武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

008. ヌエネン時代のゴッホ

2018-10-09 | 独言(ひとりごと)

 この程ゴッホの作品「白いボンネットの婦人」が競売に懸けられ 6,600 万円で広島のウッドワン美術館が競り落とした。というニュースの断片をポルトガルで興味深く聞いていた。オランダの田舎ブラバント地方の風景に思いを馳せながら…

  作品は中川一政が所有していた遺品の中に混ざっていたとのこと、ご遺族も中川一政もゴッホの本物とは知らなかったのだろうか?
  始めは参考価格をたったの1万円位と考えていた。という話であった。
  ゴッホ財団に問い合わせて本物だということが解った。とのこと。

  この絵は 1885 年にオランダ、ブラバント地方の田舎の村ヌエネンで描かれた「馬鈴薯を食べる人々」の為の一連の習作であろう。
  「パイプをくゆらせる農夫」「白いボンネットの婦人」「白いボンネットの娘」とそれぞれ沢山の習作を残している。
  「馬鈴薯を食べる人々」も一点だけではない。

  実はわたくしごとの話で恐縮だが僕が中学生の時にこの「白いボンネットの娘」を模写している。
  だから僕は最初その話題の「白いボンネットの婦人」も中川一政が若い頃に模写したものだろう。と直感的に思ったがその直感は見事に外れたという訳だ。
  中川一政の模写だとしても1万や2万では安すぎるが…

  ゴッホはヌエネンで 1884 年から 2 年間を過した。
  それまでハーグで子持ちで妊娠していた可哀想な娼婦シーンを助けようと献身的な気持から同棲するに及んだのだが、淋病に感染して入院、周りからはしだいに見放される様になり、シーンとの生活も破綻するに到りハーグを後にする。
  その後しばらくはドレンテ地方の田舎で泥炭地帯の風景やそこで働く人々を描いていたが、孤独に耐え切れずに、父の牧師館の転任先のヌエネンにやってきたのだ。

  ヌエネンは機織(はたおり)と農業で生計をたてる、何百年もの間生活習慣も方言もいっこうに変えようとしないような小さな村であった。
  村人の殆どはカトリック教徒であったから、父のプロテスタントは少数派である。
  そこに得体の知れない見るからに異様なしかも訳の判らないイーゼルやキャンバスを抱えて村の中を歩き回るゴッホが現われたものだから、村人の怪訝な気持は相当なものだったのだろう。
  血走った眼をしてキャンバスにきたない色をただ塗りたくって売れもしない絵を描いて働きもしないでぶらぶらしている、訳の解らないプロテスタント牧師の胡散臭い30歳にもなる息子である。
  それに加えてハーグでの娼婦シーンとの噂がヌエネンにも伝わってきていた。

  それでもゴッホはヌエネンの風景や農夫、機織をする人などを沢山描いた。

  牧師館の隣にはこの村では少数派のプロテスタントの母親と 5 人の未婚の姉妹が住んでいた。
  この村から一歩も出た事が無い姉妹の内の一人マルゴは恋に憧れていた。
  そしてゴッホに恋をした。当時 30 歳のゴッホより 9 歳年上の 39 歳であった。
 ゴッホは今まで幾つも恋をして全て破れてきたけれど、相手から恋焦がれるのは初めての経験であった。
 やがてゴッホからもマルゴを愛するようになっていった。
 二人は結婚を考えるようになったが、周りは全てが反対であった。
 とりわけマルゴの母親と姉妹たちの反対は激烈であった。
 マルゴには祖父が残してくれた少しの遺産があったのでそれでなんとか暮らせると思っていたが、その金目当てのゴッホと結婚をするのなら、母親は遺産は渡さない。と拒絶した。
 ゴッホは弟テオからの仕送りがあるのでそんなものはいらない。
 一緒にどこか別の土地で暮らそうと言ったが、マルゴにしてみればそれは出来ない。
 想い余ってマルゴはゴッホが野外で絵を描いている傍で服毒自殺を図る。

 そんな事件があってから父の教会に礼拝に訪れる村人はますます少なくなっていた。
 ゴッホは父の牧師館を出て行かざるをえない。
 運良く村の中に二部屋を貸してくれるところが見つかった。

 事件の後、ゴッホの父親も突然亡くなってしまう。

 そんななかで知り合ったのがデ・フロート一家であった。
 貧しい土間の一部屋しかない小屋に一家五人は住んでいた。
 畑で自分たちで収穫した馬鈴薯だけを常食とし、週に一度だけ一切れのベーコンが付いた。
 ゴッホは一枚につき僅かな金額 1 スーのモデル料を支払ってこの家族を描いた。
 「白いボンネットの婦人」はその時に描かれたうちの一枚であろう。

 事件の後完全に村八分にされていたゴッホをカトリックとかプロテスタントとかといった垣根を越えて友人として暖かく迎え入れてくれたこの極貧の家族、デ・フロート一家をゴッホは真の「聖家族」と感じていたにちがいない。

 部屋も永くは借りる事が出来なかった。
 そしてこのヌエネンの部屋を出て行かざるを得ない日の 12 日前から制作に取り掛かったのが、このデ・フロート一家を描いた「馬鈴薯を食べる人々」である。
 習作を重ね、試行錯誤の挙句最後の日にようやく「馬鈴薯を食べる人々」は完成した。
 その湯がいたじゃがいもの湯気が立ち昇る画面には、ほっこりとしたじゃがいもの「温かさ」「香り」までをも描くことに成功した。
 ゴッホはデューラーにもひけを取らない的確なデッサン力を身に付けたのだ。
 そしてこの極貧の「聖家族」によってミレーの「晩鐘」に匹敵する崇高な精神性をものにすることが出来たのだ。

 その「馬鈴薯を食べる人々」は弟テオの家の居間の暖炉の上に生涯飾られていた。
 今もアムステルダムのゴッホ美術館の特別いい場所に展示されている。

 印象派やジャポニズムの影響によって思いっきり明るく、太陽の光に満ち溢れたアルル時代やサン・レミ時代そしてオーヴェール時代のゴッホの作品は素晴らしいが、デューラーの的確なデッサン力やミレーの崇高な精神性を自分のものにしようとしていた、このヌエネン時代の集大成的作品「馬鈴薯を食べる人々」とその一連のゴッホ作品も僕は大好きである。

 もう一つ私事で恐縮だが、絵を気に入ってくれて、ポルトガルで貧しい生活を送っている僕を「応援してやろう」というお気持から沢山コレクションしてくれていたT氏は名画のコレクターでもあった。
 ルノアール、ピカソ、ブラック、ルオー、シャガール、ローランサン、ヴラマンク、ビュッフェ等のたくさんの名画とゴッホのヌエネン時代の「白いボンネットの婦人」もコレクションされていた。
 だから最初中川一政のコレクションという話を知る前は、その競売に懸けられようとしていたゴッホは、てっきりT氏のコレクションをご遺族が手放されたものだろうと思った。が絵の写真が出てきて、見てすぐに別の絵だと判った。
 T氏のそれは確かもっと正面を向いた「白いボンネットの婦人」であった。

 生前中川一政は本当にこの「白いボンネットの婦人」がゴッホの本物だとは知らなかったのであろうか?
 また中川一政はいつ頃、どのようにしてこの絵を入手したのであろうか?
 興味は尽きない。VIT

 

(この文は2003年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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007. ポルトガルでの運転

2018-10-09 | 独言(ひとりごと)

 昭和40年4月8日。18歳で運転免許を取ってから殆どを車と共に過ごした。
 スウェーデンに住んだ時もすぐにポンコツマイクロバスを買って、それでヨーロッパをくまなく見て歩いた。
 ニューヨークに住んだ1年だけは車を持たずに自転車の生活だった。
 自転車でマンハッタンをどこまでも移動した。

