武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

069. 両 替 -Cambio-

2018-11-30 | 独言(ひとりごと)

 ここ数年、ユーロ高でポルトガルの物価もかなり高騰したと感じていた。
 それがこのところ長いトンネルから抜け出したかの様に、少し円高、ユーロ安に振れている。
 どのあたりで落ち着くのか、毎日ニュースの為替レートをみてはその動向に無関心という訳にはいかない。
 10円の差、5円の差でも生活物価に大きくかかわってくる。

 ヨーロッパ統一通貨「ユーロ」が導入されたのが2002年1月1日。
 以来、今ではあたりまえのごとく使っているが、我々にとっては便利になったものだ。
 ヨーロッパ域内では殆ど両替の必要はなくなった。

 以前はスペインに行くにも、フランスに行くにもエスクードからペセタやフランに両替をしなければならなかった。
 ポルトガルとスペインでは銀行の営業時間も異なり、戸惑ったり、待たされたり。
 幾つものビニール袋に各国通貨を小分けして旅行したこともあった。

 今の便利さは単一通貨ユーロに加えて、どこでもここでもクレジットカードが使える。

 我々が最初海外に出た頃は円と米ドルは固定相場制で1ドル360円の時代であった。
 しかも外貨持ち出し制限までもがあった。
 それがヨーロッパを旅行中に変動相場制に移行して、みるみる250円程に落ちた。
 落ちた。と言っても旅行中はニュースもなく殆ど気が付かなかった。
 幸い日本から持ち出したドルは使わないで済むほどスウェーデン・クローナを稼ぐことが出来たから気にもならなかったのだが…。

 その頃、ヨーロッパを旅行するのにスウェーデン・クローナをそのまま持ち歩いていた。
 ヨーロッパでスウェーデン・クローナはどこでも威力を発揮した。
 共産圏東欧でもクローナから両替した。

 スウェーデンの南端イスタッドからフェリーで1晩揺られるとポーランドのシチェチンに着く。
 フェリーから降り、税関を済ませ、走り出して暫くすると1台のクルマが追いかけてくる。
 「両替してくれ~」と言ってクルマを停めさせる。
 今から考えると恐ろしいことだが、僕たちも若く怖いもの知らずだった。
 それに平和な時代だった。少なくとも今よりは…。
 スウェーデン・クローナが公定レートの5倍にもなった。
 ブラック・マーケットだ。

 その頃は共産圏を旅行する場合、その日数に応じて強制的に両替が必要だった。
 1日、一人10米ドル分。それをポーランド・ズロチに両替しなければならない。勿論公定レートである。
 10ドルあればそれ以上必要はない。それが学生なら1日3ドルで済む。
 僕たちはストックホルム大学の学生だった。
 3ドルではお土産は買えない。足りない分を両替する。
 銀行で両替すれば公定レートなので旨味はない。
 クラクフの広場にも闇の両替屋は出没していた。
 ブラック・マーケットでの両替なら5倍だから物価は5分の1になる。
 それでなくとも安い物価がタダ同然になる。
 ポーランドには革製品など上質なものがたくさんあった。

 共産圏ブルガリアからトルコへ入った。
 トルコでも闇の両替屋が暗躍していた。
 「ここではブラック・マーケットはなく、気をつけないと偽札を掴まされる。
 或いは強盗に早替わりする。」などと教えられた。

 イスタンブールでぐずぐずしている内に「キプロス島で戦争が始まりそうだ。」というニュースが耳に入った。
 「トルコとギリシャの国境線でも戦争に発展するかも知れないぞ~。」と言ったものだった。
 急いでギリシャ国境を抜けようと思った。

 日が暮れたので国境手前、トルコ側のキャンピング場で泊った。
 往きにも泊ったキャンピング場だったから勝手も知り安心していた。
 夜遅くなってから、その国境に向ってトルコ軍の戦車が大挙つめかけていたのをキャンピング場から眺めていた。
 夜通し戦車の行くギシギシギシギシギシというキャタピラの音が絶えず、恐らく100両以上は集結していた。
 朝、見てみると戦車を草木などでカモフラージュして臨戦態勢なのだ。
 そんな戦車隊を尻目に大急ぎでトルコ・ギリシャの国境を通過した。

 でも銀行も両替所も何もかも閉鎖されていて、僕たちには1円分のギリシャ・ドラクマもなかった。
 国境から出来るだけ遠ざかろうと走るが、そのところどころで停車を命じられた。
 対向するギリシャ戦車の車列を通すためにだ。

 トルコ戦車の大型で精悍なのに対してギリシャ戦車のひ弱なこと。おまけに兵隊のにやけた面持ち。
 ヘルメットを仰ぎめに被り、ロングヘアーを風になびかせ、すれ違う僕たちに対してVサインを投げてよこす。
 「これでは勝ち目はないな~」などと思ったほどだ。

 村々を通過する時には村人たちは殺気立ち、パン屋は焼きたてのパンを戦車に向って放り投げ。
 いかにも貧しそうな老人までもが、なけなしの持ち金をはたいてタバコを買い求め、1箱ずつ戦車に投げ与えてやるありさま。

 一方我々はお腹が空いても食料を買うギリシャ・ドラクマがなく、ガソリン・ゲージもだんだん低くなり、これほど侘しかったこともなかった。
 暗くなりヘッドライトを点けるとどこからか大声で怒鳴られるし、仕方なくエイヤッとホテルに部屋を取った。
 ドラクマがないことを言わずにだ。
 翌朝、事情を話した。
 スウェーデン・クローナで支払いが出来た時は本当に助かった。
 しかもおつりはドラクマでもらって、食事もできた。
 そうこうしている内にキプロス紛争はひとまず終結した。1974年夏の出来事だった。

 そのキプロス島は南北が分断されたまま、未だに問題は解決していない。
 解決されないまま南キプロスでは2008年1月1日からユーロが導入されているらしい。

 アルゼンチンはブエノスアイレスでもブラック・マーケットがあった。
 共産圏ほど何倍もの率ではなかったが、両替屋の出没する広場に足繁く通いレートの交渉だ。
 そのために時間を費やして肝心の観光がおろそかになってしまっていた。

 ブエノスアイレスを出て南下、すぐに軍事クーデターがあった。
 夜行バスから何度も降ろされ自動小銃を突きつけられ、ホールドアップをさせられボディチェックを受けた。
 初めは山賊かと思い生きた心地はしなかった。

 南米ではそれぞれどこの国もしわくちゃでよごれて汚いお札だった。
 しかも小額紙幣は10円、20円ほどのものだった。
 日本では少し前に100円紙幣の板垣退助が姿を消して硬貨になっていた。
 でも南米では1泊200円ほどで泊れる宿もあったのだから小額紙幣でも使い出はあった。

 バリ島では古い絣(かすり)染めの布などを買いたいと思い、10万円ほどを両替したが、インドネシア・ルピアがリュックいっぱいにもなって驚いたこともあった。
両替屋からの帰り道、よくひったくられなかったものだと今になってゾッとしている。

 当時ポルトガルでも100エスクード札などはしわくちゃで汚かった。

 まだポルトガルに住み始める以前、毎年1ヶ月間、旅行に訪れていた頃の話だ。
 余ったエスクードは保存しておいて次の年持参した。
 コーヒーを飲んで100エスクード札で払おうとすると「この札はどうしたのか?」と驚きの眼で見られた。
 1年の間に100エスクード札はすっかりなくなり、全て硬貨に代っていたのだ。
 カフェの主人は「コレクションするので~」と、それで支払いができたが、たった1年の経過なのにものすごく懐かしそうにその100エスクード札を眺めていたのが印象的だった。

 両替屋はセトゥーバルには今でも存在する。
 やはりかつてに比べれば暇なのだろう。
 あまり旅行者が利用しているのを見たことがない。
 他のヨーロッパからの旅行者にはもはや不要な所なのだ。
 先日、我々が日本円との両替率を尋ねてみようと入っていくとすこぶる愛想が良かった。
 日本人観光客は上得意に違いない。
 ネットでの率に比べるとまだまだユーロが高かった。手数料がたっぷり上乗せされているのだろう。

 ユーロが導入されてクレジットカードがどこでも使えて以前に比べると格段に便利になった。
 でも以前の不便さも、それがかえって旅の醍醐味だったような気もする。

 アセアンは今、ユーロ圏に習ってアセアン統一経済圏構想を打ち出している。

 昔も、今も、そして今からも、時代は目まぐるしく代っていく。
VIT

(この文は2008年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) -Hommage Georges Rouault-

2018-11-29 | 旅日記

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上)

2008/10/15(水)晴れ一時小雨/Reims

 美術館が開く前にサンレミ・バジリカ聖堂まで歩いた。
 昨日の藤田のチャペルより少し距離があると思ったがゆっくりと歩いた。お陰で普段の運動不足がたたって、二人とも足の裏に豆を作ってしまった。
 藤田嗣治はこの聖堂から不思議なインスピレーションを受け、カトリックに改宗、ここで洗礼を受けたそうだ。

22.

 サンレミ・バジリカ聖堂に着くころ少し雨が降り始めた。
 藤田が感じた不思議なインスピレーションとは、僕には窺い知る余地もないが、聖堂内に差し込む光が柔らかくステンドグラスにも厳かな渋さがあった。

 

23.

 隣の博物館の開場は午後2時からなので、バスで一旦町の中心まで戻り、先に美術館に入った。
 コローが随分ある。しかもオルセーやルーブルに匹敵する程の良い作品が多い。2階の古い順から観ていると12時に一旦閉館を告げられて追い出されてしまった。「1階を観るのにまた2時から来なさい。」と切符売りのマダムに言われた。

24.

 昼食の間に明日のパリに戻るTGVの切符を買う。
 昼食を済ませて2時過ぎに再び美術館に行ったが1階は少しだけだった。でもブーダン、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ゴーギャン、ドニ、ヴイヤールそれにヴィエラ・ダ・シルバなどひと通り揃っていた。忘れてならないのは藤田嗣治も1点展示されていたことだ。残念ながらルオーはなかった。

 また、サンレミ・バジリカ聖堂隣の博物館に行く。
 ランスの町を行ったり来たりだ。もう歩けないので市バスで行くことにした。市内均一、1ユーロなので使いやすい。

 美術館近くのバス停でサンレミ行きのバスを待っていた。
 しょっちゅう来るはずなのにその時に限ってなかなか来なかった。朝に歩いた時には何台ものサンレミ行きのバスに追い越されたのでしょっちゅうの筈だ。
 ガラスに囲まれたバス停で待っていたがそこに背の高い黒人の男性が来てタバコを吸い始めた。
 僕たちはタバコの煙を避けるためバス停から出た。
 そのすぐ後ろの店の入り口で二人の若い男が立ち話をしていた。
 そこに初老の警官と若い女性警官2人の3人連れの警官が通りかかった。
 立ち話している2人の内の1人に警官が話しかけたと思ったら、すぐにするりと手錠をかけた。あっと言う間の出来事だった。男は手錠がかかったまま振りほどいて逃げようとした。ものすごい勢いだった。初老の警官と女性警官たちは必死で押さえ込んだが、男もかなりの力で抵抗している。女性警官の1人が押さえながら無線で連絡を取っている。ほんの1~2分だったと思う。サイレンを鳴らしパトカーや覆面パトなど5~6台が集結していた。初老の警官に代わって若い強そうな警官が男の両手に後ろ手に手錠をかけ、首根っこを押さえつけパトカーに押し込んだ。そしてサイレンを鳴らし行ってしまった。
 市バスを待っているちょっとした間の出来事だが、こんな迫真の現場を間近で見たのは恐らく初めてのことだ。指名手配の男だったのか。あの男はいったい何をやらかしたのだろうか。

 

25.

 夕食はホテルの隣のブラッセリーでシードルを飲みシュクルートを食べた。どちらもフランスの物に違いないが、他の地方の物だ。ここではシャンペンを飲むべきだったのかもしれない。ランスはシャンペンの中心都市なのだから…。

2008/10/16(木)晴れ/Reims-Paris

 ホテルを出て、駅はすぐ近くだ。駅前に公園がある。花壇の植え込みも美しいが黄葉が素晴らしい。
 今回はトロワを諦めてランスに2泊して良かった。シャンペンは飲みそびれたが、充分に堪能できた。

 TGVはまたランス発でパリ東駅までノンストップだ。
 僕たちの席は4人掛けだが、他に誰も来ない。
 通路を挟んだ隣の席にリュックを担いだ若者が来た。リュックの側面に何と日の丸を縫い付けている。反対側にフランス国旗。それを見て僕たち二人が顔を見合わせた。
 若者は日の丸を指して「これですか。あなたたちは日本人ですか。」とたどたどしい日本語で言った。「私は4ヶ月前から日本語を習い始めました。ランスの日本語教室だけでは事足りなくて、週に2度ソルボンヌの日本語教室に通っていて今から行くところです。」ということだった。
 TGVが走り出すと早速ノートを開いて勉強を始めた。「何か判らないところがあれば聞いて下さい」というと、早速聞いてきた。授業で「隣のトトロ」を観たそうで、それに関しての質問が並んでいた。漢字はまだ難しいらしいが、ひらがなならすらすらと書けるし、読める。たった4ヶ月でたいしたものだ。
 「もっと勉強をして来年には日本に行きたいです」とのこと。
 最近の若者は「MANGA」に興味があって、日本語を習う人が多いと聞いたが、この若者はそうではなくて、日本の古い室町、桃山の歴史に興味があると行っていた。
にこにことして感じよくとても好青年で、たどたどしい日本語であったが、話している内にあっと言う間にパリ東駅に到着してしまった。

