武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

126. ファイブ・スポット・アフター・ダーク Five Spot After Dark

2015-07-31 | 独言(ひとりごと)

 以下の話はずっと昔に加藤と市ちゃんには話したと思いますが、先日、NACKシニア展の折、マサゴ画廊でジャズ好きの奥田優さんと加藤正雄がたまたま同席し、ジャズの話から「ファイブ・スポット」の名前なども出ました。僕にとっては懐かしい響きです。これはひとつ文章にしておいても良いかな、と思い立ち、文章にしてみました。古い話ですが、僕にとっては青春時代の貴重な体験です。

 インターネットを始めてからすぐにホームページもたちあげ、以前の紙の「ポルトガルのえんとつ」を引き継ぐべき、サイト、ブログにもエッセイを載せてきました。毎月1つ、月初めの1日に必ずアップしてこれまでに126話にものぼります。ポルトガルに住んでの思いなどが殆どですが、フランス美術に関する旅日記なども含まれています。これ以上書くことがないから古い話を持ち出し書き始めた、などと思わないで下さい。古い話も僕の人生にとっては重要な要素を占めています。これからも時々出てくるかもしれません。

 2015年の8月1日号、「真夏の夜の夢」ではありませんが、僕にとっては夢の様な話、でも100パーセント真実です。名前や年代などに誤りがあるかも知れませんが、嘘や誇張は一切ありません。お読み頂けると幸いです。武本比登志

 

ファイブ・スポット・アフター・ダーク Five Spot After Dark

 

 僕は高校を出て、進学もせず、就職もせず、宙ぶらりんの状態でいた。

 高校3年の時、美術部だけでは飽き足らず、文化祭でビートルズを演るということでバンドを結成した。文化祭が終ってからもバンドをそのまま引きずって、ダンスパーティやらなにやらと活動していて、就職も進学も頭にはなく、ずるずると高校卒業ということになっていた。卒業と同時にバンドは解散、本職のバンドマンになった人もいれば、仕方なく自衛隊に入った人もいる。僕だけが宙ぶらりんの状態でいた。

 とりあえずは天王寺美術館の地下にある美術研究所でデッサンを習うことにしたが、習うというところではなく、場所だけ提供して自分で勝手にする、そんな所だったような気もする。石膏像とイーゼルはたくさん立てかけてあったが、他には生徒は誰一人としていなかった日もあった。

 

 何かアルバイトをと考えて喫茶店で働くことにした。ジャズが好きだったこともあり、ジャズ喫茶という選択をした。

 道頓堀にあった「ファイブ・スポット(5SPOT)」である。道頓堀のグリコのネオンはあまりにも有名だが、そのネオンのちょうど裏側にあたるところにその店はあった。裏は道頓堀に面していた筈だが窓がなく店から道頓堀は見えなかった。戎橋南詰から1分、御堂筋からも1分の中間にあり、店の真ん前は松竹座という大阪では一番の繁華街ということになる。

 

今はない大阪「ファイブ・スポット」のブック型マッチ

 道頓堀筋に面した1階が入り口で右手にレコード棚があり、客席もすこしある。客席の殆どは2階と地階にあった。1階の僅かな客席の奥にカウンターがあり、1坪ほどの場所がある。コーヒーをたてたりする場所だが僕の働き場所となった。

 仕事といったらコーヒーをたてることくらいで、15杯分ずつまとめてたてる。ボーイの注文によってそれを温めて注いだり、ジュースやコーラをサーバーから注いだりと、他にすることは何もなかった様な気もする。なま物で扱うのは紅茶に使うレモンくらいのもので、あとはソーダ水に飾る缶詰のサクランボ、たまにはトーストも焼いたりもしたが、忙しいばかりで技術的なことは何もなかった。

 とにかく狭いカウンターの中で1日中大音量のジャズを聴いて過した時期である。レコードを選んでかけるのはホール主任の中野さんの仕事で、ダークスーツに身を固め目の鋭い人だった。目は鋭かったが内実は優しく、僕とも気があって楽しい職場だった。中野さんはジャズには詳しかったのだと思う。掛ける順番を選ぶこともするが、お客のリクエストに応えたりもする。何千枚もあるレコードのどこに何があるかを把握していたのだろう。