 ポルトガルに住んでみようと思った時はちょっとそれまでとは違った、今までの生活とは180度違う生活を考えていた。

 ポルトガルに移住する直前に住んでいた宮崎県では車なしでは絶対に生活できない山の中に住んでいたものだから、次は街なか、それも漁港のある港町に住むことを夢見ていた。
 そしてその通りにした。
 街なかだから車は必要なし、どこにでも歩いて行ける。

 そしていわゆる文化的?な生活ではなく、もう少し不便でもゾラやゴッホの時代的な、ヨーロッパの昔ながらの暮らしを体験してみたかった。
 ポルトガルにはそんなノスタルジックなものを感じていた。
 その通り、最初に借りた部屋にはおんぼろの小さい冷蔵庫だけは付いてはいたものの、台所には200年も使っている様な大きな煙突がかぶさっていたし、洗濯はバスタブでばしゃばしゃと手や足でしなければならなかった。
 テレビは片すみに置かれていたが、白黒でそれも殆ど映らなかった。
 掃除も箒と雑巾のみで全く基本的なやり方だ。
 そんな具合で100年前とまでは行かないが、少なくとも車や電化製品からは全く開放された生活だった。

 ポルトガルに住み始めて殆ど毎月の様にスケッチの旅に出た。
 列車であったり、路線バスであったり。
 幸いポルトガルの交通費は安い。そしてバスや列車の旅を楽しんでいた。
 何年かはその様にした。

 ところがバスなどで目的の町に行くその途中に良さそうな、スケッチをしてみたいような小さな村などを通過する。
 そういう時は残念ながら指をくわえてバスの窓からただ眺めているだけ。
 途中でバスを降りてしまうと、次のバスは明日までなし。宿もなし。ということになってしまう恐れもある。そういうことがたびたびあった。あわててタクシーを捜しだし、それで隣町まで行くはめになる。

 いつの間にか主要都市には殆ど行ってしまった。
 あとは交通の便の悪い小さな町や村だけが残っている。
 そんな訳で、いつの頃からかスケッチ旅行に時々レンタカーを使うようになった。
 その様な自分の車なしの生活が10年続いた。

 そして3年前いよいよ車を買うということになる。
 当初考えていた、ポルトガルでは昔ながらの生活。と言うのもすっかり忘れ去って今は大型の冷蔵庫もあるし、全自動のドラム型洗濯機。掃除機。カラーテレビが2台とサテライト。
 そしてパソコン。車。
 と以前にも増して文化的?な生活をしている。
 ゾラはどこへ行ったのか?ゴッホはどこへ行ったのか?
 当初の意気込みはどこへ行ったのかと我ながらお恥ずかしい次第であるが…

 それまで国際免許で乗っていたのを、その時ポルトガルの免許も取った。
 ポルトガルの免許に期限はない。

 車はフランスのシトロエンSAXOと言う1100㏄の小さな車にした。
 色は白で5ドアの5速マニュアルでガソリン車。
 ポルトガルでは最もポピュラーな、どこにでもある大衆車である。

 ポルトガルにはいわゆる国産はない。
 正確には国産はあるが国産企業はない。ということだ。
 だからあらゆる国の車が比較的等しく走っている。
 アメリカ車もあればドイツ、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スペインそれにポーランドや韓国車。勿論日本車も多い。
 正確には国産はある。と書いたが、それは例えばトヨタはもう40年近くも以前からポルトガルのポルトに工場を持っている。
 わが町セトゥーバルの町外れにはフォードとフォルクスワーゲンの大きな工場がある。
 ポルトガル産のトヨタ、フォード、ワーゲンという訳である。
 その他にもたくさんの企業がポルトガルに工場を進出している。

 僕がシトロエンにした訳。というほど大げさなものではないが、この国で一番よく走っているあまり目立たない車。をと考えたからに他ならない。
 それにもしかしたら展覧会の搬入のためフランスまで車で走っていくこともあるかもしれないし、その場合でもフランス車なら目立たないだろう。
 それと買おうと思った時に丁度モデルチェンジをしたばかりだった。と言うこともある。

 買ってから間もなく3年になるが未だ1万5000キロに満たない。
 リスボンに買物に出かけたりする時は路線バスを使ったりする。
 リスボンは車も多くて駐車をするにも大変だし、道も複雑で危険この上ない。
 車はほとんどセトゥーバル内での買物と田舎へのスケッチ旅行だけに使う。

 ポルトガルは世界でトップを争う重大交通事故多発国である。
 運転をしていてもひゃっとすることはたびたびどころではない。
 ポルトガル人の運転のマナーは最悪である。
 何重にも追い越しはする。ちょっとの隙間にも割り込みはする。
 そしてウィンカーは出さずに平気で直前に割り込んでくる。
 急発進、急ブレーキはあたり前。
 信号が青に変われば間髪を入れずに後ろからクラクション。
 スピードは驚くばかり。アクセルを目いっぱいに踏み込む。
 ポルトガル人は自分の前に車があるのに我慢が出来ないのか、まるでF1レースの様相である。
 とにかく危ない。
 それに道路標識も不完全だし、道路の設計もあまり感心しない。

 急に高速道が整備された。と言うこともあるだろう。
 ローンをし易くなって急にたくさんの人が車を持つことが出来た。と言うこともあるだろう。
 ポルトガルは車の性能の上昇と共に車の増加、そして高速道の発達。という歴史を持たない。
 車を与えられた時既に車は高性能で150キロ、200キロのスピードにも耐える。
 そしてその為の道もある。
 だが運転技術とマナーはそれに追いつかないというのが今の現状ではないだろうか?
 がそれに加えて民族性が大いに関係しているものと思わざるを得ない。

 懐かしい古い本で、もしかしたら違っているかも知れないが北杜夫が「どくとるマンボウ航海記」の中で実にうまいことを言っている。
 「馬の文化を持つ国の人の運転は穏やかだが、ロバ文化の国の人の運転は荒っぽい」と
 「馬は優しく接するとよく言う事を聞くが、ロバは荒っぽくひっぱたかないと言う事を聞かない。」
 「そしてそのまま馬から車へ、ロバから車へ乗り換えただけにすぎない。」と

 それに加えてポルトガルは血の気の多い「闘牛」の国である。
 シトロエンの運転席に座る時、まさにロバにまたがった血走ったポルトガル人と一緒くたに猛り狂った牡牛が放たれている「闘牛場」に一人丸腰で放り出される時程の覚悟が必要である。VIT


  以下ここに在ポルトガル日本国大使館より在ポルトガル日本人向けに定期的に送られてくる「大使館便り」平成 15 年 1 月号のなかから「ポルトガルの交通事情と交通安全対策」の項目の一部を抜粋したい。

<ポルトガルは世界で 1,2 を争う交通事故多発国と言われています。死亡事故件数も極めて高く、悲惨な事故現場に出くわすこともしばしばあります。ポルトガルの 2001 年の交通事故死亡者数は 1466 人で、人口がほぼ等しい東京都では 359 人ですから、約 4 倍の死亡者数となります(ポルトガルの人口:約 990 万人、東京都の人口:約 1200 万人)。日本とポルトガルは交通事故死亡者の認定方法が異なり、日本は事故発生時から 24 時間以内に死亡した場合を交通事故死亡者と認定しているのに対し、ポルトガルでは、即死又はそれに準ずるほど事故に近接した時間に死亡した場合のみを交通事故死亡者と認定していますので、人口と認定方法を同様にして両者を比較したならば、さらにその差は大きくなるものと考えられます。(以下略)>