 フランスのランスで影と光、ステンドグラスではないが、陰と陽、昨日の手錠をかけられた男とこの好青年、正反対の若者に出会った。

 パリのホテルに入り、ムッシュ・Mに電話をしてみた。
 実はいつもなら作品を預ける時に入選者バッジと何枚かの招待券を受け取るのだが、「今回はまだ来ていない」と言うことだった。
 「搬入の時に貰ってきました。カタログも一緒です。」とのことだったので、ムッシュ・Mの自宅まで貰いに行った。
 いつもはメトロで行くのだが、今回は調べて85番の市バスに乗った。南のリュクサンブールから北のジュール・ジョフリンまで、普段あまり行くことのないところをたっぷりパリ観光ができる。
 カタログなどを受け取り、ついでにジュール・ジョフリンのブラッセリーで昼食。ホテルに戻るのに同じ85番のバスに乗ったが、一方通行だから走る道が違う。カルネ1枚ずつで立派なパリ市内観光だ。

 サロン・ドートンヌに行く前にカルチェ・ラタンのサン・セヴラン教会のステンドグラスを観る。
 今回はサン・シャペルのステンドグラスを観る予定をしていたのだが、バスでその前を通るたびにいつも長い行列で、今回はそこまでして観なくてもと思ったのでやめた。今までもサン・シャペルは何度も観ている。
 足が痛かったがセーヌを渡ってノートルダムへ。
 今回の旅ではルオーに関連して「ステンドグラスをたくさん観る」というテーマを持っているので、ノートルダムもその一つなのだ。いつもなら前を通ってもあまり入らない。ノートルダムに入るのは本当に久しぶりのことだ。
 入ると中では丁度ミサが行われていた。
 やがてパイプオルガンと共に賛美歌の美しい歌声が大勢の観光客の喧騒を抑えて教会内を支配する。
 ちょっとしたコンサートだ。いや、ちょっとではなく大したコンサートだ。

26.ノートルダムのミサ。

 クリュニーに戻りそこからサロン・ドートンヌ会場のあるポルト・オウテイルまではメトロで1本だ。

 クリュニーのメトロの入り口のところに総菜屋形式のすし屋がある。中国人が経営している店だ。パリですしなどもっての外。と決めていたが、ちょうど小用にトイレを探していた。

 パリでは案外とトイレに困る。
 昔、僕たちが初めてパリに行った60年代、70年代には「エスカルゴ」と称したアール・ヌーボー調の小便場が町角にあった。
 その頃には残念ながら、僕は使ったことがなかったが、何とこれも佐伯祐三は絵にしている。それがいつの頃からか不衛生という理由からだろう、なくなってしまった。今はコイン形式のモダンな建物が出来ているが、何だか閉じこめられてしまいそうで使いづらい。同じものがポルトガルの町角にも出現しているが、使ったことはない。

 パリではカフェに入ればたいてい地下にコイン形式のトイレがあり、それを使えるが、トイレだけでは済まない、夜にコーヒーを飲むと眠れなくなる。
 この際と思って小さいすし1パックずつを買って食べることにし、トイレを使った。
 僕たちがワサビを醤油にたっぷり溶かし込んでいるのを、隣の席にいたフランス人のマダムたちが見て真似をしていた。やがて鼻にツンと来たらしく、少し慌てふためいていた。

 サロン・ドートンヌの入り口は入場券を買う人々で長い行列が出来ていた。僕たちは出品者バッジがあるので横の入り口から入れる。
 ひと通り観て、自分の作品も確認して、疲れていたので早々に退散した。

 

27.

2008/10/17(金)晴れ/ Paris

 今回の旅はジョルジュ・ルオーをテーマとしたので地方都市は本来いらない。ルオーはパリで生れてパリで亡くなっている。

 検索で調べてみるとルオーが手がけたステンドグラスのある教会がある。
 でもそれはスイス国境に程近い、標高1,000メートルもありそうな、地図にも出ていない Plateau d'Assy という人里はなれた村。Eglise Notre-Dame-de-Toute-Graceと いう教会。現代建築家の手になる教会だ。ルオーのステンドグラスの他、マティス、ボナール、レジェなども参加している。これは是非行ってみなくてはと思ったが、何しろ遠い。アヌシー(Annecy)あたりまでTGVで行ってそこからレンタカーをしなければならない。2日の空き時間では無理。
 それにこの10月という時期、開いているかどうかもわからない。いずれ次の機会ということにしなければ仕方がない。
 それでルオーには関係がないが、近場のランス、トロワという場所にしたのだ。少しずつでも地方都市の美術館を観てみたいという思いからだ。

 今日は1日パリ。
 パリの地図でベルヴィル地区あたりを丹念に調べていると何とジョルジュ・ルオーという名前の通りがあるのを見つけた。
 そこを目指して朝から再度ベルヴィル地区に入ることにした。
 先日は道を間違えて見る事が出来なかった、エディット・ピアフ博物館を見るのも目的だ。見るといっても前を見るだけで中には入らない。前もって予約が必要なのだ。僕には博物館は観なくてもその場所を確認するだけで満足だ。
 エディット・ピアフはルオーと同じベルヴィル地区の生まれ。ルオーが生れたのは1871年5月21日。ピアフは1915年12月19日。
 ピアフはルオーより44年後に生れたことになる。ルオーが1958年2月13日、87歳まで長生きしている。一方、ピアフは1963年10月11日、48歳の生涯だ。
 ピアフが「ばら色の人生」や「谷間に三つの鐘が鳴る」を唄ったのが1945年、30歳。ルオー74歳の時。「愛の賛歌」は1949年、ピアフ34歳、ルオー78歳。
「パリの空の下」に至っては1954年、ピアフ39歳、ルオーが亡くなる4年前の84歳。
 ルオーは晩年、恐らくピアフの歌声を耳にしている筈だ。

 

28.ピアフの家のプレート

 僕が絵を描き始めるよりも前、佐伯祐三よりも先に初めに好きになったのがルオーだった。
 シャンソンで最も好きな歌手はエディット・ピアフでそれは今も変わることはない。
 その両者がパリの同じベルヴィル地区で生まれ育ったということは、今回初めて知った。出来ることなら、何だか少しこのベルヴィル地区に住んでみたい気分である。

29.ルオー通りの道路標示

 

30.ベルヴィル地区教会のステンドグラス。

 パリ市内でもう一つルオーゆかりの場所は何といっても「ギュスタヴ・モロー美術館」だ。
 ルオーはマティスなどと並んでギュタヴ・モロー教室の生徒でギュスタヴ・モローが亡くなった後、そのギュスタヴ・モロー美術館の初代館長を勤めていた。しかもその美術館に住み込みでだ。
 だから今回はギュスタヴ・モローその人よりもルオーの足跡を感じてみたくてギュスタヴ・モロー美術館に入った。

  

31.32.ギュスタヴ・モロー美術館内部。

 以前に訪れた時よりも作品が増えている様な気がする。ビューローに収まっている絵も丹念に1枚、1枚取り出して観てみた。
 ギュスタヴ・モローはルーブルやオルセーにある代表作よりもむしろ習作的なそんな小品に僕は魅力を感じている。

 

33.ギュスタヴ・モローの作品。

 まさしくルオーが影響を受けたそのものがそこに確かに存在する。
 ルオーは勿論素晴らしいが、それに影響を与えたギュスタヴ・モローの偉大さを
今更ながら改めて感じることが出来、感動さえ覚えた今回の鑑賞であった。

 

34.ギュスタヴ・モロー美術館のトイレ。

 もう1件、行きたい美術館がある。
 長いあいだ改修工事が行われていたパリ市立近代美術館。
 以前はモディリアニやスーティン、ユトリロ、藤田嗣治などの時代、エコール・ド・パリの作品が多く集められていた。
 その間、何度か訪れたがいつまでたっても工事中でスカをくらっていた。数年前には完成している筈である。
 メトロで向ったが、乗り換えるはずがサン・ラザール駅で外に出てしまった。またまた、近代美術館はスカをくらいそうである。
 気を取り直してバスの路線図を開いてみた。少し歩けば1本で行ける。

 入り口は以前とは違うところになっていたが、無事に着いた。
 そして無事開館していた。何と本日が初日とのことで「デュフィ展」が催されていた。
 グラン・パレのピカソ展は入るのに長い行列だと聞いたが、このデュフィ展は初日にも拘らず宣伝が行き届いてないためか割りと空いていた。

 

35.パリ市立美術館入口。

 パリでは今、同時にピカソ展、ヴァン・ダイク展、それにデュフィ、ルオーなど目白押しだ。
 パリ市立美術館の外観は以前と同じだが、素晴らしい美術館に生まれ変わっている。
 デュフィ展を観ている途中で「今日は6時閉館ですので、急いで観て下さい。」と追い出された。21時までとばかり思ってゆっくり観ていたのだ。結局、観たかった常設展を観ることが出来なかった。昨日なら21時までだったのだそうだ。
 聞いてみると「常設展はいつでも無料ですから、明日にも観に来てください」とのことであった。

 

36.パリ市立美術館展示場。

 パリ市立近代美術館のあるイエナ[IENA]からホテルのあるルクサンブールまでは82番のバス1本で行ける。
 エッフェル塔の真下を通り、アンヴァリッド、エコール・ミリタリーそしてモンパルナス・タワー、ルクサンブール公園の外側をくるりと半周しホテル近くまで、これもパリ観光の市バスだ。

2008/10/18(土)晴れ/Paris - Lisboa - Setubal

 朝食のあとホテルのチェックアウトを済ませ、荷物を預かってもらい、再び82番のバスで昨日のパリ市立近代美術館へ。
 空港へ行かなければならない時間を逆算してぎりぎりまで常設展を観る。
 規模は少し小さいけれどオルセーに匹敵する素晴らしい美術館に生まれ変わっている。しかも入場無料だ。
 ユトリロ、スザンヌ・ヴァラドン、藤田嗣治、モディリアニ、スーティン、ヴァン・ドンゲン、マルケ、ヴラマンク、ブラック、ピカソ、レジェ、ヴイヤール、ドニなどやはり僕の好きな時代の作品が揃えられている。それにビュッフェの古い良い作品が5点、フォートリエも良かった。ここにもヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品があった。
 そして圧巻はデュフィの高さ10メートル長さ62メートル40センチの超巨大な壁画があることだ。これを観るだけでも無料では勿体ない。おまけにマティスの壁画もある。

37.デュフィの壁画。

昨日の切符を見せて「昨日デュフィ展が全部観られなかったのですが、駄目ですか?」と言ってみた。すんなりOKだったので、残りの4分の1も観る事ができた。

 

38.フォートリエなどの展示スペース。

 パリ市立近代美術館の前の通りに朝市が出ていたので、帰りはバス停まで朝市の中を通って行った。
 ホテルに戻り荷物を受け取りルクサンブールからRERでド・ゴール空港へ。

 イージージェットは席が決まっていない自由席なので、最初は不安だったが慣れれば案外良い。
 リスボン行きのイージージェットに乗る乗客がたくさん押し寄せている待合室にアナウンスが流れた。
 「到着遅れの為、リスボン行きは1時間遅れます。」

VIT

 

(この文は2008年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上) -Hommage Georges Rouault-

2018-11-29 | 旅日記

 今回の旅のテーマには誰を取り上げようかと早くから探っていた。
 佐伯祐三から始まって、ゴッホ。 ゴーギャンとポンタヴァン派。 エミル・ガレとアール・ヌーボーもやった。 ブーダンと印象派。 そしてミレー。 テオドール・ルソーのバルビゾン派。どんどん古くなる傾向にあるのでここらで少しねじを巻き戻して新しいのを…。

 先ずパリの美術館で何か特別展をやっていないかをネットで検索していたら、ジョルジュ・ルオーという願ってもない人物が現れた。没後50年だそうである。しかもポンピドーセンター。
 検索した8月には既に開催されていて、最終日が10月13日。
 サロン・ドートンヌの搬入日が10月14日。グッド・タイミング。13日の最終日に、もし長蛇の列で観ることが出来ない事態を想定して1日早い12日の飛行機の切符をネットで買った。

 でも更に調べていく内にそのルオー展はたったの20点でポンピドーの1室だけの展示とのこと。それならいつもの常設展と何ら変らないのではないだろうか。

 

2008/10/12(日)曇りのち霧雨/Setubal - Lisboa – Paris


 セトゥーバルからのバスは日曜日だから少ない。いつもより一つあとの1時間遅い6時発のローカルバスで出かけたので5時起きだ。4時では夜中と言う感じだが、5時ならもう既に朝なので気分的に随分楽だ。
 昨年と同じ「イージージェット」。安いし慣れればこれが快適だ。前もってネットで搭乗手続きもできる。イージージェットのスタッフはエア・フランスに比べればひょうきんで軽い乗りだが感じが良い。

 今回もド・ゴール空港までムッシュ・Mが出迎えてくれた。
 100号を預け、そしてそのままクルマでホテルまで送ってくれたので楽に随分早く着いた。

 早速、ポンピドーセンターへ。閉館は21時なのでゆっくり時間がある。
 カルチェ・ラタンを通り抜け、セーヌを渡り、ノートルダムとサン・シャペル、花市場の前を通ってぶらぶら歩いて出かけた。

 1部屋だけの展示だと判っていたけれど、窓口では念のため「ルオー展のチケットを下さい」と言ってみた。
 切符売り場の青年は困った様子で「ルオー展は1部屋だけなので、普段の常設展の切符と同じなのですよ。それでも良いですか。」と言ったあと「ルオーの特別展はマドレーヌのピナコテカで催ってますけど…」と言ってピナコテカの住所、開館時間などをメモしてくれた。
 その特別展はここに来て初めて知ったこと。これはツイている。
 それを早速、明日のスケジュールに組み込まないといけない。

 ポンピドーでは1部屋だけの筈が、離れた部屋2部屋に分かれていて、20点どころか、3段掛け4段掛けでグワッシュなどを含め100点は展示されている。
 全てがポンピドーセンターの所蔵品だが、今までに観ていない作品が殆どで、期待をはるかに超えた随分見応えのある展示である。
 これに関するカタログは作られていないのが残念。全ての作品をデジカメに収めた。

