武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

014. ローマへの道

2018-10-12 | 独言(ひとりごと)

 「すべての道はローマへ通ず」
 ここはヨーロッパの一番西の端、大西洋が目の前に広がるポルトガルのセトゥーバルに居てもその実感はある。
 実際はローマからは随分と離れていておおよそ3000キロ。

 セトゥーバルの町外れにはローマの道と言うのが残されているし、ローマ橋もある。
 ローマの水道橋もサッカー場の側にひっそりと佇んでいる。
 いかに古代ローマ帝国が強大であったかが想像できる。

 フェリーで対岸のトロイアに渡れば、ローマ時代の「イワシの塩漬け工場跡」が遺跡として保存されている。
 オイルサージンの原型であろうか。

 かつてこのセトゥーバルはオイルサージンで栄えた町である。
 今も操業している工場も少しは残っているが、それ以上に工場跡がたくさんある。
 1914年~1952年の写真を見ると今の漁港はイワシ漁りの帆漁船でひしめきあっているし、工場では女工さんたちが手作業で缶詰め作業を行っている。
 工場から製品を運び出すのは荷馬車である。
 僅か50年~80年前の姿であるが、500年昔も千年前もそれほど変わっていない様な気もする。
 むしろこの50年で大きく様変わりしたのではないだろうか?
 その写真の工場は今では博物館として再利用されている。

[Museu do Trabalho de Michel Giacometti/Setubal]

 ローマ遺跡には釜の様な跡と浴場跡などもある。
 どれくらいの人が働いていたのか知らないがイワシ加工の仕事をした後、皆で一日の疲れを癒し楽しく風呂に入って汚れや汗を流していたのだろう。
 ローマの浴場らしく僅かばかりだがモザイクの跡が見てとれる。

 ローマ時代からこのセトゥーバルの人は脈々とイワシを加工し続けてきたのであろうか?

 今ここからローマまで歩いて行く人は恐らくいないだろう。車ではどうかな?たぶんいると思う。

 かつて日本が信長の時代「天正遣欧少年使節団」として、九州片田舎の13歳程の少年四人(あるいは六人)伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、コンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノ(いずれも日本名は不明)が長崎からポルトガル船で(西暦1582年2月20日)出帆し、
二年半の歳月をかけリスボンに(1584年8月10日)投錨。
 このセトゥーバルもおそらく(9月6日頃)通って、各地で歓待を受けながら長い年月を費やして(1585年3月22日)ローマまで行っている。と言ってもスペインの途中からは船を使っているが…

 往復ほぼ同じ様な行程をたどり、長崎に戻ってきたのは1570年7月。
 実に八年五ヶ月の歳月が流れていた。
 日本では信長から秀吉の時代に変わっていた。
 それは古代ローマ時代ではなくて、16世紀文化の華ひらいたルネサンスの時代である。

 ローマ時代はリスボン(Lisboa)のことをOLISIPOと書いたらしい。
 セトゥーバル(Setubal)はCETOBRIGAと呼んでいた。
 ローマ街道はOLISIPO(リスボン)からTAGUS(テージヨ河)を渡り、EQVABONA(今のCoina/コイナあたりだろうか?)の船着場から、CETOBRIGA(セトゥーバル)を通ってSALACIA(Alcacer do Sal/アルカサール・ド・サル)EBORA(Evora/エヴォラ)そしてEMERITA(Merida/メリダ)へと繋がっている。

 メリダ(スペイン)には大規模なローマの遺跡が残されている。
 劇場跡、闘技場跡、浴場跡、橋、それに保存状態の良いたくさんの大理石彫刻や円柱が博物館で見ることが出来る。
 彫像の中にはカエサル(シーザー)やカラカラ帝などもある。
 それにモザイク。これも主だった物は博物館に展示されているが、それ以外にもおびただしい数のモザイクが雨ざらしで山積みされている。

 ローマ時代のモザイクはポルトガル中部の町コニンブリガでも保存状態の良いのを見ることが出来る。
 その他にもポルトガルの国中たくさんの場所でローマの遺跡は保存されている。
 いや今なお使われている橋や水道橋などもある。
 リスボンにしてもエヴォラにしてもローマの遺跡の上に今の町がある。
 もし掘り返してみたならぞくぞくと遺跡が出てくるに違いない。

 セトゥーバルも例外ではない。
 セトゥーバルの旧市街にある「ルッジェロ」の写真屋。
 その控え室の机の天板を開けるとローマ時代の井戸になっているのだから…。

 セトゥーバル郊外に保存されているローマの道をこの程訪れてみた。
 訪れてみた。と大げさに言ってみてもはじまらない。
 我家から車でほんの五分のところにあるのだから。
 いつも通る国道から少し脇道に入ったところにそれはある。

 幅はようやく馬車がすれ違うことが出来る程度。残されているのは僅か300メーターほど(実際は1キロほどでこれを書いた当時は知らなかった)だが、現代の物とはあきらかに違うアラビダ大理石などの磨り減った石畳に、そのいにしえの空気を感じ取る。
 原生化した小さなオリーヴの実がその石畳にたくさん散らばっている。
 おそらく今は羊と羊飼いくらいしかその道は使わないのだろう。
 野鳥が我々の行くのを警戒してか鳴声高く、まるでうぐいすのようにさえずっている。VIT

 

 

(この文は2003年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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