 

(この文は2003年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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006. アレンクエールのビエンナーレ

2018-10-07 | 独言(ひとりごと)

Bienal de Arte de Expressão Figurativa de Alenquer

 

 ニース旅行をしている時と同時にアレンクエールでの「形象表現ビエンナーレ」が始まった。
 この展覧会には一昨年に続いて二度目の出品となる。

 ニース旅行に出かける直前のある日。露店市に行った帰りになんとなくペドロの画廊に寄ったら「今、15分前に君に電話をしたところだ!又、アレンクエールがあるよ!出品するのだろう?」と言う。
 ビエンナーレだから、二年にいっぺんしかないので、ペドロに言われるまですっかり忘れていた。
 「それで締め切りはいつ?」と聞くと「今日中!」と滅茶苦茶な話なのだ。
 ポルトガル人は「アシタ。マニャーナ」(ポルトガル語では「アマニャン。マニャ」)の民族なのに、他人にはいつもせっかちなのだ。
 まあずっと前から聞いてた話を僕に伝えるのを忘れていたのだろうけれど…。
 ペドロも最近リスボンにもう一軒画廊をオープンさせて忙しいのだ。
 「明日、アレンクエール市の車が作品を取りに来るから、今日中」というわけ。
 「一点はこの画廊にある30号を出すとして、もう一点.。何かある?同じくらいの大きさで」「今すぐに取りに帰って、持ってきてくれないかなあ?」と言う。
 でもありがたいものだ。勝手に出品をする手はずを整えてくれていたのだから。
 「カタログ用の写真ももう既に送ってある。」とのこと。
 もし僕に連絡がつかなくても一点だけで出品しておいてくれた。ということだ。
 まあ、僕としてみたら、いつでも出品できる作品の一点や二点はあるのだが…。それをペドロは知ってのことなのだ。

 その展覧会のオープニングは僕たちのニース旅行の最中に始まった。
 会期は一ヶ月程もあり、旅から帰ってからゆっくり観に行けばいいと思っていたのだが…。ニースから帰ってからも、結構天気の悪い日が続いて、なかなかアレンクエールには行けなくて、殆ど終る2~3日前にようやく行った次第。

 アレンクエールはリスボンの北約50キロのところにある小さな町。
 決して観光客など訪れる事のない、素通りしてしまう町である。
 元々は工場の町らしく、町の中心を流れる川のほとりに大きな工場跡がある。
 お城の跡もある古い町だが、お城よりも工場跡の方が目だっていて、それがこの町のシンボルになっている。
 町外れにも大きな紡績工場跡があって、これがビエンナーレの会場。
 工場跡を実にうまく展覧会場として利用して、なかなか文化に力を入れている町である。
 立派なカタログやポスターも市の予算で作っている。
 ポルトガルは抽象絵画が盛んなのだが、「形象」のみにこだわって全国の画廊と協賛してのビエンナーレである。

 ルーブル美術館は元は宮殿だが、オルセー美術館は鉄道駅の跡。
 ヨーロッパのお役所は古い建築物をリサイクルするのが巧い。
 セトゥーバルの美術館も工場跡だし、以前に展覧会をしたアヴェイロの文化会館も元は陶器工場とのこと。
 ポルトガルの工場跡は重厚な建物が多くて、ちょっと手を入れると立派な美術館に変身するようだ。

 二年前に出品した時にも「いい会場だなあ!」と思ったものだ。
 天井が高い三階建てで、玄関ホールや階段が広々としてレトロで素晴らしい。
 入口の前には堀がある。
 その堀からはアーチの造りで建物を支えているといったヴェニスにでもありそうな中世風の建築。
 建物全体はサーモンピンクに塗られ、石の建築物といった硬さはない。
 堀には何種類かの水鳥がいる。
 一階は事務所とイベントかパーティーでも出来る様に多目的にとってあるようで、展覧会場は二階と三階を使っている。

 アレンクエールの町自体も絵になるところが多くて、二年前のビエンナーレでもアレンクエールをモティーフにした作品もたくさん出品されていた。
 僕もその時何枚かのスケッチをして帰って作品にしようと試みたのだが、もうひとつ仕上がらなくてそのままになっている。
 今回出品したのは、ペドロの画廊に預けてあったセトゥーバルの絵とエストレモスの絵で、残念ながらアレンクエールの絵ではない。

 入口を入って趣のある階段を上がって、いざ展覧会場に入ろうとして「あっ」と驚いた。
 一番最初の一番目立つところに、なんと僕の二点の作品が並べて掛けてあったのだ。
 パリのル・サロンでも昨年は金メダルだったので、今回は入口に近い割といい場所に掛けてあったので、気を良くしていたところだが、アレンクエールでこれほどいい場所に飾られていたとは思っても見なかった。
 「こんなことなら次はもっといい作品を用意しておこう。」と張り切ってしまう。

 気を良くしてその日もアレンクエールをたくさんスケッチして帰った。
 一番高い所にある修道院のところまで登って、入口の古いアズレージョ(タイル絵)を見ていると、そこに通りかかった老人が「中にも入ってみなさい」と勧める。
 でも中にはいっぱい洗濯物が干してあるし、「人が住んでいるところにずかずかと入っていいのかなぁ」と躊躇しながらおそるおそる入ってみると、中にも古いいいアズレージョがたくさんあって、アズレージョ以外にも彫刻の施された柱廊や日時計のある壁とか、いつ頃の建物か解らないがかなり古いのは確かで、それだけで充分観光資源になるほどの建築物だと感じた。洗濯物さえなければだが…。
 でもそこは今は老人ホームとして使われている様子。

 その修道院から見ると、町の西側にもっと高い丘が見える。
 そこに新しい道と建物が出来ていて、そこからならもっと眺めが良さそうなので行ってみた。
 行ってみるとそこは消防署になっていた。なるほどここからなら町中が一望できる。
 その時のスケッチを今50号の絵にしている。
 また仕上がるかどうか解らないが、このアレンクエールの絵は次の二年後のビエンナーレ?ということになる。VIT

 

(この文は 2003 年 1 月号の『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバス VITの独り言』に載せた文ですが 2019 年 3 月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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005. ニース周辺の美術館巡り

2018-10-06 | 独言(ひとりごと)

 パリのル・サロンに 100号の絵を搬入して、始まるまでの 10日間を今年はニース周辺の美術館等を見て回った。

 かつてそして今もこのニース周辺のコートダジュールには多くの画家がアトリエを構えている。
 パリとは比べ物にならない、輝く明るい太陽が降りそそぐコートダジュールは光線を描く印象派以降特にフォービズムやキュビズムの画家たちにとっては堪らない環境だったに違いない。
 多くの作品をこの地で描き、そしてこの地に残している。
 もちろんこの地で描かれた名作の多くは世界中の美術館に散らばってはいるが、動かす事の出来ない、この地でしか観ることの出来ない作品が実に多い。

 リューマチで苦しんでいた、77歳のマチスが恐らく最後の力をふりしぼって、建物のデザインからステンドグラス、タイル絵、ドア、僧衣のデザインに到るまで、その全精力を傾けたであろうと思われる「ロザリオ礼拝堂」
 ステンドグラスには明るい黄色とブルー、タイル絵には白地に黒の線描きのみ、透かし彫りの懺悔の扉も白く塗られステンドグラスの黄色とブルー以外は殆ど無彩色の世界。
 色彩画家マチス最晩年の極限の色だろうか?壮絶な仕事を垣間見た思いである。

 ヴァロリス城礼拝堂のピカソ「戦争と平和」も物凄い迫力で観る者を圧倒する。
 小さな古い礼拝堂であるが、そのアーチになった壁と天井いっぱいに貼ったコンパネをキャンバスにたれ落ちた絵の具も生々しく、上から上から塗り重ねた線、そして面。
 ピカソの戦争への憎しみと平和への喜びが、まさに叩き付けられていると言った迫力の超名作と言える。

 礼拝堂ではもう一つ、マントン市役所礼拝堂の「ジャン・コクトー」がある。
 普段ジャン・コクトーを観る機会はあまりないが、いつもの線にパステルカラーが心地よい。
 これは現在も礼拝堂として使われている様子。
 ジャン・コクトーの壁画に包まれて結婚式が出来るマントンの若者は幸せだ。
 おなじ町の玉砂利のビーチに張り出した要塞は今ではジャン・コクトー美術館になっている。
 その入口の壁をそのビーチの小さな玉砂利でモザイクした、ジャン・コクトーもいかにもコクトーらしい。
 ビーチの玉砂利を踏みしめながらあの映画の構想を創り出していったのであろうか?

 モザイクはシャガールもヴァンスの教会やサン・ポールとニースの美術館に残している。

 そして教会のために描いた大作のかずかずがニースのシャガール美術館にある。
 おおよそ 500号くらいの青を基調に描かれた絵が 10点ばかり、赤を基調に描かれた 150号くらいの絵が5~6点。
 それに彫刻とステンドグラスといずれも聖書からモティーフを執ったものには違いないけれどシャガールが生まれ育った町とその時住んでいたヴァンスの町なども取り入れられていてシャガール特有の画面構成が楽しい。
 その他に聖書のための24点の挿絵。

 サン・ポール鷹ノ巣村の村はずれにはマーグ財団美術館がある。
 ブラックがモザイクした池には水がたたえられてあり、水を透して見るブラックの作品などここ以外のどこで観ることが出来るだろうか?
 そしてやはりブラックのステンドグラス。ミロの沢山のオブジェの庭。
 と常設展示の他にここではちょうどムーアの企画展が催されていて、まとめて沢山の作品を見ることが出来た。
 大きな木の作品。大作のためのエスキース的な小品。デッサンや油彩。
 それに自分の娘のために作ったおもちゃがほほえましく全くムーア的でいままで見慣れたブロンズの大作ばかりとは、ちょっとひと味違った大変充実した贅沢な展覧会で、観ることが出来て運が良かった。

 アンティーブからビオット行きのバスに乗り、運転手に教えられるままにその途中で降りて人通りの全く無い住宅街の道を不安を感じながらとことこと歩いていくと突然巨大な壁画が目に飛び込んでくる。レジェ美術館である。
 レジェ美術館の建物の二面に何メートルあるだろうか?
 とにかくでかいレリーフの壁画が作られていて、その前に立っていると明るい陽の光に包まれたような、なんだか幸せな気分になる。
 壁画の前に立ってみるだけではるばるやって来た甲斐があると言うものである。

 三岸節子が晩年アトリエを構えていたカーニュにはルノアールのアトリエも残されている。

 そのカーニュには地中海美術館と言うのがある。
 現在の町の中心地から急な狭い坂道をずり下がりそうになりながらどんどんと登ったグリマルディ城の中にその美術館はあった。
 坂の途中小学生の団体に勢い良く追い越されてしまったが、皆が水道の蛇口にかじりつき口をつけて水を飲んでいるところで今度はこちらが追い越して城には結局我々が先に到着した。
 まるでうさぎとカメの話の様にだ。
 美術館にはその小学生も後から入ってきた。
 が観覧者はそれ以外には居ない。
 一階はオリーヴオイルを造る古い装置などが展示されていて、先生はその説明を生徒達にしていた様だ。
 二階は 20世紀の地元出身現代画家「ヴァレーリ」の年代別展示と、狭い一室に「スージー・ソリドール」と言うその当時パリのキャバレーのトップスターだった
 一人の女性を色んな画家が描いた肖像画の部屋。
 三段掛け、四段掛けにされていて、うっかりすると見逃してしまいそうだが、そこにはローランサン、キスリング、バン・ドンゲン、デュフィ、コクトー、レムピカ、ピカビアそれにフジタの作品があった。全部で 40点もあっただろうか?
 同じ人物を色んな画家の手によって個性豊かに表現されているのはとても興味深い展示であった。

 今回の旅で最も期待していたところにニースのマチス美術館がある。
 彫刻。墨絵のデッサンの部屋。極初期の油彩。
 そして最晩年の壁いっぱいの切り絵とロザリオ礼拝堂のための模型。
 その他、モティーフにもなったテーブルや椅子。
 ついたてと緞帳(厚手のカーテンの様なもの)も残されていた。
 それに版画のための大掛かりな印刷機などもあった。
 マチス晩年の切り絵や版画が現在のグラフィックデザインに大きく影響を与えたのもうなずける。

 ニースには「ジュール・シェレ」と言う美術館もある。ジュール・シェレは 19世紀の画家。
 やはりグラフィックデザインに影響を残したロートレックの先駆的役割を果たした画家である。
 一階は古い宗教画イコン等も展示されているが、二階にはジュール・シェレの他にマリー・バシキルセフと言う女流画家の肖像画と自画像、その深い眼差しが素晴らしかった。
 そしてデュフィとヴァン・ドンゲンのそれぞれの部屋があり、いい作品が揃っていた。

 この旅では 10日間で 14もの美術館等を訪れたことになる。
 一ヶ所にかたまっているということはなくそれぞれが不便なところに散らばっていて行き着くのに結構苦労もした。
 歩きながら又バスに揺られながら、今観てきたばかりの作品を反芻してみるのに丁度良い距離ともいえる。

 その他にマチス、デュフィ、シャガールのお墓にも御参りすることも出来た。

 マチス美術館を出て、マチスとデュフィのお墓のある墓地はどっちの方向か?と探していたら、ディジー・ガレスピー通りと書かれた標識を見つけた。
 他にマイルス・デイヴィス通りとデューク・エリントン通りもあった。
 そして公園の中にはルイ・アームストロングとライオネル・ハンプトンのブロンズ胸像が建てられていた。
 マチス晩年の作品に「ジャズ」と名付けられたものがある。
 デュフィも音楽には造詣が深い。
 きっと今ごろは賑やかにやっているに違いない。

 印象派の画家たちはバルビゾンの柔らかな光線に出会い、、後期印象派のゴッホ、ゴーガン、セザンヌたちはもっと強いプロヴァンスの光を求め、そしてフォービズムやキュビズムの画家はコートダジュールの焼け付く太陽によって、お互いが激しく影響しあい、強烈な個性を発揮することになったのだと感じた。

 ルノアール、マチス、ピカソ、ブラック、デュフィ、シャガール、レジェ、ムーア、ミロ、そして現代美術のニキ・ド・サンファールに到ってもこのコートダジュールの太陽と無関係だとは思えない。

 二度ほど傘を使ったとはいえ、まあまあ天気にも恵まれ感動の連続であった。
 ポルトガルよりは少し寒いだろうと厚着をしていったものだから、かえって汗をかいてしまった。
 一昨年とその前に訪れたアルルやマルセーユ周辺よりも一ヶ月遅い11月なのにかえって暖かく感じたほどだ。
 パリとはかなり気温も違いやはり世界のリゾート地だ。
 それでもポルトガルよりは少し気温は低い筈なのだがニースのビーチでは海水浴を楽しんでいる人が何人も居た。
 若者だけではなく、決して若くはない人までもがである。
 これが11月中旬とは思えない。
 地中海の水は大西洋の水よりも温かいのにちがいない。たぶん。VIT