 ボーイやバーテンダーなど店員は準備もあって開店前から店に入る。揃いの制服、黒のズボン、ワイシャツに赤いチェックのベストに着替え、黒の蝶ネクタイを締めてから掃除なども行う、慌しい時間だ。

 そしてやがて「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」の曲が流れるといよいよ開店ということになる。開店時と閉店時は決まってこの曲を流すことが決められていた。テナーサックスとトロンボーンの柔らかなハーモニーは絶妙で、それに軽やかで心地好いピアノが加わり「さあ、これから仕事を始めるぞ」という気分にさせてくれるし、終りには「きょうも無事に終った、お疲れさん」という気持ちにもさせてくれる、一日の始まりと、終わりに相応しい、実に良い曲だといつも思っていた。

 レコードジャケットは女性が赤と青色の絹布を持ってダンスをしている様子のデザインだ。

 

 メンバーのリーダーはトロンボーンのカーティス・フラー、それにこの曲の作曲者ベニー・ゴルソンのテナーサックスが加わり、リズムセクションはピアノのトミー・フラナガン、ベースがジミー・ギャリソン、ドラムスはアル・ヘアウッド。2管だが実に優しい穏やかな気分にさせてくれる名曲、名盤と言って良いだろうと思う。

 僕はジャズは好きだが全く詳しくはない。聴くのは好きだが、スイングジャーナル誌を読むこともしないし、レコードの解説を読む事もしなかった。だからこのレコードがカーティス・フラーのレコードだということは知ってはいたが、実はメンバーが誰であったか、作曲者が誰であったか、までは知らなかったといった具合だ。

 僕は高校に入ってからジャズを聴くようになった。高校美術部顧問の藤井満先生がジャズ好きでその影響があった。多少なりとも美術部員は皆がジャズ好きになっていた。藤井満先生はジャズだけではなくクラシックやあらゆる音楽に造詣が深かった。ご自分でも楽器を嗜まれる。

 ちなみに僕が最初(高校1年の時)に買ったレコードはアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズの「モーニン」である。ワルツ堂の中古で当時のお金で600円くらいだったと思う。

 その道頓堀の「ファイブ・スポット」に何ヶ月いたかは定かではない。それ程長くは居なかったのだろう。僕はすぐにホール主任、中野さんの推薦でカウンター主任という肩書きを貰って少しは給料も上がっていた。一日中ジャズを聴いて過す生活には心地好さを感じていたが、コーヒーをたてるだけでは飽き足らなさも感じていた。

 僕の前任のカウンター主任は道頓堀店から小大丸店に移ってそこのカウンター主任になっていた。小大丸店ではフルーツ物もやっていたので、僕も希望を出して小大丸店に移動することになった。道頓堀からも歩いて20分くらいの距離だったと思う。

 小大丸は心斎橋筋の一等地に昔からある老舗の呉服店でその場所にビルを建て、入り口付近は呉服店だが、中には一流ブランドのブティックが入ったファッションビルで、ファッションビルの草分け的存在なのかも知れない。

 小大丸店でも開店時と閉店時には「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」を流す。でも小大丸店はフルーツパーラということもあり、ジャズは大音量ではなく比較的静かにジャズを楽しむという店になっていた。そして軽いジャズボーカルやピアノトリオなどを多くかけていた。そこのホール主任(店長)は久保田さんといってその方は本当のジャズ通であったと思う。ジャズ評論家の久保田高司さんとご縁戚関係にあったのかも知れない。

 バーテンダーは3人居たが、僕はすぐにプリンを仕込む係りになった。毎日12個だけのプリンを作る。それがなくなれば売り切れとなる。いつも夕方には売切れてしまっていた。僕は12個分の材料で13個を焼く工夫を凝らした。しかも絶妙に舌触りの良いプリンに仕上げていた。そのプリンを久保田主任はことのほか褒めてくれた。「まだある?」などと言って、久保田主任は自分のお金でプリンを注文するのを日課にして食べてくれていた。

 18歳そこそこ、もう何十年も前の話で、それが1年にも満たない僅かな月日だったと思うが、若かりし頃のことは中味が濃く自分の人生の多くを占めているのに今更ながら驚きを感じる。