 

01.ポンピドーセンター『ルオー展』入口。

 

02.ルオー展

 

03.3段.4段掛けのルオー作品。

 その他の常設展もゆっくりと2廻りほどは観ることが出来た。やはり前回訪れた時とは大幅に作品が入れ替わっている。

 昼食を摂っていなかったのに気が付きポンピドーセンター内の屋上テラスのレストランで軽く食事をしたがこれが大して旨くもなくばか高くて、しかも食べ終わる頃には小雨が降り始めた。
 隣の席で飲み物だけ飲んでいたジャン・ギャバン風の男がにやりとして覗き込み「旨えか~?」などと言う。まるで旨くないことを知っていたようにだ。

 

2008/10/13(月)曇り時々晴れ/Paris


 ピナコテカは10時半からなのでその前に東駅に行き、ランス行きTGVの切符購入と、ルオーの生れた界隈を見てみたかったので、早くに朝食を済ませホテルを出た。ルオーが生れたのはベルヴィル地区のヴィレット街。

 メトロから地上に上がりベルヴィル地区に1歩足を踏み入れて驚いてしまった。至るところに漢字が溢れ、歩いている半数が中国人なのだ。そんな中にアラブのカバブ屋があったりする。
 ルオーが生れた時代も職人たちが暮らす下町だったらしいが、今も猥雑な下町そのものだ。
 ベルヴィルの坂道を上りヴィレット街に入り端から端まで歩いてみたが、ルオーに関するプレートも何も見つけることが出来なかった。

 その地域の教会にも入ってみた。
 もしかするとこのステンドグラスを少年ルオーが観ていたか、或いは職人として手がけたものなのかも知れない。

 

04.ベルヴィル地区

 

05.ベルヴィル地区

 

06.マドレーヌの『ルオー展』入口。

 マドレーヌのピナコテカは狭い会場だったが、作品は100点ほどもあっただろうか。最初期から晩年まで時代順に並べられた油彩が中心で、アメリカや日本など世界中から集められていて、見応えのある展示であった。モティーフごとに説明が記され、その説明をベンチに座ってゆっくりと読むことが出来る。
 1点1点がまるで樫の木やモザイク石材で作られた工芸品のごとく重厚で、深い色調の中にちりばめられた宝石の様な鮮やかな光は全く神々しいとしか例えようがない。
 額縁も様々だったが、何れもルオーモデルそのもので、見応えがあった。この展覧会は予定外だったので随分と得をした気分だ。

 メトロで一旦ホテルに戻り、歩いてIKUOさんの店に行ってみた。
 ノートルダムとポンヌフの中間でセーヌからサン・ジェルマン方向の横道に入り1分も歩かない好条件のところにあった。
 ルーブルにも程近いところなので今までにもすぐ近くのセーヌ沿いはしょっちゅう歩いていたのだが、いつも住所を持っていなかったのでこの横道に入ることはなく気が付かなかったのだ。
 「IKUOさんは今帰ったところ。」といってKEIKOさんという方が対応してくれた。

07.『IKUO-PARIS』

 帰りは少し遠回りしてサンジェルマン・デ・プレ教会に寄ってみた。ルオーが亡くなった時、この教会で国葬が執り行われたとのことだ。教会の前にザッキンの彫刻。庭にはピカソ作アポリネールの頭像がある。

 

08.サン・ジェルマン教会。

 サンジェルマン・デ・プレの向かいにワイン専門店があったので、IKUOさんのところに持っていくワインを調達した。
 出来たらセトゥーバルからワインを持って行ければ良いのだが、最近は空港のセキュリティーの面で難しい。
 今夜はお招ばれだ。IKUOさんがメイエ村からその為にわざわざ出てきてパリの自宅に招待してくれていた。
 ホテルに戻りシャワーを浴び、暗くなりかけてからホテルを出た。ソルボンヌあたりでは観光客や学生たち大勢の人びとが、10月としては暖かすぎる夕暮れ時を楽しんでいた。

 

09.メトロ通路の広告。

 IKUOさんの自宅はカルチェ・ラタンの少し東側、ホテルからも歩いて10分ほどのところだ。
 その手前にバルザックの「ゴリオ爺さん」の舞台、その下宿屋があったサン・ジェネヴィエヴ通りがある。昨年読んだばかりなので是非この通りも見てみたかったのだが残念ながらその面影は今は感じられない。

 IKUOさんの家にはIKUOさん以外にパリ在住の日本人の方々が既に5人集まっておられた。間接的に存じ上げているご夫婦と若い芸術家たち。IKUOさんの気の効いたご配慮だ。
 IKUOさんの家は中庭に面した1階にあり、時折、猫が窓ガラスをノックしていた。
 広い居間は木骨の高い天井で、「ゴリオ爺さん」の下宿屋はこんな雰囲気だったのかな~などと思った。
 心のこもった美味しい手料理と尽きることのない会話。瞬く間に12時近くになってしまっていた。

 

 2008/10/14(火)晴れ時々曇り/Paris-Reims


 ホテルでゆっくりと朝食を済ませムフタール通りの朝市を見ながら、そこからバスに乗り東駅に向った。
 メトロで東駅に行くには乗り換えなければならないがバスなら1本だ。途中パリ見学もできる。
 東駅の売店で、車内で食べようとPAULのサンドイッチを買ったが朝が遅かったのでそのままランスまで持参することになった。
 TGVはランス行きで途中停車もなく45分で着いてしまう。

 ホテルは予約をしていない。目指すホテルは満室。その隣も満室。地方都市でいままでこんなことはなかったが、最近は皆、ネットで予約をするのだろう。その向かいの「北ホテル」に空室があった。
 ホテルの部屋から隣に「アーネスト・へミングウェイ」という赤いネオンが見える、顔写真までが看板になっている。バーの様だ。何かゆかりがあるのだろうか。

10.アーネスト・ヘミングウエイの文字。

 今日は火曜日なのでランス美術館は休館日。
 ツーリスト・インフォメーションで明日のトロワ行きのバスの時刻表をようやく貰う。ようやくと言うのは、そのインフォメーションの女性はそのバスのことを知らないのだ。「列車の駅に行って聞いてみたら」などと言う。ランス、トロワ間に線路がないのは僕でも知っているのだが…。
 インフォメーションのもう一人の女性が「バスがあるわよ」と同僚に教えて、ようやく時刻表を探し出してくれた。

 

11.

 

12.

 

13.ランスのカテドラル。

 カテドラル前のベンチに座って、列車内で食べなかったPAULのサンドイッチを食べる。他の店のものより少し高めだが、どっしりとしたパンにたっぷりの中身。若い人が行列する筈で、美味しく腹持ちも良さそうだ。

 

14.15.カテドラルのステンドグラス。

 食べ終わってカテドラル内へ。ステンドグラスがシャルトルのカテドラルに匹敵するほど素晴らしい。
 そして1番奥にはシャガールのステンドグラスがある。

 これがまた素晴らしい。天気も良いのでシャガールブルーの合間にある赤や緑がことのほか輝いている。まるでルビーとエメラルドをちりばめたごとくだ。

 

16.シャガールのステンドグラス。

 シャガールはパリのオペラ座の天井画やここのステンドグラスなど公共の大きな仕事を数多く残しているのに改めて感銘を受ける。
 一角に風変わりな、まるでヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品の様なステンドグラスがある。
 MUZは「絶対ヴィエイラ・ダ・シルヴァの仕事やで!」という。
 僕はまさか偶然だろうと思ったが、あとで買い求めた美術館のカタログに「ヴィエイラ・ダ・シルヴァ」の仕事と記されていて、その下絵が掲載されている。
 シャガールに限らず多くの外国からの芸術家がフランスの公共施設に作品を残している。

 

17. ヴィエイラ・ダ・シルヴァのステンドグラス。

 カテドラルの隣のトー宮殿博物館は開いていたので観ることにした。中世からの発明展が催されていて、小学生などの課外授業とかちあってしまった。ダ・ヴィンチなどの設計図を元に模型が作られて展示されている。子供たちが床に座り込んで説明を聞いている。展示物で常設のタペストリーなどが隠れて観にくかったのが残念であった。

 

18.

 「藤田嗣治のチャペル」は午後2時から開場。
 このランスの町も、藤田のチャペルも1972年に一度訪れている。実に36年ぶりだ。
 きょうあとの予定は藤田のチャペルを観るだけなのでのんびりと歩いて行った。街路樹や壁の蔦の紅葉が美しい。

 

19.

 以前にはなかった建物が隣に出来ていたが、1972年に訪れた時と全く同じ佇まいで懐かしく感じた。

 藤田嗣治は1966年、80歳の時、このノートルダム・ド・ラペ礼拝堂を完成させた。

 

20.

 その壁、そして天井いっぱいに描かれたフレスコ画をじっくり観ていると藤田の息使いまでが聞こえてくる。
 その前年、マティスはコート・ダジュールのヴァンスにロザリオ礼拝堂を完成させている。おそらくマティスにしろ、藤田にしろ持てる力の限りを出し切った、まさに総決算の仕事だ。
 77歳でリュウマチに苦しんでいたマティスが、80歳の藤田が、そのどこに、この様なエネルギーが隠されていたのだろうかと改めて感動を覚えずにはいられなかった。

 

21.藤田のチャペルから帰り、住宅の窓から猫が挨拶。

 今回の旅では中華は食べない。牡蠣もノロウイルスが怖いので食べない。もちろん牛肉も食べない。と言うことにしていたので食事が限られる。
 ホテルの向かいのピザ屋にたくさんのお客が吸い込まれていくので今夜はピザにした。フランス料理に比べると安上がりで手軽、たまにはピザも良い。

 夜、トロワ行きのバスの時刻表を検討してみたが、本数が少ない。朝と夕方に幾つかあるが、昼間は11時15分発の1本だけ。その後は17時40分発でトロワ到着が20時。それでは遅すぎる。11時15分に乗るには美術館の開館が10時だからぎりぎり45分しか観ることが出来ない。
 美術館からバス停まで歩いて確かめてみたが、わざわざ来たランスの美術館を45分の駆け足では勿体ない。
 せめてあと1時間遅いバスがあれば良かったのだが…。
 トロワの美術館も観たかったし、トロワのサン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂の珍しいという黄色いステンドグラスも観てみたかったが、今回はトロワは諦めざるを得ない。北ホテルを1泊延長することにした。

VIT

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) -Hommage Georges Rouault-へつづく。

 

(この文は2008年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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067. マンマ・ミーア -アバABBAに関する思い出- -Mamma Mia-

2018-11-28 | 独言(ひとりごと)

 今、ポルトガルのテレビでは映画「マンマ・ミーア」のCMが盛んに流されている。
 メリル・ストリープが主演するミュージカルだ。
 あのABBAの曲を全編にフューチャーしたジュークボックス・ミュージカル。その劇場ミュージカルの映画化。日本でも劇団「四季」で上演されているらしい。

 ABBAと言えばいつも思い出すストックホルムでの出来事。
 僕たちは1971年から75年くらいまでストックホルムに住んでいた。正確には、1971年は8月から3ヶ月だけ住んだ。
 新潟港から日本を出て、ナホトカ、モスクワ経由で先ずストックホルムに着き、3ヶ月を働いたのだ。

 3ヶ月がすぎストックホルムを出発する直前にクルマを買った。
 住まい近くの道端で「売ります」の張り紙のあるクルマを見つけ、すぐに電話、他には何も考えずに即決だった。VWのマイクロバスで、その車内に大急ぎでベッドと食器棚を作りつけた。

 出発は11月初旬、北欧の冬は早く、既に雪が舞い始めていた。予行演習にと1晩目はストックホルム美術館の駐車場で泊ることにした。翌朝、起きると車内の牛乳はシャーベット状に凍っていた。今から考えるとよく凍死しなかったものだと思うが、若かったのだ。慌てて布団を1枚買い足した。

 ヨーロッパを3ヶ月で通り抜けて目指すはインド。
 そもそもがインドで暫く暮してみたいと日本を出たのだから…。

 ストックホルムからパリまでほぼ最短のルートを取ったにも拘らず、パリにたどり着くのに2ヶ月以上がかかった。

 その直線上にある美術館を見逃すことなく、くまなく観る旅でもあった。
 ある時は美術館の駐車場に寝泊りし、同じ美術館を2日続けての鑑賞になったこともあった。
 またある時はデンマークのお城のまん前の駐車場がそのねぐらになった。ぐっすり眠りに着いた真夜中に鼓笛隊の音で目が覚めた。20人ばかりのおもちゃの様な兵隊が真っ白い雪道を音楽と共に行進している。時計を見ると夜中の12時、衛兵交代の儀式だったのだ。もちろん見学者は我々2人だけ。夢の続きかも知れないと、頬をつねってみた。そんな旅で2ヶ月、面白くもあったが、真冬の北欧、車上生活は厳しくもあった。

 そして到着したのが花のパリ。とはいかなかった。
 そこには花はなく、どんよりと鉛色の空が垂れ込め、煤の混じりあった雪景色のパリ。
 車上生活はもう飽き飽き、暖房の効いた温かい部屋で少し落ち着きたいと考えた。
 アパートを探そうとしたが、パリでは当時、住宅事情は悪く、半年はおろか1~2ヶ月だけ借りようなどとんでもない。
 風呂も台所もなく、1部屋に電熱コンロを持ち込んで何年も生活をしている人もいたくらいだ。

 結局、ブローニュの森とヴァンサンヌの森のオートキャンプ場でひと冬、車中で暮すこととなった。そのオートキャンプ場からメトロに乗ってアリアンス・フランセーズに通った。

 春を待って再び旅に出た。
 スペインからモロッコまで寄り道し、フランスからは東へ進むはずが、北へ、北へ。ストックホルムに舞い戻ってしまっていたのだ。それからストックホルムでの本格的な生活が始まった。