 

以下は旅の事前に作成した旅程表です。これはあくまで計画段階のもので、
実際には一部変更し、モナコやマントンなども追加しました。宿泊したホテルも実際のものとは一部異なります。

 

ニース旅程表

11/02(土)

リスボン07:40発

(AF2125)

パリ11:15着

パリ15:45発

(AF7706)

ニース17:20着

 

ニース泊

Hotel    Massenet

11 Rue Massenet

tel .04 93 87 11 31

fax. 04 93 16 08 69

11/03(日)

ニース

ニース近代現代美術館(ニース)(11:00~18:00)火休

Musee d’Art Moderne et d’Art Contemporain (Nice)

ニース泊

11/04(月)

ニース

マティス美術館(ニース)(10:00~17:00)火休

Musee Matisse (nice)

シャガール美術館(ニース)(10:00~17:00)火休

Musee National Message Biblique Marc Chagall (nice)

ニース泊

Hotel Lepante         

6,rue de Lepante

tel. 04 93 62 20 55

fax. 04 93 92 37 69

11/05(火)

ニース

サンポール

ヴァンス

マーグ財団美術館(サンポール)(10:00~12:30/14:30~18:00)無休

La Fondation Maeght (St-Paul)

ロザリオ礼拝堂(ヴァンス)(14:00~17:30)日祝休

Chapelle du Rosaire (Vence)

ヴァンス泊

Auberge des Seigneurs

Pl.du Frene

Tel .0493 58 04 24

Fax.0493 24 08 01

11/06(水)

ヴァンス

カーニュ

アンティーブ

 

アンティーブ泊

Hotel de Etoile        

2,av Gambetta

tel .04 93 34 26 30

fax .04 93 34 41 48

11/07(木)

アンティーブ

ビオット

ヴァロリス

アンティーブ

レジェ美術館(ビオット)(10:00~12:00/14:00~18:00)火休

Musee National Fernand Leger (Biot)

ピカソ美術館(ヴァロリス)(10:00~12:00/14:00~18:00)火休

Musee National Picasso (Vallauris)

アンティーブ泊

Le Relais du Postillon

8,rue Championnet

tel .04 93 34 20 77

fax .04 93 34 61 24

11/08(金)

アンティーブ

ピカソ美術館(アンティーブ)(10:00~12:00/14:00~18:00)月祝休

Musee Picasso,Chateau Grimaldi (Antibes)

アンティーブ泊

L’Auberge Provencale

61,pl.Nationale

tel .04 93 34 13 24

fax .04 93 34 89 88

11/09(土)

アンティーブ

ニース

ニース(ジュール・シェレ)美術館(10:00~12:00/14:00~18:00)月休

Musee des Beaux-Arts(Jules Cheret) (Nice)

ニース泊

11/10(日)

ニース13:10発

(AF7703)

パリ14:45着

ル・サロン(L’espace Auteuil/Porte d’Auteuil)

パリ泊

Hotel Excelsior

20,rue Cujas

tel .463 479 50

fax .435 487 10

11/11(月)

パリ13:00発

(AF1624)

リスボン14:35着

 

帰宅

 

 

(この文は 2002年12月号のサイト『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが 2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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004. 蜂蜜

2018-10-06 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルの蜂蜜はいい。と言う話をどこかで聞いたことがある。
 ポルトガル国内ではアラビダ山の蜂蜜が最も上質とされている。

 アラビダ山はポルトガルで最初に指定された国立公園でセトゥーバルの西側にあり、我家からもその頂上を望むことができる。
 その中腹にはアラビダ修道院があり、かつてはそこでも蜂蜜を作っていたのだろう。

 家から広場に出てまっすぐ西へ延びている道は「ルア・ノッサ・セニョーラ・ダ・アラビダ」と言う。
 ノッサセニョーラとはノートルダム(我らが母)つまりマリアさまを指す。
 なんだかありがたいような、恐れ多いような道である。
 両側は庭付きの家が並んでいて、ホウセンカ、矢車草、薔薇、ブーゲンビリアと様々な花が咲きみだれる。
 レモンの大きな木も何本かあって、一年中実がついている。花の時期にはいい香りがする。
 その道の突き当たりにロータリーがあり、それに面した一軒の家に「自家製蜂蜜あります」という張り紙がしてある。が残念ながらそこで買ったことはない。わざわざノックしてまで買うほどは我家では使わない。
 メルカドで買う。メルカドで売っているのも同じくアラビダの蜂蜜である。

 いつも同じ場所で売台の上に 300 グラム入りの小さいビンからインスタントコーヒーの空きびんに詰め替えた1リッター入りの大きなビンまで、様々な形の違うビン 30 個程をならべて商売をしている。
 普通の蜂蜜以外にも蜂の巣をそのまま切ってビンに入れたものや、花粉をビンに詰めた物なども一緒に並べてある。
 蜂蜜のビンにはそれぞれ花や木の名前がそまつに印刷されていて「ローズマリーとその他の花」等と書かれてある。
 そのお花畑の中に巣箱を持って行くのであろうが、なるほど花によって蜂蜜の味が違って当然と言えば当然なのかも知れない。
 そう言えば色というか濃さも違う。
 その中に「ユーカリとその他の花」と言うのもある。
 ユーカリの大木の林を通り過ぎる時はいい香りがする。
 ドライブをしていても閉め切った車内までその香りは漂ってくる。
 花は見た事はないが、きっとその花もいい香りなのだろう。
 セニョーラはユーカリの蜂蜜を勧める。

 メルカドで店を出しても、野菜や魚の様に次から次に売れるものでもないらしく、そこのセニョーラはいつも暇そうに手持ち無沙汰で前を通り過ぎる人々をただ眺めている。
 毎週日曜日どこかここかで開かれる露店市でも店を出しているがやはり暇そうである。

 我家は2人家族でそれ程は使わないのだが、最近は毎朝のヨーグルトに少しだけ垂らす。
 ヨーグルトは自家製である。
 自家製と言ってもただ牛乳を暖めて 50 度に冷やした中に市販のプレーンヨーグルトを混ぜ合わせ、魔法瓶で24時間程寝かせる。と言うだけのもの。
 これが場合によってはかなり酸っぱく出来上がってしまう。
 酸っぱい物は好きな方だがそのままでは胃が飛び上がって縮こまってしまう程酸っぱい。
 それで蜂蜜をほんの茶さじ半分ばかり垂らす。その程度使うだけでめったには買わないのだが、その蜂蜜売りのセニョーラとは顔見知りになっていて、いつもあいさつを交わす。

 日本からニラの種を仕入れてきてプランタで作っている。
 毎日の味噌汁の具になったり、お好み焼きやかきあげに入れたり、春巻きや餃子を作ったりといろいろと使いみちも多くて便利である。
 結構使っているつもりでも、2人では使いきれない程よく繁る。
 そして毎年、たくさんの白い可憐な花をつける。
 その花も天ぷらにしたりもする。
 ニラの葉と同じ味だが香ばしくて食卓に彩りを添える逸品になる。

 そのプランタのニラの花にミツバチがやってくる。

 アラビダ山の方からやってくるのだろうか?マリアさまの道を通って。

 ニラの花の香りは何と言うか、食欲をそそる臭いではある。
 だが決してユーカリの様に蜂蜜に向く匂いとは思えない。
 蜂蜜のラベルで言えば、その他の花には違いないが…

 さてアラビダブランドの蜂蜜、
 最上質の味が変化してしまいませんように!VIT

 

(この文は 2002年11月号の『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが 2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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003. 夕焼け

