武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

150. 加藤正雄が送ってくれた本

2017-11-30 | 独言(ひとりごと)

『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』加藤正雄著

 昨日『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』を読了した。読了したからといって取り立てて書くこともないのだが、この本は特別だ。もう15年も前になるか?加藤正雄が送ってくれた本だからだ。

 送ってくれた当初は外国人が日本のことを報告した本と言うのに殆ど興味がなかった。さ~っと一通りは目を通したもののそのまま放っておいた。当時は未だポルトガルに来てそれ程は経っていなかったからか、日本のことよりもポルトガルやヨーロッパのことに興味があったのは致し方のないことだろう。

 『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』は明治時代イギリス人が本国イギリスの新聞社宛にレポートをするために書いた日記である。また、ゴードン・スミスは大英博物館へ日本で採取した、哺乳動物、魚類、貝類などを標本として送ることもしていた。丁度日露戦争の時代、日本と英国は同盟国で日本は活気の漲る時代でもあった。日記は8冊にも及ぶが、イギリス本国で忘れ去られた存在になっていた。それが最近になって発見され、日本人の翻訳で1993年に出版された本である。勿論、当時、100年以上も昔のイギリスでは出版されてはいるのだが、当時のイギリス人が興味の対象とする部分と現代の日本人とでは興味の対象となるところは違う。

 加藤正雄が亡くなったという知らせは呉城さんからのメールで知った。2017年9月2日のことであった。今年2017年4月のNACKシニア展が僕にとっては最後になってしまった。

 NACKシニア展には藤井満先生の賛助出品が不可欠だと僕は主張していた。その作品をお借りするために奈良のご自宅に伺ったのだが、加藤正雄を誘った。加藤正雄は快く一緒に行ってくれた。と言うより、誘ったことを喜んでいたのは間違いがない。

 加藤正雄は数年も前から自宅でお母さんの介護をしていた。いろいろと聞かされていたが、大変そうで、良くやっているな。と思って感心もしていた。

 そして少し前にお母さんが倒れられ、救急車で病院に運ばれ、そのまま、病院の隣にある老人ホームに入所された。という話を聞いていた。毎日、必ず、見舞いに行くそうである。老人ホームは完全介護だから、見舞いに行っても、顔を見て話しをするだけで、介護の心配はいらない。自宅で介護していた時より、老人ホームに入られてからの方がお元気になられた様で、お母さんはその都度「何しに来た」と毒付かれるそうで、それを加藤正雄は嬉しそうに苦笑いをしながら話してくれていた。

 今までよく頑張って、手を離れたわけだから、楽になれて良かったなと僕などは思っていた。以前なら「介護があるから」と何処にも誘うことは出来なかったし、NACKシニア展の当番も他の人で賄いは付くので無理には来なくて良い様に皆で図らっていた。と言っても展覧会の当番は時間を拘束されるかも知れないが、楽しいものである。そして励みにもなるので、そのために催っていると言っても過言ではないのかも知れない。

 今年はお母さんが老人ホームに入られ介護はしなくてよくなったから皆がする程度の当番ならしても良さそうに思えたが、以前と同じように殆ど出席はしなかった。何故かは判らない。介護で気が張っていたのが急に不必要になり、気が抜けたとは考えられるが、何か以前の元気はなかった。

 加藤正雄はNACKシニア展の世話役をしてくれていた。発起人の一人だし、最初は六車隆一さんと一緒に世話人をしてくれていたが、六車隆一さんが亡くなってしまってからは一人でするしかなかったのだろう。僕は海外で出来ないし、あとは皆、先輩ばかりでやはり一番若い加藤正雄がするしかないのは皆の暗黙の了解でもあったのだろう。それは介護をしながらでもそれ程負担もなくすることは出来たのだと思う。

 今年のNACKシニア展の搬出日。加藤正雄は先輩、呉城さんのクルマで一緒にやってきた。それは毎回同じで不思議ではない。加藤正雄と呉城さんは同じ堺市でそう遠くはないのだろう。僕は呉城さんのお宅には伺ったことはないので判らないが。

 その搬出の日、藤井満先生の作品を宅配便で送り返すためにマサゴ画廊近くのコンビニまで加藤正雄と一緒に行った。送料を会費から支払うためでもあった。

 搬出は素早く済ませることができた。僕には兄が軽トラで迎えに来てくれていたので、「お先に」と言って先に帰った。田中さんも吉田さんもそれぞれの片付けが終わった順に別々に帰った。加藤正雄も作品の梱包は素早くできていたのだと思う。呉城さんのクルマに乗せるだけである。慌ただしい時であったが、それが加藤正雄とは最後になった。

 ポルトガルに戻って、例年ならすぐにでも加藤正雄は手紙をくれる。何も別に用事がない時は加藤正雄が先に手紙をくれて僕が返事を返すというのが通例であった。加藤正雄の手紙はいつも新聞の折り込みチラシ片面印刷の裏に乱雑に書きなぐった手紙だ。どこから読んでも構わない内容だから良いのだが、航空郵便の送料を考えると、もっと薄手の紙に小さな字で書いた方が安上がりな訳であるが、そういったことには頓着しない。チラシの表の広告も楽しめると思っているのかも知れないが、最近はパチンコ屋の広告などが多く楽しむまではいかない。そんな手紙が今年は全くなかった。加藤正雄はインターネットをしないから僕が海外に居る時には郵便が唯一の連絡手段だ。

 9月になり9月号のブログと『セトゥーバルだより』を配信した後、そろそろ加藤正雄に手紙でも書こうかなと思っていた。

 そんな矢先、呉城さんからメールが届いた。それには『加藤正雄に出した郵便も届いていない様だし、電話も通じない。だから加藤正雄の自宅まで行ってみた。』そうである。そうするとご近所の話で、「1か月ほど前、自宅前で倒れて、救急車で病院へ、そのまま帰らぬ人になってしまった。」とのことで、その日のうちに僕にメールをくれたものである。それが9月2日であった。

 加藤正雄は高校の美術部の同級生で1年生からずっと一緒だった。同じクラスになったことはなかったが、15クラスほどある中でいつも隣あたりのクラスにいた。美術部には僕たちの学年は多かった。上級生の3年生は3人。実質来ている人は加賀谷さんの1人だけ。2年生は新井、六車、田中、村上さんの4人。1年生の僕たちは、上久保、柴村、小笠原、山根、辻、福岡、波多野、摺出寺、米谷、そして加藤正雄と僕。その他にも早くに辞めた人も2~3人は居たので10人以上は居た。1学年下はまた市村、野木井、相野の3人だけであった。

 高校のクラブ活動は運動部ではないけれど、何か一致団結して事に当たる。という気風が漲っていた。写生にも一緒に行くし、展覧会は他校との交流試合の様な気持ちで臨んだものだ。ところが加藤正雄だけは違った。美術部の皆とは一緒に行動はしない。スケッチにも一人で行くし、展覧会にも出さない時が多かった。合宿には参加しない。それでも一人で黙々と絵を描いている。それが加藤正雄であった。でもそれが個性を大切にする本来の絵描きの姿なのだ。と後になって皆が気付いたのかも知れない。

 卒業してから僕などは高校へは全く行かなかったのだが、加藤正雄は現役時代とは打って変わって、高校美術部に顔を出すようになっていた。そして顧問の藤井満先生、後輩、先輩、皆の橋渡し役になっていた。

 僕たち美術部出身者は美術大学に進学する人が多かった。武蔵野美術大学、多摩美術大学、そして大阪芸術大学、あるいはデザイナー学園など。でも加藤正雄は近畿大学政経学部である。

 大学を卒業してからは藤井満先生の紹介でテキスタイルデザインの工房に入った。ちょうどその頃、僕は大阪芸術大学に行きながら高石事務所、後の音楽舎、別名アート音楽出版、別名URCレコード(株)でアートディレクターとして働いていた。月刊誌『フォークリポート』のレイアウトなどもする。僕も表紙やイラストを描いたが、加藤正雄にも毎月1枚のイラストを描いてもらっていた。加藤正雄の工房と近かったらしいから、しょっちゅう僕の事務所に遊びに来ていた。