 アルバイトをし、語学学校に通い、ストックホルム大学にも通い、大学が休みになると旅に出た。ヨーロッパ中をそのVWマイクロバスで5万キロ以上を走破した。クルマが大きいこともあって、どこの町に着いても、街なかでは殆ど走らせずに、その町の公共交通機関を利用した。ストックホルムでももちろん停めっぱなし、殆どVWマイクロバスには乗らなかった。

 たまたまある日、知り合いから家具の不用品があると言うので貰いにマイクロバスで出かけた。うかつにも車検が切れているのに気が付かなかった。途中、パトカーに止められ、駐車場まで誘導された。
 「今日は地下鉄で帰りなさい。そして車検場の予約が取れたらここにクルマを取りに来なさい。」というやさしいお巡りさんだった。最初は警察の駐車場かなと思ったのだが、よく見ると普通の大型スーパーの無料駐車場だった。家具は積んだままで、その日は地下鉄で帰った。

 そして車検を受けたが全く受からなかった。というより不合格項目の多さに呆然とした。
 北は最果てノード・カップから南はイタリア、ギリシャ、東は東欧共産圏やトルコ、そして西のスペイン、モロッコと、冬も夏も多くの国々を見てきたキャンプ生活でクルマの床はぼろぼろに朽ち果てていた。修理工場に出せば相当の費用がかかりそうだし、どうしたものかと悩んでいた。

 そんな時、友人から「アグネッタのおじいさんが趣味でクルマの修理をしていて、たぶん実費だけくらいでやってくれる筈だよ」と言う話が出た。
 早速、アグネッタの家にクルマを持っていった。おじいさんは目を輝かせて「これはやりがいがあるぞ」と言って引き受けてくれた。

 「やれやれこれで一安心」と思って、クルマを置いて帰ろうとすると、アグネッタが「今からテレビでユーロビジョンコンテストがあるのよ。今年はスウェーデンが有力なのよ。是非一緒に観ていって。」と引き止められた。
 僕は日本では音楽プロダクションにADとして居たくらいだし、自分でも少しギターを弾いて歌もうたう。音楽は嫌いではないし、どんなものか興味はあった。
 その時(1974年)にスウェーデン代表で出場したのがABBAであった。
 そしてアグネッタが予想したとおりABBAはみごと優勝をした。歌は「ウォータールー Waterloo」。

 アグネッタはABBAのメンバーの一人と同じ名前だったこともあり、人一倍ファン意識が強かったのかもしれない。

 僕はそれまでJAZZ以外では、ビートルズやボブ・ディラン、それにクロスビー、スティル、ナッシュ、アンド、ヤングなどをよく聴いていて、そんなフォーク調とは対照的にピンク・フロイド、レッド・ツェッペリンそれにブラッド・スウェッツ・アンド・ティアーズなどハードなロックが台頭してきている2極化の時代だった。
 それらに比べるとABBAは少し前時代的な軽いポップスという雰囲気で、新しさは感じられなかったけれど、力強い溌剌とした唄いっぷりは明快で健康的で好感の持てるサウンドに違いなかった。

 そのユーロビジョンコンテストを境にしてABBAは「リング・リング」「ハニー・ハニー」「マンマ・ミーア」「SOS」「ダンシング・クイーン」「マニー・マニー・マニー」「チキティータ」など、次から次にヒット曲を生みだし、ABBAの名前は世界中に広まった。ニューヨークのレコード店の店先にABBAのポスターが張られていたし、どこででもその歌声を耳にすることが出来た。

 ABBAが1974年のユーロビジョンコンテストで優勝したロンドンで、1999年4月6日、25周年を記念して、ミュージカル「マンマ・ミーア」が初演された。
 それから更に9年、今回はその映画化である。
 メルリ・ストリープの「マンマ・ミーア」は今、セトゥーバルの映画館で上映されている。終わらないうちに1度、観てみるのも悪くないという気もしている。

 あれから34年もの歳月が流れたことになる。
 そしてあの頃、どちらかと言えば前時代的に聞こえたABBAの音楽を今聴いてみて、逆に全く古さを感じないのは摩訶不思議と言わざるをえない。

 スウェーデンのその時、アグネッタのおじいさんに修理してもらったクルマは見事1発で車検に合格したのだった。
 車検から戻ってお礼に行くと、アグネッタのおじいさんから「このクルマ、キャンピング用に改造させてくれないか」と言われた。
 でも僕たちにはお金もなかったし、その後、そのクルマにそれほど永く乗るとも思わなかったので、お断わりしたのだが、今考えると残念な事をしたと思う。改造をお願いしておけば良かった。
 そうすればストックホルム生活がもう1~2年延びていたかもしれないし、インドまで行けていたかもしれない。
 なにしろ、旧ソ連がアフガニスタンに侵攻(1979年)する5年も前のはなしだ。

 ユーロビジョンコンテストは、東欧諸国など参加国も増えますます盛んに、今も続いていて、2008年、今年はロシアが優勝、ポルトガルは13位。
 スウェーデンはABBA以来、4回の優勝をして上位常連国になっているが今年2008年は18位。

 ユーロビジョンコンテストが始まったのが1956年、ポルトガルの初参加は1964年、優勝は残念ながら未だない。
 1996年にルシア・モニッツ [Lucia Moniz] の6位が最高。
 1991年にドゥルセ・ポンテス [Dulce Pontes] の「ルジターニャ・パイシャオン」が8位になっている。

 ちなみに、ABBAがユーロビジョンコンテストで優勝した1974年。ポルトガルでは、その年の4月25日、カーネーション革命として独裁政権に終止符が打たれた。
VIT

(この文は2008年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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066. 風景画 -Paisagem-

2018-11-27 | 独言(ひとりごと)

 僕はこの20年間、ポルトガルの風景ばかりを描いてきた。
 ポルトガルに移り住んでも18年にもなる。思えば長い年月である。
 当初はこれほど長く描きつづけるとも思ってはいなかったし、これほど長く住みつづけるとも思っていなかった。ふり返るとあっと言う間の年月でもあった。

 でも決してポルトガルでなければならないと言うこともなかったと思うし、別の国でも良かったのだろうと思う。
 たまたまポルトガルという国を選んだにすぎない。
 そのたまたまが幸いしてこれほど長くなったのだろうと思う。
 もちろん、絵は風景でなければならないということもない。静物画でもよいし、人物画でも良い。或いは抽象画でも良かったのかも知れない。

 風景画というのは単なる写生ではない。
 その風景を借りて自己表現の手段なのだろうと思う。
 人それぞれ表現方法が違う。
 例えば友人と、或いは父と一緒に写生に出かけても、描きたいポイントが違う。
 切り取り方が違う。色彩が違う。空気が違う。
 同じ場所の筈が違った絵が出来上がってくる。それが個性なのだろうと思う。

 コローはどこから見てもコローだし、バルビゾン派のテオドール・ルソードービニーは構図の取りかたも色彩も独自。
 印象派のピサロシスレーモネブーダンが同じ場所を描いてもそれぞれが違う。
 野獣派ではマルケヴラマンクが同じフランスを描いているのに温度差が20度ほどもある。
 さらにユトリロ、ビュッフェ、コタボとその個性は広がる。
 サインを見なくても一目瞭然、誰の作品かが判る。

 僕は何度も同じ場所を描く。
 20年前に描いた風景を再び、三たび描く。
 でも明らかに表現が違う。その都度違っている。違った作品が出来上がってくる。
 20年の歳月が、時代の移り変わりが、心境の変化が絵に作用してくる。

 描きたいと思う風景の前に立った時、あらかじめその出来上がりが想像できる。
 いや、「この風景はこの様に描きたい」などと考える。でもいざ描き始めてみると想像とは全く違う方向に走ってしまう。まるでもう一人の自分が居る様に思うことすらある。それが面白いし心地よい。

 油彩というのは僕の場合、比較的ゆっくりのペースで描く。
 乾き具合などを確かめながら描きすすめていく。
 眺めている時間も長い。
 1日の作業を終えたとき、明日の作業が見えてくる。
 早く朝が来ないかと楽しみになる。その繰り返しで20年が経ってしまった。

 もちろん、1日中アトリエに篭っていると言うこともない。
 本を読んだり、パソコンの前に居たり、料理を手伝ったり。
 でも24時間いつも、今、描いている絵のことを考えている。

 迷うことも多い。
 以前に出した色を出したいと思う。
 なかなか出なくて苦労する。苦労している途中で違う色を発見する。
 焼き物を眺めたり、古い織物を見たり、ローマ時代の遺跡を訪れたりして心動かされる。
 絵に迷いが生じる。その迷いが新たな一歩となる。

 住みはじめた当初は「雨が降れば静物画を描こう」そしていずれ「人物画も」などとも思っていた。それがなかなか風景画から抜け出せないでいる。それどころかますますのめりこんでいる。
 そして常にポルトガルの風景の中に、自分自身の新たな道を模索しているのだ。
VIT

(この文は2008年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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065. 水と水道と水汲場 -Água, água encanada e chafariz-

2018-11-26 | 独言(ひとりごと)

 今年の日本列島どうしたことか、やたら地震が多発している。
 その度、ポルトガルテレビのニュースでも取りあげられるが、同時にアメリカと中国で洪水。さらにヨーロッパではウクライナ、ルーマニアそれに南ドイツでも洪水、と書いている矢先、日本でも梅雨が明けたばかりなのに大雨。六甲山の麓の川や金沢でも鉄砲水の被害。逆にアフリカやオーストラリアは慢性的な干ばつ。
 地球はどうなってしまっているのか考えている暇もないほど次から次だ。
 ポルトガルではここ数年、猛暑により、毎夏、山火事が多発していたのが、昨年、今年も今のところほとんどなくて、ひとまずほっとしている。でもギリシャで山火事。

 災害が起って最初に困るのが、ライフライン。
 水、電気、ガス、電話それに道路網。
 洪水で水が溢れても生活用水は別。断水が起る。

 断水といえば我が家もほとんど毎日何度か断水になる。
 断水といってもそれはほんの僅かな時間。5分からせいぜい長くても30分もすれば必ず出だすから心配はしていない。
 我が家は4階建てビルの4階だから皆が一斉に使えば水圧の関係で上まで上ってこないため。
 それはお隣さんも同じらしい。
 建物が古いため水圧が弱いとのこと。

 断水になれば全自動洗濯機は自動的に中断するし、食器洗いや野菜洗いの途中だと別の仕事をして後回しにすれば良い。
 洗剤で泡だらけの手の処理が少々困るが…
 たまに歯を磨いている途中で断水になることもあるがそれも困る。
 我が家では毎日、5リッターのペットボトル12本分の水を溜め置きしているので、その中からそれを使う。
 それ以外は出始めるのを待つだけだからほとんど溜め置きの水を使うこともない。

 断水といってもそんな感じだから断水とは言えないのかも知れないが、以前にはもっと本格的な断水がたびたびあった。

 我が家のすぐ裏というか、南向きのベランダのすぐ下、見下ろす位置に市の水道タンクがある。
 セトゥーバル市の家庭用水道の半分を担っている。
 コンクリートの建造物で直径40メートルほどの円形。少し斜面になったところにあるので、低いところで高さ3メートルほど、高いところは1メートルばかりの平らなタンク。
 格好の広さで、以前にはそこに少年たちが上ってサッカーに興じていた。
 周りの空き地は犬を連れた近所の人たちの散歩コースにもなっていたのだが、それが例の9,11以来テロを警戒してタンクの回りはフェンスで囲まれてしまった。
 アメリカで当時心配されたようにそこに毒物が放り込まれれば大惨事が起る。

 そのタンクに機械室の様な小屋が付属していて、僅かばかりモーターの音が聞こえる。
 それが止ってしまうと街じゅうが断水ということになる。
 以前にはそれがたびたび止まった。モーターが老朽化していたとのことだ。

 近隣市の消防署の30トンもの大型給水車が十数台も応援に駆けつけたこともあった。
 僕も5リッターペットボトル4本を持って行列に並んだ。
 一度などは3~4日もの断水で、街じゅうのスーパーのペットボトル入り水売り場は空っぽになった。
 僕たちは売れ残っていたガス入りの水、1,5リッター入り2本を仕方なく買って帰ったことがある。

 埒(らち)があかないのでレンタカーをして旅に出た。
 あの頃はクルマがなかったから仕方がないが、クルマのある家では街なかのあちこちにある昔ながらの水汲場で汲めば良い。
 もちろん歩いて行ける場所にそれがあればもっと良い。

 水汲場は昔のムーア人の知恵、標高差を利用しての設計で1日中ちょろちょろ水が流れ出る仕組みになっている。
 これを考え出した人も偉いが、作った社会や政治機構は素晴らしく、余程成熟した社会だったのだろうと想像できる。

 街なかだけに限らず郊外にもところどころに水汲場がある。
 評判の水汲場にはトランクにポリタンクをいっぱい積んだクルマが行列していたりする。
 コーヒーなどをいれる場合、市水道の水を使うより美味しい。それにただ(無料)だ。

 セトゥーバルからパルメラの丘を越えてモイタの露店市に向う途中、丘を下りたところでラゴイーニャという村を通る。
 何の変哲もない村だが、どっしりとした粘りのある旨いパンが評判で、その名が知れわたっている。
 その隣村で「オーリョス・デ・アグア」という村がある。

 オーリョス・デ・アグアとは泉という意味。
 直訳するとオーリョスは目、アグアは水。「水の目」だ。
 何だか水木しげるの世界を連想してしまうが、意味は美しい泉なのだ。
 泉というぐらいの地名だからよほど良い水が湧き出るらしい。
 道路わきに水汲場があり、タンクを積んだクルマが時々停まる。
 我々も何度かそのオーリョス・デ・アグアの水を汲んで持ち帰った。
 確かにお茶やコーヒーは美味しく出来たような気がする。

