武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

193. 蕁麻疹と四谷怪談お岩さん Urticária e Yotsuya Kaidan Oiwa

2022-02-01 | 独言(ひとりごと)

 僕は終戦の次の年、終戦の日から500日足らずのところでこの世に生を受けた。戦後ベビーブーム、いわゆる団塊の世代の先頭になる。高校生の時に一つ上の学年は4クラスしかなかったのに、僕たちの学年は15クラスであった。しかも1クラスに52人もが詰め込まれ、教壇のギリギリから教室の後ろの壁まで、通路も狭くといった状態であった。

ヴァスコ・ダ・ガマ絵柄花瓶のバラ

 僕が生まれた時には北九州から母の姉、つまり僕の叔母さんが汽車に揺られわざわざ大阪まで来て出産に立ち会ってくれたらしい。

 途中、広島で原爆から1年後の惨状なども汽車の窓から目にしている筈だ。

 僕が生まれて叔母さんの最初の一言は「この子は生きられんよ」だったらしい。僕が成人してからそのことは笑い話の様に聞かされた。

 とにかく目と鼻と口ばかりが大きく、身体は本当に貧弱であったということらしい。母も戦中戦後の食糧難で栄養失調気味ではあった。

 でも僕自身の生きようとする力がそれに勝ったのだろう。母の母乳をむさぼり飲んだのだそうだ。母は僕を生んでから歯がボロボロになっていった。という話も後になって聞いた。

 叔母さんが言った「この子は生きられんよ」という言葉は覆す結果にはなったが、身体は小さいままであった。小学校の教室では机はいつも最前列であった。

 風邪は引きやすいし、骨が弱く骨折もたびたびした。小学校近くにあった淀井外科病院では僕は常連患者であった。怪我をしても血がなかなか止まらなかった。それにアレルギー体質が酷かった。

 その頃はアレルギーの研究など今ほど出来てはいなくて、小児科の先生に診てもらっても「青魚は食べさせない様に」という程度のものであった。兄や妹は鯖や鰯を普通に食べていたが、そんな時、僕には決まって塩鮭が用意された。

 でも北田辺商店街の裏手にあった内科小児科の友廣先生の自宅にはしょっちゅう出かけて診て貰っていた。友廣先生は阿部野橋のビル内に診療所を開院されていたのだが、ご自宅で早朝、特別に診て貰っていたのだ。

 特に季節の変わり目などには蕁麻疹が身体中に出るのだ。痒くて一晩中眠れなくて、傷が出る程にも掻く。最初は小さい蕁麻疹が身体中に出る。それがまるでアメーバのように融合し、朝には身体じゅうが腫れあがり、顔は四谷怪談のお岩さんの如くになっていた。

 僕は当然、学校に行くのをぐずった。でも母はそれを絶対に許さなかった。

 先ず友廣先生のところに無理やり僕を引っ張っていき、注射を一本打たれるのだ。それから遅れてでも学校に行かされた。

 そんな時は休み時間になっても、僕は友達と遊ぶことも出来ずに、机にかじりついてうつむいて、誰とも顔を合わせない様に我慢していたのだ。

 小学1年生の時だ。幼稚園からも一緒で家も比較的近く仲の良い女子の友達がいた。家が近くと言っても、その娘の家は大きなお屋敷で何か大きな会社の社長の娘であった。

 普段は僕のことを「ポコちゃん」などと呼ぶ。不二家のポコちゃんである。

 僕の席は一番前の出入り口に近い一番右にあった。その娘の席は隣であったと思う。

 休み時間になっても僕は机にかじりついてうつむいていた。

 その普段は仲の良い社長の娘が子分の女子2人を従えて、僕の机によじ登るのだ。そして手を合わせて「なんまいだ、なんまいだ、どっぼーん」と言いながら僕の机から床に飛び降りる。それを3人の女子が休み時間じゅう、繰り返し繰り返しやり続けるのだ。

 僕は逃げることも出来ず、只、我慢するしかなかった。

 『なんまいだ、なんまいだ、どっぼーん』は四谷怪談のお岩さんが古井戸に飛び込む時の様子なのだ。

 それ以外はあまりいじめられたという記憶はないのだが、男子からも「武本に近付いたらうつるど~」などと言われたこともたびたびである。が、僕に近付かないでいてくれてむしろ助かった思いである。

 友廣先生は「中学生くらいになったら自然に治りますよ」と言ってくれていて、それが何よりの救いであった。

 小学校4年生の時、浅田君と一緒のクラスになった。浅田君の家は小学校に行く道すがらにあった。僕は毎朝、浅田君を誘って一緒に通学した。浅田君は僕よりも更に小さく、青白い顔をしていた。そして体育の時間にはいつも見学である。喘息が酷く走ることも運動をすることも出来なかった。無理して走れば死んでしまうかも知れないのだ。

 浅田君の家の玄関を開けると、時々は浅田君ではなくお母さんが出て来られて「きょうは休ませるから、一人で行ってちょうだい」などと言われた。

 母は「浅田君、可愛そうやな~」と言っていた。僕よりかわいそうな人はこの世にいっぱい居るのだ。と思った。

 蕁麻疹で死ぬことはないのだ。でも痒くてたまらない。夜には寝ながら母がよく身体をさすってくれた。僕が寝入ったと母は思ったのだろう。「こんな身体に生んでしまってごめんね」と母が小さくつぶやく声が聞こえた。

