武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

136. 蝉 Cicadoidea、Cigarra、Cega-rega、

2016-07-31 | 独言(ひとりごと)

 蝉が止まっている。

 も少し詳しく言うと、我家の南側のベランダの内側の西の壁の、床から10cmのところに蝉が止まっている。

 小さい、体長、頭から羽の先までで、ほんの5cm程の可愛い蝉だが、床から10cmと言へども塗装された垂直のモルタル壁の何の手がかりもないところに、まるで蝿のように、よくも止まっていられるものだと感心しながら見ていた。

 

 ポルトガルには蝉は少ない。日本に比べると少ないという意味だ。フランスのプロヴァンス地方には蝉の置物やブローチなどのみやげ物が売られているので蝉は居るのだろう。プロヴァンス地方には数え切れないほど訪れているがいつもサロン・ドートンヌの時期で11月頃なのでセミの声は聞いたことがない。

 蝉は日本には32種が居て世界には約1600種~2000種がいるらしい。

 でもヨーロッパには蝉はあまり多くはない様に思う。

 地中海沿岸地域には居るが、中北部ヨーロッパには居ないという。

 

 『蟻とキリギリス』は誰でもがよく知っているイソップ寓話だが、元々は蟻(アリ)と蝉(セミ)だったそうだ。

 ところがその話がギリシャからイギリスに伝わった際、イギリスには蝉は居ないものだからキリギリスに置き換わったという訳。そして蟻とキリギリスとなって世界中に広まった寓話となった。*

 

 フランスも北部パリには蝉は居ない。パリ人にとって夏のバカンスを南仏プロヴァンスやコート・ダジュールで過すのは憧れに違いない。プロヴァンスには蝉が居る。夏、太陽、バカンスの象徴が蝉なのである。いつしか蝉は幸福の象徴となり、プロヴァンスの土産物屋には陶器で作られた蝉の置物、蝉をかたどった石鹸、銀細工の蝉のブローチ、蝉の柄が入ったテーブルクロス等々が売られるようになった。楽しいバカンスをプロヴァンスやコート・ダジュールで過した思い出と共に置物の蝉はパリの暖炉の上に置かれている。

 

 我家の南東には4本の松の大木があるので、蝉の啼く声はよく耳にする。

 午前中か、確か10時のコーヒータイムの頃にはよく耳にする。

 それほどウルサイと言うほどでもない。どちらかと言うと心地好い鳴声だ。蝉しぐれと言うほどでもない。

 日本で秋に啼くヒグラシという蝉の様な鳴き声の様に思うが、蝉のことは全く詳しくはないのであいまいなことは言えない。

蝉の鳴声は耳にするが、その姿を見ることはあまりないので、この際、写真を撮っておこうとデジカメを用意し撮影をした。

 我家のベランダの蝉は、僕が昨晩、昼間の太陽の熱をいっぱい受けた、ベランダの床タイルの熱気を冷却しようと、たっぷり水を含ませたしぼらないモップで、数度拭き掃除をし、昨夜からベランダにそのまま放置してあった掃除用バケツで、そのすぐ側に蝉は止まっていた。掃除バケツを片付けようと近寄らなければ全く気が付かなかったのだろうと思う。

 

 最初に1メーターの距離から撮影をした。あまりに小さいのでもう少し近寄って、50cmの距離からもシャッターを切った。それでも小さいので20cmの距離から3たびシャッターを切った。それでも小さいので5cmの距離に近寄ったところで蝉は一目散に飛び去ってしまった。

 その蝉と、いつも聞いている蝉が同一かどうかは判らない。その時は一言も声を発することなく飛び去ってしまったのだから。

 

 ネットで検索してみると、チッチゼミCicadetta radiatorかその近縁種なのかも知れない。実はチッチゼミという名前も初めて知った。クマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミなどはよく耳にするが。

 

 数年前、所用で夏に一時帰国したことがある。例年なら展覧会の関係でたいていが春だが。

 久しぶりの日本の夏を体感した。最も暑い8月中旬からの1ヶ月であったと記憶している。その時は大阪には寄らずに宮崎でのまるまる1ヶ月滞在であった。宮崎の夏は猛烈に厳しかった。大急ぎでエアコンを注文した。

 宮崎の自宅には自転車を置いてあって、宮崎では自転車ライフを満喫することになる。自転車でどこにでも行くことが出来る距離だし、宮崎は比較的自転車道が整備されていて便利だ。

 

 宮崎の自宅は大淀川の河口の側で、土地も幾分低くなっている。ひとたび東北の様な津波でも来ようものならひとたまりもない。もし大地震があれば咄嗟に自転車で高台まで逃げようと覚悟を決めている。自宅から日豊本線を渡れば10分以内に南宮崎駅まで行くことができる。そのあたりには大型ショッピングセンターもあり、そこまで辿り着けば何とか大丈夫だろうと思っている。

 ところがJR日豊本線を渡るのにその線路の下を潜ることになる。下を潜るというのは津波の危険が増す。それでその幹線道路から一つ南側の道を通るようにした。その道を通れば下を潜るのではなく、小さな踏切、城ヶ崎踏切を渡ることになる。そんな非常時の訓練と思ってそれ以来、常日頃からその道を通る様になった。