 僕はアート音楽出版でアートディレクターとして働いていたが、結婚してヨーロッパに行く準備も進めていて、その頃には布忍というところのぼろの長屋にMUZと暮らしていた。そこにも加藤正雄はしょっちゅう遊びに来ていた。大和川を越えた大阪の郊外と言った場所だが加藤正雄の住む堺市とは直線距離でほんの近くだったのだろうと思う。電車でなら一旦天王寺まで出て長3角形の2辺を行くので随分と時間もかかるが、自転車ならすぐの距離の筈だ。土曜日の夜などは必ず決まって自転車でやってきた。我が家で一緒にテレビの『トム・ジョーンズ・ショー』を観るためである。加藤正雄も僕もMUZもトム・ジョーンズが好きな訳ではなかった。その歌と仕草に滑稽さを見出して殊更大喜びをするためであった。

 加藤正雄の工房は『安藤テキスタイル工房』と言った。安藤さんは藤井満先生と確か同期の人で僕も何度かお会いしたが、気さくでとても柔和な人でテキスタイルデザインの仕事以外にプロの狂言師でもあった。その頃は入場券を頂いてよく能、狂言を鑑賞させてもらいに出かけた。

 ところが加藤正雄はテキスタイルデザインでは満足ではなかった。イラストレーターになりたいと夢を持っていた。実はフランスの画家にはテキスタイルデザイン出身の画家がかなりいる。ルノワールもそうだし、マチスもそうだ。確かデュフィもそうだ。画家としての基礎がテキスタイルデザインの中にあるのだと思う。でも加藤正雄は安藤テキスタイル工房を辞めた。

 僕はストックホルムに住んだ。加藤正雄はよく手紙をくれた。僕も返事を書いた。手紙には書き易い相手と書き辛い相手がいるが、加藤正雄ほど書き易い相手はない。要するに、いわゆる乱筆乱文で一向に構わないのだ。お互いに気にしないからだと思う。加藤正雄に出した手紙は藤井先生に渡り編集され『NACK機関紙』に掲載されたこともあった。

 その頃か加藤正雄は『月刊プレイボーイ』のイラストの仕事にありついていた。イラストレーターとしての夢は叶いつつあったのだと思う。でも東京での一人暮らしに耐えられなくなったのか、大阪の実家にすぐに舞い戻っていた。

 暫くして加藤正雄はストックホルムにやって来た。僕はそろそろニューヨークへ行こうと思っていた頃で、ストックホルム大学も終わり、アルバイトに専念していた頃だったと思う。加藤正雄にもアルバイトを勧めた。でもあまり気乗りはしていなかった様だ。

 毎早朝にはフィンランド人、スウェーデン人と少林寺拳法の練習をしていたのだが、加藤正雄にも参加させた。まるで高校のクラブ活動を引きずっていた感があったのかも知れない。加藤正雄は「僕はやるのならボクシングの方がやりたい。」と言っていたくらいだから、少林寺拳法もあまり気乗りではなかったのだろう。

 そして僕はヨーロッパの最後にスカンジナビア半島最北への旅を計画していたのだが、加藤正雄も誘った。オスロまでは一緒に行ったがそれより北へは行きたがらなくなって、一人ストックホルムのマンションに戻った。僕たちが戻るまで待っているものと思っていたが、戻った時には加藤正雄は日本へ帰ってしまって居なかった。

 虫の知らせがあったのかも知れない。日本に戻って生死を分ける大病をした。手術は巧く行きその後は元気を取り戻していた。

 僕たちはニューヨークで1年暮らした後1年を南米旅行にでかけた。日本を発って6年後に日本に戻りMUZの故郷の宮崎で飲食店をすることになった。

 そこにも2度ほど加藤正雄は遊びに来た。いや、僕たちが住む高城町のすぐ傍に加藤正雄がデザインを請け負っていたゴム関係の会社があってそれの出張で来たと言っていたのだが、僕たちの店に入り浸ってレコードを掛けたり、おしぼりを巻く手伝いをしたりしてとても会社の出張とは思えなかった。

