポルトガルに移住することになった。
 少し遅れて京田誠、星野利枝夫妻もグアテマラの生活に戻って行き原始機の研究を続けている。

 そして今、星野利枝さんが一時帰国し、芦屋で展覧会をしている。
 詳細は下記の通り。お近くの方はぜひ訪れて素晴らしいグアテマラの織物をご覧下さい。


VIT



星野利枝の
ウィピルコレクション
--ウィピル=グアテマラの各地に伝わる民族衣装--

2005年3月30日(水)~4月3日(日)
11:00am~7:00pm最終日5:00pmまで
期間中、グアテマラ在住の染織家、星野利枝がゲストを交えウィピルの魅力について語ります。
(いずれも3:00pm~5:00pm)

4月1日(金)原始機の魅力 ゲスト;角浦節子(原始機研究家)
4月2日(土)模様の魅力  ゲスト;篠田ゆかり(グラフィックデザイナー)
4月3日(日)色彩の魅力  ゲスト;金森太郎=金昇龍(映像作家)


ギャラリー芦屋 往還 
〒659-0065 兵庫県芦屋市公光町8-31/
tel&fax(0797)34-3678(ギャラリー)(0798)72-9810(オフィス)
<阪神芦屋駅より北東に徒歩約3分、JR芦屋駅南出口より徒歩約10分、阪急芦屋川駅より南に徒歩約15分>

 

(この文は2005年4月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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030. りんご MAÇÃ

2018-10-24 | 独言(ひとりごと)

 絵を描きはじめのころ、セザンヌのリンゴの絵を見て不思議に思っていた。
 子供の時から食べていたリンゴとは少しイメージが違うのだ。
 今から考えてみると日本のリンゴの方が変わっていて、品種改良の成果だと思うが、立派なのだ。
 立派すぎるといっても過言ではない。
 そして栽培にかなり手をかけているのが判る。
 たぶん気候風土のせいでそうせざるを得ないのだろうとも思う。

 子供のころ、おふくろは「国光」とか「インドリンゴ」などと品種名をいっていたのを覚えている。
 戦後間もない頃でも品種改良は進んでいた証拠だ。
 町には毎年、トラックで青森あたりから、リンゴ売りが来て、よくおふくろはリンゴ箱ごとを買っていた。
 木箱にはモミガラが詰っていて、その中から立派なリンゴが姿を見せる。
 空き箱は親父の日曜大工の材料になる。
 中学生の時、僕もそれで鳩小屋を作った。
 東京に出た時にはリンゴ箱いくつもに荷物を詰めて送った。
 それはそのまま食卓になり、勉強机になり、絵を描く台になった。
 僕にはそのリンゴのイメージがある。

 高校で美術部に入ってまだ初めの頃、顧問の先生から「ビュッフェの映画が来ている」と教えられて映画館に足を運んだ。
 梅田にあった「北野シネマ」でだった。
 メインの映画はジャン・コクトーの「オルフェの遺言」で高校1年生だった僕には難しくて訳が判らなかった。
 それに、短編映画としてビュッフェが絵を仕上げて行く過程を、ドキュメントしたものがひっついていたのだ。
 豚の頭とワインの瓶、それにナイフといったものがテーブルの上に置かれている。
 せりふはない。40号くらいのカンヴァスに直接、木炭でデッサンをして、それに殆ど無彩色の油彩で塗られてゆく。
 木炭や絵筆の音がカシャカシャと心地よい。
 それだけの映画だが、僕には油彩を描き始めた頃だから感動もし、影響もされた。
 それからすぐの頃にあった高校展にビュッフェのやりかたで40号の静物画を描いた。
 豚の頭ではなく、瓶やポット、リンゴ、レモンなどを配したものである。
 無彩色ではなく、パステル調に色彩を豊富に使った。
 リンゴは立派なインドリンゴになった。

 最近は「インドリンゴ」や「国光」などよりもっと大きい「むつ」とか「富士」、たしか「新世界」などという馬鹿でかいリンゴも日本のスーパーなどでは売られている。
 とても一人で一個は食べきれない大きさだ。
 それらは日本名だから日本で品種改良されたものだと判る。
 それにアメリカあたりから輸入されたリンゴも売られているようだが、日本向けなのだろう。
 それもニューヨークなどで売られているのより立派なものが多い。

 ポルトガルは暖かい国だがリンゴも出来る。
 そして売られているリンゴも種類が多い。
 でもそんなに馬鹿でかいものはない。
 一番大きいものでも、日本で売られている一番小さいものより小さいくらいだ。
 赤いの、黄色いの、緑の、そして茶色いのと用途によって使い分けるようだ。
 品種名も国際的に通用している「スターキング」や「ジョナゴールド」といったものと、「ガラ」とか「レイネタ」といった品種がある。
 「ガラ」という名前が付いているから品種改良されたものだろうが、素朴で丸くセザンヌのリンゴに似ている。
 「レイネタ」は一見したところでは「長十郎梨」のように見えるが中味は立派にリンゴだ。
 それはポルトガルだけではなくてヨーロッパ中で売られているが、これが濃厚な味で旨い。
 その他に季節になると市場にもっと小さな少し平べったいリンゴが並ぶ。
 品種改良もされていないようなセザンヌのリンゴよりまだ原始的なものだ。
 ゴルフボール程しかないものもある。これもあっさりとした上品な味で旨い。

 数年前ブルターニュを旅行した。
 ポンタヴァンでゴーギャンのモティーフになった『黄色いキリスト』を見に行く途中『愛の森』を通り抜けた。
 前夜の嵐で森の道いっぱいに栗の実とリンゴが落果していた。
 ゴルフボールくらいの大きさのリンゴだった。
 ブルターニュではブドウは採れない。
 したがってブルターニュの飲物はワインではなく、リンゴから作ったシードルだ。
 ブルターニュではシードルばかりを飲んでいたが、小さなリンゴはシードル用なのかも知れない。

 海外暮らしを始めるようになった最初、スウェーデンに住んだ時、すぐにセザンヌのリンゴと出合った。
 そして、ニューヨークでもパリでもどこに行ってもセザンヌのリンゴはあった。

 確かめるまでもなかったことだが、「エクス・アン・プロヴァンス」の広場の果物売り台にもそれはあった。
 セザンヌが生まれ育ちそして晩年を過ごした町である。
 その町外れにセザンヌのアトリエが残され、一般公開されている。
 そこにはリンゴと並べて描かれた様々なモティーフが保存されている。
 セザンヌはそのアトリエで壺や瓶、布などをテーブルの上に配し、繰り返しリンゴを描いている。

 リンゴを描写する、ということよりも、不動で腐りにくいリンゴは、「自然を円筒や球、円錐に換えて表現する」という、セザンヌの持論を立証する上で格好の素材で、光の偶然の戯れがリンゴに作る効果と、その結果現われる色彩のヴァリエーションを研究するにはもってこいのモティーフであったに違いない。
 そして従来の一点遠近法ではなく、幾つもの視点から描くことにより、その後に続くキュビズム(立体派)への暗示を与えたことになったわけだ。

 セザンヌは
 『デッサンと色彩は、はっきり区別することはできない。彩色するに従って、デッサンもできてゆくし、色彩の調和がとれればとれるほど、デッサンもより明確になる。色彩が豊かになると、形態も充実する。色調の対照と相互関係、これこそデッサンと肉付けの秘密だよ。デッサンしなさい。物を包むのは反映であり、光は、その全体的な反映によって物を包むのです。』と言っている。

 セザンヌやゴッホの良き理解者で絵具屋のタンギー親爺は、貧しい画家たちには、絵具代は請求しないで、当時売れもしない絵を預かっては絵具屋のショーウインドーに飾っていた。
 タンギー親爺の奥さんはそのことを常づね疎(うと)ましく思っていた。
 ある日、通りかかった客がセザンヌのリンゴの静物画を観て買いたいと申し出た。
 ところが、持ち合わせのお金が少し足りなかった。
 そこでタンギー親爺の奥さんは、「ええ、よござんすよ!分けて差し上げます。」と言ってセザンヌの絵のリンゴを一個づつに切り分けてしまった。
 本当か嘘かわからないはなしだが、『ゴッホの手紙』に出てくる有名なエピソードである。

 ポルトガルでの僕たちの朝食は、パンとチーズ、ミルクコーヒー、少しの野菜、
それにカスピ海ヨーグルトの中に刻んだリンゴ、それに蜂蜜をたらしたものを毎朝食べている。
 だからリンゴは欠かしたことがない。
 銘柄品ではなく、ポルトガル国産の小さな一番安価なものを買っている。
 それが一番旨い。セザンヌのリンゴだ。

 昨日買ったポルトガル国産のリンゴは1キロあたり1ユーロ(138円)であった。
この国に来て、たっぷり食べることができる幸せを噛みしめている。
VIT

 

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029. NOME -なまえ

2018-10-23 | 独言(ひとりごと)

 最近はあまり日本の子供と付き合う機会はないので判らなかったのだが、時たまニュースなどで目にする子供の名前をみて奇妙に感じている。
 時代の移り変わりによって日本人の名前も随分様変わりしているようだ。

 男の子の名前は僕たちの時代よりもかえって古めかしく、江戸時代の町人の名前のように感じるのは僕だけだろうか。
 これが新しいのであって古めかしいなどと言っては笑われるのだろう。
 一馬、太一、大助、祥平と言った感じだがそれもまた違うのかも知れない。

 逆に女の子の名前はまるで少女漫画から抜け出してきたような名前が多い。
 僕たちの時代では7~80%に「子」が付いていた。
 「優子、洋子、道子」などが今は殆ど見あたらないようだ。
 僕たちの親の時代には「子」はかえって少なかった。
 その時代ともまた違ってきている。
 もちろん祖父や祖母に時代の名前とも違う。
 MUZの祖父の名前は「運平」といった。
 かえって現代の子供にありそうな名前である。

 それをポルトガルに目を転じてみると名前のバリエーションは随分少ないように思える。
 友人の「ペドロ」のお父さんの名前はペドロさんという。
 ややこしくてかなわないように思うが、呼ぶ時は「パイ(お父さん)」「フィーリョ(息子よ)」と言うのだから問題はないようだ。
 ペドロの友人でセトゥーバルの湾内に船を出してイルカウォッチングの仕事をしている友人もペドロという。
 僕たちは「イルカのペドロ」と言って区別している。
 そんな名前も宗教上によっているのだから流行もあまりないのかも知れない。

 600年も昔の大航海時代のさきがけを作ったエンリケ航海王子(1394年3月4日生まれ)という、ポルトガル人にとっては最も歴史上有名な人物がいる。
 その一つ上の兄がペドロと言った。
 一時期暫定的な国王にもなった人物で利発で思いやりも深く国民から慕われていた。
 それより二世代前の国王もペドロと言う名前だ。
 だからといって国中ペドロかというとそうでもない。

 セトゥーバルのパソコンショップの若い技術者は「ヴァスコ」という。
 あのヴァスコ・ダ・ガマのヴァスコである。
 そういえば政治家にその名も通してヴァスコ・ダ・ガマという人もいる。
 政治家といえばソクラテスという人もいる。
 でもソクラテスは苗字で名前はジョゼという。
 「ジョゼ」という人もポルトガルには多い。
 ニュースキャスターのジョゼ・ノグェイラがジョゼ・ソクラテスにインタビューをしている。

 女性の名前では「マリア」さんも多い。
 僕たちの住むマンションの1階にマリアさんがいる。
 マリアさんのお向かいのロドリゲスさんのところに立て続けに女の子が生まれた。
 最初の子は「フィリッパ」という。
 生まれた時からにこ~とほほ笑んでまるで天使のような可愛い子だ。
 その妹が「レオノーレ」という。
 これもまたお姉ちゃん譲りで可愛い。

 フィリッパというのはエンリケ航海王子やペドロ暫定王の母上の名前だ。
 そして巷にはフィリッパはそこら中にいる。
 レオノーレはエンリケとペドロの兄上で王位を継承したものの、身体が弱く早くに亡くなったドアルテ王の奥方の名前である。
 その他の世代にもレオノーレ王妃という人もいる。

 とにかく同じ名前が多くてポルトガルの歴史を勉強する人にはややこしくてかなわないだろう。
 「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」が歴史上、何人もいるようなものなのかも知れない。
 そして現代社会でもそこら中に秀吉がいたりする。
 「イルカの秀吉」などと区別しなければならないのかも知れない。
VIT

 

 

(この文は2005年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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027. オーヴェル7月最後の20日間-ゴッホとドービニーに関する考察-

2018-10-22 | 旅日記

 先日パリのオルセー美術館でドービニーの下の作品を観た。

 何回となくオルセー美術館は訪れているがこの作品を観たのは初めてである。

 気がつかなかっただけなのかも知れない。

 [1989年付与によりオルセー美術館が獲得]となっているから、それまでは個人コレクションだったのだろう。

 タイトルは「雪」となっているが、恐らくはオーヴェルの風景だ。

 雪原に小カラスの群れ、深く垂れ込めた雲、僅かに青空と茜の空が覗いている。

 清々しい明るい絵である。

01.「雪」1873年作・Salon de 1873出品/シャルル・フランソワ・ドービニー[1817-1876]オルセー美術館蔵

 

 ドービニー [1817-1878] はコロー [1796-1875]、テオドール・ルソー [1812-1867]、ミレー [1814-1875] などと共にバルビゾン派(外光派)の画家である。

 そしてオーヴェル・シュル・オワーズに最初に住んだ画家でもある。

 船を持ちオワーズ川やセーヌ川に漕ぎ出し、刻々と変化する光をとらえるため船の上でも描いたと言われている。

 作品は今までにもフランス各地の美術館で少しずつは観ているが、その多くが上の絵の様に横に細長い風景画を得意としている。

 

 普通キャンバスにはF(Figure-人物)、P(Paisage-風景)、M(Marine-海面)と言う規格のサイズがあるが、もちろん「F」なら人物を描かなければならないと言ったものでもない。P、Mになるに従って細長くなってゆくだけの話である。

 日本と欧米はそのサイズも微妙に違い「日本サイズ」「フランスサイズ」などと言って区別している。

 日本で規格サイズ以外を描いたならば結構大変である。

 木枠は特別に誂えなければならないし、額縁も特別注文になってしまう。

 ポルトガルでも一応の規格サイズ(フランスと同じ)は決まっているのだが、それを誰も気にしない。

 画材店で売られている既成の木枠にしても規格外のものさえ多い。

 大体がいつでも何でも注文してから作る。

 逆に言えばどんなサイズでもお構いなしなのだ。

 だから「何号」といった言い方もあまり通用しない。

 何センチかける何センチというやり方だ。

 フランスもそうなのかも知れない。

 ドービニーの多くの絵は明らかに「M」よりもまだ細長い変形で縦のサイズの2倍が横のサイズだ。

 写真で言う今流行のパノラマである。

02.「曇り空の麦畑」50x100.5cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館蔵/アムステルダム

 

 ドービニーのあと、普仏戦争(1870年)が終ってからはルノアール [1841-1919]、モネ [1840-1926]、ピサロ [1830-1903]、シスレー [1839-1899]、ギョーマン [1841-1927]、それにセザンヌ [1839-1906] などもオーヴェルにやってきて絵を描いた。

 

 ゴッホ [1857-1890] がこの地にやって来たのはドービニーの30年後である。

 サン・レミのサン・ポール・ド・モーゾール精神病院からパリを経由して精神科医ガシェ医師の住むオーヴェルに到着したのは1890年5月20日であった。

 ガシェ医師 [1828-1909] はその当時の進歩的画家たちの良き理解者でもあった。

 自分でもP・ファン・リセルと言う雅号をもって絵やリトグラフをやる。

 ピサロやセザンヌなどもガシェ医師の勧めでこの地を描いたと言われているし、近隣に移り住んだ画家たちも多い。

03.「藁束」50.5x101cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ダラス美術館蔵

 

 ゴッホはオーヴェルでは発作の再来を恐れながらも充実した日々であった。

 代表作の一つである「オーヴェルの教会」をものにしたし、「ガシェ医師の肖像画」も描いている。

 

 僕たちは5~6度はオーヴェルを訪れている。

 2度目に行った時はサロン・ドートンヌの期間であったから、10月末か11月頃の寒い時季であった。

 駅に着くと右手にゴッホが描いたオーヴェルのカトリック教会が見える。

 駅から道を右にとり急勾配の坂道を登って行くとカトリック教会の横手にぶつかる。

 そこにドービニーの銅像がある。

 ゴッホの時代にはもう既に建っていたのであろうか?

 教会の正面に周ると、あのゴッホが描いた場所に出る。

 それを過ぎたあたりから風が吹きだし横殴りの雨になった。

 墓地への道は右手に麦畑を見るが、小カラスが群れ飛んでまるでゴッホの絵そのままの景色であった。

04.「雨のオーヴェル風景」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ウォレス国立美術館蔵

 

 ゴッホは充実したオーヴェルでの制作の日々を送っていたが、7月6日にテオの赤ん坊、その名もゴッホが名親になっている、ヴィンセントが病気になったと言うので見舞うためパリに出かける。

 その時に或いはテオの画廊で上のドービニーの作品「雪」を観たのではないか?と思う。

 もしかしたらガシェ医師の家であったのかも知れない。

05.「草葺の家と丘」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] テートギャラリー蔵/ロンドン

 

 パリから戻ってから7月6日以降に急にゴッホは細長い絵を描き始めている。

 ここに掲げたゴッホの絵は全て1890年7月に描かれた作品である。

 それまでパリでもアルルでもサン・レミでも細長い絵は一点もないと思う。

 僅かに初期ヌエネンの時代には描いてはいるが…、

 

 絵を描き始めの頃からミレーの精神性を師とし模写を続けてきたゴッホがバルビゾン派として仲間でもある、そしてオーヴェルの先駆者である、ドービニーを意識していなかったわけがない。

 今まではガシェ医師を通じてオーヴェルとドービニーと言う共通点は考えていた。

 でも今回オルセー美術館で観たドービニーの「雪」は季節こそ違えゴッホが「荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑」として表現を変えても不思議ではないのではないだろうか?と直感したのだが…。

 ドービニーの作品も「カラスが群れ飛ぶ雪景色」と題しても良いようなモティーフでもある。

06.「荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑」50.5x103cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館蔵/アムステルダム

 

 その間には細長い絵ばかりではなく普通サイズの絵も勿論あるのだが、ゴッホが細長く描いた最初の作品が「ドービニーの庭」である。

 「ドービニーの庭」を描きながらゴッホはどんな心境だったのだろうか?

07.「ドービニーの庭」50x101.5cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] バゼル美術館蔵

 

 その後にもオーヴェルに住んだ画家は多い。

 ヴラマンク [1876-1958] もその1人。ヴラマンクはオーヴェルの駅を描いている。

 その駅を出て教会とは反対側の左に道を取ると、ゴッホの死んだ年に生れたザッキン [1890-1967] 作のゴッホ像の建つ公園がある。

 その隣がドービニーの庭である。

 さらにその道を行くと右手にゴッホが下宿したラヴゥ亭とその真向かいに町役場がある。

 「町役場」はゴッホが恐らく最後に描いた作品として知られているが、僕は佐伯祐三 [1898-1928] も描いたその「町役場」を見たくて最初はオーヴェルにやって来たのだった。

 佐伯祐三はヴラマンクに絵を観てもらうためにオーヴェルにやってきたのだが…。

08.「畑を横切る二人の夫人」30.3x59.7cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] マリオン・クーグラー・マックネイ美術館蔵/サン・アントニオ

 

 ゴッホは1890年7月27日に自分の胸に銃弾を撃ち込んだのだ。

 そして29日午前1時30分。ラヴゥ亭の屋根裏部屋で息を引き取った。

 この短い20日間に描いた横に細長い絵の数々は何かを意味しているのであろうか?

09.「根と幹」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館/アムステルダム

 

 日本ではカラスというと厄介者である。

 そして不吉?な鳥でもある。

 都会では生ゴミを漁るカラスが増え人まで襲うと言う。

 

 オーヴェルにいるのは小カラスである。

 ハシブトカラスとルリカケスのちょうど中間くらいの大きさだろうか?

 フランスでも不吉な鳥なのかも知れない。

 

 ポルトガルではそれほどカラスの姿をみかけない。たまにいても2~3羽。

 コウノトリやカモメの方が多い。

 ポルトガルでカラスは神聖な鳥として崇められている。

 聖人サン・ビセンテは9世紀ポルトガルの南西の地、サグレス岬に埋葬され小さな教会が建てられた。

 その教会をカラスが守った。

 12世紀モーロ人によりこの教会が破壊され、サン・ビセンテの遺骸はリスボンに運ばれることになった。

 その船がリスボンに着くまでカラスが付き添い遺骸を守り通したのだと言う伝説がある。

 リスボン市の紋章は船とその両側にカラスがいる図柄である。

 そしてたびたび郵便切手などにも登場する。

 


▲カラスとリスボン市の紋章の切手


▲リスボンで開催されたヨーロッパ文化祭記念

10.11.12.13.

 これはポルトガルで売られているジュースのパッケージでテレビCMにも登場する。

 真四角に切り取られたゴッホの「荒れ模様の空にカラスが群れ飛ぶ麦畑」がデザインされている。

 オレンジ、バナナ、レモン、人参と麦がミックスされた健康に配慮された飲物であるが、麦が少しばかり入っているからと言うだけで、何故ゴッホなのであろう?

 飲みながらもおおいに悩み考えさせられ、この考察を書くきっかけにもなった。

VIT

 

(この文は2004年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行 (下)

2018-10-21 | 旅日記

026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行(上)よりの続き

 

2004/10/03(日)晴れ/Nancy-Strasbourg

 

 ナンシーから少し足を延ばしてストラスブールにも行った。

 ストラスブールでは街の中心、グーテンベルグ広場にすぐの「ホテル・グーテンベルグ」に予約を取っておいた。

 部屋は屋根裏部屋で窓からはカテドラルとグーテンベルグ広場もよく見える。

 広場ではメリーゴーランドが廻って子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。

 その隣にグーテンベルグの銅像も見える。

 グーテンベルグは印刷術を発明した人物だ。

 この街にも暮らしたことがあるとのことである。

36.37.ホテルの窓から見えるカテドラルとグーテンベルグ広場の夜景/グーテンベルグの像

 

 早速カテドラルの横にある、観光案内所に行った。

 美術館や遊覧船にも乗れるストラスブール・パスを買い求めようとすると「今日は日曜日なので美術館は全て無料ですよ」と言う。

 「あとは遊覧船くらいだから個別にチケットを買った方がお徳です。」

 それは良いことを聞いた。今日中に美術館を全て観てしまおう。

 先ずは「近代・現代美術館」[Musée d'Art Moderne et Contemporain] に急いだ。

 一番古いのがモネ (1840-1926) でゴーギャン (1848-1903)、ボナール (1867-1947)、ヴィヤール (1868-1940) などあり、キュビズムやカンディンスキー (1866-1944) の展示。

 それにアルプ [Jean Arp 1886-1966] は平面、レリーフ、立体を含めかなりまとまったコレクションがあった。

 その他、大半は写真、映像、コンピュータなどを使った超現代美術の展示であった。

38.39.Victor Brauner(1903Roumanie-1966Paris)/アルプ(1886-1966)の部屋

 

 埃と鳩の糞まみれになった彫刻が雑然と置かれている屋根付きの古い橋を渡って次は「ストラスブール美術館」[Musée des Beaux-Arts de Strasbourg] へと向った。

 最初、駅に着いた時にポスターを見て「あれっ」と思ったのだが、この美術館でドラクロア展が開催されているのだ。

 美術館に着くと行列が出来ていた。

 入場券を無料で貰って列に並んだ。

 ポスターにはルーブルにある「民衆を導く自由の女神」が印刷されている。

 いつもルーブルで観ているので、それは観なくても常設の展示を観たいと思っているのだが。列は一つしかない。

 入場制限をしている様だが、比較的すぐに入れた。

 入るとドラクロアではなくてイタリアのイコンなどからの展示から始まり、フィリッポ・リッピ (1406?-1469) やボッチチェリ (1445-1510) それにラファエロ (1483-1520) などもあり、やがてドラクロア (1798-1863) の「民衆を導く自由の女神」の前に出た。

 他にドラクロアは小さいのが2点ほどしかなかった。

 あとはコロー (1796-1875) やドービニー (1817-1878) も一点ありその時代までの展示であった。

 外に出るともうほとんど行列はなく2~3人が並んでいるだけであった。

40.41.42.ドラクロア展のポスターとカテドラル/ラファエロ(1483-1520)/ボッチチェリ(1445-1510)

 

 「装飾美術館」[Musée des Arts Décoratifs] と「考古学博物館」[Musée Archéologique] にも入った。

 パリのとは違ってここの装飾美術館にはアールヌーボーはない。

 

2004/10/04(月)晴れ時々曇り/Strasbourg

 

 朝からコロンバージュ(木骨煉瓦造りの建物)が美しい「プティ・フランス」を散策。

 その後、運河巡りの観光船に乗った。

 ストラスブールの運河は水量が非常に多くアルプスに近いことを感じさせる。

 途中2箇所で水門がある。

 船が水門の中に入ると後ろの門が閉まり、水位が上がるのを待つ。

 水位が上がれば前の水門が開き前へ進む。

 今は観光客の為の乗り物だがかつてヨーロッパでは交通、運搬の重要な仕組みだったのが判る。

 そしてパナマ運河はこの方式で造られたのだ。

 ゴーギャンもその肉体労働に従事した事があるというエピソードを思い出していた。

 コロンバージュの間を抜け天井ぎりぎりの石橋を幾つも用心深くくぐり、やがてガラス張りの大きな建築物の前に出た。

 EU(ヨーロッパ議会)本部ビルだ。

 今、その議長はポルトガルの前首相ドラン・バロッソが勤めている。

43.44.45.プティ・フランスのコロンバージュの家並とハクチョウが遊ぶ運河

 

 今日は美術館は休館日で一軒だけ「アルザス博物館」[Musée Alsacien] を見逃してしまったと思っていた。

 その隣で昼食を済ませ入口のショーウィンドーを何となく見ていると、今日は午後から開館と出ていたのでさっそく入った。

 古いコロンバージュの建物で、昔使っていたいろんな道具類が職業別に展示してあって興味深いものであった。

 焼き物は繊細なフランス的な物ではなく、どちらかと言うとどっしりとしたドイツ的な物が多くてやはりここはドイツに近いことを感じさせる。

46.47.アルザス博物館入口/薬局の展示

 

2004/10/05(火)晴れ時々曇り/Strasbourg-Paris

 

 ストラスブールを9時51分発の列車に乗る。

 パリに着くのは14時である。

 僅か5日間の違いなのに車窓を流れる紅葉は進んでいる様に思える。

 今日は火曜日なのでパリのほとんどの美術館は休館日である。

 昨年訪れた時はあいにく工事中で観る事が出来なかった、市立近代美術館 [Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris] に行ってみる事にした。

 ここだけは月曜日が休館日なので今日は開いている筈だ。

 ナビ派とエコール・ド・パリの作品が充実している美術館である。

 行ってみると驚いたことに未だ工事中で閉鎖されていた。

 工事はいつ終るとも知れない。

 

 そのメトロ入口の向かいにある東洋美術館 [Musée Guimet] に明かりが見えたので行ってみたがやはり休館日であった。

 その前を [Luxembourg] と表示したバスが走ったので、帰りはメトロではなくその次のバスを待つ事にした。

 バスはエッフェル塔の真下を通りやがて見知らぬ町並を抜けモンパルナスも過ぎて終点ルクサンブールに到着した。

 パリではメトロが便利だがたまにはバスも気持が良いなと感じた。

48.秋のルクサンブール公園


2004/10/06(水)晴れ/Paris

 

 ホテルから歩いて15分程のサン・ジェルマン・デ・プレのすぐ裏手にドラクロア美術館がある。

 この美術館にはもう6~7回は通っている。

 通っていると言っても入った事はない。

 余程縁がないのか、いつも工事中であったり、昼休みであったりで上手く入れたためしがない。

 今日も案の定閉まっていた。

 でも張り紙があって「今、企画展の入れ替え中で明日9時30分に開館」とあった。

 

 サンジェルマン・デ・プレの一つ手前オデオンからバスに乗りパッシー地区に行ってみることにした。

 パッシー地区にはアールヌーボーの創始者ベルギーのヴィクトル・オルタ (1861-1947) に触発された建築家・エクトル・ギマール [Hector Guimard 1867-1942] とその一派が手がけた建物が幾つか集っている。

 

 ギマールは後に地下鉄公団から依頼を受けてメトロの入口のデザインや公園のベンチなどのデザインをしたことでも知られている。

 

 バスはいつも右手にエッフェル塔を等間隔に見ながら進んだ。

 セーヌを渡ってラジオ・フランスのモダンな建物が見えたところで降りた。

 降りたところに一軒のカフェがある。

 いきなりアールヌーボー風のガラスのひさしのある建物だ。

 6つ7つのアールヌーボー建築を巡ってお昼はこのカフェで昼食にした。

 ギャルソンの本日のお勧めはドイツ風のウインナとキノコとジャガイモのソテー。

 これが案外旨かった。

 このあたりのカフェでは観光客は殆んどいなく、ラジオ・フランスなどで働くビジネスマンたちの昼食場所になっている様であった。

49.50.51.52.お昼を食べたアールヌーボーのガラスのひさしのあるカフェ/ギマール一派設計のパッシー地区のアールヌーボー建築3軒

 

 帰りも同じ番号のバスが丁度来たのでそれに飛び乗った。

 行き先はオテル・ド・ヴィレ [Hotel de Ville] とある。

 その終点の少し手前で降りればルーブルである。

 ル・サロンは夜に行けば良いのでその前にルーブル [Musée du Louvre] を観ることにした。

53.54.55.「モロッコのユダヤ結婚式」ドラクロア(1798-1863)/ドラクロアの自画像/「食卓」モンティセリ(1824-1886)

 

 一旦ホテルに戻り今年から会場がバンサンヌの森に移ったル・サロン [Le Salon] の会場へ向かった。

 かつてこのバンサンヌの森とブローニュの森にあったオートキャンプ場で4ヶ月を暮らしたことがある。

 1月の雪の積もる中で、ワーゲンのバスの中とはいえキャンプ暮らしであった。

 そのキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)に通っていた。

 ロウソクを灯して宿題をしたものである。それがひとかけらも身に付いていないのが情けない。

 帰りには毎日美術館を観て、バンサンヌの駅前パン屋で夕食用に一本のパリジャン(フランスパン)を買う。

 駅からキャンプ場に帰り着くまでにパリジャンはかじって殆んどなくなり、夕食まではとても持たなかった。

 その旨かったことは今でも忘れられない語り草になっている。

 春になって動き出せる日が待ち遠しかった。

 そのバンサンヌが今年の会場である。

56.ル・サロン2004の僕の作品「CIDADE」100F

 

 僕の作品は今年も入口に近い比較的良い場所に掛けられていて満足であった。

 

2004/10/07(木)晴れ/Paris-Lisbon-Setubal

 

 飛行機の時間までは半日がたっぷりある。

 ドラクロア美術館 [Musée Delacroix] へは開館時間の少し前に着いた。

 20歳そこそこの若い日本人女性が1人、既に門の前で開くのを待っていた。

 今日が企画展の初日だと言うのに9時半の開場時に入ったのは日本人の3人だけであった。

 彼女も前日に下調べをして今日に臨んだ様である。

 「昨日はルーブルに行ってドラクロアを観てきた」と言っていたから余程ドラクロアファンなのかも知れない。

 明日には日本に帰るのだそうだ。

 今日一日だけのタイミングでドラクロア美術館に入れたのは幸運だ。

 でも代表作の一つである「民衆を導く自由の女神」をルーブルで観ることが出来なかったのは不運と言わざるを得ない。

 「僕たちはストラスブールでそれを無料で観てきた」とは教えなかった。

 ドラクロア美術館にドラクロアは1点もなかった。

 企画展は 「Piotr Michalowski」 という画家の展示であった。

 ドラクロアに似ていたので弟子筋にあたる画家なのかも知れない。

 ドラクロアは晩年ここにアトリエを持ち最後までこの地で制作をしていた。

 作品は一点もないがパレットや画材などが展示されている。

 思っていたよりもモダンなアトリエに少々驚いた。

57.ドラクロアのアトリエ

 

 こんなパリのど真ん中であのようなイスラム的な絵が描けたものだとも感心して見ていた。

 一室目を観ている時に日本人夫妻らしき人が受付に来ていた様だ。

 この美術館には日本人しか来ないのだろうか?

 或いは朝早くから美術館を訪れるのは日本人位しかいないのか。

 でもその夫妻はドラクロアはないと聞かされて帰って行った。

58.59.サンジェルマン・デ・プレにあるアールヌーボーブラッセリー「Le Petit Zanc」/佐伯祐三(1898-1928)がパリに着いて最初に泊まったホテル「グランゾンム」

 

 今回の旅ではアールヌーボーを中心に観るつもりでそれなりに下調べもして臨んだが、振り返って考えてみると当初漠然と考えていた「ミレー (1814-1875)、テオドール・ルソー (1812-1867)、コロー (1796-1875)、ドービニー (1817-1878)、ドラクロア (1798-1863)」といった時代の絵にも引き付けられていた様に思う。

 僕の中でどの様に整理をつければ良いのか多いに動揺している。
VIT

 

(この文は2004年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行(上)

2018-10-21 | 旅日記

 昨年のフランス行きはブルターニュ地方のポンタヴァンとル・プルデュなどを旅し、ゴーギャン (1848-1903) を中心としたポンタヴァン派について考えてみた。

 今年は漠然とではあるが、時代を遡って「ミレー (1814-1875) について考えてみる旅も良いかな」と思っていた。

 そんな時恩師の藤井満先生からお便りを頂いた。

 「ポンタヴァン派の続きとしてアールヌーボーを観てこい。」と言う。

 具体的には「ナンシーに行って高島北海 (1884-1889/ナンシーに留学)がフランス美術に与えた影響を…黒田清輝や久米桂一郎のように仏国から持って帰って来た美術に対して置いて来た美術がどう西洋美術を変えたか?浮世絵が変えたその後?へ…。」とのことであった。

 

2004/09/30(木)晴れ時々曇り/Setubal-Lisbon-Paris

 

 パリへの飛行機はいつもリスボン空港を7時40分に飛び発つ朝一番の便を予約する。

 それに乗るには夜中4時に起きて、セトゥーバルを5時発の始発ローカルバスに乗らなければならない。

 それでもド・ゴール空港に着くのは11時10分。

 ポルトガル時間なら10時10分だがフランスとポルトガルでは1時間の時差があるので1時間損をする事になる。

 もう一つ遅い便では14時50分着だから空港でちょっとぐずぐずしていたらパリ市内に着くのは夕方になってしまうのでもう何も出来ない。

 

 先ずはグラン・パレにあるル・サロンの事務所に行ってル・サロンに関する事務手続きを済ませた後、リュックを担いだままチュイルリー公園をルーブル宮の方に歩いた。

 マロニエの実がたくさん落ち、それが道路にまで転がり出てクルマに潰され白い身を見せている。

 立派な実なのに食べられないとは惜しい。

 葉っぱも既に茶色く色づいて濃淡が美しい。

 

 アールヌーボーでは最重要コレクションの「装飾美術館」をナンシーに行く前に是非観ておきたかったのだ。

 「装飾美術館」[Musée des Arts Décoratifs] はルーブル宮の一角にある。

 チュイルリー公園のマイヨール (1861-1944) の庭に面したベンチでサンドイッチの昼食を済ませ



01マイヨールの庭園

 

 「装飾美術館」の入口に行くと黒人女性のガードマンが「何を観たいのですか?」と訊ねる。

 「アールヌーボー」と答えると「それは今はダメです!閉鎖中です。」

 つい先日この美術館で宝石の企画展のオープニングパーティーがあって、その時、歴史的にも貴重で巨大なダイヤモンドが盗まれる事件があった。

 まるでサスペンス映画ばりの事件である。

 その事件はポルトガルのニュースでも見て知ってはいたが、やはりその現場検証やなにやらで入れなくなっていたのだ。運が悪い。

 

 仕方がないので一旦ホテルでチェックインを済ませ荷物を降ろし、オルセー美術館 [Musée d'Orsay] に向かった。

 オルセーもアールヌーボーでは重要な美術館である。

 昨年にもオルセーは観ている。

 でもいつも絵画を中心に観るのでアールヌーボーの部屋をじっくりと観ることはなかった。

 じっくりと観ると実にアールヌーボーにスペースを割いていることが分る。

 ガレ (1846-1904) やドーム兄弟 (Auguste/1853-1909)(Antonin/1864-1930) のガラス器やルネ・ラリック (1860-1945) のアクセサリーもあるが、大型の家具とか部屋ごとを再現した展示など一通りを鑑賞することが出来る。

 家具と対にしてボナール (1867-1947) の縦長、4点の絵が飾られていたりもした。

 また、ステンドグラスはアールヌーボーにとって重要な装飾の一つでもある。

 そのデザインを当時最先端のナビ派の画家たち、ボナール、ドニ (1870-1943)、ヴァロットン (1865-1925)、ヴィヤール (1868-1940) やロートレック (1864-1901) にも依頼している。

 なるほど初期の木彫レリーフなどはポンタヴァン派のそれとさほど変わらない。

 重複して大きな流れの中に美術運動があるのが解る。




02.03.04.05.オルセー美術館大時計の裏側から見えるルーブル/ボナールの絵とアールヌーボー家具/試着室の扉/ガレのランプのある「別荘の食堂」シャルパンティエ

 

 アールヌーボーを観終わってそのまま出るのは惜しい気がして、ゴッホ (1853-1890)、ゴーギャン (1848-1903)、セザンヌ (1839-1906)、モネ (1840-1926) などとボナール (1867-1947)、ヴィヤール (1868-1940)。

 それにミレー (1814-1875)、テオドール・ルソー (1812-1867)、コロー (1796-1875)、アングル (1820-1856)、マネ (1832-1883) と一通りをさーっとではあるが駆け足で観た。

 やはり昨年とは少し展示替えが行われている。




06.07.「オランピアと浮世絵がバックのゾラの肖像」マネ(1832-1885)/「干草作り」サロン1850出品作・ミレー(1814-1875)

 

2004/10/01(金)曇り一時小雨/Paris-Nancy

 

 パリ東駅からナンシーまではTGV(新幹線)はない。

 近いと思っても在来線だから3時間近くもかかってしまう。

 それでも座席はTGVと変わらない快適な乗り心地である。

 例年より1ヶ月早いフランス旅行であるが、車窓を流れる木々も少しは紅葉していて美しい。

 でも例年よりはやはり緑が深い。

 コローやテオドール・ルソーの絵の様な中を走る。

 

 ナンシーでは毎年この時期にジャズ祭が催される。

 ストラスブールでもこの時期はワイン祭の筈である。

 いつもなら余程夜遅くに到着の予定がない限りホテルの予約はしないのだが、心配だったので今回の旅では全日程のホテルを予約しておいた。

 インターネットが出来る様になったおかげだ。




08.ナンシージャズ祭のポスター

 

 でもナンシージャズ祭は一週間後のスケジュールになっていて、予約したホテルは空いていた。

 親父さんは自慢げに「一番良い部屋だよ」と言いながら鍵を渡してくれた。

 ホテルはアールヌーボー建築のお屋敷町の近くだったが部屋にはロココ調の飾りが施されていた。

 200年も前の古い建物らしいがバスルームなどは現代風にリメイクされたばかりで気持ちが良かった。

 

 さっそく町の中心スタニスラス広場の観光案内所まで、駅から歩いてきた道とは違う裏道を歩いて行った。

 街の中心からはかなり遠くに宿を取ってしまったらしい。

 明日の土曜日にしか公開されない「マジョレルの家」 の予約に行ったのだ。

 マジョレル [Louis Majorelle/1859-1926] とはアールヌーボーでは重要な家具作家の一人である。

 観光案内所では「ここでは出来ません。ナンシー派美術館で予約をして下さい。」とのことだったので早速「ナンシー派美術館」に向かった。

 ナンシー派美術館は駅とホテルを通り越して町の反対側にある。

 途中には入口のステンドグラスが競うようにして並んでいるアールヌーボー建築が続く道を進んだ。

 その一つ一つがまるで美術画廊通りの様に感じた。

 「内側から見れば美しいのだろうな?」と想像しながら…ステンドグラスだけではなく、家の造り、窓の手すりの飾りなど同じ物は二つとなくそれぞれが主張しあい贅を尽くした美術品であった。

 

 「ナンシー派美術館」[Musée de l'Ecole de Nancy] はガレたちナンシー派作家のパトロン・コルバン夫妻の屋敷を美術館にしたものである。

 ガレやドームの作品はもちろん、曲線のアールヌーボー家具、寄せ木象嵌細工のピアノ、ベッド、椅子、机など天井から柱、ステンドグラスまで全てがアールヌーボーの華麗な世界である。




09.10.11.「セリの図柄ランプ」ガレ/「竹模様飾り棚」ガレ/「エミル・ガレの肖像」ヴィクトル・プルーヴェ作

 

 残念ながらそこには「高島北海」の作品はなかったが、確かに日本画の花鳥風月の影響はある。

 でもそれだけではなくペルシャやイスラム的な図案の影響も色濃く感じられる。

 ヨーロッパ伝統の左右対称の均衡を保った美しさから脱して、アールヌーボーは今までのそういった殻を破り異文化のいろんな型、素材を貪欲に吸収し、自然に立ち返り、かつ斬新で革新的な度肝を抜く様なデザインを競って創り出していった運動の様に思える。

 それは当時普及しはじめた、雑誌や装飾見本集などによってヨーロッパのあらゆる大都市に広がって行った。

 

 19世紀末は急激な人口増加に伴い産業革命の嵐が沸き起こった。

 それによって容易に得られる鉄。又、植民地政策によって豊富に確保できたアフリカからのマホガニー材。

 それらはアールヌーボーの曲線を作り出すには好都合な素材であったのだ。

 庭に出ると個人水族館?や墓までもがアールヌーボーであった。




12.13.14.ナンシー派美術館/水族館?/お墓

 

 明日の「マジョレルの家」の予約をしようとすると「予約はしなくてもその時間 (14:30)か(15:45) に行けば良いですよ。」とのことであった。

 もう一つ市の中心にあるナンシー美術館まで歩いて行って観るのは今からでは無理の様に思えたし、それに少し歩き疲れていたので、ホテル近くのソリュプト地区 [Parc de Saurupt] というところに行ってみることにした。

 

 先ほど観光案内所で貰った地図にはアールヌーボー建築のお屋敷街と出ている。

 地図を頼りに歩いて行きソリュプト地区に着くと観光バスが停まっていて一団の観光客が一人のガイドの説明を受けているところであった。

 僕たちは適当にアールヌーボー屋敷を見て廻った。

 パリのメトロの入口と同じ様な扇型に広がったガラスのひさし。

 蔦が絡まった様なデザインの鉄の珊。

 階段の踊り場のステンドグラス。曲線を多用した窓枠と手すり。

 どれを取ってもアールヌーボーで、ここでも同じ物は二つとしてなかった。

 一軒の前で写真を撮っているとその場に居合わせたその屋敷のご主人がひょうきんなポーズをとりながら「ポーズを取ろうか?」などと言って笑わせてくれる。

 豪邸には似合わず気さくな人が住んでいる様だ。

 ソリュプト地区からホテルまではすぐの距離であった。




15.16.17.18.ソリュプト地区のアールヌーボー屋敷

 

2004/10/02(土)曇り時々晴れ/Nancy

 

 朝、マルシェ(市場)を通り抜け美術館が開く時間にあわせて「ナンシー美術館」[Musée des Beaux-Arts de Nancy] に入った。

 スタニスラス広場に面した古めかしい入口を入ると内装は全くリメイクされたモダンな造りで一瞬、別世界に迷いこんだ様であった。

 

 先ず眼に飛び込んできたのはナンシーにゆかりのサロン画家エミール・フリアン [Emile Friant/1863-1932] 。

 典型的な自然主義の作風であるがナンシー派とも関りがある。

 10数点の油彩はどれも的確なデッサン力と力強い構図、色彩、一瞬を捉えた様な主張を感じるモティーフばかりで年代順に展示されていて変遷がよく判り素晴らしいコレクションであった。


19.20.フリアン(1863-1932)の作品と自画像

 

 その展示の続きにはナンシー生まれのアールヌーボー画家、ヴィクトル・プルーヴェ [Victor Prouvé(1858-1943)] の縦3m横7~8m程の巨大な絵が2点アールヌーボーの額に収まって飾られていた。

21.プルーヴェ(1858-1943)の作品

 

 その裏にユトリロの母・スザンヌ・バラドン (1865-1938) の縦2m横3mの大きな絵。

 それに続いてマネ (1832-1885)、モネ (1840-1926)、エドモンド・クロス (1856-1910)、シニヤック (1863-1935)、ボナール (1867-1947)、マルケ (1875-1947)とナビ派そしてユトリロ (1883-1955) ともう1点、スザンヌ・バラドンが母子仲良く並べて架けられていた。

22.スザンヌ・バラドン(1865-1938) と ユトリロ(1883-1955)

 

 その向かいの壁にはモジリアニ (1884-1920) と藤田嗣治 (1886-1968) が並んでいた。

23.24.25.「アコーデオンのある私の部屋」(130x79)藤田嗣治(1886-1968)/「ブロンドの女」(54x43.5)モディリアニ(1884-1920)/「男と女」(130x79)ピカソ(1881-1973)

 

 デュフィ(1877-1953)やキュビズムの作家たちそれにピカソ (1881-1973) 晩年の作など見応えがあり、しかも観易い展示になっている。

 

 二階に上がるとぐっと時代は遡って14世紀のイコンから始まって、レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452-1519) の8号位の小さな油彩人物画と、ティントレット (1518-1594) などのイタリア絵画。

 ルーベンス (1577-1640)、やヤコブ・ジョーダン (1593-1678) などのフラマン絵画。

 そしてドラクロア (1798-1863) へと続く膨大なコレクションが展示されていた。

 そんな中にひっそりと僕の好きなシャルダン (1699-1779) の小さな静物画も1点光を放っていた。

 そしてもう一度1階部分を丹念に観て歩いた。

 別室にコロー (1796-1875) やドービニー (1817-1878) の部屋もあった。

26.「カラスが群れ飛ぶ雪景色」ドービニー(1817-1878)これはオルセー美術館蔵

 

 充分に堪能して出入り口を出て画集などが売られているコーナーでカタログを買った。

 

 そう言えばこの美術館にはドームがある筈。

 それを1点も観ていない。カタログ売場のマダムに尋ねると、「突き当りの階段を降りた地下にありますよ。」と言う。

 大急ぎで引き返して再入場し地下に降りた。

 今日は美術館併設のギャラリーで1950年代の東欧の風刺画家たちの企画展のオープニングでその関係者たちが大勢胸にワッペンを付けてあちこちしていた。

 その関係者が地下室でパーティーをした後、一室でコンサートが行われていた。

 パーティーの後片付けをしている、その脇を通り抜けて唖然とした。

 膨大な数のガラス器の展示室が隠されていたのである。

 あるわあるわドームのガラス器が何百と種類別に展示されていた。

27.28.29.30.地下のドームの展示室/ドームのガラス器

 

 でもここにも「高島北海」はなかった。

 

 「マジョレルの家」[La Villa Majorelle] の14時30分開始にあと30分。ギリギリ間に合う。

 しかし街の反対側。のんびり歩いている場合ではない。大急ぎで歩く事にした。

 「マジョレルの家」には5分過ぎていたが、入口にはまだ人だかりがあって無事に切符が買えた。

 すぐにガイドの説明が始まった。

31.32.「マジョレルの家」の入口で説明をするガイド/全景

 

 外観、塀、門、玄関、1階、3階と丁寧に1時間余りのフランス語のツアーであった。

 アールヌーボーは建築、内装、家具、絵画、ガラス、陶器、彫金などの総合芸術であるから、様々な部分での共同制作がある。

 マジョレル (1859-1926) とドームはかなりの部分で共同制作をしている様である。

 「マジョレルの家」の正面のステンドグラスはドームとマジョレルの合作だとの事であった。

 居間の天井に繋がる壁の部分に狩野派的な花と鶏の絵が描かれていたが、それも残念ながら「高島北海」ではなかった。

 

 その後、再び市の中心旧市街にある「ロレーヌ地方博物館」[Musée Lorrain] にも行ってみた。

 ここにはアールヌーボーはなく、先史時代からローマ彫刻、キリスト教木彫、そしてロココまでの膨大な展示であったが、当然ながら「高島北海」はなかった。

 

 ナンシーの街中にアールヌーボー建築は点在している。

 銀行、商工会議所、ブティックなどとして使われていて、内部を観ることは出来ないが、外観だけでも楽しめる。

 そんな一つアールヌーボーのレストランとして有名な「ブラッセリー・エクセルシオール」[Brasserie Excelsior Flo]の前を通りかかってメニューを見ると「牡蠣」がある。

 毎年フランスに来て牡蠣を食べることを楽しみの一つとしている。

 この際この「エクセルシオール」で牡蠣を食べない手はない。

 そうすればアールヌーボーレストランのインテリアも鑑賞する事ができる。

33.34.35.商工会議所入口/エクセルシオール内部/エクセルシオール外観

 

 ナンシーでは充分アールヌーボーを堪能することが出来た。

 「高島北海」を観ることが出来なかったし、その足跡を感じることが出来なかったのは残念であった。

 いつか機会があれば下関美術館に行って「高島北海」を観てみたいと感じている。

 

026. ナンシー、アールヌーボー紀行(下)へつづく。

 

武本比登志ブログ・エッセイもくじ へ

 

 

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025. NACK掲示板 アールヌーボーについての記述

2018-10-20 | 独言(ひとりごと)

 この夏はユーロ2004とオリンピックの話題で「NACK掲示板」は盛り上がりを見せました。9月に入ってからはアールヌーボーで盛り上っています。掲示板は100通を越えると消えてなくなります。なくしてしまうには惜しい興味深く格調高い記述が続きましたので、ここに無断転載して残してみたいと思います。無関係の記述は削除しています。投稿者の皆さん有難う御座います。尚、掲示板とは逆の配列になっています。読みやすい様に古い順から入れています。

今度は台風お見舞い 投稿者:  投稿日: 9月 9日(木)00時41分1秒

 台風18号は猛威を奮いましたね。お見舞い申し上げます。
 貨物船が座礁したり、トラックが横倒しになっている映像を見ましたが、木南さんは大丈夫でしたか?
 19号も続いて控えていますのでご用心下さい。
 8月もいつの間にか終り、9月が早くも1週間が過ぎました。
 ポルトガルでは9月中旬の新学期に備え大型スーパーでは学用品のバーゲンセールをやっていて、親子連れや学生などがどっさりのノートなどを買い揃えています。
 それに混じって僕もスケッチブックを15冊買い込みました。
 今月末日よりフランスに行きます。
 今年は藤井先生のリクエストにお応えしてロレーヌ地方のナンシーという町に行く予定を立てているところです。そこで「日本美術(高島北海)がフランスに与えたアールヌーボーへの影響について」を観てくる様に…との藤井先生からの課題です。楽しみです。
 今年は例年より1ヶ月早い展覧会ですので気温もまあまあではと期待しています。
 でもその前に今手懸けている30号、20号の目途を立てたいと少し焦っているところです。

 投稿者:Kinami  投稿日: 9月 9日(木)19時51分6秒

 台風18号は広範囲に爪あとを残したようですね。ニュースによると、中国電力の3割が停電状態になったそうだし、神戸の国道2号線が冠水してました。
 私は夜中に台風の風雨が過ぎてから仕事に出発して大丈夫でした。でも台風の強風の中で建築中の現場の備えをしてたり、我を忘れて家屋や仕事の事が心配でやむなく事故に会われた人は大変でしたでしょう。
 また今度の地震で愛知県では4センチ地盤がズレた所があったそうで参ってしまいます。

 さて武本さんの今度のロレーヌ地方の訪問は面白そうですね。フランス・ロレーヌ地方は学校で習った「最後の授業」のドイツ国境に近い地方なんですね。「高島北海」?なんか聞いたことが有るようなないような。日本画の技法などをフランスで伝えた人ですか?。また色々伝えて教えてください。楽しみにしてます。


 思うに極端に言って、かたや人物・写実の西洋美術と、風景・抽象的認識の日本美術の価値観の出合いみたいな事があったやろなあ。
 なんか急に美術館に行きたくなりました。とりあえず堺のアールヌーボーのミュシャ美術館と、中之島の東洋陶器美術館には行っておこうかなぁ。秋ですし…。

高島北海 投稿者:  投稿日: 9月10日(金)05時16分12秒

 「高島北海」については藤井先生の手紙の一部を無断転載します。

 (中略)ポンタヴァンリポートの続きを考えていますか?

 ナンシー派、エミール・ガレ、アールヌーボー。
 地図を見るとパリより川上にその地はある。ロレーヌ地方、鉄鋼の町ナンシー。

 兵庫県生野銀山に明治の頃、お雇い外国人で鉱山、森林の指導にやって来た外国人の一人(コワニエ)に付いてフランスのナンシー森林学校に留学3年、この間にエミール・ガレと交流があってアールヌーボーに影響を与えた高島北海という画家(水墨をたしなむ役人と云うべきか)が居た。
 きっと北海の花鳥風月の墨絵が沢山ナンシーにあるのでは?
 片言のフランス語でどこまで日本画を談じれたか?どれほどのグループだったのか?

 ポンタヴァンの意味の理解は武やんのリポートを機に「物の表面に当る光を描写していた印象派に絵画は表面の写しではないよ。絵画ですよ。表現ですよ。」たったそれだけのことですが、大切な運動だったことが理解出来て大変有難かった。(中略)(恐縮です-武)

 黒田清輝や久米桂一郎のように仏国から持って帰って来た美術に対して置いて来た美術がどう西洋美術を変えたか?
 浮世絵が変えたその後?へ、そういう感心があるのだが。(後略)

アールヌーボー作家ミュシャ美術館で、"美術を伝えた人"についても感銘した 投稿者:Kinami  投稿日: 9月12日(日)02時14分57秒

 もの思う秋ですね…。
 私は堺出身の与謝野晶子の活躍した歌誌「明星」で表紙・挿し絵に盛んに取り入れられた当時ヨーロッパでも流行・最新のアールヌーボー作家ミュシャの、世界で最初の専門美術館を堺市が開いたと数年前聞いて気になってました。
 さてこの度そのJR堺市駅前・堺市立文化館内ミュシャ館に行ってきました。ミュシャに付ては大変良かっので又、後日談として、ここではこのミュシャのコレクションを寄贈した故土井君雄と、アールヌーボーについて貰った資料から抜粋します。

 《アールヌーボー》…「新しい芸術」を意味するフランス語です。19世紀末から20世紀初めのヨーロッパを中心に世界中で流行した装飾的な美術・工芸スタイルの呼び名です。しなやかに流れる曲線、花の装飾などが特徴で、工芸、彫刻、建築と、生活のあらゆる分野の造形に取り入れられました。アールヌーボーには様々な要素があるなかで日本美術の影響がとくに顕著です。大胆な構図、太い輪郭線などは浮世絵からの影響といわれています。
 19世紀末、衰退のきざしが見えはじめたヨーロッパ文明が、異質な文化を取り入れることによって再び活力を得る試みがアールヌーボーであったと考えることができます。…
 《ドイ・コレクション》…500点におよぶミュシャ・コレクションを築いたカメラのドイ創業社長の土井君雄氏は、世界で初めてミュシャ美術館を日本に設立することを念頭において、ミュシャの子息イジー・ムハ氏と常に協力連携しながら、初期から晩年にいたるあらゆるジャンルのミュシャ作品を系統的にしゅう集されました。70年間行方が知れなかった中期の代表作や‥世界の宝と注目されている作品がオークションにかけられた時にも‥作品がコレクションに加わるようイジー・ムハ、土井君雄氏の努力によって実現されました。…

 僕もカメラのドイで買ったり、経営状態が悪いことなど伝え聞いてたのですが、良い事をされたなぁと思いました。

ミュシャ 投稿者:  投稿日: 9月12日(日)20時45分30秒

 日本には何でもあるのですね。ミュシャの美術館まであるとは驚きました。
 しかもJR堺市駅前。加藤正雄の庭先ではないですか~。
 僕は今までアールヌーボーは体質的にあまり好きではなかった(一応クリムトとエゴン・シーレの画集(ポルトガル語版)はバーゲンセールで買って持っているのですが殆ど開いたことがない)のであまり知りません。
 今回の藤井先生からの課題でこの際少し勉強をしたいと思っているのですが~。
 ガラスのガレ。ドーム。ティファニーなどは日本のたくさんの美術館にあっていやというほど観ました。
 米子の足立美術館や鹿児島の長島美術館。児玉美術館など個人美術館にはとりわけたくさんあった様な気がします。

 高島北海は下関市立美術館にたくさんコレクションがあるそうです。
 僕はどちらかと言うとアールヌーボーの運動がボナールやヴィヤールとどう関わったか?に興味があるのですが。
 今東京では大規模なマチス展が開催されているとのことですが、そのマチスにどう関わったか?にもです。
 木南さん。ミュシャに付いてデータ、感想など「掲示板」で詳しくお知らせ下さい。

 そうですか~、カメラのドイがミュシャですか。
 ちなみに児玉美術館と三宅美術館は医者です。
 ゴッホで有名になったウッドワン美術館は材木です。
 足立美術館は(不動産?)何だったか忘れましたが、長島美術館はパチンコです。
 以上どこも素晴らしいコレクションです。

アールヌーボーとバウハウス 投稿者:サカミチ  投稿日: 9月12日(日)21時36分52秒

 この夏は26日間かけてヘルシンキからパリーまで旅をした。ワイマールのバウハウス博物館、思ってたより面白なかったけど、初期バウハウスがアールヌーボーの影響を受けていた事に気づいたことは収穫やった。ナンシーのナンシー派美術館、主にガレの作品やけど、やっぱり凄い感激やった。ミュシャ美術館プラハにあるけど、ミュシャはやっぱりプラハで見るべきやで。

アール・ヌーボー 投稿者:公下道子  投稿日: 9月13日(月)03時46分3秒

 情けない事に、美術の知識が全く無い私は、昨日まで「アールヌーボー」って一体何?と思っていましたが今日、本棚にある留理の高校時代の教科書(デザイン史)を読んで少し解かりました。
 ナンシー派、高島北海、ガレ、ティファニーのガラス器、・・・等最近NACK掲示板で目にした言葉もアールヌーボーの項を読んでいると次々と出てきましたので、一層解かりやすく楽しいでした。
 武本さん。
 先日(9/10)、「VITの独言」サイトのエッセイ「ヌエネン時代のゴッホ」と「佐伯祐三の足跡を訪ねて」と「ボンタヴァン旅日記」の3篇をじっくり読ませていただきました。読解力が遅いので2時間程かかりましたが、とても興味深く、楽しく読ませてもらいました。ぜひロレ-ヌ地方、ナンシー旅行記も書いて下さいね。

ナンシーのホテル 投稿者:  投稿日: 9月13日(月)18時37分1秒

 サカミチさんはけっこうヨーロッパに来るのですか?ヘルシンキ(ストックホルム)からパリ間というとかつての僕が何度となく往来した懐かしいコースです。プラハを含めてです。今夏サカミチさんがナンシーにまで行ったとは驚きました。僕は以前には行ってないと思います。ストラスブールとランスには行ってますがその中間のナンシーは今回が初めてのはずです。あまりアールヌーボーに興味を持てなかったからかも知れませんが、その当時は本当に情報がなかった。現地に行って初めて「あーこんなところにこんな物がある」と言った感じでした。
 ところでナンシーではホテルはどこを取りましたか?僕たちの今回の旅はパリが3泊、ナンシーが2泊、ストラスブールに2泊を予定しています。パリは10年来ルクサンブールに馴染みのホテルがあってそこに泊まります。ストラスブールは駅前のキリヤードホテルを考えています。ナンシーが問題ですがもし良いところを知ってたら教えて下さい。二つ星程度で予算はWで80ユーロ程までであれば良いのですが。ナンシーにはホテルはたくさんありましたか?
 公下さん。3っつもの旅行記を一度に読んでくれたのですか。読みづらい文章で肩が凝ったでしょう?今度のナンシーも一応レポートはするつもりですが、さてどんな旅行になるでしょうか?
 サカミチさんも旅行記をNACK誌の原稿として纏めたらいかがですか?
 木南さんも、最近観た美術館の感想文を纏めてNACK誌用に書いて下さい。

東京の「マチス展」はいつまで?何処の美術館でやってるのですか? 投稿者:Kinami  投稿日: 9月13日(月)22時09分37秒

 武本さん。東京で「マチス展」をやっているのは本当ですか?ぜひ行きたいのですが、日程・場所はわかりますか?
 9/18~12/12 ピカソ展(躰とエロス)東京都美術館は知ってたんですが‥。正しくは=東京都現代美術館
 また東京のどこかの美術館で『長谷川等伯・松林図屏風』が見られる所だれか知りませんか?近代美術館かなぁ?
 マチス・松林図屏風・ピカソが見れたら見に行きたいので、誰か知ってたら是非おしえてください。
 え~っと又あらためて、チェコ出身とフランス・ナンシー出身の、ミュシャとガレの話題を書き込みしてみます…。

画像が 投稿者:  投稿日: 9月14日(火)05時48分59秒


 マチス展はつい先日のNHKのニュースの中で皇室の人とフランス大使が一緒にテープカットをしている場面を見ましたが、どこの美術館で何時までは見ていませんでした。スミマセン

木南さんへ 投稿者:公下道子  投稿日: 9月14日(火)10時02分54秒

 マチス展の場所・日程などをYahoo検索しましたので、転記致します。

 マチス展(Henri Matisse Process/Variation)
 国立近代美術館(東京・上野公園)正しくは=国立西洋美術館
 9月10日(金)~12月12日(日)
 9:30~17:00 金曜日:~20:00
 *入館は閉館30分前まで
 休館、毎週月曜日
 (ただし、月曜日が祝日、又は祝日の振替休日となる場合は開館し、翌日の火曜日が休館)マチス没後50年を記念し、ボンビドゥーセンター・国立近代美術館とマチスの遺族の全面的な協力を得て世界各国の美術館から作品が出品されます。
マチス芸術の傑作と言われる挿絵本ジャズの原点シリーズ全20点が日本初公開されるほか、140点以上に及ぶ「油彩、切り紙絵、素描、版画、彫刻」が一堂に展示されます。

ナンシーの宿 投稿者:サカミチ  投稿日: 9月14日(火)21時40分45秒

 ヨーロッパと言っても、ほとんどが中、東欧です。80ユーロもあれば宿探しには苦労しないでしょう。ナンシーは駅前にFLORE 二っ星で40ユーロ、PIROUX二っ星で42ユーロと結構安いホテルが何軒かあります。
 以前、ナンシーに行った時はメインストリートの Reu St.GeorgeのHotel Americain に泊まりました。星二っで当時250FFr(4400円)設備の良さに比して割安感でした。今年は街の中心にある、スタニスラス広場の近くの Hotel Les Porte D'Or 二っ星で50,60ユーロに泊まりました。まあまあと言ったところです。快適でした。
 今年はスタニスラス広場の大々的な工事中であまり期待はできません。
ナンシー派美術館へは行くべきでしょう。入館料は4,60ユーロ、チケットは全日有効です。
 火、木休み、第一月曜日は10時から13時30分まで無料です。
観光案内所は駅にはありません。スタニスラス広場の一角にありますので歩いて行ってください。
 地図、ホテルリスト、博物館リスト全て無料です。パリーでは常宿はルクサンブールですか。僕は何時も東駅近くの Hotel Liege Strasbourg 泊まります。快適ですが、以前は40ユーロだったのが65ユーロに値上がりしました。経済的な旅を考えれば65ユーロはちょっと考えモノです。
 ストラスブールは駅前より街の中心で宿を探した方が良いと思いますが。
 マチス展は国立西洋美術館です、近代美術館ではありません12月12日まで開催しています。ピカソ展が東京都現代美術館でフィレンッエ芸術都市の・・・展が同時期に東京都美術館で開催です。
 バウハウスとアールヌーボーを比べたら、日本人の感性に合っているのはアールヌーボーだと思うのですが、いかがですか。

ナンシー、ガレのこと 投稿者:Kinami  投稿日: 9月15日(水)22時28分54秒

 サカミチさん、公下さん、マチス展の情報ホントにありがとうございます。
 武本さん。僕が立ち読みしたりして仕入れた情報では、ナンシーは街自体が19世紀末のアールヌーボーの雰囲気でその時代のそうした建築が沢山あるようですね。
 エミール・ガレはナンシーに生まれ、ガラスや陶器の職業の父により各地で勉強する機会を得てパリで成功した。その後ナンシーにずっと戻ってガレによってナンシー派を名乗り多くの作家とそれを享受する市民と共にこの地でのアールヌーボーが興隆したらしい。
 当時のナンシーは普仏戦争によってフランスのアルザス・ロレーヌ地方がプロシアに領有された時、ナンシーはそこから25キロのところでフランスに残ったらしい。領有地域から逃れてきた人や移民で人口が増加、とくに若い独身者の比率が高く活況を呈したらしい。…
 サカミチさん、確かにアールヌーボーは具体的に「ガレのキノコのようなガラス・スタンド」とか、誰それの宝飾品とかイメージしやすくコピー品を含め手に入れられたりで日本人に愛好されるところですね。でもバウハウスの活動は、建築やデザインの世界での隅々に影響を与えているでしょう。ん~だからこそもっと知りたいですねぇ。
 アールヌーボーとバウハウスの関係?ワイマールはバウハウスの活動の中心地とかあったんですか?…何か教えてくださいナ。

ミュシャについて 投稿者:Kinami  投稿日: 9月19日(日)11時34分9秒

⇒ミュシャ館‐鑑賞のしおりより…

《アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)》
 アールヌーボーを代表する画家としてしられているミュシャはチェコのモラビア地方のイバンチッツェに生まれました。ミュシャはウィーン、ミュンヘンで絵の勉強をしたあと、パリに出て大女優サラ・ベルナール主演の「ジスモダン」のポスターを制作、一躍その名がパリの街に知られるようになりました。
 ミュシャの作品はしなやかな流れるような曲線と美しい色彩の装飾スタイルが特徴で、ビザンチィンやケルトの装飾文様、祖国チェコの装飾様式が取り入れられているほか日本の浮世絵からの影響が見られ、日本人に親しみやすくなっています。‥中略‥
 すぐれたデザイナーであるミュシャは、グラフィック・デザイナーだけでなく、あらゆるデザインの分野に作品を残しており、『装飾資料集』『装飾人物集』はデザインの教本として今も高く評価されています。
 晩年、プラハに帰ったミュシャは、祖国チェコとスラブ民族への思いをあらわにした油彩やデッサンを多くてがけました。これら晩年の作品には、スラブ独特の象徴的な表現が見られてたいへん興味深いものです。

 ⇒私の感想は…、ヨーロッパにあってギリシャ・ローマとはだいふ違う、理想的人間・魅力としての女性美だなあと感じました。またミュシャには憂いはあっても世紀末的退廃美は感じられないように思われ、パブリックに語りかける作品だなぁ。
 素晴らしい作品に感銘しつつ、とにかく創作のエネルギーに参ってしまいました。工房でリトグラフの下絵を描いてた時は毎日15時間も仕事してたそうだ。彫刻家ロダンと友人だった。6×8メートルもある大作20点からなる「スラブ叙事詩」を18年かけて制作しプラハ市に寄贈した。1918年チェコ独立の時に、新しい国のために国の紋章、紙幣や切手、警察の制服などを無償でデザインしたそうだ。

ついでにマチス展もと 思ったけど・・・ 投稿者:グラッチェ  投稿日: 9月20日(月)01時27分25秒

 こんばんはグラッチェです。NACKの後輩の屋嘉部君から新制作展の招待状を、いただき今日 上野公園の東京都美術館へ、彼の絵を見に行って来ました。彼の絵を見るのは20年ぶりかも?個展やグループ展の案内をよく送ってくれたのですが、なかなか行けませんでした。うまく時間がつくれたので出かけてきました、ついでにこの掲示板で話題のマチス展もと思い・・・。新制作展は、若い作家が多いようで元気なエネルギィーであふれていて楽しい時間を、過せました。屋嘉部君の絵は、学生当時と変わらずキャンバスに物を貼り付けるレリーフ調の手法ですが、当時より格段に洗練され色調も明るく楽しい気分にさせてくれました。次回のNACK展のアイデアや制作意欲の元気は、もらったのですが気温30℃のなか歩きつかれて体はクタクタ、そんな訳でマチス展は次回 木南と見ようかな。新制作展は、10月3日までやってるそうです。ゲイジュツの秋です皆さんお出かけを・・・

リスボンの美術館 投稿者:  投稿日: 9月20日(月)05時42分1秒

 木南さんのミュシャ報告に感化されて今日はリスボンまで出て美術館に行ってきました。グルベンキャン美術館というポルトガルでは最大コレクションの美術館です。 日曜日なのでクルマは空いていますし、駐車場もただです。それに何よりも良いのは美術館が無料だと言うことです。何度も行っている美術館ですが行くたびに展示物が少しづつ入れ替わっていて楽しめます。メインの館と現代美術専門館に分かれていますが今日はメインだけにしました。エジプトからギリシャ、ローマそれにペルシャの織物や陶器に素晴らしい物が多くありました。絵画では以前行った時はドラクロアが何点か良いのがありましたが、今日はレンブラント、ルーベンスなどの大作、近代ではコロー、ドービニーの秀作、珍しいところでミレーの冬景色のパステル画、それにモネとマネ、ドガ、ルノアールと言ったところまでです。以前は浮世絵のコレクションのコーナーがあったのですが、今日はその代りに漆塗り蒔絵の重箱や硯箱、印籠のコレクションがありました。以前は気が付かなかったのですが、この美術館の特色として、アールヌーボーのRene Laliqueと言う人の部屋がありました。皆さんご存知でしたか?デザイン的には素晴らしいものでしたし、宝石をふんだんに使っていて豪華なものでしたが、モティーフに蛇とか蝿とかが多用されていてちょっとグロテスクな部分もありました。どんな人が使っていたのでしょうか?ゾラの小説に出てくる様なアクの強い貴婦人などが使っていたのでしょうか?

美術鑑賞のこと 投稿者:Kinami  投稿日: 9月20日(月)22時13分42秒

 NACKのホームページのミュージアムの所をみて国立博物館のページの検索で長谷川等伯の松林屏風を見ることができました。現代美術・ミニマルアートとして見ても凄い絵だなあ。やっぱり実物を見たいなあ…。良いらしい。
武本さん。ミュージアムのコーナー良いですねぇ。ありがとうございます。ルイ・ラデック分かります。それにしてもタダで美術館に入れるかあ。いたずらや盗られたり大丈夫なんですかね。
 グラッチェさん。10月10日頃マチス展どうかなあ。しかし東京だけでも美術館を全部、堪能しようとしたら一週間ぐらい必要やなぁ。やはり年齢を経ると広い目で色々関心がもてますね。
 でも一番自分に引きつけて関心があるのは、マチス・ピカソ・後期印象派やなぁ。藤井先生に連絡とるべえねぇ…。掲示板リアルタイムで見てられないから…
 屋嘉部さんの作品はNACK展で印象に残ってます。頑張っているなあ。あぁ見たいけどなぁ。

知識を得る楽しみ 投稿者:公下道子  投稿日: 9月21日(火)16時24分9秒

 NACKの皆さんのお陰で、今まで全く関心の無かった事にも目を向けれるようになり、新たな事を知るきっかけ、知識を修得する楽しみを与えていただき本当に有り難く思っております。
 昨日は検索サイトでルネ・ラリックのページを数件開いて読んでみました。
 各ページの中から抜粋した文章を適当に纏めて転記させてもらいます。
 間違ってる部分は修正願います。

 ルネ・ラリック(Rune Lalique) 1860~1945
19世紀末から20世紀にかけてヨーロッパで興隆したアールヌーボー、アールデコの両装飾様式にわたって活躍し、1900年パリ万博でも高い評価をうけるなど、宝飾品クリエイターとして一世を風靡しました。
 彼の主に得意とするものは、日本でも名を馳せることになった優美なガラス瓶や花瓶などに装飾していくものが代表的で、それ以外にもプラチナやダイヤモンド、金、七宝細工、獣角、半貴石などを巧みに絡ませ、主に女性や動植物をテーマにした独創的なジュエリーの数々を生みだしました。
 ラリックの代表的技法としては、既に技法として登場していたフロント加工という酸を使ってガラスの表面を腐蝕させて艶消しを行う技法を、ラリック自身が改良を施し、使う薬品の調合や腐蝕時間を工夫することで、微妙なトーンを生みだす技法を開発し、それを好んで使用していました。
 この技法により、グラスに天使の羽根が描かれた「アンジュ」「ナプスベリ-」など複雑な陰影を表現しなければならない作品など、数多く生み出していきました。
後期はオブジェや宝飾品、建築など幅広くに渡ってガラス工芸の可能性を広げ、型吹き成形やシール・ベルデュといった技法を研究開発して、ガラス工芸の裾野を広げながら大量生産の道にも貢献していきました。
 ラリックの偉大な才能と功績は、息子マルク、孫娘のマリークロードへと受け継がれ、現在もMOF(フランス高級職人=日本でいう人間国宝級の腕前の職人)を何人も抱えながら、ジュエリー、ガラスなどを全般に扱うラリック社という会社を創設し、機械を全く使わない手法が今でも活かされています。
 ラリックの作品はパリのオルセーやリスボンのグルベンキアンなど主要な装飾美術館でお目にかかれます。

ルネ・ラリック 投稿者:Kinami  投稿日: 9月21日(火)19時45分0秒

 ルネ・ラリックの情報、公下さん有難うございます。ルイ・ラデックじゃなくルネ・ラリックでしたねぇ。僕はテレビ番組「開運、なんでも鑑定団」をなんとなく見ていて、ラリックやガレの作品を見て、その中の解説で知ることになったりもしますが…。
 たしかラリック作品で自動車の先端部に付ける羽根の形のアイテムなんかが思い浮かぶ。…現在はラリック社なんですか。勉強になりました。

日曜の美術館 投稿者:  投稿日: 9月22日(水)05時24分9秒

 木南さん。欧米には結構日曜日に無料になる美術館はありますよ。
 リスボンでもグルベンキャンに限らずほとんどの公立美術館は毎日曜日は無料です。
 無料と言っても普段と同じ様にガードマンが居ます。それに入口で入場券のもぎりも居ます。切符売場で入場券を貰います。貰いますけど料金は払わない訳です。それに簡単な冊子というか、写真入りのパンフの様なものも貰います。
 例えばパリでもルーブルにしてもオルセーにしてもポンピドーにしても第一日曜日は無料です。
 モナリザもミロのビーナスもゴッホの「オーヴェールの教会」でもアングルの「泉」でもその日は無料で観ることが出来るのです。
 かといって人垣で作品が見えないと言うことは絶対ありません。普段と変わりません。
 それだけをとっても何ヶ月かパリに住んでみる価値はあります。
 無料の日でなくても入場料はそれ程高くはありません。
 それに学生や児童たちが先生に引率されて、美術館の床に座って名画の前で写生をしているのに出くわしたりします。
 ごく幼い頃から名画と触れ合っているのです。市民と名画は本当に身近な所にあるなあと感じます。
 名画は美術館の物でも一部の特権階級の人の物でもないのです。誰でもが平等に鑑賞する事が出来る物なのです。
 日本の美術館もそれ位のことは考えても良いのではと考えさせられます。
 公下さん。ルネ・ラリックの検索を有難う御座います。勉強になります。グルベンキャン美術館がそれほどルネ・ラリックの有数な美術館だとは驚きました。

多くの美術館で・・・ 投稿者:公下道子  投稿日: 9月23日(木)12時30分56秒

ルネ・ラリックの作品を所蔵・展示している美術館を列記紹介しているページがありました。

パリ装飾美術館> ラリック作品の世界的権威。宝飾品からガラス作品まで幅広くコレクションを所蔵。
オルセー美術館> パリ装飾美術館と並びラリック宝飾作品の権威。
カル-スト・グルベキアン美術館> 豪商カルースト・グルベキアンの膨大なコレクションをもとに設立された美術館。グルベキアンはルネ・ラリックの最大のパトロンでもあり、ラリックの宝飾品をはじめ多数の作品を所蔵。
The Coming Museum of Glass> アメリカ最大のガラスミュージアム。
The Utah Museum of Fine Arts> ユタ州立大学美術館。
北海道立近代美術館> ガラスコレクションでは定評があります。ガレ、ドーム、ラリック、をはじめ国内外のガラス作品を所蔵。

東京都庭園美術館> 旧朝香宮邸を美術館として開放しており、正面玄関の内扉がルネ・ラリック作として有名。
北澤美術館・新館> 長野県諏訪市にある。ガレ、ドーム、ラリック、の三大ブランドを擁する世界最大のアールヌーヴォ・アールデコ・ガラスコレクション1000余点の中からそのつど、作品を選んでテーマ性を持たせて企画展を開催。
ガラスの丘美術館> 長崎県佐世保市にある。ルネ・ラリックのガラス作品を常設展示している。
伊豆ガラスと工芸美術館> ラリックの他、ガレ、ドーム、ティファニーの作品もある。
神戸北野美術館> アールヌーボー、アールデコ期のガラス作品を常設展示。
トヨタ博物館> 自動車メーカーのトヨタの博物館。ルネ・ラリック・マスコットギャラリーとして公開。ラリックが製作したガラスのカー・マスコットも展示。
湘南江ノ島香水瓶美術館> ラリックをはじめとしたアールデコ、アールヌーボー期の香水瓶を展示している。ラリックの香水瓶コレクションは国内でも屈指の質である。

続。高島北海 投稿者:  投稿日: 9月25日(土)05時18分44秒

サカミチさん。
ところでもう一つ質問ですが、ナンシーで高島北海の作品は観ましたか?ガレと交流があったと言う話はいろんな情報で出ていますが、果たして高島北海自身の作品がナンシーで観る事が出来るのかに付いては見つかりません。もしあるとしたらどの様な作品が何点くらいありましたか?まあいずれにしても全部観る予定ではあります。下関市美術館を検索して3点ほどの作品写真は観ましたが。

エミール・ガレと高島北海 投稿者:公下道子  投稿日: 9月28日(火)02時54分40秒

エミール・ガレと高島北海の事を知りたくて、大阪市立付属図書館へ行きました。
世界ガラス美術全集(アールヌーボー・アールデコ)にエミール・ガレの事が詳しく載っていました。
ガレの偉大さ、高島北海との出会いなど、私なりに理解できた内容の部分を、抜粋してメモ帳に書き移してきましたので転記させてもらいます。

フランス革命100周年記念を期して開かれた1889年のパリ万国博は、崩壊寸前のフランス政府、破綻に瀕した国家経済、アナーキストのテロの横行、退廃の限りをつくした首都パリを背景に、あらゆる憂いを吹き飛ばさん勢いで実行に移された。(中略)
そのパリ万国博にエミール・ガレが出品した作品の総点数は、その熱気に十分に応えられるだけの膨大な量であり、素晴らしい作品群だった。
陶器は合計200点、ガラス器300点、家具17点、装飾用衝立や玄関口、高さ8mもある多角形のパビリオン等々、又大型のビュッフェや食器棚なども陳列された。
1点が2tもある巨大なキャビネット、陶器やガラス器の30mに及ぶ陳列ケースもガレ工房で作られたものが使用された。(中略)

この時の出品内容は、腐敗した官僚政府に対する憤りと非人道的な社会行為に対する悲しみと怒りを表現した一連の「悲しみの花瓶」シリーズをはじめ、自然主義、象徴主義を見事に表現した日本美術への憧れと、それから触発を受けた「ジャポニスム」作品、日本様式の作品シリーズなどが、主体であったと思われる。(中略)
世の中の混沌と退廃に対して、ガレは真っ黒な花瓶を作り、そこに腐敗と病毒の象徴ゴキブリを描き込み、真っ暗闇の中を夜の禿鷹であるコウモリが眼をぎらつかせて飛交う様を描き、それでも足りなければ、善の象徴であるペリカンが悪の象徴である竜と闘い退治する様などを描いた。(中略)
1884年~1889年に至る間に、ガレの身辺に起った大きな日本的な出来事と言えば、ただ1件のみで、高島得三(北海)のナンシー留学と、高島とガレの交流であろう。
高島得三は明治政府の農商務省の役人で森林学を専門とする植物学者であり、また若くしてナンシー出身のお雇い外人コワニエから鉱山学とフランス語を習った能弁なフランス語の達人であり、なおかつ日本画、洋画の才能と該博な日本美術の知識をもった人物だった。
大いなるプライドを持って渡欧した36才の円熟期の高島が、39才の精力的な活動期のガレと接触する事によって何が起ったか。(中略)
ガレは古典に親しみ、詩作にふけり、植物学を学び、ワイマールに留学して鉱山学と美術史を学んでおり、1878年のパリ万国博出品作の「鯉魚文花瓶」などにみるように、早くから日本美術への関心を高めていたジャポニストであった。
高島は、ナンシー留学してまもなく、その画才を披露して、ナンシー美術家や文化人のサークルに仲間入りをするが、やがて彼はガレに「植物名彙」を贈り、それに対してガレは自分の名刺に謝辞を書いて返礼したものが今日高島家に残されている。(中略)
ガレの凄まじいばかりの芸術意図と、常に人間との関わり、社会との関わりを全身に受けとめて行く豊かな人間性が、その表現形式としての日本的な自然主義と結合した時に生み出されたのが、1889年万国博の出品作品だった。
そして、あらゆるグランプリやゴールド・メダルを獲得してヨーロッパの熱い注目を浴びガラス芸術を一挙に時代の花形に押し上げ、崇高な芸術ジャンルの仲間入りをさせる事が出来たのだった。
まさに1889年はガレの生涯の中で最高に生きた瞬間であっただろう。
言うまでもなく、ガレの作品に対する賞賛はパリを中心にして津波の様に世界中に広がっていき、やがて続々とその追従者が誕生してくる事になるのであった。(後略)
「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展 投稿者:公下道子  投稿日: 9月28日(火)11時33分55秒

大阪・中ノ島に完成した国立國際美術館新館オープンを記念して「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展が2004年11月3日(水・祝)~12月19日(日)に開催されます。
武本さんが先日増設して下さった「MUSEUM」Linkのページから「国立國際美術館」を検索しましたら、載っていました。
「開催趣旨」や「開催概要」など詳しく記載されてありますので、ご覧下さい。

勤続30年 投稿者:  投稿日: 9月28日(火)16時34分11秒

昨日、妹からメールが届いたのですが、勤続30年のご褒美に休暇が貰えたのでニュージーランドに行くそうです。思えばその妹もNACKの合宿で尾道に行った時は参加したのですよ。僕は大阪芸大生で妹は生野高校で美術部に入っていました。その後大学を経て教師になって、勤続30年とは驚きです。僕も歳を取る筈です。
公下さん。わざわざ大阪市立図書館まで出向いて調べて頂いて有難う御座います。ますますナンシー行きが楽しみになってきました。
木南さんはマルセル・デュシャンなどをどう思いますか?僕はあのあたりから体質的に受け付けない様になっています。最近はどうも新しい物よりも古い物に眼が向いてしまいます。だから美術館でもデュシャンなどの前は素通りするのが常でしたが、藤井先生が楽しみにされていると言うのであれば、僕ももう少し真剣に観てみなければなりませんね。

益々興味わく 投稿者:Kinami  投稿日: 9月28日(火)22時07分55秒

 公下さん、《ガレと北海、国立国際美術館の情報》ありがとうございます。ガレが北海に会う前からジャパニズムに憧れを持ってたこと、彼の作品の重厚な色彩に秘められた精神のありかたが興味深かったです。
 高島北海もあの時代の山口県(長州)出身の内務省役人として、兵庫県生野鉱山の開発にあたりその後フランスまでついてった。木戸孝行、山県有朋、伊藤博文の周辺を生きた明治維新の渦中の役人ですね。苛烈な意欲と精神に生きたんだろうな。そんな人の花鳥風月画ってどんなんですか?日本に帰って画家になったらしいし…。興味深いです。
 まだ検索ページは見てないのですが、国立国際美術館(新館)は現代アートの企画に積極的な予感がして楽しみです。でもこの無味乾燥な美術館の命名なんとかなんないですかぁ?
 武本さん。デュシャンはあの便器をそのまま美術館に出品した人ですねぇ。ダダイズム(破壊主義)というかシュールリアリズムの先駆けとなったとか‥。
 僕は美術品の価値としてはないだろうし、欲しいと思いません。その作者の精神のあり方に感動したりするから好きですし興味深いです。オノ・ヨーコや高松次郎や赤瀬川源平とかあの辺も興味深いです。詳しくないですが。
 でも見ていてウットリして作品が欲しいと思うのはマチスですね。特に1923年頃のニースの頃ですね。買えないから、自分で描くみたいな面もあるんですよ。