 でも我が家は4階。その5リッターのペットボトルを幾つも持ち上げるのは大変。
 それほどまでしなくてもセトゥーバルの水道水もまあまあ旨い。
 アラビダ山の湧き水が原水だからだろう。
 時々の断水はあるものの、蛇口をひねればほとばしり出る水道水がありがたい。

 ソマリアでは30分もかけて汚れた水を汲みに行く小さな少女の姿がテレビに映った。
 家にたどり着けば汲んだ水は途中でこぼれて半分に減っている。
 政治の責任だとは思うが、同じ時代、同じ地球上であまりの格差に言葉を失ってしまう。
VIT

(この文は2008年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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064. 数 -Quantidade-

2018-11-25 | 独言(ひとりごと)

 今年も箱に入った鉛筆を日本から仕入れてきた。
 ごくありふれた昔ながらの深緑色に金文字の三菱鉛筆。安いし、これが僕には使い勝手が良い。1箱に12本、1ダースが入っている。それを2箱、2ダース分。
 当然のことだが鉛筆は1ダース、2ダースと数える。考えてみると日本で他にダース単位で数える物が少ないように思う。

 ポルトガルではセトゥーバルの名物料理「ショコフリット」(モンゴイカのから揚げ)を注文する場合、ウンドース(1ダース/2人前)、メイオドース(半ダース/1人前)という言い方をする。

 スーパーで買う鶏卵も1ダースか2ダースのパックに入って売られている。メルカドのばら売り卵でも1ダース幾らの値段だ。
 日本の卵は10個入りパックだ。と思っていたら、今年は何と8個入りのパックが登場していた。隣で買っていたおじさんも「値段を上げにくいから数を減らしたんやね。」と苦笑い。

 ポルトガルに限らず欧米にはまだまだダース単位で数える物が少なくない。
 秋、町角に登場する焼き栗は1人前12個をイエローページに包んでくれる。小さいから1個おまけで13個ということはないし、大きいから11個と言うこともない。大小取り混ぜ、必ず1人前は1ダースだ。イエローページの1枚を破って円錐状に丸めた中に、「ウン、ドイス、トゥレス、クワトロ、シンコ、セイス、セッテ、オイト、ノヴ、デス、オーンス、ドース。」と口ずさみながら放り込んでいく。
 落語の「時蕎麦」ではないが、数えている途中で時間を聞いてみても面白いかも知れない。
 「おっちゃん、今、何時?」
 「ケ・オーラシュ・サォン・アゴラ?セニョール」 [Que horas são agora? Sr.]

 フランスのエスカルゴ(カタツムリ)は1人前が半ダース。ガーリックバターを詰め込んで天火で香ばしく焼く。それ専用の6個分がくぼみのある器に出てくる。専用の掴む道具と専用のほじくる道具を駆使して頂く。もう1個食べたいと思っても、くぼみは6個しかない。増やしようもないし、減らしようもない。

 洋食器が6客1揃えなのに対して、和食器は5客1揃えだ。日本では6個、12個という数はどうもなじみにくいのかもしれない。10進法が良い。

 10進法なら単価計算がたやすい。暗算でできる。日本のスーパーの、卵の単価は一目瞭然だ。1パック198円の卵の単価は19円80銭。1ダース(12個)で1個の単価を出すには僕には電卓がいる。

 焼き栗の単価が幾らになるか考えながら食べるポルトガル人は恐らくいない。

 でも確か日本でも、瓶ビールのコンテナ箱は2ダース(24本)入りだ。缶ビールも1箱2ダース入りではなかったか?鉛筆以外にも1ダース、2ダースという単位は残っていたのだ。

 先日、宮崎での個展を終え、黄金週間のほとぼりがさめた頃、大阪の実家で8日間を過した。

 ポルトガルでは普段、晩酌に安いワインを飲む。ワインは1本、750ミリリットル。
 帰国時、宮崎では「霧島焼酎」を飲むのを楽しみにしている。焼酎は1升1,8リットル。
 大阪では大瓶の瓶ビールだ。父と差しむかえで飲むのが嬉しい。これが633ミリリットルで中途半端な分量だ。

 歩いて3分、今川を超えたすみれ橋のたもとに量販酒店が出来ている。何時も冷えたのが売られていて便利だ。

 大阪ではビールを飲むせいか、新陳代謝が盛んになり、毎朝早く5時頃には目が醒めた。
 蒸し暑い時季、朝の散歩は気持ちが良い。今川の中洲、漆堤公園での朝の体操にも参加した。その前後2~3時間も歩いた。万歩計を付けていたら相当の歩数を稼いでいた筈だが、以前に3個もの万歩計を壊している。どうも僕と万歩計は相性が良くないようだ。
 毎朝、桑津神社にお賽銭をあげにも立ち寄った。

 同級生の家なども探してみたが、殆どの表札が代っていた。
 母校桑津小学校の敷地内から最近《重要な遺跡が出土した》と校門のところに表示されてあった。あのあたりはどこを掘ってもちょっとした遺跡が出てくる様だ。歩くといろんな発見がある。

 漆堤公園の先にある白鷺公園にも行ってみた。小学生の時に夢中でローラースケートの練習をしたところだ。
 元々白鷺公園は田んぼや畑のど真ん中にあった不思議な公園で、戦前にはどこかの財閥の持ち物だったのか?広大な西洋式庭園風の公園で、その公園の中心部に噴水跡があった。水がなく、コンクリートの円形で、直径10メートル程の、からのプールの様な場所が僕の格好の練習場だった。練習して練習して、鉄の車輪が薄く磨り減ってしまっていた。ローラー(散弾)が車輪から飛び出し、前につんのめって転倒し右足首を複雑骨折してしまった。そんな思い出の公園だ。

 噴水跡は今はもう既になかった。
 そのあたりは高い金網に囲まれた野球場になっていて、本格的なユニホームに身を包んだ中高年が入り混じって早朝野球が始まろうとしていた。そこに若い母親に「早くしなさい!」などと叱咤され、中学生くらいの兄弟らしき少年が目をこすりながらのろのろとグラウンドに入っていった。数が足りなくて駆り出されたのかも知れない。僕も子供の頃はいつも駆り出された口だが、チームの足を引っ張るだけの存在に違いはなかった。でも彼ら兄弟は僕とは違って、いかにも戦力になりそうに見えた。

 先では2~30人の人達が扇状になってラジオ体操をやっている。僕も早速、最後列に加わった。ラジオ体操第1が終わって、リーダー役の人がラジカセを担いでどこかに行ってしまった。「えっ、第2はないの?物足りないな~」と思っていたら、間髪を入れずリーダーが入れ替わった。
 こんどは柔軟体操だ。
 ところがこれが10進法なのだ。
 体操は音楽と同じリズムで4拍子、8拍子が心地よいのだろうと思う。

 いち、にい、さん、し、ご、ろく、ひち、はち。にい、に、さん、し、ご、ろく、ひち、はち。さん、に、さん、し、ご、ろく、ひち、はち。しい、に、さん、し、ご、ろく、ひち、はち。とやるのが普通だろうと思う。

 ところが、このリーダーは1,2,3,4,5,6,7,8,9,10.とやる。その繰り返しだ。
 体操で10拍子はやりにくくはないのだろうか。2つに分けると5拍子、5拍子になる。体操は音楽と同じで4拍子、8拍子が良い。
 3拍子ならワルツで「アン、ドゥ、トロァ。アン、ドゥ、トロァ」などと数えれば、優雅な体操になるのかも知れないが、5拍子ではずっこけてしまう。
 いち、に、さん、しー、ごぉ。ろく、ひち、はち、くぅ、じゅう。まあ、出来なくはないが何だか字あまり的で、良く言えば前衛的だ。

 かつてジャズのデイブ・ブルーベックは5拍子を編み出して注目を浴びた。「テイク・ファイヴ」だ。歴史的名曲として後世にも残っている。

 でもテイク・ファイヴ(5拍子)で体操は馴染めない。僕は白鷺公園の柔軟体操で関節が外れそうになっていた。VIT

(この文は2008年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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063. ステファンの仏蘭西料理店 -La Vache au Plafond-

2018-11-24 | 独言(ひとりごと)

 実は、昨年10月からこの2月まで、セトゥーバル市が主催する「外国人のためのポルトガル語教室」に参加していた。月曜と木曜の週2回、2時間ずつ。
 予習をかなりやってもついてゆくのがやっと、レベルの高い授業内容、復習までは手が回らずだが、密度濃いこの5ヶ月間を過していた。そしてこの程無事、マリア・ルイス先生とセトゥーバル市長の直筆サイン入り修了証書を手にした。

 当初の募集人員は15名で、僕たちはぎりぎり滑り込みで入学許可。僕が15番、MUZは16番の補欠入学。
 でも最初の1日だけ来て辞めた人が2人。(教科書だけを貰いに来たのかもしれない。)5~6回来て、仕事が忙しくなったのか、来なくなった人が2人。
 最後まで残ったのはフランス人とウクライナ人が2人ずつ、モルドバ人、ハンガリー人、ケニヤ人、ロシア人、タイ人それぞれ1人ずつ、そして僕たち日本人の2人。その11人が一緒にめでたく終了証書まで漕ぎつけた。

 その内の一人がステファン。僕とステファンはクラスで2人だけの男性生徒だった。

 ステファンはパリ生れのフランス人。
 若い頃から随分といろんな国で修行をしたという。
 アメリカでも仕事の経験があるので、フランス訛りもなく英語も達者。

 奥さんの郷里ポルトガルに自分の店を開いてようやく1年。なかなか経営的には厳しいものがある様だがこれからなのだろう。

 「一度食べに行くよ」と言うと、「今度ファド・ライブをやるから、その時にでもどぉ?」と言うのでそうすることにした。
 地図を描いてくれたが、場所はよく知っている、いつもコピーをしに行くボンフィム商業センターの横手。
 入ったことはなかったが、セトゥーバルで一番古い中華レストラン「バンブー」のあったところだ。そのバンブーが店じまいをしたので、その後を借り受けたらしい。


01.店内のインテリア。

 僕にはその店の壁を使って「個展をしないか。」と言う話なのだが…、まあ、するしないは別にしてたまにはフランス料理を食べに行くのも悪くはない。
 ファドも久しぶりだ。リスボンまで出かけてファドとなると大変だが、セトゥーバルなら帰りが楽だ。

 ただ困ったことに店の名前が「La Vache au Plafond」。
 「La Vache」はフランス語で牝牛、と言うことは牛肉専門店なのだろうか。僕たちはこのところ牛肉は食べないことにしている。

 ステファンは牛肉以外に「豚も羊も鴨も鶏も魚も野菜も何でもあるよ。」「勿論、バカリャウ(鱈)も」と強調した。
 以前に授業で各人が好きな食材を使って「料理のレシピ」を作ると言う時に、僕はバカリャウ料理のレシピを作ったのだが、それを憶えていたのだろうか。

 ファド・ライブが始まるまでに食事を済ませておこうと思って早めに出かけた。既に一組の家族連れが大テーブルに陣取っていて、僕たちが2番乗りだ。
 ライブは9時半から始まる。その日は予約で満席とのことだった。
 キッチンからステファンが僕たちの席にやってきて「バカリャウで良いだろう」と言って慌しく引っ込んでしまった。
 メニューも持ってこないし…。
 バカリャウと言うとポルトガル料理の代表だが、フランス料理でもバカリャウは使う。
 以前にポンタヴァンでも鱈料理なら食べた。
 まあ、嫌いな食材ではないので、「良し」とした。
 前菜にフランス料理らしくクレープが運ばれてきた。
 マッシュルーム・ソースが包んであってなかなか旨い、が少し焦げすぎだ。
 ステファンはキッチンで一人おおわらわなのだろう。
 ワインはソムリエかワイン業者の宣伝販売員かは知らないが、テーブルに来て、ポルトガル・アレンテージョの赤と白を試飲で一杯ずつ。僕にはそれだけでもう充分。

 同級生、タイ人のスプラニーさんがご主人とやってきたので、僕たちのテーブルに隣のテーブルをくっつけて同席をした。
 ご主人はポルトガル人であるが、スプラニーさんとの日常会話は英語とのこと。
 ステファンの奥さんもポルトガル人だがやはり日常会話はフランス語。
 ハンガリー人のベアトリスのご主人もポルトガル人だが普段は英語で喋っているらしい。
 でも僕たち日本人同士などと違って、ポルトガル人が連れ合いならポルトガル語の上達の速さは目に見えている。
 教室ではポルトガル語しか喋らないが、外では皆、僕たちに対しても思いっきり英語を喋る。

 そしてやがて運ばれてきた主皿は茹でたバカリャウ。
 それに茹でたジャガイモ、人参、ブロッコリなどが無造作に散らばらせて大皿に乗っている。
 バカリャウはちょっと塩を抜きすぎかなと思ったが、それ程悪くはない。只、温かさがない。少し冷め過ぎているのが惜しい。デザートにはジャム付きアイスクリーム。

 だが他の席を見てみると、全員が同じメニューなのだ。
 有無も言わせず同じクレープが、同じバカリャウが、同じアイスクリームがテーブルに運ばれていく。
 スプラニーさんは「きょうは昼も同じバカリャウを食べたところなのよ」と嘆いていた。

 前菜とデザートはともかく主菜は肉か魚かの2種類位からチョイスできたら良かったのに…。

 一人でいっときに大勢の調理は大変だから、きょうステファンはバカリャウ1本に纏めたのだ。まあ、ステファンらしいやりかただ。

02.ファド当夜の店内。

 一方、ファドはと言うと女性ファディスタとギタリストの男性が交代で唄った。セトゥーバルの出身だがいつもはリスボンの店で唄っているプロ歌手とのことだ。
 お客もファド・ファンばかりと見えて皆一緒に歌っている。
 僕たちは、翌朝早くからリスボンに行かなければならない用事があったので、ファド・ライブは2ステージほど観て早々に退散。
 あとで聞いた話では夜遅くになってから随分と盛り上がったらしい。僕たちは最近、夜がめっぽう苦手になっている。

 ファド・ライブの入場料が20ユーロで食事は別と思っていたら、なんと食事込みの値段。客の全員がバカリャウの一律とは言え安すぎる。これでは儲けがあるのだろうか?

