武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

204. パリで道に迷っている夢 Sonhar que está perdido em Paris

2023-01-01 | 独言(ひとりごと)

明けましておめでとうございます。

 パリで道に迷っている夢を見た。

 どこか目的地があってそこに行こうとしているのだが目的地もはっきりとしないし、現在地もはっきりとしない。そして誰かを道案内しようとしている様なのだがその誰かもはっきりとしない。

武本比登志油彩作品F100

 目が覚めてから考えるとパリでは見たことがない場所ばかりで夢の中だけのパリで現実とは違うパリなのだ。

 夢の中では疑いようのないパリなのだが、複雑に入り込んで地図では表すことが出来ない四次元の町並の様だ。デジタル技術で作られたSF映画的なパリと言えるかもしれない。くだらない映画の観すぎなのだろうか。

 やたら幅の広い黒々とした石畳の坂道と、急こう配で滑り落ちそうな階段道だけ。それが縦と横に複雑に絡み合って重くのしかかる。

 そして目覚めるとぐったりと疲れている。そんな同じような夢をこのところ時々見る。

 花の都『パリの空の下』でエディット・ピアフは『ばら色の人生』を歌ったけれど僕の夢のパリには1輪のバラも1片の花びらさえも出てこない。

 でもエディット・ピアフの歌声も決して明るくはない。暗く重い。

 僕の夢のパリは更に暗くさらに重い。

 現実のパリに最初に行ったのは1968年の夏。エディット・ピアフが亡くなってから5年後、ジョルジュ・ルオーが亡くなって10年後、パブロ・ピカソはコート・ダ・ジュールで未だ精力的に制作に励んでいた1968年。大学から美術研修という名目で2週間のヨーロッパ旅行だった。誰もが行くべきところにしか行かない団体旅行なので道に迷いようがない。

 その次は1972年の1月から3月までの3か月間をパリのオートキャンプ場で過ごした。

 ストックホルムでおんぼろのフォルクスワーゲンマイクロバスを買い、何処でも寝られるように簡単な料理も出来る様にと自分で改造をした。

 1971年11月、小雪の舞い始めたストックホルムを出発し凍える冬に、スウェーデン、デンマーク、ドイツ北部、オランダ、ベルギーを網の目の如く、全ての美術館を見逃すことなく2か月をかけてフランスに入った。

 パリで春が来るまで少し落ち着きたいと思ったがパリの住宅事情はそれほど甘くはない。結局、オートキャンプ場でクルマの中での生活を続けざるを得なかった。

 オートキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)にメトロで通った。オートキャンプ場のクルマの中、蠟燭の明かりの下で宿題などもしたが、全く身につかなかった。でもその後の旅では数字だけでも理解できるようになったからか少しは便利になった様な気もする。

 アリアンスの授業が終わってからの帰りには何処かここかの美術館に寄って帰るのを日課としていた。毎日必ず1軒の美術館。パリには大小の美術館は多い。1972年だからポンピドゥーセンター(1977年開館))もオルセー美術館(1986年開館)も未だ誕生していない時代であったが、その頃にも美術館は多くあった。パリ中をカタツムリの如く良く歩いた。よく歩いたがパリで道に迷ったという記憶はない。

 確かにパリの道は日本の碁盤の目の様な町並ではなく放射状になっているから一つ間違えばとんでもないところに行ってしまう。それでも道に迷ったという記憶はない。

 メトロを上がったところのブーランジェリー(パン屋)で1本のパリジャン(フランスパン)を買い、キャンプ場までの道すがらちぎっては口にした。夕食用に買ったパリジャンがオートキャンプ場に着くころには殆ど食べてしまっていた。旨かったのだ。

 その当時、オートキャンプ場はブローニュの森とヴァンサンヌの森にあった。最初はブローニュの森のオートキャンプ場だったのがお正月に1週間閉鎖をすると言うのでヴァンサンヌに移った。それからはずっとヴァンサンヌで過ごした。そこにはロマの人たちも定住していたし、管理人は何と日本人男性で犬とキャンピングカーで暮らしておられた。

 どちらのオートキャンプ場もシャワーなどもありトークン(専用コイン)を入れるとお湯が出てくる仕組みだが水離れした程度のぬるいお湯しか出なくて温まることは出来なかった。キャンプ場には雪も積もった。それでも今から考えると若かったからか苦にはならなかった。

 その当時パリに住む先輩、今、エディット・ピアフを歌っておられるアータンご夫妻からアラジンの石油ストーブをお借りし、クルマの中で炊いた。あれは有り難かった。

 先日、カタールではサッカーワ-ルドカップが行われ、決勝戦はフランス対アルゼンチンであったのは記憶に新しい。アルゼンチンが先行したがぎりぎりでフランスが追いつき3対3のままPK戦にまでもつれ込み、結局アルゼンチンが優勝を飾ったが決勝戦に相応しい見応えのある良い試合であった。マクロン大統領の興奮気味の応援も印象的であったが、その決勝戦の頃からパリでは暴動が起こっていた。

 クルド人コミュニティを標的とした銃撃事件で3人死亡3人が負傷。それに対する抗議行動が暴動にエスカレートしたものだが、これは夢ではなく現実のパリだ。人種差別か宗教対立かは知らないけれど、そういったことは1970年代よりも今の方が世界中で不穏になっている様に思う。

 1972年頃は人種差別や宗教対立よりも、政治に対する抗議行動で、日本でも学生運動が盛んになり校内にバリケードなどが築かれ休講の日が続いた。その頃のパリも同様で、アリアンスの帰りに、ある美術館に行くのに近道をと思って出た所が機動隊と投石用の石を持った学生たちがにらみ合いをしているちょうど真ん中に出てしまったことがある。慌てて後ずさりしたが、あれもパリであった。