 その後、大阪芸術大学やURCレコードを経て、僕は数年後にストックホルムに住むことになった。更にその数年後、ニューヨークに居た。

 偶然日本からの船が一緒でストックホルムでも親しくしていたコマちゃん(生駒くん)が先にニューヨークに渡っていて、僕たちが行くと言うことになった折にはニューヨークでの仕事とアパートまで全てを決めていてくれたのだ。僕たちはその日からウエストサイド75丁目42番地のアパートに住むことが出来たし、すぐにマクロバイオティックのコックとして雇われた。そのマクロバイオティックレストラン「SOUEN」はブロードウエイにあるが、アップタウンの90丁目と91丁目の間にあり、ハーレムにも程近いあまり環境としては良くない所でもあった。

 僕はそれまでマクロバイオティックのバの字も知らないでいたのだが、チカさんという人が優しく教えてくれて何とかできた。僕は包丁がある程度使えたお陰でストックホルムでも皿洗いからすぐにカールシェンケン(冷たい料理専門のコック)から本物のコックにもなれたし、そのお陰でコマちゃんの推薦もあってニューヨークでもコックとして雇ってくれた。全てはあの小大丸でのフルーツ物バーテンダーのファイブ・スポットでのお陰かも知れない。

 そのマクロバイオティックレストラン「SOUEN」には芸術家が多く常連客として来店していた。ジャズメンが多かったが、クラシックの音楽家、役者やダンサーやニューヨークフィルの新米コンダクターなども居た。「SOUEN」のウエイトレスとして働いていたヘザー・ブラウンはバレリーナだったし、その兄で「SOUEN」の常連客のキャメロン・ブラウンも新進気鋭のジャズベーシストだった。オーナーのTAKIさんの言では、「少し前まではジャレット・キースやチック・コリアも毎日の様に来ていたよ。」とのことであった。TAKIさんはキース・ジャレットのことをいつもジャレット・キースといっていた。僕の居る時にもチック・コリアさんは1度来店されていたこともあるし、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻も見えたこともある。また、何かの記念日だったのかも知れないが、常連客でバイブラフォン奏者デイビット・フリードマンとエディ・ダニエルスというクラリネット奏者のデュオ・ライブをその「SOUEN」で催ったこともある。

 「SOUEN」には毎週1日の定休日があった。僕は毎週必ず「ヴィレッジ・ボイス」(芸術やイヴェントなど専門の週間新聞)を買って、その広告を眺めては毎週どこに行くかを決めて、必ず出かけた。休みでなくても仕事が終ってから出かけたこともある。殆どがジャズのライブハウスだが、フォーク・シティやセントラル・パークでの野外コンサートやマディソン・スクエア・ガーデンのビッグコンサート、又、ベーコンシアターやカーネギーホールのコンサートにもよく出かけた。

 ライブハウスはヴィレッジバンガード、トップオブザゲイト、ブルーノート、ボトムライン、そしてファイブ・スポットなどが主なところだが、その他にも小さい無名なところや、ジャズメンしか行かない様なマニアックなクラブ等にも出入りしていた。

 そんな中でもファイブ・スポットは好きな場所であった。イースト・ヴィレッジにあり、イタリア街にも程近く、決して環境が良いとは言えない地区にあった。そしてそこは何故かいつも空いていた。ファイブ・スポットは最近まで別の場所にあり、イースト・ヴィレッジに移って来たばかりであって、未だ知られていなかったからかもしれない。

 ファイブ・スポットはサン・ラやオーネット・コールマン、セシル・テーラーなど前衛的なジャズも多く催っていたが、ジャッキー・マクリーンやアート・ブレイキーもたびたび催っていて、最初に行ったのがアート・ブレイキーであった様な気がする。その後もアート・ブレイキーの時には必ず出かけた。ドラムスがアート・ブレイキー、サックスはデイビット・シュニター。トランペットにビル・ハートマン、それにベースが日本人で鈴木良雄さん。ギターも黒人で居たと思う。ピアノが入る時もあった。