 そんなファド・ライブからしばらく経ったある日、昼食に出かけた。
 今度はメニューをじっくりと見た。
 やはり牛肉料理がメインだが、一応、豚も羊も鴨も鶏も魚も野菜もある。しかし、何故かバカリャウは見あたらなかった。バカリャウはあの晩だけの特別料理だったのだろうか。安心して鴨と豚料理を頼んだ。

 メニューには前菜ではクレープがずらりと並んでいたので、その中から3種のフランスチーズ入りクレープ。
 クレープも良かったし、鴨も豚もなかなかのものだった。付け合せのジャガイモもラタトーユもまあまあ。
 デザートは砂糖煮の洋ナシの中にアイスクリーム、温めたチョコレートをかけ、炒ったアーモンドスライスを振りかけたもの。名前は忘れた。
 料理のコメントほど難しいものはないので、写真をどうぞ。

03.パンとそれに塗るパテ。

04.前菜のクレープ。

 

05.鴨料理。

 

06.豚肉料理。



07.ジャガイモとソース。

 

08.デザートのアイスクリーム。

 食事の後、ステファンはテーブルに来て夢を語った。
 「時々はライブをやろうと思っている。来月はベアトリス(ハープ)と夫、ジョージ(フルート)のデュオ」(ベアトリスもクラスメート。ハンガリー人で夫のジョージと同じリスボンのシンフォニー楽団員だ)「それにジャズも。勿論、ファドもね。」
 ステファンの両親の住むフランス・リモージュでは一定の期間、街じゅうのレストランが協力して展覧会をするのだそうだ。
 「そんなことも出来たらいいな」とも語っていた。

 料理の値段も安く、夜のライブでも、昼のランチにも、日本から戻ってきたら1ヶ月に1~2度は行っても良いかなと思うステファンの仏蘭西料理店である。

La Vache au Plafond Rua de Mormugão,22 2900-504 Setubal Tel.265-553-384
月曜~土曜営業 [10:00-23:00] 日曜定休 (2018年現在は閉店)

VIT

 

(この文は2008年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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062. ペットシュガーコレクション -Saco de Açúcar-

2018-11-23 | 独言(ひとりごと)

 以前に切手コレクションのことを書いたが、いろんなところで実に様々な物のコレクションを楽しむ人が多いのに驚かされる。
 突然日本に住む全く知らない人から、「ポルトガルのキオスクで売られている何々を送ってくれませんか?」などというメールが届くことがある。
 フィギュアの一種らしいが僕には皆目判らないので丁重にお断りせざるを得ない。
 セトゥーバルの蚤の市にもそんなフィギュアの山が置かれてあったりする。どこかのコレクターが放出したものだろう。
 蚤の市にはフィギュアや切手、コイン、テレフォンカード、(昨年、帰国中にある人から貴重なテレフォンカードのコレクションを頂いた。「ダブっているものを」とのことであった。僕は別にテレフォンカードのコレクションはしていないが、出身高校の貴重なテレフォンカード等も混ざっていて大切に取っておこうと思っている。)
 それ等の他に煙草のパイプ、ペーパーナイフ、万年筆など高価なもの、(リスボンのグルベンキャン美術館には江戸時代の印籠のコレクションが揃っている。)指貫のコレクション、キーホルダー、コルクスクリューバー、栓抜き、胡桃割り、デミタスカップ。
 デミタスカップはいろんな窯元がそれ様に繊細な模様を施して売られている物もあるが、コーヒーメーカーのロゴ入り。時代によってデザインも変化するから集め甲斐があるのだろう。
 それにサッカーチームのグッズ。

 ジャズのレコード、今ならCDだろうが、何千枚と蒐集する。
 映画のビデオ。録画するだけして観る時間がない。
 いずれ暇ができたらゆっくり観ようと、深夜テレビを留守録で限りなく蒐集する。暇が出来る前にその重みで家の床が抜けるらしい。

 日本ではぐい飲みをコレクションする人も多い。
 コレクションにはかさばらないことが条件なのかも知れない。
 ぐい飲みなら100個集めてもたいしてかさばらないが、土瓶を100個集めるには先ず蔵が必要だ。
 でもそう考える人は蒐集家にはなり得ない。
 浮世絵で日本でも有数で、国宝級のコレクションもたくさん集めていたある人の住まいは実に質素なものだった。という話を聞いたことがある。

 僕も子供の頃から何でも溜め込むのが好きで、いろんな物をコレクションした経験がある。
 切手は勿論、新聞の題字もコレクションしていたこともある。大手の新聞だけなら少しだが、業界新聞や地方新聞など集め甲斐はあった。海外の新聞まではその頃はまだ手だてがなかった。でもどれもこれもそれ程熱心ではなく、いい加減なものだったのだが…

 日本ではかつて喫茶店のマッチをコレクションする人も少なくなかった。今は世界的にも禁煙の傾向だし、喫茶店でもマッチを作るところは少なくなっているのかもしれない。
 ポルトガルでは店のマッチなどはあまりないのだろうと思う。それに「マッチのコレクションをすると彼女が出来ない」などという風評もあった。ある程度、当たらずも遠からずの様な気もする。

 自分では集めるのも大変だし、管理も大変な昆虫のコレクションをしかけたこともあるが、すぐに断念した。
 箕面(みのお)にあった昆虫博物館を見学するのが大好きだった。
 今でもヨーロッパの昆虫博物館を訪れるのは好きである。例えばオランダの昆虫博物館の展示のセンスの良さなど観ていて飽きない。

 蝶々のコレクションとはそれを標本にする訳だが、飛び回ったあとの蝶よりも羽化してすぐが色も形も美しい。採集に出かけてもなかなかそんな場面には遭遇できない。そこで自宅で卵から育てて羽化させる。
 蝶の幼虫にはそれぞれ食べる植物が異なる。例えば国の天然記念物、ギフチョウの場合はカンアオイを食べる。カンアオイが新芽を出して上に向って伸びようとする時期に立ち上がったその葉裏に卵を産み付ける。産み付けた後、新葉は広がり葉裏は陰になり、他から卵は見えにくくなり保護になる。卵からかえった幼虫はカンアオイの葉を食べ成長する。(徳川の「葵の御紋」を食べるのだ。)実に自然界はうまくできているものだと感心する。ギフチョウの立派な標本を作ろうと思えば、まず自宅にカンアオイ畑を作らなければならない。

 そのカンアオイも奥が深くて集め始めたらきりがない。
 地域によりはっきりと種が異なり1万年も前から殆ど同じ場所から移動しない。だから地域差があり種類が多い。株元ぎりぎりに地味な渋い花を咲かせる。種(たね)は飛ばない。媒体は森のナメクジかカタツムリなのだ。
 蝶をあきらめてカンアオイ蒐集に転向する人もいる。
 カンアオイ蒐集からカタツムリ蒐集に向う人もいる。
 カタツムリなどを集め始めた日には「マイマイ、マイマイ」などと口走って、他人から見ると気がふれたとしか思えない。

 先日「3月から日本に帰る」と言ったら、僕たちのポルトガル語の先生、マリア・ルイス女史から「お願い、日本のペットシュガーを持って帰ってきて~」と頼まれた。コレクションしているのだそうだ。

01.
 カフェでコーヒーを注文するとカップソーサーにペットシュガーが乗ってくる。
 ポルトガルのペットシュガーはたいていがコーヒーメーカーのロゴ入りで、時々図柄が変るし、何らかの広告が入っていることもあって、デザイン的にも蒐集癖をそそる。
 でも一旦、蟻がたかろうものなら大変な騒ぎになるのだろう。想像するだけで「止めておこう」と思ってしまう。空袋だけなら面白くない、やはり未使用が必要なのだ。

 僕はコーヒーはブラックで飲むのでペットシュガーは残る。
 そのままテーブルに置いてくることが殆どだが、何となく持ち帰ることもある。
 一旦出されたペットシュガーはテーブルに残しておくとそのままゴミ箱送りになる。
 勿体ないという考えと何となくデザインにそそられるのとで持ち帰る。
 MUZは「みっともないのでやめといてっ」と言うが…

 勿論蒐集までは考えていないが、幾つかが貯まっている。

 マリア・ルイス女史はそれをコレクションしていると聞いて嬉しくなった。
 ただ日本のペットシュガーはポルトガルの程は面白くはないのだろうと思う。あまり関心をもって眺めたこともないが。でも日本に帰国する楽しみ(仕事)がまた一つ増えた。
VIT

ポルトガルのペットシュガー

 

02.

 

03.

 

04.

 

05.

 

(この文は2008年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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061. エヴォラとディアナの神殿 -Evora e Templo de Diana-

2018-11-22 | 独言(ひとりごと)

 エヴォラはセトゥーバルから東に2時間半ばかり走ったアレンテージョ地方の中核都市だ。
 すっぽりと堅牢な城壁に囲まれ城門の中は細い石畳の急勾配の坂道が縦横に交錯する。
世界中から多くの観光客が訪れる1級の観光地だが、現代の生活空間としても立派に機能している人口5万の街。
 その旧市街地区の幾つかの建造物と精霊信仰巨石文化遺跡群(イギリスのストーン・ヘンジやブルターニュのカルナックよりも更に2000年古い、紀元前5000年)などを含め、1986年にユネスコの世界遺産に登録されている。

 僕もエヴォラには今まで数え切れないほど訪れているが、実はあまり絵にはなっていない。
 ほんの数えるほどだ。
 魅力のある町なのだが、絵にはなりにくい。僕にはそういった町もある。
 でも「今日こそは絵になるスケッチを物にするぞ~」と勢い込んで家を出た。

 エヴォラ Evora の発祥は古く、紀元前に遡る。
 紀元前900年頃、中央ヨーロッパからゲルマン人に追われたケルト人たちが住み着き、先住のイベロ人と融合、「エブロブリティウムEburobrittium」と呼んだのがエヴォラの語源とされている。
 ケルト語でエブリアヌスEburianusとは崇拝の対象になる言葉で、エブロスEburosはいちいの木を指す。
 日本でもいちい(櫟)の木は一位の木とも書き、縁起もよく神聖な木とされ神社などにも多く見られると聞いた。
 古来ケルト民族ではいちいの木で弓を作るのが慣わしとされた。雨風にも強く、狂いが生じにくい。高木針葉樹で赤い実がなる。

01. 当写真はサイト「BotanicalGarden」から拝借しました。

 赤い実は食べられるが種には毒がある。樹液にも毒があり、その樹液を矢じりに塗る。

 ローマ統治時代、豊かな土地エヴォラには豊富に穀物が実った。穀物はパンになる。
 ローマ人たちはこの都市をケルト語源のそのままを受け継ぎエボラ・セレアリスEbora Cerealisと名づけた。
 セレアリスはポルトガル語で穀物という意味である。

 そしてアウグスト皇帝を讃え、遥か穀倉地帯を見晴らせる中心部の丘の頂に神殿を建てた。
 狩の女神「ディアナの神殿」と人々は呼んだ。
 狩は穀物を守るのにも必要であったし、お陰でいのしし、鹿、野うさぎなど獲物がたくさん獲れた。

02.
 ディアナの神殿は紀元1世紀に建てられたコリント様式の神殿である。
 その台座部分、舞台はほぼ完全な形で残されているが、南側の階段部分は崩壊している。
 長さが25メートル、幅15メートル、高さは3,5メートルあり、エヴォラで産する御影石でなり、礎石はきれいに直角に切られぴっちりと組まれ僅かな隙間も見受けられない。中間部分にもきっちりとくさび石が打たれ隙間はない。そしてその上部には張り出した石列が3方を取り巻いている。

03.
 その舞台の上の北側には6本の完全な石柱と東側にも4本の完全な石柱。西側は2本が完全で、他の2本には柱頭がなく、もう一つ円形台座のみが残されている。
 柱もエヴォラの御影石で、縦に深い溝が彫られている。そしてそれは7個の石材が積み重ねられた構造になっているが、その石材の個々の長さがそれぞれ微妙に異なる。
しかし7個を繋ぎ合わせた高さは6,2メーターと揃っている。

04.

05.
 舞台と柱が御影石なのに対し、円形台座と柱頭は白亜大理石が使われている。隣町のエストレモスから運ばれた大理石だ。
 柱頭には精巧なレリーフが施されている。葉アザミが3段に整頓されて彫られ、その上部に頂板が飾られ、それぞれ四方の中心にはキンセンカ、ひまわり、薔薇などが施されている。そしてその上に梁となる御影石の切石が渡されている。

06.
 2000年の風雨にさらされてもなお威厳を保ち続けるポルトガルを代表する遺跡建造物の一つである。

 7000年前のアルメンドレス巨石遺跡から始まって、このディアナの神殿、張り巡らされた城壁、水道橋、ローマ浴場跡、カテドラル、修道院、ジラルド広場等々、「エヴォラ歴史地区」として世界遺産に登録された建造物その全てが石によるものである。まさに石の文化、石の上で繰り広げられた歴史そのものなのだ。

 ディアナの神殿の前のカフェに座ってコーヒーを飲みながら、ツーリスモ(観光案内所)でもらったパンフレットを眺め、遥か古(いにしえ)に思いを馳せる。

 内陸部エヴォラは海沿いのセトゥーバルなどに比べ、夏はより暑く、冬にはいっそう冷え込む。
 今日は天気が良い分、放射冷却現象で気温が低い。又また難敵エヴォラのスケッチはお預けになりそうだ。

VIT



07.

(この文は2008年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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060. フランスの田舎・メイエ村にて-Meillers-

2018-11-21 | 旅日記

 「そろそろフランス旅行の計画をたてようかな。」と思いはじめていた頃に<パリのIKUOさん>からメールを頂いた。
 「毎年出品のためにパリに来ているのでしょう?一度パリで逢いませんか。」さらに「良かったらメイエ村まで来ませんか。」と言った内容。早速お言葉に甘えてメイエ村を中心にして旅の計画をたてることにした。

1.
 IKUOさんの名前は僕が高校生の頃から友達を通して耳にしていた。彼も僕も海外に出る以前の話だ。
 そして1972年に一度パリでちらっとお会いしている筈。
 1975年頃だったか、そのIKUOさんのことを高校生の頃から話していた友人が仕事でパリに来て僕の大学の先輩から僕の居場所を聞いたとのことで、突然、パリから僕の住んでいたストックホルムを訪ねてくれた。
 なぜその両者が知り合いなのか不思議だったが、接点はIKUOさんだった。
 それから実に30年以上の年月が経過している。

 最近になりインターネットのお陰でIKUOさんと直接連絡がつくようになった。
 今年と2年前の大阪髙島屋での僕の個展会場には彼が訪ねてくれた。
 IKUOさんはパリが本拠地だが、銀座にもお店があり、かなりの頻度で帰国されている。

2.
 彼は最初からパリにどっかと根を下ろし、かなり早く若い時期から「IKUO・PARIS」のブランドでジュエリー・デザイナーとして成功されている。
 その彼はフランスの田舎、メイエ村に17年前に広い農場を買い取られ、少しずつ改築してフランスでの田舎生活も楽しんでおられる。
 田舎でも仕事をし、その田舎暮らしからさらにジュエリーデザインのインスピレーションが広がるのだそうだ。

 その人柄、仕事ぶり、人生観に共鳴する人たちも多く、たくさんの友人たちがメイエ村を訪れる。

3.
 僕もホームページを通じてメイエ村のことは少しは見ていたけれど、今回、初めてお邪魔させて頂くことにした。

 ポルトガルからパリに着いてサロン・ドートンヌ用の絵をムッシュ・Mに預けて、それからメイエ村に行っても夜が遅くなってしまうので、先ずその日は1時間か2時間以内で行けるところまで行くことにした。
 2時間ならリヨンがそれにあたる。
 メイエ村よりは距離的には遠いがTGVならド・ゴール空港駅から直接乗ることができる。

4.
 リヨンからはメイエ村の最寄駅、ムーランにも列車が通じているし、今回の旅はそのコースに決めた。
 それに僕がフランスに行くことの大きな楽しみは美術館鑑賞である。パリではない、地方美術館にはそこにしかない絵が埋もれている。そういったものを少しずつでも観たい。
 リヨンは大都市だ、せっかくだからリヨンで3泊をすることにした。
 そのリヨンと「リヨン美術館」についてはいずれ別の機会に書きたいと思っている。

 3日後、リヨンから列車で3時間たらずでムーランに着いた。IKUOさんとロベールさんが駅まで出迎えてくれた。

5.
 例年ならこの時期、フランスの気温はポルトガルより10度低い。
 でも今年のポルトガルがいつもより暖かかったせいか、15度もの温度差だ。
 安かったこともあり、思わずリヨンの露店市で毛糸の帽子と手袋を買ってしまった。

 毛糸の帽子を目深に被り、手袋をはめて、深い霧のメイエ村を散策した。
 紅葉が実に美しい。
 佐伯祐三が描いた様な大屋根の農家が黄葉の中に点在している。
 僕は今のところポルトガル以外は描かないことに決めているが、メイエ村周辺には絵になるところが至るところにある。

6.
 ブナの深い森、サップグリン、クロムイエロ、イエロオーカ、ヴァミリオン、ライトレッド、クリムソンレーキと様々な色がしかもそれぞれの色の明度を一段深くした様な渋い色の重なり、樹木の響きあい、枯れ落ちた小枝や腐葉土を踏みしめる感触。
 オゾンをいっぱいに吸いながらの森林浴、セップ狩り。
 羊がこちらを見ているのに目が合う。遠くでシャロレーという真白い牛が豊かで鮮やかな緑の草を食む。
 樹々や大屋根が漆黒のシルエットをつくり、地平線に太陽が落ちてゆく。
 僕の好きなテオドール・ルソーやドービニーそれにコローやミレーの絵の世界に迷い込んだ様だ。
 さらにはユージーヌ・ブーダンやモネ。
 ポルトガルでは味わえない色合い、大気、質感、匂い、音が共鳴し、バルビゾン派そしてそれに続く印象派を感じさせずにはいられない。

7.
 この様な大気の中だからこそ近代絵画が生れたのかも知れない。などと思ってしまう。
 イタリア・ルネサンスの衰退がなければ、フォンテーヌ・ブローにもし流れが移っていなければ、歴史に<もし>はないけれど、美術の流れは今とは違うものになっていた筈だ。

 美術史に関する本を読み漁り、観たくなればいつでも美術館に足を運ぶ、そしてたまには絵を描く。
 こんな中で近代美術史を研究できれば楽しいだろうな、などとも夢想する。

 メイエ村のIKUOさん宅では、樫の木の大きな梁を見ながら、暖炉のマキのはぜる音を聞きながら会話を楽しみ、庭で出来たという胡桃をあてにアペリティフ。
 可愛いリスの訪問も受け、夢心地の3日間を楽しませて頂きました。

VIT

8.

 

9.サロン・ドートンヌのベルニサージュでピアノコンサート。後ろは僕の作品。

 

(この文は2007年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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059. 道の名前 -Rua e Avenida-

2018-11-20 | 独言(ひとりごと)

 日本では通りの名前と住所は必ずしも一致しないのでやっかいだ。
 タクシーに乗って住所を言っても行ってくれない。
 その点、欧米では通りの名前がそのまま住所になっているから、一目瞭然。
 例えば「ヴァスコ・ダ・ガマ通り15番地」という住所は一つの入り口しかない。

 「御堂筋」は北の大阪駅から南下してなんばの髙島屋が終点。
 それは誰でもが知っているが、御堂筋という住所は恐らくないのかもしれない。
 逆に「銀座通り」に面していなくても銀座何丁目何番地という住所は存在する。

 パリのラファイエット通り何番地という住所だと必ず、ラファイエット通りに面している。
 タクシーの運転手に「ラファイエット通りまで」と言っても、「ラファイエットのどちらまで?」とか「何番地まで?」とか必ず聞かれる。
 番地によって随分と道順が違ってくるから、聞くまでは発車できないのだ。

 ニューヨークのブロードウエーはマンハッタンを南北に貫いている長い通りだ。
 同じようにタクシーの運転手に「ブロードウエーまで」と言っても、運転手は困ってしまう。
 「ミュージカルを観たいから」と言えば「ああ何番地くらいのところ」とすぐにわかる。
 ブロードウエーもアップタウンまで行くとハーレムのあたりを越してしまい、とんでもないところまで貫いている。恐らくマンハッタンで一番長い道だ。

 ポルトガルも日本と違い他の欧米とほぼ同じやりかただ。
 番地は向かいどうしで偶数と奇数になっているから判りやすい。
 そして市の中心に近いほうから番地が始まる。

 道の名前には人の名前が良く使われている。
 その土地に功績を残した人の名であったり、歴史上有名な人物であったり、詩人、文学者、音楽家、画家、医者、政治家、軍人など様々だ。それに聖職者、聖人を忘れてはならない。

01.「サン・フランシスコ・ザビエル通り」の表示

02.「ヴァスコ・ダ・ガマ通り」

03.「ヴァスコ・ダ・ガマ通り」の表示板

 セトゥーバルにはヴァスコ・ダ・ガマ通りやサン・フランシスコ・ザビエル通りなどもあるが、知人のご主人の名前と同じ通り名があるので聞いてみると、そのご主人のお父さんの名前とのことであった。教育者としてセトゥーバルに功績を残した人らしい。
 その他に、モザンビーク通り、アンゴラ通り、ギネ・ビサウ通り、ブラジル通りなどかつての植民地などの名前もある。

 フランスのグレ・シュル・ロワンには日本の近代絵画に大きな功績を残した「黒田清輝通り」がある。しばらくはこの地に住み、この地で描いた作品が東京の国立近代美術館や国立博物館などに多く残されているし、教科書などでもお馴染みの絵ばかりだ。

 

04.「黒田清輝通り」の表示板

05.黒田清輝が住んでいたグレ・シュル・ロアンの家


 ポルトガルで面白いのは祭日が通り名になっていること。
 それも「革命記念日通り」とか「共和国制定通り」とかと言うのではなくて、「4月25日通り」とか「10月5日通り」という祭日の日にちが名前。
 他にも「8月1日通り」「3月28日通り」「12月1日通り」「5月1日通り」などいろいろとある。

06.「10月5日通り」の表示板

07.「5月1日通り」

08.「5月1日通り」の表示板


 普段、祭日とは関係のない生活をしている者にとって、うっかり祭日を忘れて買い物に出かけたりする。
 店が閉まっていて「ああそうか、今日はシンコ・デ・オウトブロ(10月5日)か~」などと気付く時もある。

 日本では土地名が替わることがあって、それについては賛否両論あるようだが、ポルトガルでも通り名は時代によって替わることもあるらしい。革命や政変によっても替わる。通り表示には小さく旧名も書かれている。

 先日、ジョゼ・モゥリーニョがイングランド・プレミア・サッカーチーム、チェルシーの監督を辞めた。チェルシーから莫大な違約金が支払われて話題にもなったし、次の動向も注目されている。世界で一級クラスとの誉れも高い監督であるが、セトゥーバルの出身である。
 我が家から少し下った下町あたりに生家があるらしい。
 たぶんサッカークラブのカフェをやっている家だろうと思う。
 その通りは「城に沿った道」という通り名になっているが、城には沿っていないように思う。
 或いは「城と並行に走る道」と訳せるだろうか?
 確かに城とは並行かも知れないが、城からは少し遠いし無理な命名ではなかろうか?それに城にちなんだ名前は他にも多くて紛らわしい。そしてスペルが長ったらしい。
 これはいずれ名前が替わる?替わると思う。「ジョゼ・モゥリーニョ通り」に。

 ロンドンではシャーロック・ホームズにゆかりの地名を訪ね歩くツアーがあるらしい。いかにも実在の人物であったかの様な…。事件現場を見て歩く。観光客も探偵気分になるのか、ロンドンらしく可笑しい。

 「ゴッホの手紙」に出てくる番地を訪ね歩くのは興味深い。殆どが恐らくそのままのかたちで残っていて、100年前にタイムスリップする。

 バルザック、ゾラ、カミュなどの小説にも実際にある通り名、番地が出てくる。小説を読みながら地図を調べたりする。パリではいつも泊るホテルの近所が小説の舞台になっていたりすることもある。地方の都市などは今度行ったら通ってみよう。などと思う。

 日本でも万葉集に出てくる地名がどこなのか研究の対象になっている。
 僕が生まれ育った今川はその時代「息長(おきなが)川」と言って万葉集などにも歌われている。

『鳰鳥(にほどり)の 息長川は絶えぬとも 君に語らむ 言(こと)尽きめやも』 (万葉集4458番)

『百済(くだら)野の 息長川の 都鳥 とぶべき人は 昔なりけり』 国香 (拾遣和歌集)

『まだ知らぬ旅寝に 息長川と契らせ給ふより ほかのことなし』 (源氏物語・第四帖夕顔の巻)

 その後、度重なる大和川の氾濫を防ぐため、現在の様に堺浦へまっすぐ流れを逃した。その結果、息長川は新大和川によって分断され、今はすっかり新しくなったと言う意味で「今川」と名前が替わったらしい。宝永元年(1704年)の付け替えである。これはあくまでも説で本当のところはもっと研究を進めなければならないらしい。(「田辺寄席」世話人会発行、「寄合酒」04.1.18発行より)

 僕たちが子供のころの今川はメタンガスがぶくぶくと噴出すどぶ川であった。今も下水用水路なのだろうが、現代の濾過技術で少しは水が澄んできているのだろう。大きな鯉が泳いでいて、コンクリートで固められた護岸の淵から、たくさんのホームレスの人たちが日がな一日、釣り糸を垂らしている。
 鳰鳥(にほどり=かいつぶり)が遊ぶ川に戻すには無理だろうし、息長川の名前を復活させるというのにも無理がある。いまや今川で歴史は流れている。

 昔のままという地名は大切にしたいが、新しく出来た地名もたくさんある。
 全国各地に「緑ヶ丘」というたぐいの地名がたくさんでき、「ああ山を切り開いて出来た新興住宅地だな」などとすぐわかるのが何か寂しい。
VIT

 

(この文は2007年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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058. ロータリー(環状交差路) -Rotunda-

2018-11-19 | 独言(ひとりごと)

 国道10号線からセトゥーバルの街に入る分岐点に数年前、新しくバイパスとロータリーができた。
 そのバイパスとロータリーができたお陰で、我が家からも複雑に入り組んだ市内を通らずに、街の内外に行くことができるようになり、ずいぶん便利になった。
 例えば、大型スーパー<JUMBO>に行く場合、6箇所もの信号を通らなくても済む様になったのだ。

 バイパスは緩やかなカーヴの片側2車線で、ジャカランダの並木道となり、中央分離帯には色とりどりの夾竹桃が植えられている。そしてそれに沿って高い金網が設けられ人の横断を禁じている。人が飛び出してくる心配もないし、信号もないのでまるでカーレース場の様にクルマを飛ばす。でも時々は、ジャカランダの陰になったカーヴのところでパトカーが張っているので要注意だ。

 ロータリーの緑地には3本ばかりのオリーヴの老木とラベンダーがきれいに植栽されている。

 ポルトガルの田舎の町や村の出入り口には必ずといっていいほどロータリーがある。必然的にそこからはスピードを緩める。

 ロータリーは合理的で慣れればすこぶる便利だ。
 知らない街に到着しても、ロータリーを回りながら自分の行き先の標識を見つける。見逃したり、うっかり行き過ぎるともう一周すれば良い。間違えた道に入ってしまっても、次のロータリーまで行き、引き返して来ればよいだけ。無理やり狭い道でUターンする必要はないし、横道に入ってコの字型に戻ってこなくても良い。