 春になり旅を再開した。ロワールの古城めぐりをし、モンサンミッシェルへも行きフランスを順調に南下する筈であった。モンサンミッシェルを堪能した後田舎道で自炊をした。何かの食材にあたったのかMUZが体調を崩した。田舎町の医者は往診中で留守であった。医者の娘が「アンジェまで行けば大学病院があります」と教えてくれた。必死でクルマを走らせ、アンジェの大学病院に緊急入院した。体調は直ぐに回復したものの、検査で1週間の入院を余儀なくされた。

 アンジェにもオートキャンプ場がある筈だと、看護婦さんに尋ねると「病院の庭に泊ればいいんじゃない。」と言われたのでそのまま病院の庭でクルマの中で寝た。看護婦さんはMUZの入院食を2人前持って来てくれたりもした。入院食と言へど立派なフランス料理であった。その時のカリフラワー入りのクリームシチューの味は今でも忘れられない美味しさだった。

 毎日大勢のインターン生を引き連れて教授の回診があった。その内の1人のインターン医学生とも仲良くなった。楽しい思い出だ。

 その後は、スペインの国境を越えフランコ独裁政権下のスペインを旅した。同じ独裁政権下でスペインよりも更に厳しいと言われていたポルトガルには入国せず、ジブラルタル海峡をフェリーに揺られモロッコまでもクルマで旅した。そして再びストックホルムに舞い戻ったのだ。そんな思い出は1972年の話である。

 更に月日は流れ、1990年からはポルトガルに住んで絵を描いている。そして毎年パリのサロン・ドートンヌとル・サロンに出品して来た。幸いなことに落選をした経験はない。100号の出品作を携えて飛行機でパリに行く。作品を預け、展覧会が始まるまでの1週間を何処かここかフランスの地方を旅し、パリに戻って来てヴェルニサージュ(オープニング)に展覧会場に行き自分の出品作を確認してからポルトガルに戻ると言うサイクルで1991年から2010年までの20年を毎年やってきた。

 地方と言ってもフランス全国でノルマンディであったり、ブルターニュであったり、ロレーヌであったり、ブルゴーニュであったり、イル・ド・フランスであったり、プロヴァンスやコート・ダ・ジュールまでにもたびたび足を延ばした。主に画家たちの足跡を辿る旅とした。それはそれぞれの旅日記として書いたが充実した旅でもあった。(下段にもくじ)

 地方に行けばパリは少しだがやはりパリが拠点となり前後最低2泊はパリのホテルに泊まり、その都度パリの美術館にも必ず行く。ホテルもノードやリオン駅周辺であったり、サン・ミッシェルであったりと様々であったが、数えきれない程パリのホテルには泊まった。

 地方には行かないでパリだけの時もあった。そしてパリはよく歩いた。メトロにも市バスにもRERにも乗ったが、よく歩いた。その頃もパリで道に迷ったと言う記憶はない。

 コロナ禍以来、暫くは帰国をしていないのだが、それまでは毎年日本に帰国し、個展やグループ展に出品してきた。最近ではフランクフルト経由やロンドン経由が多いのだが、以前は必ずパリ経由にし、パリのサロンに出品した作品を預かって頂いていたのだがそれを受け取って帰国するようにしていた。その時にもパリは歩いた。

 夢は何故パリでなければならないのかが判らない。

 ローマでもなく、アテネでもなく、ロンドンでもなく、ストックホルムでもなく、アムステルダムでもなく、ブエノスアイレスでもなく、ニューヨークでもなく、大阪でもない。

 夢の中のパリにはエッフェル塔も凱旋門もオペラ座もサクレクールもグランパレもルーブル宮も出てこないし、セーヌの流れもない。現実のパリではないパリなのだ。夢の中だけで作られたパリ。でも他の都市ではなくはっきりとパリなのだ。それが厄介で疲れる。そして重くのしかかり楽しくはない。

 自分だけなら道に迷おうが何をしようが一向に構わないのだが、案内をしようとしている誰だかわからない人が居られるのでよけい焦り疲れる。

 現実のパリは楽しい筈であった。嫌な思い出などこれっぽっちもない。やはり僕にとっては花の都だ。

 このところサロン・ドートンヌにもル・サロンにも出品していない。長らくパリには行っていない。もう行くことはないのかも知れないが、だからと言って今パリに行きたいと言う願望もそれ程はない。

 僕は大阪で生まれ育ち、大阪以外では東京、ストックホルム、ニューヨーク、宮崎などに住んだ。そして1990年からはセトゥーバルに住んでいる。

 1972年には3か月をパリで過ごしたがオートキャンプ場暮らしだったので、住んだとは言えない。だからと言って今更住んでみたいと言う願望もない。

 2022年最後の夢。『パリで道に迷っている夢』はどう解釈すれば良いのだろうか。

 2023年の初夢は明るい楽しい夢でありますように。宮崎の夢でも良いなと思う。はて、宮崎ならどんな夢になるのだろうか…。

 そして2023年が皆様にとって、私たちにとっても良い年になりますように。

2023年1月1日。武本比登志

 

『ポルトガル発フランスの旅日記もくじ』

オーヴェール・シュル・オワーズ [1992年]

佐伯祐三の足跡を訪ねて [1994年]

ゴッホの足跡をたずねて [1998年]

ゴッホが観た絵 [2000年]

ニース周辺美術館巡り [2002年]

ポンタヴァン旅日記 [2003年]

ナンシー、アールヌーボー紀行 [2004年]

オーヴェル7月最後の20日間 [2004年]

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて [2005年]

イル・ド・フランス旅日記 [2006年]

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記- [2008年]

アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- [2009年]

ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記- [2010年]

 

 

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