2018-10-06 | 独言(ひとりごと)

 ポルトガルの夕焼けは美しい。

 四月頃から一滴の雨も降らなかったポルトガルも、九月の中旬あたりからそろそろ雨期に入り、雲がではじめる。

 雨期のはじまりには、急に風が吹きだしたかと思うと、どこからやってくるのか、真っ黒い雲が沸きたち、にわかにバチャバチャと音をたてて雨が降りはじめる。
 粘土質の地面はたちまちにぬかるんでしまう。

 雨期と云っても日本の梅雨の様な雨量はなく、一週間降ったり止んだりがあったかと思うと、次の一週間は全く降らないと言った具合。

 でも夏の晴れと違うのは雲があること。
 そしてその雲が美しい。
 とりわけ夕陽に映える雲は筆舌では尽くせない。

 様々な紫、様々なピンク、様々な赤、様々なオレンジが、様々なグレーと混ざり合って刻々と表情を変えていく。
 遠くには昼の名残のトルコブルー、そして輝くプラチナの白。

 夕陽自身もその色を変えつつ、また幾分かたちも変えつつ、惜しげもなく瞬く間に沈んで行く。
 ときたまカモメの黒い影がさえぎり「ハッ」と我にかえる。
 絵を描いていてもその筆を置き、呆然と見いってしまう。

 ワインを片手にしたいところだ。
 それもできたら熟成された年代物のポルトワイン。
 ポルトワインの深い赤とその夕焼け色はぴったりとコーディネイトする。

 残念ながらそんな時はほんの一刻でしかない。
 短すぎる。でも短すぎるから又いいのかも知れない。

 ユーラシア大陸の西の果て、ポルトガルほど夕焼けの似合う国はない。
 もうそこには海しかない。出て行かざるをえなかったのか、やがて大航海時代がはじまり、ポルトガルに巨万の富をもたらすことになる。
 そんな過去の栄光を投影しているかの様な夕焼けにも思える。
 ポルトガルに「サウーデ」。

 美しすぎて絵にならないと言う事があるが、まさにそんなオウトブロ(十月)の至福のひと時である。VIT

 

(この文は 2002年10月号の『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが 2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

 

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002. 鳥かごとスピーカー

2018-10-06 | 独言(ひとりごと)

 セトゥーバル漁港の西のはずれに一軒のカフェがある。
 地域郵便局がその近くにあるので、手紙を出しに行った帰りなどに時々は寄ってコーヒーを飲む。
 郵便局にはいつも客が多くてたいてい30分程も並んで待たされる。
 足の悪い老人などは気の毒だ。
 せめて番号札を導入するとか、もう少し住人の立場に立った、きめ細かいサービスを考えてもらいたいものだ。
 ついついサービスの行き届いた日本の郵便局と比較してしまう。
 今後、日本の郵便局は民営化して果たしてどう変わってゆくのだろうか。

 気晴らしに今日もそのカフェに立ち寄った。
 テラスがあってそのテラスから港を見ながらコーヒーを飲むのは気持ちがいい。
 がそのテラスで以前カモメから糞を引っかけられたことがある。
 今日はしっかりとパラソルで隠れるところに席を確保したから大丈夫だ。

 カフェの向かいには漁師が網などをなおしておく漁師小屋が立ち並んでいる。
 客の殆どは漁師である。
 狭いカウンターに寄りかかって2~3人の漁師がバガッソ(ワインの絞り粕で作った焼酎)などを飲んでいる。
 まだ午前中だと言うのに。
 カウンターの中では美人の女将さんが一人で忙しく働いている。
 コーヒーは当然ながらセルフサービスで自分でテラスまで運ぶ。

 見晴らしが良くて気持ちの良い筈のテラスが今日はやたらとうるさい。
 ふと見ると小さなスピーカーがテラスに向けて取り付けてあってラジオを流している。
 音が悪いので雑音以外のなにものでもない。
 サービスのつもりだろうが、これはよろしくない。即刻取り外してもらいたいくらいだ。
 以前の様にポンポン船の音、カモメの声、風の音。波の音。それだけのほうがよっぽどいい。

 その小さなスピーカーのすぐ隣に鳥かごがやはり壁に取り付けてある。
 中にはカナリアが一羽いる。
 このカナリア、これだけの騒音と隣りあわせでは、気が狂ってしまうのではないかと心配してしまう。
 やがてラジオはロックに変わった。ロッド・スチュアートに似ているが誰だろう?誰かの新曲だろうか?
 いや待てよ、ブライアン・アダムスか?ブライアン・アダムスの新曲か?

 耳を澄ましてよく聴いてみると、カナリアが一緒に歌っているではないか。
 しかもブライアン・アダムスらしいのとハモッテいる。
 息はぴったり。リズム感もバッチリ!
 「いやー。まいった!」

 こんなことなら、このカナリアの歌、時々は…いや毎日でも聴きに来たいものである。
 郵便局に行く楽しみが一つできた。

 鳥かごとスピーカーそのままに、そのままに! VIT

 

(この文は 2002年9月号の『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが 2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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001. 鉛筆削り

2018-10-06 | 独言(ひとりごと)

 毎年日本から3~4ダースの鉛筆を仕入れてくる。

 ポルトガルにも専門店にでも行けばいい鉛筆をみつけることはできるのだろうが、別段そういうこともしない。

 ポルトガルのスーパーや露店市にも売ってはいるが、そういうところにはろくな鉛筆がない。

 日本から持ってくると言っても特別なものでもない。

 宮崎の量販店で売られている、あの昔から慣れ親しんだ、深緑色にくっきりと金色のマークと文字の入った「三菱鉛筆9800」というごく普通の鉛筆である。

 HBとBと2Bを1ダースづつ程度。それ程重くもならないし、かさばることもない。

 鉛筆で手紙を書くと失礼になる。と聞いたことがあるが、僕は鉛筆の方がいい。ボールペンはどうも苦手だ。

 鉛筆を毎年それだけ消費するのは、もちろんスケッチに使うからである。

 2Bより濃い4B,5B,6Bも少しは持ってくる。

 使い分けをしようといろんな濃さを持ってくるのだがいざ描きはじめると、BならB,2Bなら2Bで始めから終わりまでやってしまうことが多い。要するに何でもいいのだ。

 スケッチに出かける時は10本位のきれいに削った鉛筆を持って出る。

 鉛筆にはキャップを付けている。もちろんカッターナイフも小さいのを入れている。10本あれば途中で削ることはあまりない。宿であるいは帰宅してから削ればよい。

 最近の子供は鉛筆を削るのが下手だと聞いた。電動の鉛筆削り器を与えられているのだから、下手は当然と言えば当然の事かも知れない。

 僕は子供の頃から鉛筆削りだけは巧かった。また鉛筆を削るのが好きでもあった。それは今も続いている。絵を描くのに飽きたりするとアトリエの隅っこで鉛筆削りを始めたりする。必要な本数以上を削ったりしてしまう。趣味?とまでは言わないが変なところに好みがある。

 中学2年の時だった。僕の隣の席に知恵おくれの女生徒が座った。普通なら養護学級で勉強するところであるが、ご両親の希望で普通のクラスで学んでいた。授業の内容は全く理解できなくて、たまたま事情を知らない新任の教師などが来られて当てられたりすると、真っ赤な顔をして「わかりません」と大きな声で答える、元気で明るいそしてクラスメートからも人気のある女生徒でもあった。

 その彼女には特技があった。鉛筆削りである。僕はそれまで鉛筆削りは得意だと思っていたが、彼女の方が遥かに巧かった。そして休み時間には自分の鉛筆以外にも僕や周りのみんなの筆箱の中までもきれいにやっておいてくれるのである。もちろん頼んだわけではない。

 彼女とクラスが別れた後、僕は鉛筆削りがますます好きになっていた。

 そしてますます上手にもなっていた。彼女からそのコツをしらずしらず学んでいたのだと思う。

 鉛筆削りと簡単に言うが極めるには奥が深い。なにしろ天然木が相手である。一本一本微妙に違う。削り始めると面白い。だからなのか今、鉛筆を大量に消費できる喜びを感じている。

 筆箱の中が整頓されていつも鉛筆がきれいにそろえられているといっても残念ながら字がきれいになるとは限ったことではない。また、残念ながらスケッチが上手になるとも限らない。VIT

 

(この文は 2002年7月号の『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが 2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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157. 温泉地クーリア及びレイタオン街道旅日記 Termas e Leitões

2018-10-01 | 独言(ひとりごと)

 9月下旬、セトゥーバルには39℃という、火災のリスク、黄色信号が出ていた。エアコンのない我が家を避けて、旅に出ることにした。クルマのエアコンはこの夏修理したばかりだし、ホテルはエアコンが効いている。

 2018年9月24日(月曜日)晴れ。猛暑日。

 7:00起床。朝食を済ませ、8:50出発。通勤ラッシュ。

 パルメラのジュンボGSで満タン。14,19Ltx1,549=21,98€。

 いつも通り一般道を走りピニャル・ノヴォ、モンティージョを通過してヴァスコ・ダ・ガマ橋の通行料金2,80€を支払い、サービスエリアで休憩。コーヒーx2=1,40€。「コンチネンテのカードをお持ちですか?」と聞くのでカードを示すと「5ユーロのチャージがありますのでそれを使いますか?」と言う。最近このサービスエリアのカフェテラスは『バーガーキング』になりコンチネンテと提携しているのだ。「いや、別に払います」と言って普通に支払いコーヒーを飲む。以前とは違ってバーガーキングになってからは随分とお客が多い。

 ヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡って、渡りながらA1で行くか、A8で行くか?どちらでも良かったのだが、猛暑だし海側の高速道の方が涼しいかなと思い急遽A8に乗る。ロウレスからボンバラルまでの高速料金=4,85€。以前A8は無料だったのだが、全国の高速道有料化が進んでいる。

 途中無料のところを走るがその間にオビドスがあるので一旦高速道を降りひと歩き。駐車料金=1€。物凄い人。人、人、人。ヨーロッパ人、中国人、それに日本人の団体も。日本人添乗員の女性が「暑いので陰のこの門の中で皆様をお待ちしましょう」などという声が聞こえた。

 30分ほどだけ歩き、1987年の冬だったか、未だポルトガルに住み始める前の旅行でMUZが風邪をこじらせてしまい、オビドスのお医者さんから移動禁止を言い渡され1週間滞在。僕はイーゼルを立て油彩を何点か描いたポルトガル原点の町だ。その時は勿論冬だったせいもあるが、観光客など全く居なかった。もう31年も昔の話になってしまった。その時の民宿のあたりをスケッチ。毎朝、朝食のパンを買いに走ったパン屋も今では土産物屋に代わっている。

 再び高速道A8に乗り、ナザレ近くのサービスエリアで昼食。バカラウのタマネギ煮込み=9,95€。レイタオンサンド=8,95€。ノンアルコールビール=2,25x2=4,50€。合計=23,40€。明日はレイタオン街道で昼食を予定の為予行演習でレイタオンサンド。でもこれは旨くない。

 オビドスからA8と別の高速道に乗り継ぎミラで降りる。高速道料金=12,50€。N1からクーリアに入ったところに鉄道駅。撮影。

 クーリアに着いたらすぐにホテルは判ると思っていたが、よく似た建物、パレスホテルか何かの門のところで「ここかな~」などと思って眺めていたら入り口付近に居た男が声をかけてきて「ホテル・テルマス・ダ・クーリアならずっと先の方だよ。」と言って自信をもって詳しく道順を教えてくれた。行ってみたがおかしいと思い引き返す。パレスホテルまで戻り、そのすぐ前のロータリーのところに半分閉まった門があり、そこの門番の少年に尋ねると「ここです」といいながら門を開けてくれた。

 テルマス・ダ・クーリアのホテルにチェックイン。ビジネスホテルとは違って温泉ホテルだから相当前もって予約をする人が多いのだろう。僕たちは昨日予約したばかりだからフロント係の人は予想していなかったのかも知れない。「予約は何時しましたか?」「予約は昨日」といったら「あっ、ありました~」と言ってようやく部屋のカードをくれる。

 部屋に荷物を下ろし、水などを冷蔵庫に入れ、テルマス(温泉)の広い庭というか、森を散策。やはりあまり咲いてはいない。大きな池の周りを庭が取り囲むかたちで湿度は高い。一回りして庭園にあるカフェテラスで休憩。ビールx1。カリッポ(アイスキャンデー・レモン)x1。合計=2€。真夏の暑さなのに庭園樹は紅葉している。

 夕食用のつまみを『ミニプレソ』に買い出し。その前にもうひとつ駅を撮影。買い物はルーソーのアグア・コン・フルータ1Lt=1,49€。TUCクラッカー100g=0,99€。スライス・サラミ120g=1€。梨582gx0,99=0,58€。合計=4,06€。梨は小さいもので安かったが旨かった。

 風呂に入り、映画を観ながら寝る。

 キーラ・ナイトレイとジュード・ローの『アンナ・カレーニナ』とアンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップの『ツーリスト』

 2018年9月25日(火曜日)晴れ。更に猛暑日。

 7:00起床。朝食サロンは7:30からだと聞いていたが、7:50に行くとお客は誰も居ない。係の人が「どこでもお好きなところに」というので、真ん中に座ったが、テーブルセッティングはたくさんしてある。お客は多いのだろうが、こういったホテルでは皆遅くに朝食を摂るのだろう。朝食の内容はまあまあ上等。たっぷりと食べたっぷりと飲む。途中から3組6人のお客。

 9:00から森を散策。広大な庭園だがルーソーのブサコの森とは違って平坦なために歩きやすい。でも今の時期、殆ど何も咲いていない。春、花の時期にももう一度来てみたいと思った。

 キク科の萼片に特徴のある黄色花はたぶん初見花。他にも小さな初見花か?それと2本だけだが白いイグチ系キノコ。ずっしりと重く、たぶん食べられるキノコだがそのまま撮影だけ。

 昨日入ったカフェテラスでコーヒーX2=1,20€。朝にたっぷり食べたのでお昼は遅い目にレイタオンのレストランへ。

 クーリアの南隣町メアリャーダを中心とする国道1号線沿いはレイタオン街道とも呼ばれ大小多くのレイタオン(子豚の丸焼き)専門レストランが並び、しのぎを削っている。その中の2番人気の『レイ・ド・レイタオン』に入るつもりだったが、あいにく定休日。

焼き立てのレイタオンを抱えたシェフのアズレージョ

 もう3度目になる1番人気の『ピクニック』に入る。レイタオン(子豚の丸焼き)2人前=24€。ポテトフライ=2€。ミックスサラダ=2€。ノンアルコールビールx1=1,60€。エスプマンテ(シャンペン)375mlx1=4€(エスプマンテもこの地域の名産)。フルーツサラダx2=2€。デスカフェイナードx2=1,40€。合計=37,00€。チップ=2€。食後、ルーソーを一回り。ルーソー駅を撮影。

 クーリアに戻り庭園内にあるフォンテ見学。老人たちが温泉水を白衣を着た係の人から汲んでもらって飲んだりしている。食後、3時間は飲まれないらしい。かつて北の温泉地シャーベスで見た施設によく似ている。