 中学生になって、小学生の頃に比べると格段に蕁麻疹は少なくなっていたが完全には治っていなかった。

 小学生高学年の時に『浜寺水錬学校』に通って、身体はかなり丈夫になっていた。浜寺水錬学校では同じクラスに俳優志望の可愛らしい男子がいてすぐに親友になった。俳優養成教室にも通っていると言っていた。

 でも僕の水泳の技術はめきめき上達し試験にもどんどん合格し上のクラスに上がっていったので、その後その男子がどうしたのかは判らない。僕の身体は小さいままだが見違えるほど丈夫になっていたのだと思う。僕はブレストストローク(平泳ぎ)では誰にも負けなかった。そしてどこまででも泳ぐことが出来た。

 高校になって水泳部に入りたいと思っていた。でも高校にプールがなかった。

 プールがない水泳部では仕方がないな、と思い、美術部に入った。

 美術部の顧問の藤井先生は身体こそ小さいのだがどんなことにも動じない図太い性格の持ち主であった。美術部だけではなくラグビー部と山岳部も兼任しておられて、ジャージを着て頭にはプロテクターを被って生徒と一緒に運動場を走り回っておられる姿に僕は感銘を覚えていた。

 そして僕の性格も変わっていったように思う。母は「藤井先生のお陰や」と言っていた。

 美術部では毎年合宿を行う。小豆島や尾道などいろいろと行ったが僕が3年生の時に僕の企画で信州での合宿を行ったことがある。運動部や山岳部、スキー部などは格好の合宿地なのだが絵にするには難しい。遠くまで来た割には失敗だったかなと思っていた。

 それでもやけくそでグラウンドに部員全員の絵を並べた。それを地元の人が褒めてくれた。

 そしてその夜、地元の盆踊りに参加した。盆踊りではのど自慢大会もあった。僕はビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」を歌った。そんなことを数年前エッセイに書いた。僕のバックコーラスをしてくれた人を勘違いして書いてしまった。それをその時の美術部の仲間だった、はるき悦巳があの時のバックコーラスの一人は僕ですよ、と指摘してくれた。『じゃりン子チエ』作者のはるき悦巳である。

 僕は高校ではすっかり蕁麻疹は出なくなっていたと思っていた。でも、最近、はるき悦巳が「武やんはしょっちゅう口を腫らして高校に来ていたよ」と言っていたから蕁麻疹は未だ少しは出ていたのだろう。でも小学生の頃に比べたら無かったも同然である。

 中学生や高校生の頃、それに大学に入ってからも一人で九州の祖母のところに遊びに行った。時には友人を誘ったこともあるし妹が一緒のこともあった。近くに叔母も住んでいた。2人はいつも歓迎し可愛がってくれた。

 祖母は八幡製鉄の技術者の夫、僕にとっては祖父が亡くなった後、同じ八幡製鉄の技術者と再婚して苗字が替わっていたが義祖父も歓迎してくれた。

 そして折尾という町の芦屋という地区に住んでいた。1964年、ユル・ブリンナー主演のハリウッド映画「あしやからの飛行」の芦屋である。戦後、アメリカ駐留軍の基地があったところで駐留軍住宅の払い下げ家屋を祖母は買い取って住んでいたのだ。だから当時としては全てが西洋式で僕にとっても珍しい家であった。そして海水浴場がすぐ側にあった。

 僕は身体が丈夫になったといっても、今でも高温多湿には弱い。日本の梅雨時、秋の長雨の時期など、体調が悪くなることがある。エアコンのある部屋に逃げ込みたくなる。

 その点、ヨーロッパの気候風土がしっくりとゆく様な気がする。暑い時期には空気はからっとしていて、寒い時期に湿度が高い。日本とは逆なのだ。

 スウェーデンに住んでいた4年間はずっと調子が良かったし、ポルトガルに来てからも調子はすこぶる良い。一方、南米ではもひとつ調子が悪かった。

 1976年、南米を10か月かけてゆっくりと旅した。ブラジルからパラグアイ、アルゼンチンと旅し最南端まで行きチリからボリビア、ペルー、エクアドールと北上しコロンビアに入った。その頃にはいよいよ体調は悪化し蕁麻疹がかなり出てしまっていた。ボコタのツーリストインフォメーションで医師を紹介してもらって診てもらった。注射を打って薬を貰ってようやく良くはなったが、コロンビアの高温多湿に参ってしまったのだ。でも注射1本と薬で瞬く間に良くなったのは驚きであった。医学の進歩、アレルギーの研究が進んでいるのを実感した。子供の頃にこれだけの医療技術があれば良かったのにとも思った。でも薬には出来るだけ頼りたくはない。

 高温多湿のバリ島でも調子が悪くなった。

 僕のアレルギーは青魚などではなくて『高温多湿』なのだとようやく理解することが出来た。

 でも『この子は生きられんよ』と言われてから70年以上も生き、コロナ禍にも今のところ動じず、ますます元気になりつつある。かな? 

 

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コメント (2)
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