維新 投稿者:  投稿日: 9月29日(水)06時58分27秒

木南さんの意見に同感ですね。僕は基本的には現代美術はおおむね好きなのですが、好きな作品と嫌いな作品がはっきりしている様に思います。印象派以降いろんな美術運動が起こりました。そしてそれは必然性があったのだと思います。ダダ、シュールレアリズム運動もその最も大切な運動だったのかも知れませんね。運動の趣旨は理解できます。僕が浪高生の頃に読んだ岡本太郎の「今日の芸術」の内容にも共感を持ちました。でも岡本太郎の作品はどちらかと言うと好きにはなれません。ダリの作品もおおむね嫌いです。(中には好きなものも少しはありますが。)キリコやマグリットなら由としましょう。現代美術でもイヴ・クラインとかニキ・ド・サンファール、ティンゲリー、ローシェンバーグ、ロスコ、サム・フランシスなどは好きですが、便器を並べたり、電気掃除機を陳列したり、既成の人形を動かせたりと言ったのは好きではありません。草間弥生も嫌いです。日本で今流行のぺコちゃん漫画の様な作品も嫌いです。僕の頭が硬いのか、ついていかないのかも知れませんね。よほど広い屋敷を持っていても欲しいとは思いません。具体は吉原治良、白髪一雄などおおむね好きです。思想や手段は同じでもやはり出てくる作品に好き嫌いが出てくるのです。でも好き嫌いは別にしてこれからはしっかりと観たいと思います。
高島北海は木南さんがご指摘の様に動乱の長州藩ですね。うかつにも結びつきませんでした。昨年、司馬遼太郎の「竜馬が行く」を全巻を通して読んだところです。皆さん読まれましたか?面白い小説です。高島北海がナンシーに行ったのが明治18年、36歳ですから18歳の多感な年に維新だったのです。そのあたりと併せて観なければなりませんね。
話はがらっと替わりますがイチローが新記録を達成するのは僕がナンシーにいる頃でしょうか?


さて、来月は「ナンシー、アールヌーボー紀行」の予定です。VIT

 

(この文は2004年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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024. 地図に現われた湖 LAGO

2018-10-19 | 独言(ひとりごと)

 先日、セトゥーバルのツーリスモ(観光案内所)で最新版のポルトガル全国地図を買った。
 高速道路がここ数年で張り巡らされ随分道も変化していて、以前の地図では要を足さなくなってきているのではと思ったからである。
 以前の地図では工事中とか計画中といった表示が多かった。
 それが新しい地図では殆ど完成した道路になっている。

 丹念に地図をなぞっていくと大きく変化している箇所を見つけて目を見張った。
 細い河だったところがなんと広大な湖と化している。

 もう10年も前になるだろうか?アレンテージョ地方の鉱泉水の町モウラに泊まったことがある。
 ホテルが一軒とペンションが2~3軒しかない小さな町である。
 たまたま女子ハンドボールの国際試合があってどこのペンションも満室であった。
 ホテルには運良く一部屋だけ空室があったのでそこに泊まった。

 お城の真ん前に「パンダ」という名前の中華料理店がありその日の夕食は中華料理にした。
 世界中よほど小さな町でないかぎり、どの町にも中華料理店があり、旅行中、西洋料理に飽きた時などは助かる。
 南米旅行でもよく利用した。
 セトゥーバルには10軒ほどもある。

 中華料理店「パンダ」の中国人ボーイが「日本人ですか?」と尋ねてきた。
 「そうです」と答えると「毎晩の様にここに夕食を食べに来る日本人がいますよ」と言う。
 「今夜は来ていませんが…」とも言った。
 「この町に住んでいるのですか?」と尋ねると「そう、ホテルに何ヶ月も住んでいて…この近くのダム工事の関係者ですよ」との答えだった。

 アフリカなどでは日本のODA予算で発展途上国に日本のゼネコンがダムなどを作っているという話は聞いていた。
 ポルトガルでもそうなのであろうか?

 次の朝、ホテルの朝食は体格の良いモロッコからのハンドボールの選手たちで満員で僕たちはかなり時間をずらして遅くに摂った。
 二階にある食堂の窓からふと外を見ると日本人らしき人がポルトガル人らしき人たちと泥まみれになったクルマに乗り込み出かけるところだった。
 恐らくダムの工事現場に向かうのだろうと思って眺めていた。

 それからそのダムのことはポルトガルテレビのニュースでもたびたび取り上げられ僕たちも感心をもって観ていた。

 ダムに沈んでしまう、行ったこともあるルースの城。

 その近くの村人たちは村ごと移転を余儀なくされるらしい。
 村人は殆どが老人たちであった。
 あの歳になってからの集団移転では大変だなと思った。
 その村にはかわいらしい教会があった。
 僕たちがその村を訪れた時はダムに沈んでしまう村だとは知らなかった。
 それに夕方でもあってまた来る機会もあるだろうと思って残念ながらスケッチはしていない。
 その教会もダムに沈んでしまった。
 その後、ニュースで知って惜しい事をしたと思っている。

 そしてこの度地図を買って、想像以上の広大なアメーバ状に広がったダム湖に目を見張ったのである。

 そのダム湖を見に行くことにした。
 モウラのダムよりもその上流のモウラオンやモンサラーシュの城付近が地図では大きく塗り替わっている。
 モンサラーシュの城からの眺めが一変しているのではと思ったのでそのあたりを観る事にした。

 エルバスからグアディアナ河沿いに下ってきてモンサラーシュに入る予定だった。

 ところがエルバスを出たところで標識を一つ見逃してしまい道を間違えてスペインに入ってしまった。

 仕方がないのでコースを変更してスペインのオリベンザ-アルコンシェル-ヴィラヌエヴァというコースを取って再び国境を越えて逆にモウラオンからモンサラーシュに入ることにした。
 国境には標識が一つあるだけでかつての検問所は廃墟となっていてひとっこひとりいない。

 モウラオンから少し出たところから湖は始まった。

 広大な湖と入り込んだ岬、無数の島、取り残されたコルク樫、そして右側の山の頂にモンサラーシュの城。
 左側後方にモウラオンの城。
 谷底だったところに水が満々とたたえられ絶景がそこに出現したのである。

 島には農道の断片が途切れ途切れに現われてそこは以前は島ではなく陸続きであったことを物語っている。
 いずれ雨で流され草に負かれて消えてしまうのであろう。

 長野県の田中知事は「脱ダム宣言」を発表して物議を醸したがその後めでたく県民から承認を得た。

 ポルトガルでも問題がないわけではない。
 何日も雨が降り続きダムの危険水位に達することがしばしばある。
 そうするとダムは放流を始めるのである。
 それで下流にある村が洪水に見舞われる。
 洪水対策で建造したダムによって洪水になる。
 どこかが間違っていると言わざるを得ない。
 出来たらコンクリートのダムではなく、保水力のある自然林による天然ダムが望ましい様に思う。

 ポルトガルに限らず殆どのヨーロッパでは大航海時代、木炭による蒸気汽船時代を経て全ての森を切ってしまって自然林はない。
 今、自然保護団体が僅かばかりずつナショナルトラストで森を取り戻しつつある。
 でもそれは焼け石に水ほどの成果しかない。

 日本にしろアメリカにしろ中国にしろまたブラジルにしろ、このヨーロッパの教訓を生かすことは出来ないものだろうか?

 今年特に日本では四国や北陸で水害の被害が深刻だ。
 「梅雨末期の記録的な大雨」「大型台風」と言うことで、事は天災として済まされている様に思うがそうではないと思う。
 もっと山に保水力があれば、もっと大地に保水力があれば…。
 杉、松、檜など保水力のない針葉樹はもういいかげんにして、日本原始の木、西日本では楠、樫、椿などの照葉樹と北日本ではブナ、もみじ、かえでなどの落葉広葉樹の美しい山を取り戻してはと思う。
 そうすればコンクリートのダムは造らなくても保水力は増すしまた花粉症に悩むこともなくなるのでは…。VIT

 

(この文は2004年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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023. アトリエの BGM

2018-10-19 | 独言(ひとりごと)

 何度も再放送されている、棟方志功のテレビドキュメントの中で棟方自身が「私の身体の中には津軽三味線のリズムが流れているのですよ」と言っていた。
 棟方志功の版画を観ればそのリズムが良く判る。
 その事が僕にはもの凄く羨ましくて、僕にもそんなリズムが身に付かないかな~。と常に思っている。
 津軽三味線と言っても、近頃流行の吉田兄弟ではない。
 吉田兄弟の音と言ったら、ただギャンギャンとけばけばしくて耳を被いたくなる。
 かつての寺内タケシのエレキを思い浮かべるが寺内タケシの方がまだましだ。
 僕が昔聞いていた津軽三味線の高橋竹山などはもっと音色に深みと渋みがあって心に沁み渡ってくる。
 棟方自身の身体にはどの様な津軽三味線の音が流れていたのだろうか?

 父もアトリエでは必ずFMラジオを聴きながら絵を描いている。
 ゆったりしたクラシック音楽などが多い。
 でもラジオ番組任せでこだわりはない様だ。

 高校の美術部の同級生で絵筆を持つと必ず「きっさまっとおっれっと~わ~ぁどーきっのさーぁくーぅっらぁ~」と歌いだす奴がいた。
 お父さんが看板屋さんで、父親の背中を見て育ったのだろう。
 彼も又、ある意味で身体にリズムがしみこんでいた。

 ポルトガルの絵を描き始めてしばらくはファドばかりを聴きながら絵を描いていた。
 アマリアは好いのだが歌声が高くてBGMとしてはキツイ。
 ファドも幅広くある。明るいものよりどちらかというと暗くて、歌っていると言うより消え入る様に唸ってるだけ…と言ったものが好きだ。
 そうなると絵など描いていられない。
 ついつい聴き入ってしまうのだ。
 アルフレッド・マルセネイロなどがそれだ。

 ポルトガルの絵を描いているがポルトガルの音楽にはこだわらなくなってきている。
 最近はナット・キング・コールとかフランク・シナトラのスタンダードが心地良い。

 二年ほど前にポルトガルのテレビでノラ・ジョーンズをやった。
 それまでその歌手のことは全く知らなくてその時初めて観たのだが、ピアノの弾き語りでアコースティックのスタンダードが新鮮で、「すぐにCDを買おう」かとも思ったがポルトガルで買ったらたいていの場合歌詞カードは付いていない。
 出来たら歌詞カードが付いている方が良い。

 だから帰国の際に「日本で買おう」と思っていた。
 そのうちに「それ程でもないかな~」と思い始めて「中古店で出てからで、まっいいかっ。」と言う事になった。
 その後何枚かのCDが出ているようだが…。別にそれ程の興味もないし情報はいらない。

 今年帰国した折、宮崎であちこち中古店を見て回った。
 最近は大型古書店の一角でCDのコーナーがある。
 どこも「ノラ・ジョーンズ」のスペースはあるがCDはなかった。
 目指すは最初のCD「Come Away With Me」である。
 「大阪でならあるだろう。」と期待していたのだが、結局、時間もなく新品を買うことになってしまった。
 それなら、1年前に買っておいても同じだったのだが…

 そしてそれを今、毎日絵を描きながら聴いている。
 「それ程でもないか」は見事外れた。
 選曲。歌声。楽器の音。編曲全て聴けば聴くほどに気に入っている。
 絵を描く時のBGMとしても邪魔にはならない心地よさがある。
 と言っても「I've got to see you again」の曲などになると、ついつい絵筆を止めて聴き入ってしまう。
 そして心に沁み込んでくる。
 「ノラ・ジョーンズ」の音色とリズム。
 さて僕にはどんな絵になって現われ出て来るのだろうか?

VIT

 

 

(この文は2004年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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