 ロータリー内に居るクルマが優先だから、入ってしまえばゆっくり走る。
 ロータリーに入るときだけ一旦停止、左から来る他のクルマに気をつければ事故にもならない。

 クルマの数が多くなりすぎたリスボンなど都会には、ロータリーと信号機が複合している箇所があるが、それはそれで慣れると便利だ。

 パリの凱旋門・エトワールも実はロータリーの代表みたいなものなのだが、夕方ラッシュ時の凄まじさには驚いたことがある。ロータリー内優先、などとは言っておられない。とにかく割り込んで割り込んで、厚かましく行かないとエトワールを抜けられない。

 日本の町並みはどちらかというと碁盤の目状で、ヨーロッパの様に放射状にはなっていないから、元々あまりロータリーは少なかったのかも知れない。でも日本にもかつては各地にロータリーがあった。

 僕の生まれ育った街の近く、美章園街道の突き当たり、杭全(くまた)のロータリーもそのひとつだ。
 6差路か7差路の複雑な交差点で、クルマが多くなり始めた高度成長期よりもずっと以前に、ロータリーは取り払われ、それ以上に複雑な信号機が取り付けられた。
 交差点になってからもしばらくはお年寄りの間などで「杭全のロータリー」と呼ばれていて、ロータリーが杭全の代名詞にもなって親しまれていた場所だ。
 僕たち子供は「おっちゃん、ロータリーはもうないで~」などと言っていたのを覚えている。

 最近ドイツでは、信号機を一切取り払ってしまった街がある。
 何でも信号機がないほうが事故が少なくなるというデータがあるらしい。ある学者がそう提唱して実験的に街の信号機を全て取り払った。

 ポルトガルではもちろんクルマが信号無視をすると莫大な罰金が科せられる。
 でも歩行者はあまり信号を守らない。
 歩行者信号が赤のときは青のクルマが優先には違いないが、クルマが来ないときは赤でも渡る。お巡りさんが前に居ても渡る。それどころかお巡りさんも信号無視して一緒に渡る。これを最初に見たときはあっけにとられたが、とにかくクルマが来なければ信号はないのも同然なのだ。

 逆に青だからといって信号だけを見て走る、などということもしない。確実にクルマが来ないことを確認しながらゆっくり渡る。センターラインでいったん立ち止まって、クルマをやり過ごしてから、残り半分を渡る。

 日本では、横断歩道でクルマが停車してくれていて、歩行者信号が青の場合でも、クルマに遠慮して素早く走って渡ろうとする。日本の小学生などがそうだ。渡ってしまってからクルマに向って帽子を取り、ぺこっと頭を下げる。これは見ていて感じが良い。
 「走らんでもゆっくり渡りや~」と声をかけたくなる。
 走るのは危ない。見ていて危なつかしいと思う。これがまた事故のもとなのだ。クルマの陰からクルマが来る。バイクが来る。自転車が来る。

 とにかく信号を絶対視しない方が賢明なのかも知れない。もちろんクルマではなく歩行者の場合だが。

 クルマは、前に青信号があれば黄色にならない内に早く渡ってしまおうとスピードを上げる。これが重大事故の元なのだ。
 ポルトガルではその信号機に監視カメラが取り付けられ、スピード違反や信号無視に容赦なく罰金を取るシステムが導入された。

 最近、日本では信号機の老朽化により、折れて倒壊する事故が相次いでいるという。当面の危険箇所を取り替えるのに何十億もの予算がかかるらしい。そして老朽危険箇所は年々加わる。いっそドイツの様になくしてしまうことは出来ないのだろうか?

 エボラは城壁に囲まれた世界遺産の街だ。
 城壁の周りを石畳の双方向の環状道路が取り囲んでいる。その環状道路に数え切れないくらいのロータリーが付いている。これが便利で、エボラを経由してどこに行くにも道を間違えたことはない。

 その昔、モロッコにクルマで入った。テトワンという街だったと思う。ロータリー内で少年たちが遊んでいた。その少年たちに道を尋ねた。手招きしてついて来いと言う。ロータリーを走ってクルマを先導しようというのだ。ほぼ一周回って、僕たちが入ってきた隣の道まできて「ここをまっすぐだ」と言うではないか。それなら初めから「その道だ」と指をさせば済むことなのだが…。

 苦笑いして1デラハム(当時約7円)のチップを弾まざるを得なかった。VIT

 

(この文は2007年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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057. くち笛 -Assobio-

2018-11-18 | 独言(ひとりごと)

 きょうは朝から爽やかな口笛が聞こえている。
 昨日までは電動削岩機の様な暑苦しい不快な音が鳴り響いていて、少々アトリエに入るのがうんざりしていた。
 隣のお屋敷が先日から職人を入れて大規模な庭の改修工事を始めたのだ。

 ポルトガルの家屋敷は時たま改修工事をするようだ。
 まだまだ古びてはいないのに床のタイルを張り替えたり、台所の戸棚の扉を取り替えたり。天井に模様を付けたり。まるで服や靴の新しいのを買うように。そして服に合ったアクセサリーを揃える様に…家屋敷の模様替えを楽しむ。そういった事を日曜大工で行なう人も多いのだが、お隣の庭には職人が入って大々的だ。

 昨日の内に古い敷石を取り除いて、きょうはすっかり赤土が丸見えになっている。昨日で電動工具が終わってきょうは手作業なのか、大きな音は聞こえない。コツコツと少しの音がするだけ。
 そして口笛が聞こえる。

 職人の一人が口笛を吹いているのだろう。伸びのある澄んだ音色で実に巧い。乗っていて、いかにも仕事がはかどっているようにも聞こえる。

 他の職人も聞き惚れているのかも知れない。話し声すら聞こえない。美しいメロディを奏でる。僕には判らないが、ポルトガルの古い曲なのかも知れない。まさか作曲している訳でもあるまい。

 職人の顔姿は見えないし、どんな作業をしているのかも見えない。年恰好も判らないが、この職人の口笛はメルローにも似ている。

 ウグイスが同じメロディを奏でるのとは違って、ポルトガルに住む野鳥のメルローはいつも様々なメロディを囀りまるで作曲をしている様だ。メルローの歌声は春から初夏の頃なのか、そう言えば最近は聞こえない。

 こんな人が仲間にいれば仕事ははかどるのだろう。

 昔から唄と人間の作業は一対だったのだろうと思う。
 農作業や漁業には必ず民謡という唄がある。ポルトガルにも各地にフォルクローレが残っていて、収穫祭などで踊りと共に披露される。

 フォルクローレが都会に出て詩や楽器が洗練され、ファドになったのではないかと僕は思っている。メロディなど共通点も多い。

 僕たちのマンションでは毎月幾らかの共益費を収めている。その中から共同部分の玄関や階段などの掃除を頼んでいて、週に1~2度おばさんがやってくる。

 以前に来ていたおばさんは掃除をしながらファドを唄う。箒のカサカサという音と階段ホールでエコーが効いて実に良い感じに、壁を伝って心地よくアトリエまで聞こえていた。
 僕がもし唄が上手ければここで鼻歌か口笛でコーラスでも入れたいところだが…

 僕は昔から口笛が下手だった。いや恐らく今も下手だ。最近は鳴らしてみたこともない。そしてどちらかと言うと音痴だ。

 子供の頃、人前で口笛を吹くのが恥ずかしかった。フィーフィーと風ばかりで一向に笛にならなかった。小学生の頃、友人に口笛だけでなく、指笛も鳴らすことが出来る奴がいて、僕は尊敬をしていた程だ。
 そう言えば彼はそのあたりのネコジャラシの葉っぱをちぎって草笛も上手く鳴らした。僕は少し練習もしたが、アレルギー体質でやりすぎると唇が腫れた。僕は恥ずかしく、何も鳴らすことが出来ないまま大人になった。

 高校美術部の同級生で絵筆を持つと必ず口笛を吹く奴がいた。曲は決まって何故か「同期の桜」だった。口笛がやがて唄になる。
 「きっさまっとおっれっと~~わっ、ど~きっのぉさぁ~くぅ~らぁ~」絵筆が滑らかに走る様に運んでいたのを僕は見ていた。他の同級生は眉をしかめていた。

 棟方志功の身体には津軽三味線の血が流れていると本人が言っていたのを覚えている。板に直接墨で描き、彫り進めて行く形はまさに津軽三味線のリズムだ。

 僕にもそんなリズムが流れていたらいいのになと思う時もあるが、河内音頭すら唄ったことがないし、歌詞も知らないくらいだから仕方がない。
 でも実際には音は出なくても、心の口笛でも吹きながら絵筆を握りキャンバスに向かうことが出来れば…。
 或いは今からでも口笛の練習をするのも悪くはないかも。
 他人に迷惑をかけない程度なら…。
VIT

 

(この文は2007年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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056. デパートの大食堂 -Restaurante de departamentos-

2018-11-18 | 独言(ひとりごと)

 今年も髙島屋での巡回個展が終った。
 デパートには独特の空気が流れていて、慣れない僕には疲れる。
 お客さんのいない時などは、スタッフの人と話をしたり、額縁のチェックをしたりと結構楽しんでいるのだが…。
 又、多くの友人知人たちも訪ねてくれる。何年ぶり、何十年ぶりという再会もある。懐かしさと嬉しさでついつい話し込んでしまう。
 勿論、初めての出会いも多い…。貴重なひと時だ。お客さんには説明をしたりするが、煩がられてもいけないので気を使う。そして緊張もする。

 そんな中、昼食はほっと一息、楽しみの一つ。
 昼食の間にお客さんが来られてもいけないので、出来るだけ迅速に済ませる。外には行かないで館内の、それに空いている時間を見計らって…。

 たいてい画廊の1階上、食堂街にはいろんな店が並んでいてどの店に入ろうかと迷う。
 最近はデパート直営は少なく、有名なチェーン店がテナントとして入っている。
 画廊の1階上だけではなく、いろんな階にも専門の飲食店が…。寿司、蕎麦、うどん、トンカツ、天ぷら、中華、鰻、洋食そして和食。パスタ専門店やタイ料理さらにマクロビオテックまでがある。
 人気の店には早くから行列が出来上がっていて、「今日は蕎麦でも食べよう」と張り切っていても、急遽トンカツに変更を余儀なくされることもある。

 昔、子供の頃はデパートというと大食堂が楽しみであった。
 父はシュウマイにビールの大瓶、母はハムサラダランチ、兄はオムライス、妹はまだ小さくて何も取らない。デパートの大食堂には和・洋・中華、何でも揃っていた。僕はうどん。僕は子供の頃からうどんが大好物。我が家では何故か、だれも「お子様ランチ」は注文しなかった。

 デパートには何でもあるが、欲しいものがない。などと揶揄されてデパート側も「それではいけない」と思っているのだろう。いろいろと趣向を凝らしてお客獲得にしのぎを削る。そんなこともあってデパート事態随分と変貌を遂げている。
 電気器具売場が姿を消し家具売場は縮小、ブランド品や婦人服売場がやたら広がっている。
 近頃は「デパ地下」が話題に上る。珍しい食材が並ぶ。老舗が軒を連ねる。

 その波が食堂にまで及んでいる。
 大食堂が姿を消しているのだ。「デパートの大食堂には、何でもあるが食べたいものはなかった。」のだろうか?
 確かに時代は変っている。
 でも昔、父は「どこどこのデパート大食堂のシューマイは絶品だ。」などと言っていた。
 デパートの大食堂でしか食べる事が出来ないものなどはいまやないのだろうか。
 母が好んで食べていた、グラタンなども珍しくはなくなった。
 立派なロースハムもどこでも買える。
 横っちょに付いていた、太いアスパラガスも手軽に手に入る。
 それを慣れないナイフとフォークで頂く。スープを音をたてないで、ライスはフォークの背に乗せて。それがデパートの大食堂の楽しみだったのだ。

 街の飲食店も専門店化し、ファミリーレストランが林立。一方、一般家庭でも珍しい食材が容易に手に入るようになって、デパートでしか味わえない楽しみも半減、お茶の間で食べるのと何ら変らなくなってしまったのかも知れない。
 でも家庭ではあの黒の蝶ネクタイと天井の高さだけは手に入らない。

 高級な割烹やホテルのレストランなど行ける筈もなかった。
 料理自慢の母はデパートの大食堂で味を確かめていたのかも知れない。

 それが岡山髙島屋には未だに大食堂が存在するのだ。
 経営は難しいのかもしれない。内装も椅子テーブルも古びている。
 何でもあるから効率は悪そうだし、残念ながら絶品とは言い難い。苦労しているのが伺える。
 消える運命にあるのかも知れないが、貴重な存在。消えないで欲しいと望まずにはいられない。
 天井の高い明るい窓からは、岡山の山並みが見える。すぐ真下には岡山駅、そして街並み。寂しい一人での食事でも退屈はしない。

 デパートの大食堂には夢があるのだ。

 リスボンでは1987年頃だったかの大火事でデパートが全焼した。そのニュースは日本でも報じられた。
 その後、焼け跡は永年、痛々しく残されていたが、数年前ようやく再建され、立派な地区に生まれ変わった。フランスのデパート「プランタン」が入った。
 その後、ジョージ7世公園近くにもスペイン資本の「エル・コルテ・イングレス」というデパートも進出した。

 レストランもあるらしいが残念ながら入ったことはない。もしかするとかつての日本のデパートの様な大食堂があるかも知れない。こんどいつか探検してみるのも悪くない。

 そして2年後の髙島屋での巡回個展が、今から楽しみだ。
 いやその前に来年、四国松山の「いよてつ髙島屋」も…。楽しみが一つ増えた。
VIT

 

 

(この文は2007年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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