 ちなみにそのサックスのデイビットはマクロバイオティックレストラン「SOUEN」に毎日の様に通う常連客の1人であった。でもデイビットは僕が「SOUEN」のコックであったことは多分知らなかったのだと思う。「SOUEN」の調理場から客席は見えたが、客席から調理場は見えなかったし、そんな話をしたこともなかった。

 ヴィレッジバンガードなどとは違い、ファイブ・スポットにはジャズメンが多く出入りしていた。そしてその演奏に飛び入りで参加するのだ。勿論、超有名なミュージシャンも居れば、無名の売り出し中の人も居たのだと思う。ある日、ベースの鈴木良雄さんがそわそわしだした。アート・ブレイキーに促されて、舞台を下り、カウンターのところまで走りよった。何とそこにはチャーリー・ミンガスがカウンターに寄りかかって酒を呑んでいたのだ。「是非、奏って下さい。」という訳である。

 ある日などは、コンボバンドのはずが、ビッグバンドなみのメンバー編成が出来上がっていたこともある。アート・ブレイキーなどは舞台の下に引き下がって指揮をしていた。

 またある時は、アート・ブレイキーが僕のテーブルまで来て「これ1個喰ってもいいか」などと言ってスペアリブを摘んだりもしていた。そのファイブ・スポットは飲み物だけではなく料理も少しは出していた、が殆ど誰も注文をする人は居なかった。厨房には中国人が働いていたのだと思う。メニュには春巻きなどもあった。スペアリブも中華風に甘ったるかった。

 アート・ブレイキーの時にいつも決まってやってくる若いミュージシャンが居た。ダークスーツに身を固め、アイロンの掛かった真っ白いワイシャツにきっちりとネクタイも締め、礼儀正しい好感の持てる黒人であった。楽器はトロンボーンである。アート・ブレイキーにまず「奏ってもいいですか」と尋ねてから楽器を取り出す。そして他のメンバーと一緒になって演奏を始める。

 なにやら聞き覚えのある、懐かしい響きの曲である。これはもしかして「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」である。

 僕にとってはあの道頓堀で、あの小大丸で毎日の始めと終わりに聴いていた懐かしい曲である。僕はそれまで大阪のファイブ・スポットのことはすっかり忘れていた。大阪のファイブ・スポットと、このニューヨークのファイブ・スポットが実は結びつかなかったのだ。しかも今聴いている「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」はその本場ニューヨークのファイブ・スポットである。

 勿論メンバーは違う。トロンボーンは礼儀正しい黒人とは言え若いミュージシャンだし、サックスはベニー・ゴルソンではなく、デイビットだし、ベースはジミー・ギャリソンではなく鈴木良雄さんで、ピアノのトミー・フラナガンも居ない。ドラムスだけは大御所のアート・ブレイキー。でもニューヨークの本場ファイブ・スポットでの「ファイブ・スポット・アフターダーク」を聴いているのだ。本当に夢心地、夢の中の出来事の様であった。

 でもちょっと曲名を言っただけで楽譜も見ないで、すぐに誰とでも合わせられるし演奏が出来る。本当にジャズは素晴らしい音楽なんだとつくづくと思う。

 その若いトロンボーン奏者にはあちこちのライブハウスで見かけた。トロンボーン奏者も僕の顔を覚えてくれているらしく、顔を見合わせては挨拶を交わすようになっていた。

 ある日、ボトムラインでカウント・ベイシーのビッグバンドがあるというので出かけた。たいていは1人で出かけていたのがその時は珍しく妻MUZと2人であった。ボトムラインはニューヨークでは大きなライブハウスで比較的広いちゃんとした舞台もあるし、客席が多く、料理もいろいろとあって食事を楽しむ客も多い。僕たちも少し後ろの方の客席でピッツアなどを注文して食べていた。やがて演奏が始まったがメンバーの中にあの若いトロンボーン奏者が入っている。しかも重要なところでソロをまかされている。

 第1ステージが終って休憩に入るところで、あの若いトロンボーン奏者が手を振って挨拶をしている。後ろを振り向いても誰も居ない。僕たちに手を振っていたのだ。そして舞台から下りて真っ直ぐ僕たちのテーブルにやって来て握手を求めた。今まで顔を合わせて挨拶くらいはしたが、話したこともないし、それ程親しい間でもない。若いミュージシャンとしては自分の馴染み客が居るというのを、店側やバンド側に見てもらいたいのだろうか?などとその時は思った。