 その道沿いには大谷石で囲まれた様なお屋敷が幾つもある。それぞれ立派に庭園作りがされていて、いろいろな庭木が植栽されている。春には桜なども楽しむことが出来るが、四季折々の花や秋にはもみじなども美しいのだろう。

 

 その夏の話である。いやはや蝉のうるさいこと。はて、蝉とはこれほどうるさかったものであろうか?と自転車を走らせながら感心していた。まさに暴力的であった。油蝉であったのだろうと思う。そしてアスファルトの道路に幾つもが転がっていた。未だ生きている蝉が転がっていた。

 

 蝉は幼虫時代を6年ほども土の中で過ごすと言う。土から這い上がってきて木の幹にしがみつき羽化をする。たいていが薄暗くなってからの行動だという。成虫になってからは1ヶ月の命だそうである。小説で「八日目の蝉」というのがあった。蝉は7日しか生きられない。せめて8日目の景色を見せてあげたい。という作家、角田光代さんの想いがタイトルとしてあるのだと思う。蝉は成虫になって1ヶ月の命、と上に書いた。研究者が飼育しての観察であるという。でも飼育したものと自然界では異なる。幼虫時代を6年ほどとも書いた。これも実際には未だ解明されていないらしい。尚、謎は深まる。

 子供の頃よく樹木の幹に残っているそのぬけがらを目にした。

 蝉のぬけがらを空蝉(うつせみ)という。そして、この世に生きている人間の世界。現世のことも空蝉という。

 

 その一時帰国したある日、県立図書館まで自転車で行った。帰りは大回りをして江田原(えだばる)の三角茶屋で熱いうどんを食べ、通称「長友道路」を通って帰った。その長友道路が終ったところの横断歩道を渡って自宅に帰る。

 その横断歩道を渡りきろうとしたところで突然、油蝉が後方で猛烈に鳴き始めたのでびっくりして振り返った。もう少しでよろけてこけるところであった。横断歩道の中ほどに60歳くらいの男が僕の後方を歩いている。蝉の鳴き声はその男の手から発せられていた。男が横断歩道の途中でその油蝉を拾ったのだろう。横断歩道に転がっていた油蝉は男に拾われてびっくりして啼き始めたのだろうと思う。蝉もびっくりしただろうが、恐らく男もびっくりしたことだろうと思う。僕もびっくりした。大きな鳴声である。男は油蝉を手放すでもなく、何ごともなかったかの様に涼しい顔で、いや実際には暑苦しかっただろうと思う、油蝉の猛烈な鳴声と共に横断歩道を進んでいる。只、僕と目が会ったことに関しては何となくバツが悪そうな表情が感じ取られた。

 

 今、7月24日、ポルトガル時間夜の8時23分。未だ松の木に西日が燦燦と当たっている。たった一頭の蝉がちちちちちち、ちちちちちち、ちちちちちちと淋しげに鳴いている。VIT

 

  

その後、8月3日の朝に同じベランダの反対側の壁に同じ様に止まっていた蝉。(右)以前の(左)より少し大きく、色合いも異なるので種類は少し違う様だ。

さらにその午後、西日がもっとも強くなる5時30分、松の木で複数の蝉が異なる鳴き声を発していた。

 

チッチゼミ、学名:Cicadetta radiator、又はCicadetta montana、

半翅目同翅亜目セミ科、チッチゼミ属。体長 (翅端まで) 30mm内外。体は黒色で,頭部と前胸背に褐色の小斑紋があり,中胸背には2個の暗黄色斑がある。翅は透明で長く,たたむと後翅の一部が背面の翅の合せ目より三角形状に突出する。

世界には1600~2000種の蝉がいて、日本には32種。東南アジア650種、中国227種、台湾59種、オーストラリア198種、ニュージーランド35種、北米175種、ヨーロッパは少なく10種(イギリス1種)。一番大きい蝉は、テイオウゼミ(マレーシア)で体長10センチ、小さい蝉はウラブナナゼミ(オーストラリア)で体長5ミリくらい。蝿を細くしたような形。

蝉の天敵は、セミタケ(幼虫に寄生してキノコになる)、トゲアリ(孵化したばかりの幼虫を狙う)、ムクドリ、ヒヨドリ、カラスは羽化前の幼虫を狙い、成虫となってからも、ヒキガエル、タヌキ、アリ、ハチ、カマキリ、セミヤドリガの幼虫、クモなどに襲われる。

 

*OMAKE

イソップは古代ギリシャの人である。ギリシャ読みではアイソーポスとなる。紀元前619年、今のトルコに近いサモス島の出身。生れは小アジアの何処かという説もある。サモス島はエーゲ海東部、アテネから東に250km、トルコの沿岸からは僅か2kmという地理。イソップは元はサモスの市民イアドモンの奴隷だったが、語りに長けており奴隷から解放された。それを妬んだデルフィの市民に55歳の時、紀元前564年に殺害された。

数学者、哲学者でピタゴラスの定理として知られる、ピタゴラスも同じサモス島の出身であり、イソップと同時代を生きている。イソップが37歳の時、紀元前582年にピタゴラスが生まれている。そしてピタゴラスが18歳の時、紀元前564年、イソップは55歳で殺された。恐らく接点はなかったのかも知れない。ピタゴラスはその後も86歳まで長生きをしているが、その最後に関しては様々な説がある。紀元前496年のことである。

 

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コメント (2)
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