 3泊目をどうしようかと考えていたが、やはりエストレラ山に行くことにする。が、どうなるか判らないので未だホテル予約はしない。コビリャンに着いてからでも良いだろう。

 早めに風呂に入り、部屋でワインとつまみ。寝ながらテレビの映画も観たが覚えていない。

 2018年9月26日(水曜日)晴れ一時雨。きょうも猛暑日。

 7:00起床。7:50朝食サロンには1組のカップルが座っていたが、入り口には未だ鍵がかかっていた。別の入口から入ったのだろう。バスが停まっていると思っていたら、途中から20人程の団体客が朝食。ファーロから市役所のバス。今朝もたっぷりと食べ、たっぷりと飲む。

 9:00ホテルのチェックアウト。102€(2泊朝食込み)。出発。

 昨年も来たダオンで駅の取材。昨年は駅のあることを知らなかったので…。

 ダオンのPRIO/GSでガソリンを満タン。26,48Ltx1,579=41,81€。

 駅の標識がその先にあったので行ってみたがどうも違うと思い引き返し、途中、道路工事の交通整理をしていた小父さんに尋ねると詳しく教えてくれたがどうも複雑な様だ。肝心なところで標識が出ていないから判らなくなるのだ。一旦、IC12に入らなければならないのだがそこに標識が出ていない。その次からは標識がありようやく見つけることが出来、ダオン駅を撮影。満タンにしたガソリンスタンドの前を3度も行ったり来たり。

 ダオンからオリベイラ・ダ・ホスピタルを通過しセイアに行き、エストレラ山に入るつもりだがその道、国道234号線への標識が見つからない。こんどはダオン駅の前を3度も行ったり来たり。結局IC12に入りネラスまで行き、セイアに入る方が判りやすくて良いと思いIC12でネラスまで。IC12は無料の半高速道路だ。

 家に帰ってから考えてみたのだが、スマホを持っているのだからスマホのマップを見るとかすれば迷うこともなかったのだろうと思う。どうもスマホを使いこなせていない。

 ネラスで「駅はこちら」の標識があったので行く。ネラス駅を撮影。

 駅前の食堂で昼食。赤魚の姿煮。ポテトフライ。ミックスサラダ。豚肉の炭火焼きに豆ライス。ミックスサラダ。ミネラルウォーター1,5Lt。デスタフェイナードx2。合計=12€。安すぎるのにびっくり。

 その食堂のテーブルでスマホからコビリャンの『ホテル・サンタ・エウフェミア』を予約。昨日予約より当日予約の方が2€安くなっていた。でも今年はどこも高止まりだ。

 セイアからエストレラ山は何度も通っている慣れた道だ。このあたりでも山火事の跡は痛々しい。焼けたユーカリからは猛烈に新葉を出している。驚異の樹木だ。やはり山野草は殆ど咲いてはいない。

 あちこちで メレンデラ・モンタナ Merendera montana が咲いている。以前にも素晴らしい群生の撮影が出来ているのでそれほど必要はないのだが、今年は今年として撮っておいても良いかなと思ったが、以前の群生地を通過するころに大粒の雨。ところどころで観察を試みたがいつ降りだすとも知れない雲行き。

 コビリャンの『ホテル・サンタ・エウフェミア』に着いたのが17:00。駐車場は空いていた。フロントはいつも歓迎してくれる顔見知りの小父さん。支払=52€(1泊朝食込み)。夜に部屋から駐車場を見てみると満車。他のお客は遅くに着いた様だ。テレビの映画を観ながら寝たが、やはり映画は覚えていない。

 2018年9月27日(木曜日)晴れ時々曇り。きょうも猛暑日。

 7:00起床。7:40朝食サロンに行くと既に大勢の人。このホテルはいつも流行っている。朝食係が女性に代わっていた。たっぷりと食べ、たっぷりと飲む。

 9:00出発。コビリャオンとフンダオンの中間地点の国道沿いに、セレージャ(サクランボ)の季節には特設のセレージャ市が建つ。その筋向いにもレイタオン専門レストランがあり、いつも流行っていて、一度入ってみたがメアリャーダのレイタオン街道1番人気の『ピクニック』にも引けをとらないくらい旨い店だ。

 フンダオンをすり抜け、アルコンゴスタに寄って少しスケッチ。今までも2度訪れている村だがいつもセレージャ(サクランボ)祭りの時なので、何でもない静かな時にスケッチに一度寄ってみたかったのだ。

 朝食をたっぷり食べたので、あまりお腹も空いていないし少し早かったが、今まで入ったことのないレストランで昼食。通るたびによくクルマが停まっていてMUZが一度入ってみたいと思っていたと言う、ラルド―サのロータリー前食堂。ペスカダフリット、トマトライス、ミックスサラダ、炭火焼きミックスミート盛り合わせ(エントレコスタ、エントレメアーダ、鶏モモ、ソーセージ)、ポテトフライ、ミネラルウォーター1,5Lt、フルーツサラダx2、デスタフェイナードx2、合計=17€。さすがクルマが多く停まっているだけあって、ここも安くて旨い。昼食にはたいていノンアルコールビールを注文することが多いのだが、暑すぎるのでミネラルウォーターの1,5リッター。それを2人で殆ど飲んでしまう。

 カステロ・ブランコのジュンボGSで満タン。15,60Ltx1,490=23,24€。

 カステロ・ブランコからヴィラ・ヴェーリャデ・ロダオンを通り抜け、ニーサで休憩。コーヒーx1、カリッポ(レモン)x1=2€。以前にも何度もスケッチをしているが旧市街を少しスケッチ。やはり暑い。

 ニーサから山越えでポルトアレグレ。

 いつもならポルトアレグレからIP2に入るところだがその手前でIP13というのに入り、クラート、ポント・デ・ソール、モンテモール・オ・ノヴォのルートで帰ることにする。IP13の素晴らしいこと。いつこんな立派な道が出来たのだろうか?130キロは軽く出てしまう。久しぶりにクラートでも少しスケッチ。

 IP13まで戻りポント・デ・ソールを目指すが急に道が狭くなったりして未だIP13は完全とは言えない。やはりこのルートは時間がかかる。

 野の花も咲いていないし、鉄道駅もない。退屈な運転だ。もうだいぶ前からヘッドライトを点けている。遠くで真っ黒な雲、真っ黒な雲が太陽を隠していて、雲のアウトラインが金色に輝いている。珍しい現象だ。

 ヴェンダス・ノヴァスに着いたら『ビッファナス』で休憩をするつもりだったが、その前に、明朝食のパンとバナナが切れているのでヴェンダス・ノヴァスの『リードゥル』に寄り買い物。

 ピッザ・カルボナーラ400g=1,99-0,20=1,79€。100%ナチュラル・ローマ(ザクロ)のジュース750ml=1,29€。100%ナチュラル・レモネード750ml=0,99€。バナナ945gx1,05=0,99€。リンゴ(ガラ)800g=0,99€。パン(トリゴ・ダ・アヴォ)400g=0,59€。合計=6,64€。

 リードゥルで買った、冷えたレモネードとザクロのジュースを飲み一息入れ『ビッファナス』には寄らないで一気に帰宅。

 帰り着いたのが21:15。旅で撮った写真をパソコンに挿入、風呂場に置いていたセントポーリアを片付け、風呂に入ってテレビも観ないでぐっすりと眠る。

 帰って翌夜、7輪の『月下美人』が我が家のベランダで見事に咲く。

 月下美人を眺めながら腹を摩る。少し太った様だ。VIT

 

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