 高校美術部のOB展が1971年から続いていた。僕も宮崎から帰省のついでにと思い毎回参加した。加藤正雄はもちろん殆ど皆勤賞で参加していた。

 大阪に戻ってからの加藤正雄の仕事はイラストレーターではなく、地味な堅いところのパンフレットなどのグラフィックデザインの仕事が多かった様で、ようやく喰える程度の仕事だったのだろうと思う。

 僕が宮崎を引き上げてポルトガルに移住した頃からだと思うが、加藤正雄はスケッチにのめり込んでいった。僕などから見れば到底絵にならないところだと思うのだが、地元堺や大阪の臨海工業地帯などを好んで描き始めた。加藤正雄の自宅から自転車で行くことができる範囲なのだが、6号サイズのスケッチブックを見開きにワイドにして描く。

 それは絵にならないどころか加藤正雄は面白い絵にしてしまう。そこにも強烈な個性が窺い知ることができる。イーゼルは使わない。地べたにスケッチブックを置くか、適当な台、例えば橋の欄干とか、などに直接べたっと置いて描き進める。したがって鉛筆の線は力強い。初日は鉛筆だけだそうで、2回目、3回目に彩色を施すと言っていたから、何日も掛って1枚のスケッチを仕上げるのだろう。

 僕などは油彩のエスキースとしてスケッチを描くけれど、加藤正雄のスケッチはそのものが個性溢れる作品なのだ。

 それは後に『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』という本になった。スケッチに飽きたりするとその裏面に、その時の気持ちなどを綴る。落書き的な日記と言えるのかも知れないが、それが面白い。ジャズのこと、その時に出会った人のことなど、本にはその裏面の記述なども印刷されてやはりユニークな本が出来上がっている。

スケッチの裏面。

 高校の同窓会展NACK展には初めは独自の抽象的な油彩を出品していたが、NACKシニア展が始まった、6~7年前からは、スケッチの出品であった。「油彩の道具は他人にあげてしまった。」と言っていた。

 スケッチブックから1枚ずつ外すのは嫌がって展覧会に出品する作品も額縁の中にスケッチブックが1冊丸ごと入ったものでかなりの重量があった。NACKシニア展などにはいつも3点の出品だったが、額縁の中には何十枚かのスケッチが隠されていたことになる。そんなスケッチブックが何冊存在するのか僕は知らない。何年も描き続けていたから恐らく相当の冊数に上るのであろう。

 加藤正雄が亡くなったという知らせを受けて、僕は呆然としている。未だ信じられない気持だ。その2年前、六車隆一さんが亡くなって、その気持ちの整理がつかないまま、相次いで加藤正雄を失ってしまったことになってしまった。

 そして加藤正雄からの膨大な手紙を読み返している。

スケッチの裏面。

 そうして加藤正雄が送ってくれた『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』を読み始めたのだ。今回は小さい文字の注釈なども丁寧に読んだし、ゆっくりと加藤正雄のことを想いながら読みすすめた。読み始めた途中から、加藤正雄は僕に「お前も日記を公開しろ!」と言っている様な気がし始めたのだ。僕の日記は絵のことについては多分に企業秘密的なところ?もあるし、その他は自分自身の記録で、加藤正雄の日記とは違い、何も面白いことはないのだが…。10月の末日から今のところ欠かさず、毎日掲載している『ポルトガル淡彩スケッチ』のページに載せはじめて1か月が過ぎたところだ。

http://blog.goo.ne.jp/takemotohitoshi

 加藤正雄は生涯を独身で通した。加藤正雄を理解できる人は少数派だったろうと思う。僕も近しいところに居ながら100%理解できていたとは言えないのかも知れない。加藤正雄とはず~っと仲が良かった訳ではない。しばしば特に若い頃などは絵画に関しては意見の違いなどで議論し、衝突もした。美術に対して音楽に対しての好みも少しは違っていた様にも感じる。お互いに我の強さも際立って<水と油>或いは平行線的なところもあったのだと思う。

 そしてそれを超越した無二の友人であり、良きライヴァルでもあった。手紙を書いても送る相手が居なくなってしまった寂しさを感じている。

 僕には何の挨拶もなしに、あまりにも早く逝きすぎだぞ。

VIT

『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』加藤正雄著 裏表紙。

 

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コメント (1)
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