 僕はニューヨーク中のライブハウスに出入りしていたのだが、いつも必ずソニーの小型カセットで録音をしていた。その頃は別に誰からも何も言われなかったから、テーブルの上に乗せて堂々と録音をしていた。ステージからすぐの1番前の席に陣取ることも多かった。しかも第1ステージから最終の第3ステージまでぎっしり。ある時は、ボビー・ダーハム(Ds)というミュージシャンから「君はよく見かけるけれどミュージシャンだろう」と言われたこともあった。日本から勉強に来ている若いミュージシャンだろう、くらいに誰からも思われていたのかも知れない。

 やがてニューヨークを引き揚げて南米旅行をすることになった。

 それが決まった頃だったと思う。ニューヨーク、ソーホー地区の中古レコードショップで何となくレコードを繰っていた。繰っていて「おやっ」と驚いた。あの若いトロンボーン奏者のレコードがあったのだ。顔が大写しで出ていた。何とそこにはカーティス・フラーと書かれてあった。あの若い新米のトロンボーン奏者と思っていたその人は、カーティス・フラー当の本人だったのだ。僕としては全く迂闊だった。それとは知らずに挨拶を交わしていたのだ。

 カーティス・フラーという名前はよく知っている。トロンボーン奏者だということもよく知っている。その音色もだいたい判っている。だがご本人を、それも何度も目の前にしてそれが結びつかなかったのだ。全く迂闊だった。

 そして自分の心の中だけの思いとはいえ、店側やバンドの人たちにいい顔をしたいから、などとんでもない話だ。僕は残念ながらミュージシャンではないけれど、若いミュージシャンに声をかけ、温かく見守ってやろう、という親切心からの挨拶だったのだ。カーティス・フラーさんに失礼なことを思ってしまっていた自分に恥じなければならないと思っている。

 

 その後、僕たちの南米旅行は1年に及び、ニューヨークに戻ることはしなかったので、カーティス・フラーさんと会うことはなかった。

 

 ネットで調べてみると未だご健在でご活躍をされている。以下、Wikipediaより抜粋。

 

 カーティス・フラーCurtis Fuller, 1934年12月15日 - は、アメリカ、ミシガン州デトロイト出身のモダンジャズのトロンボーン奏者。幼少の頃に両親と死に別れ、孤児だったフラーは、デトロイトの学校でポール・チェンバース、ドナルド・バードと知り合う。1953年から1955年軍隊に在籍し、その後ユセフ・ラティーフのバンドに加わった。1957年にニューヨークへ行き彼はプレスティッジ・レコードに初リーダーアルバムを録音した。以後ブルーノート・レコードでも活躍し、特にジョン・コルトレーンのリーダー作である『ブルー・トレイン』は、リー・モーガンと共に3管の一人として参加し評価された。彼自身も、ブルーノートにはリーダー作をいくつか残した。また、アート・ブレイキーやジョー・ヘンダーソンのグループでの活動も有名である。他に共演者はベニー・ゴルソン、トミー・フラナガン、ジミー・ギャリソン、アート・ファーマー、ソニー・クラーク、ズート・シムズ、ハンク・モブレー、ボビー・ティモンズ、アート・テイラー等がいる。ジミー・ウィルキンス楽団で活動していた。(Wikipediaより抜粋)

 

 僕がニューヨークのあのファイブ・スポットで初めて出会った頃は、僕が27歳くらい、カーティス・フラーさんも多分39歳くらいだったのだろう。僕よりひと回り、12歳年上ということになるが、でも実際よりずっとお若くみえたのは確かだ。

 そしてカーティス・フラーがこのアルバムをリリースしたのが、1959年というから弱冠25歳ということになる。

 「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」は僕にとっては昔も今も、そしてこれからも特別な曲であり続けるだろう。VIT

以下のアドレスをクリックで「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」をお聴きいただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=q-zNWpdcxvQ&list=PLtvmYP6_yqHdW9dNU80HUNIixk7w_rdEY

 

武本比登志ブログ・エッセイもくじ へ 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする