武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

213. 中島先生、『にっぽん』と『にほん』はどちらが正しいのですか? professor Nakajima. O que é correto, “Nippon” ou “Nihon”?

2024-07-01 | 独言(ひとりごと)

 笑福亭鶴瓶に『青木先生』という新作落語がある。母校、高校の先生を話題にした落語だ。

 生徒が授業中に、先生に愛憎を込めていわゆる大阪弁でいう『おちょくる』という行為なのだろうと思う。

 残念ながら僕は青木先生の授業は受けていない。でも僕が在校中も居られたはずだ。

武本比登志油彩と本文とは関係ありません。

 僕は笑福亭鶴瓶より5歳程年上、面識はないが、僕の方が先輩にあたる。ほぼ同世代、同じ高校、浪速高校、通称『浪高』に通っていた。青木先生は国語の先生だ。比較的マンモス高だったので国語の先生も沢山居られた。

 国語で僕が習ったのは長野先生、中島先生などが居られたが国語でも現代国語と古文などもあって、どちらがどちらか覚えていない。長野先生は3年生の時の担任で僕は個人的にもご迷惑をおかけした思い出がある。

 青木先生は戦後間もなく昭和22年の、お若い頃から浪高に居られた様だが、笑福亭鶴瓶の居た頃には70歳近いご高齢になっておられて、その事がおちょくる題材になっている訳だけれど、母校にはご高齢の先生が多く居られた。長野先生も中島先生も何処か他の学校を定年退職されてから浪高に再就職を求めて入られたのかもしれないが、そういった先生が多く居られた。

 長野先生は先生の有志を集められて俳句の同好会などもやっておられて、授業も担任も受け持っておられたのだが、学校ライフを楽しんで居られる雰囲気もあり温和な先生であった。

 中島先生もご高齢の国語の先生だが大阪府下の田舎の町で町会議員もしておられたという噂もあった。いや、噂だけではなくいつも背広の胸には町会議員の金バッチが光っていた。

 その僕たちの時代には中島先生がおちょくる対象になった。

 「中島先生、ニッポンとニホンはどちらが正しいのですか?」などと通常の授業に飽き飽きした生徒が質問をする。中島先生は得意になって「そりゃあ、ニッポンと言わなきゃあかん。ジャパンは蔑んだ言い方だ。」などと答える。ニッポンとニホンという質問の筈なのに、ニホンはどこかに飛んでしまってジャパンに置き換わっているのだ。それを延々と1時間でも得意になって話し続ける。それが面白くて次の授業でも同じ質問をするのだ。又、得意になってニッポンとジャパンの話を延々と話し続ける。その話は他のクラスにも伝播する。

 それが何回か続くと「えっ、その話はこのクラスでは前にしなかったか?」などと、町会議員がにやっと笑われようやく気が付かれる。その先生の綽名は『ウイッシュボン』であった。

 その頃、テレビでやっていた『ローハイド』のウイッシュボンに感じが似ていたからだ。ウイッシュボンは西部劇ローハイドの炊事係でカウボーイたちから慕われる叔父さんだが若いカウボーイたちからおちょくられる対象になっていた。

 ウイッシュボン先生が言われていた「ジャパンは蔑んだ言い方。」と言うのは正しくないのだと思う。

 ジャパンを検索してみると、中国語のjih pun(日本)(読みは「ジープン」)に由来し、文字通り「日の出」「日出ずる国」を意味し、日本語のNippon(日本)と同義なのだ。 この中国語は、jih(日)(「日」の意味)とpun(本)(「起源」の意味)が合わさった言葉で、もともと中国の南方の人は「ニッポン」に近い発音をしていた。

 そこから、シナの商人たちがポルトガルの船乗りに言い移しで伝えたのが、ポルトガル語のJapão(ジャパン)となり、スペイン語のJapon(ハポン)になる。 そして、フランス語のJapon(ジャポン)や英語のJapan(ジャパン)につながったという説。 ジープン或いはニッポンという発音が、違う言語の間で訛っていき、ジャパンにたどり着いたということなのだ。

 マルコ・ポーロが東方見聞録の中で日本のことをZipangu=ジパングと言い表している。彼は日本を訪れたことがないため、ジパングは全て想像と伝聞によって作られた。 彼に日本の話を伝えた人物は中国の商人だった。 かつて日本は中国との交易で、支払いに砂金を使っていたという説もある。現在はイタリア語で日本はGiappone(ジャポーネ)となる。(Wikipediaより)

 未だ日本国内で国の名前が確立されていない時代に、中国からはジープン(日出ずる国)と呼ばれていたと言うことになる。今では日本(リーベン)だが、ジャパンは決して蔑んだ国名ではないと言うことになる。

 太平洋戦争時代を描いたアメリカ映画にはよく「Jap=ジャップ」という文言が出てくるが、それは少々蔑んだ言い方なのかもしれない。「日本人野郎」と訳せるのだろうと思う。

 一方、ニッポンとニホンであるが、結果から言うとどちらでもよいのだろう。「にほん」という呼び方はせっかちな江戸っ子たちの早口によって生まれたとされ、「にっぽん」が「にほん」と簡略化されたという見方もある。

 只、単独でいう場合は「ニッポン」で、熟語で使う場合は「ニホン」が使いやすい様な気がする。「ニホンゴ=日本語」「ニホンジン=日本人」「ニホンショク=日本食」「ニホンガミ=日本髪」「ニホントウ=日本刀」「ニホンアルプス=日本アルプス」「ニホンカイ=日本海」「ニホンシュ=日本酒」「ニホンガ=日本画」「ニホンエイガ=日本映画」「ニホンケンチク=日本建築」「ニホンジカン=日本時間」「ニホンタイシカン=日本大使館」「ニホンシャ=日本車」等だが、勿論、「ニッポンシャ」といっても「ニッポンゴ」といっても差し支えないのだと思う。「日本晴れ」の場合は、「ニッポンバレ」の方が「ニホンバレ」よりいっそう晴れ渡っている感じがしないでもない。それに「ニッポンギンコウ=日本銀行」もニッポンギンコウだろうか、いや、どちらでもよい。僕には縁がない。

 日本食は和食ともいうが、日本の服、着物はニホンフクとは言わないで和服と言うし、日本の紙は和紙と言う。辞典も和英、英和などと言って英日、日英とは言わない。

 東京は「日本橋=ニホンバシ」だが大阪では「日本橋=ニッポンバシ」という。

 僕にとって大阪の日本橋は橋のイメージは全くなく、日本を代表する街というイメージも全くなくて、ただ単に猥雑な電気屋街と言うイメージだ。昔は小さな多くの電気部品専門店に混ざって古道具屋も多くあった。西岡たかしさんはそこで古い壊れたヨーロッパ製のオートハープを買われた。それをご自身で修理をされ使っておられたが、「遠い世界に」のレコーディングにも使われている。僕も古いフラットマンドリンを買ったが、使わないまま今も埃をかぶって眠っている。その古道具屋でSPレコードも買った。アインシュタインのバッハのハープシコード演奏で絹貼りの10枚組アルバムだ。たぶん、今では貴重なものだと思う。

2024年夏至の頃のセトゥーバルの日の出(我が家のベランダから6:10撮影)

 今年はオリンピックの年だそうだが、何か盛り上がりに欠ける。

 オリンピックの応援で「ニッポン、チャチャチャ。ニッポン、チャチャチャ。」は勢いがつくが「ニホン、チャチャチャ」では何とも締まらない。VIT

 

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212. せんぬき先生 Abridor de garrafa

2024-06-01 | 独言(ひとりごと)

 最近のアメリカ映画などを見ていても瓶のビールは捩じって開けている様で、センヌキはもはや使ってはいない。日本でもポルトガルでも瓶のビールには昔ながらのセンヌキは今でも使う。尤も日本では瓶ビールより缶ビールが主流で、瓶ビールはお店などでは使われているが家庭ではやはり手軽な缶ビールなのだろう。アルミ缶ならリサイクル箱に捨てるだけで済むがビールの瓶を返すには手間がかかる。

 ポルトガルのスーパーで売られている1リッターのビール瓶はワインの瓶と同様、ガラスのリサイクル容器に捨てるようになっていて、蓋も捩じり式で繰り返し栓が出来る様になっている。だからその様なものが主流になり、時代と共にセンヌキなるものの存在はなくなってしまうのかもしれない。

 僕は昔、1965年、東京オリンピックの翌年だったと思う。東京国分寺駅前のキャバレーでボーイのアルバイトをしていたことがある。お店の名前は『フレンド』。大きなフロアーの真ん中には池と噴水もあった。噴水の上にはミラーボールが回っていて、池の周りはダンスホールになっていた。その周囲に多くのボックス席があり、ホステスさんに取り囲まれるように男性客がいた。

 ボーイは3~4人いたが、間隔を空けて、そのボックス席から少し離れたところで突っ立っている。突っ立っているだけの仕事だ。右手にはセンヌキを持って突っ立っているだけ。何の変哲もないセンヌキだ。時折、ホステスさんから呼ばれる。「ボーイさ~ん」などと呼ばれる。つつつとボックス席に近付く。ホステスさんは「ボーイさん、おビール1本お願い」などと注文をする。ボーイはバーカウンターからビール瓶を持って来て、ボックス席の前で、勢いよくビールの栓を開けるのだ。「シュッパァ~ン」という景気の良い音を鳴らす。それが腕の見せ所でもあった。左手にタオルを持ちよく冷えたビール瓶をそれに包んで胸の高さまで持ち上げる。センヌキを持った右手は腰より下。1メートル程も離れたビールの栓に一直線にヒットさせ景気の良い音をお店中に鳴り響かせなければならないのだ。

 岡山に内山工業という明治半ばに創業の古くからの企業がある。何でも創業当時はビールの王冠製造から始まったらしい。王冠の裏にはコルクが使われていた。僕が子供の頃にも王冠の裏にはコルクが張られていた。そのコルクを剥がし、王冠をシャツなどに貼り付け裏に再びコルクを付けて遊んだりもしたものだ。そのコルクを調達するために内山工業はポルトガル北部の町ヴィアナ・ド・カステロに工場を作ったのだと思う。その工場は今でもある。尤も今では王冠の裏にはコルクは使われていなくて、樹脂製に代わっているが、ヴィアナ・ド・カステロの工場はそのまま操業は続けられていて、企業としての人気は高い。今では王冠だけではなく製品の広がりも多いそうだがその製品の世界シェアは何と3割にもなると言う優良企業だ。

 僕が最も尊敬する恩師が『センヌキ』先生と言う渾名だった。外見と内実の両方がうまく合致した渾名で、誰が付けたのかは知らないが実に巧く付けたものだと感心していた。外見は少々出っ歯で、そこからも由来しているのだが、何事にも先ず率先してやってみると言う性格もあって、先ず扉を、栓を開けてくれる、何でも出来る人でもあった。

 美術部では不定期に機関誌『NACK』というのが作られていて、その冒頭部分に『A Cup Opener』というコーナーがあり、気の利いた文体に、レイアウトとイラストがお洒落で、ご自身でもセンヌキという渾名は気に入られていた様だ。『NACK』のロゴマークはアルファベットを組み合わせて横に倒すとピカソの牛の頭蓋骨になる。

 僕たちの美術部の顧問ではあったが、美術部以外にも山岳部とラグビー部も兼務しておられた。兼務と言っても只名前だけの顧問ではなく、生徒と一緒に山にも登られるし、プロテクターにジャージ姿でラグビーボールを抱えて生徒と一緒になって運動場中を走られる。だからと言ってそれ程身体がデカいわけでもなく、どちらかと言えばやせっぽちで華奢なタイプだ。繊細なのにず太いのだ。ず太く見せようと努力されていたのかもしれない。

 生徒の部活動の顧問以外にも先生同士での俳句の同好会にも参加されていて、独自に俳句に木版画をドッキングされて面白い表現をされていて、それが出版社の目に留まり1冊の素晴らしい本にもなっている。俳句・俳句版画集『蛍雪の窓』藤井 水草両 著

 僕はこの恩師と出会うことによって僕自身が知らず知らず随分と変わっていったのだろうと思う。その頃の母の口癖は「藤井先生のお陰や」だった。そのセンヌキ先生の本名は藤井満先生と言われる。

 僕は戦後間もない食糧難の時代にこの世に生を受けた。出産の付き添いに福岡県遠賀郡からわざわざ大阪まで母の姉、僕からすれば叔母さんが手伝いに来て下さった。夜行の蒸気機関車に揺られて。その間には途中、広島の惨状なども目にされてのことだった。

 僕は何とか無事に生まれた。でも叔母さんの第一声は「この子は生きられんよ」だったらしい。鳴き声も弱弱しく、痩せっぽちで目と鼻と口だけが大きくてとても異形であったらしい。

 でも生を受けてからは母の胸にしがみつき母乳をむさぼり飲んだのだと言う。その結果、母も僕もカルシューム不足は慢性的な事態になってしまい、共倒れも懸念された。僕はその頃から『和田カルシューム』という栄養補助剤が手放せなくなっていたし、ビタミンなどのいろいろな栄養剤を常用しなければならないほどであった。僕の子供の頃は酷いアレルギー体質で、身体中に蕁麻疹が出て、いつも四谷怪談の『お岩さん』状態だったし、喘息気味で、おまけに骨折はしょっちゅうで、怪我などをしてもなかなか血が止まらなかった。近くにあった『淀井病院』の常連患者だったが、お医者様は「中学生くらいになれば自然に良くなりますよ。」と言って頂いていたが、中学生になってもお医者様が言われた様にはゆかなかった。それが高校生になって美術部に入って、母に言わせると見違えるような変化が起きた。と言うのだ。「この子は生きられんよ」と言われた子供がまがりなりにでも高校生にまでなったのだから。そして高校美術部の顧問「藤井先生のお陰」という訳である。

 それから今までの実に長い人生でその時からの、センヌキ先生を含めた仲間たちは人生の支えになっていった。

 幾つかのセンヌキが手元に残されているのだが、もはや開けるべきものは何もない。

 何処の家庭でも台所の引き出しには2個や3個のセンヌキが転がっている。でもあと数十年もすれば「はて、この道具は何に使うものなのだろう?」などと言われる日がやってくるのかもしれない。武本比登志

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211. 宮崎の温泉と敬老パス  Fontes termais de Miyazaki e respeito pelo passe dos idosos

2024-05-01 | 独言(ひとりごと)

 宮崎での楽しみの一つは何といっても温泉。他にすることがないのだ。インターネットにアクセスできる環境にないし、油彩を描く環境も整ってはいない。レコードは一杯あっても聴くオーディオがない。久々に日本のテレビを観たり、自転車で走り回ったりは出来る楽しみはあるのだが…。

画像はポルトガルの家並を表現した油彩で文章とは関係ありません。

 実はポルトガルにも温泉はある。シャーベスなどは70度もの熱いお湯が出る。白衣を着た係の人がコップにお湯を注いで手渡してくれる。胃に良いのだそうだ。そんな温泉もある。でも日本の温泉とは少し違い、温泉療養施設といった趣のところが多い。温泉場にはホテルもあるが普通のホテルと何ら変わらない。只、お湯が多少ぬるぬるしていたりするので温泉の有難みを感じる。

 でもやはり日本の温泉が良い。帰国中宮崎ではほぼ毎土曜日には温泉と決めていた。路線バスで行く。平日はバスの便が悪く、土日に限る。土日にしか行くことが出来ない。たいてい土曜日と決めていたが、土曜日に用事がある時は日曜日に順延する。とにかく週一回だ。

 バスは宮交シティを12:35分に出て『宮崎自然休養村このはなの湯』に到着はだいたい13時頃。バスだから正確にはゆかない。13時に着いて、帰りのバスは16:35分。3時間半もあるのは少々長すぎると当初は思っていた。

 着いてすぐに食堂に行き昼食。豚ロースの生姜焼き定食が旨い。920円だがなかなか値打ちがある。温泉代は330円。宮崎市民で高齢者の価格だ。普通は420円程。そして1回に1つスタンプを押してくれる。スタンプが10個貯まれば1回が無料になる。回数券もある。10回分の価格で11回が使える。

 食堂を出たところに血圧計がある。豚の生姜焼き定食を注文して出来上がるまでの間に血圧を測る。いつも少々高めだ。でも温泉から上がり再び計ってみると、確実に正常値になっている。体重計にも乗る、温泉に入る前と出てからだと1キロの体重が減っている。

 豚ロースの生姜焼き定食も毎回だと飽きる。いや他にもいろいろと定食や麺類などもあるので飽きることはないのだが、その雰囲気に飽きる。1人では寂しい。それでバスに乗る前に宮交シティ周辺のファストフード店で食べたりもする。自宅で食べてから行くこともある。ちょっと早い目の昼食になる。自宅から自転車で宮交シティまで行く。5~6分だ。雨の日は傘をさして歩く。20分かかる。それから12時35分のバスに乗る。

 バスは宮崎駅が始発で宮交シティは中間点、なのでそれもいつも5分程度遅れて来る。でもこのバスが良い。宮崎市民で高齢者は1乗車100円なのだ。何処まで乗っても1乗車100円。普通に払えば1500円もする距離でも100円。温泉まで30分ほどの距離だが1乗車だから100円。往復200円。高齢者には敬老パスがありあらかじめチャージしておく。チャージが1000円以下になれば1000円ずつ追加チャージする。チャージはバスセンター、バス車内、コンビニでも出来ます。と車内放送でしょっちゅうテープが流れる。

 温泉には毎日の様に来ている常連客が多い。毎回見る顔が何人も居る。でもその人たちはバスでは行かない。自家用車で行く様だ。毎土曜日にバスで行くのは僕と3人の女性だけ。帰りにも同じバスだがそれしかないから一緒になりいつも挨拶を交わす。もう10年通っておられると言う。

 当初、3時間半は長すぎると思っていたが慣れてくるとこの長さが良い。温泉には大浴場と源泉風呂、歩行浴、そしてサウナがある。露天風呂はない。大浴場は沸かし湯だと言う。源泉はほぼ体温程度。歩行浴も源泉だ。大浴場にはそれ程長くは浸かれないが源泉浴は何十分でもいける。気持ちが良い。でも4~5人で満員。皆ゆっくり入っている。僕もだいたい15分を目安に浸かる。お隣でいびきをかいている人も居る。気持ちが良くて寝てしまうのだ。

 ゆっくり時間があるので源泉浴も良いが、サウナが良い。1度には5分から長くて10分程度だが4度も5度も入る。サウナには5分計の砂時計があり、それの2回分を目安に入る。入る前には身体を拭き上げる。入口に消毒済みのスポンジマットが用意されているのでそれを持って入り座布団としてお尻に敷く。10分近くなると汗が噴き出す。出る時には立てかけてあるモップで座った後の汗を拭きとる。そしてスポンジマットを使用済みの容器に入れる。白衣を着た従業員の小母さんがそのマットの消毒に何回となくやってくる。大浴場の温度を計り。シャンプーやボディソープの追加。足拭きタオルの交換など。仕事は多い。サウナから上がって脱衣場に設置してある冷水器の水を飲む。格別に旨い。

 サウナと言えば僕は昔若い頃、スウェーデンに住んでいた時のことを思い出す。ストックホルムにいた後半にはストックホルム郊外のリンケビィという町の学生寮に住んでいた。学生寮と言っても家族向きで夫婦であったり、子供連れであったり用の学生寮であった。6階建て程であったと思うが地上階にはコインランドリーがあって、各戸で洗濯機は必要ではなく、非常に合理的であると思った。洗濯機用のコインは事務所で買うのだが、洗濯機、乾燥機、アイロンそれにシーツを畳んでプレスする道具がありこれは便利だと思って感心していた。今、町にあるコインランドリーのはしりだと思うが、学生寮にあって、勿論、その学生寮の住民だけしか使えない場所であった。

 その隣に卓球台などが置いてある50畳程の屋内運動場もあった。そしてその隣に更衣室とシャワー室、そしてサウナがあった。サウナは学生寮の住民は自由に使うことが出来るが、使いたい時間には名前を書いておく必要があった。

 僕はその屋内運動場を定期的に使っていた。2台の卓球台を隅に片付け、不動禅少林寺拳法の練習に使っていたのだ。師範の野口公彦さんに来て頂き、スウェーデン人のオーケ。フィンランド人のアレクシそして僕の4人で稽古をしていたのだ。更衣室で胴衣に着替え。終わればシャワーを浴びる。でもサウナは1度も使ったことはなかった。屋内運動場を使うにも更衣室を使うにも、シャワーを使うにも名前など1度も書いたことはなかった。大体殆ど誰も使わないのだ。

 でも1度、練習が終わってシャワーを浴びようとしたところ、誰かがサウナを使っている気配なのだ。そして入口には名前が書かれてあった。サウナから女性が顔を覗かせ、「どうぞ、良かったらご一緒に」などと言うではないか。それもスウェーデン女性の飛び切りの美人が。「いやいや、我々はシャワーだけで…」と師範以下皆はたじたじであった。

 今から思えばもっとサウナを利用しておけばよかった。こんなに気持ちの良いものもない。

 スウェーデンを引き揚げ、ニューヨークで1年を過ごした。ニューヨークでは働きづめでお金が貯まった。そのお金で南米を1年かけて旅をした。お金が貯まったからと言っても豪華な旅ではなく、極力に切り詰めた貧乏旅行だ。ニューヨークからリオ・デジャネイロに飛び、リオのカーニバルを堪能した後、ローカルバスや列車を乗り継ぎ、最南端のフエゴ島まで行き、それから北上した。一つの国ごとに1か月以上を費やした。誰もが行く観光地はもちろん、誰も行かない僻地にも貪欲に足を延ばし自然を満喫した。

 誰もが行く観光地、クスコからマチュ・ピチュまではローカル列車で行った。クスコを早朝5時発だ。8時発は観光客専用で途中は止まらないでマチュ・ピチュ迄直接行ってしまう。僕たちはその手前のアグア・カリエンテで泊まるつもりなのでその観光列車には乗れない。列車は1日に2本しかない。アグア・カリエンテに1週間泊った。駅がホテルだ。アグア=水、カリエンテ=熱い、熱い水。つまり温泉だ。駅から1分も歩けば小さいプールの様な露天風呂がある。入口のところで子供を連れた小母さんが料金を徴収する。昼間はあまり誰も入らない。バックパッカーたちは夜中に入る。小母さんがいなくなる夜中は無料になるのだ。そして混浴だ。そんなところに1週間滞在した。

 1日かけてインディオの道を上りマチュ・ピチュを観光した。途中、満員の観光バス何台もが僕たちを追い抜いて砂埃を舞い上げ走り去った。

 宮崎の路線バスは敬老パスで乗る人は居るが、いつもは空いている。経営は大丈夫かなと心配してしまう。それでも日本語アナウンスの他に英語と韓国語、中国語のアナウンスが流れる。今年四月にもダイヤ改正が行われ一部縮小になった路線などもある。温泉行だけはこれ以上なくならないでほしい。

 2024年6月からは温泉入浴料を値上げすると、張り紙があった。330円が420円になる。温泉は宮崎市営の施設であるらしい。値上げは僕にとっては痛いが、他所に比べればそれでも安いのだから仕方がないか。

 温泉から上がると館内にはいつもBGMとして心地よいジャズが流れている。VIT

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210. マンハッタンで自転車 Bicicleta em Manhattan

2023-11-01 | 独言(ひとりごと)

 ニューヨークに住み始めてすぐに自転車を買った。1975年の話だ。太く重い鎖と南京錠も同時に揃えた。

 ニューヨークに行くことは駒ちゃんに予め手紙で知らせておいた。

 駒ちゃんは僕たち2人の為に仕事とアパートまでも決めておいてくれたのだ。

 僕には『SOUEN』と言うアップタウン91丁目にあるマクロバイオティック料理店のコックの仕事。MUZにはミッドタウン50丁目の『NAKAGAWA』。高級寿司店のウエイトレス。

 アパートはその中間、ウエスト75丁目42番地、地上階のワンルーム。1部屋だがキッチンもシャワーもトイレも付いているし、セントラルパークまで歩いて1分。ベーコンシアターにも徒歩10分以内。地の利は抜群だ。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが住んでおられたダコタ館のすぐ裏手で、最寄り地下鉄駅はそのダコタ館が目の前のウエスト72丁目。

 駒ちゃんとはストックホルムで一緒だったのだが、日本からの船も一緒だったらしい。

 1971年7月、新潟港からジェルジンスキー号と言う元KGB長官の名を冠した船でナホトカ港まで大荒れの日本海を揺られた。船では2人だけの個室を与えられたものの、窓もない舳先の船底でこれでもかと言わんばかりに揺れた。ナホトカに着いた時には2人共ぐったりでこれでヨーロッパまでたどり着けるのかと不安な気持ちになった。それでも気を取り直して記念写真をとMUZにカメラを向けると5~6人のコサック人が一緒にどやどやと入って直立笑顔の姿勢を取ってくれた。その笑顔が僕にとっては何よりの励みにもなった。

 ナホトカからハバロフスクは夜行列車。ハバロフスクからモスクワはプロペラ機、モスクワからコースは別れ、ヘルシンキ行き、ストックホルム行き、そしてウイーン行きもあったが100人以上の若者たちが同じ船、片道切符でヨーロッパを目指したのだ。僕たちはストックホルム行きを選んだ。その中に駒ちゃんも居たことは後で知った。駒ちゃんから「一緒の船だったのですよ」と教えてくれたのだった。

 ストックホルムでの日本人は皆が仲が良かった。ストックホルムを拠点にヨーロッパ中を旅しその情報を交換したり、ストックホルムでの生活そのものを謳歌したり、中にはアメリカ経由でストックホルムに暮らす日本人もいた。溜り場は Tセントラレン前の図書館。図書館ではレコードなども聴くことが出来た。殆どが20歳代前半で音楽の話題にも事欠かなかった。駒ちゃんは学生時代にはトランペットをやっていたという。

 数年して駒ちゃんはニューヨークに旅立った。僕は「ははぁ、ジャズだな」と思っていた。

 僕たちはストックホルムで4年余りを過ごし、ポーランドを旅した折にアメリカ大使館に立ち寄り、だめ元でヴィザを申請したのだが、すんなりと取れてしまったのでヴィザ有効期限が切れる半年以内にアメリカに向かったのだった。

 ニューヨークに着いて先ずは駒ちゃんが働く寿司店『SAKURA』に立ち寄って寿司で腹ごしらえをした。そこでアパートと仕事のことを教えられて驚いたのだった。駒ちゃんは僕たちを驚かそうと思ってそれまでは伏せていたのかもしれない。兎に角有り難かった。暫くは何処か安ホテルでもと思っていたのだが、その日からアパートに住めることになったのだから。

 そしてマクロバイオティック料理店『SOUEN』のオーナーのタキさんは僕たちの為に弁護士を雇って<H2>と言うヴィザとMUZの為に<H4>のヴィザを取得してくれたのだ。H2は特殊技能保持者つまり日本食のコックなどに与えられるヴィザでH4はその妻に与えられると言うものであった。

 不法滞在、不法就労ではなく正規のニューヨーク市民になれたのである。

 ニューヨークでは1日中仕事に明け暮れるという生活だった。休みの日には美術館に行ったり、2本立て1ドルの映画を観たり、自転車でマンハッタンを隅から隅まで乗り回したり、いや、イーストにはあまり行かなかったし、ハーレムにも行かなかった。主にSOUENのあったアップタウンからヴィレッジやソーホーのあるダウンタウンまでか。未だ建設途中だったワールドトレードセンターの80階までは上ったこともある。そして夜には必ずジャズライブに通った。でもMUZとも駒ちゃんとも休みの日が異なるので一緒と言うことは殆どなかった。

 僕はジャズライブに通っていたが、駒ちゃんがジャズライブに通っていると言う話は聞かなかったし、トランペットを吹いていると言う話も聞かなかった。仕事は一生懸命やっていて『SAKURA』のオーナーからは信頼されている様だったし、僕のオーナーのタキさんなどからも「駒ちゃん、駒ちゃん」と可愛がられていたが、休みの日には中国人の闇賭博場に日参していると言う噂もあった。いや、噂だけではなく本人からもその話は聞いていた。

 先日ジョセフ・ゴードン=レヴィット主演の『プレミアム・ラッシュ』という映画を観た。

 『プレミアム・ラッシュ』(Premium Rush)2012年。アメリカのアクションスリラー映画。91分。監督:デヴィッド・コープ。“人と車が激しく行き交うニューヨーク。究極のテクニックで大都会マンハッタンを疾走するバイクメッセンジャー、ワイリー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、ある日、知り合いの中国人女性ニマ(ジェイミー・チャン)から1通の封筒を託される。だが、これが悪夢の始まりだった。中国マフィアの闇賭博に身を染めた悪徳刑事マンデー(マイケル・シャノン)。闇賭博の負債をカタにそのニマの封筒を奪うことを中国マフィアから託されたことで、その執拗な追跡、背後にうごめく裏組織の黒い影、そしてニマを苦しめる政府からの弾圧…この封筒にはいったい何が隠されているのか、そして事件に巻き込まれたワイリーはこの危機を切り抜けることができるのか!”と言った映画。

 映画は現代のマンハッタンで、僕たちが過ごした1970年代とは少し違う。バイクメッセンジャーと言う仕事もなかった様に思うし、携帯もない時代。でも闇賭博は確かにあったし、自転車は映画同様、車道を走っていた。僕もクルマの間をすり抜けてマンハッタンの車道を走った。でもマンハッタンでも日本でもクルマの間をすり抜けたり、センターライン側を自転車が走るのは違反行為だ。自転車は歩道側、或いは路肩側の車道を走らなければならない。

 でもマンハッタンの歩道側にはクルマが止まって荷物の上げ下ろしなどをしていて、なかなか真っ直ぐは走れないのでついついクルマの間をすり抜けてしまうことになるのだ。

 僕はその時、市バスに乗って窓から見ていた。パークサイドウエスト通りを初老の白人男性が自転車に乗ってセンターライン側を走っていた。それを見たパトカーの黒人警察官2人が「センターライン側を走っちゃ駄目だ」と大声で注意をしたのだ。初老の男は「判った、判った」と言わんばかりに右手を振りそのまま左折してしまった。黒人警察官はパトカーから飛び出し初老の男を自転車もろとも突き飛ばしてしまった。そこまでしなくてもと僕は思ったが、黒人と白人との確執は今も昔も存在しているのだ。

 2020年だったか、ミネアポリスで白人警察官が黒人を地面に膝で押さえつけ窒息死させた『ジョージ・フロイド事件』は大きな抗議行動へと発展し警察官3人が懲戒免職処分になったが、その逆もあり得るのだ。

 そして70年代にもマンハッタンに自転車は多かった。

 SOUENでウエイターをしていた、デイヴィットもフランクも自転車通勤であった。僕もSOUEN前のブロードウェイの電柱に自転車を鎖で止めていた。後輪と電柱なら前輪だけが盗まれるし、前輪と電柱なら前輪を残して車体が盗まれるのだ。だから前輪と車体もろともを太い鎖で電柱に括り付けるのだ。

 僕の仕事は1人早朝からで、仕込みを一手に引き受けていた。日替わりの豆を煮たり、玄米を炊いたり、野菜をソテーしたり、天ぷら用の海老や野菜の下ごしらえをしたり、魚を下したり、デザートのアップルクランチを仕込んだりと言ったものだ。他の従業員はほぼ昼食時間の開店と同時にやってくる。行列の出来るマクロバイオティック料理店だったが、それでうまく機能していた。オーナーはタキさん。店長でマクロバイオティック料理指導はチカさん。ウエイターにデイビッド、フランク、ウエイトレスにヘザー・ブラウン、キャサリン。チカさんはウエイターにもなる。キッチンには僕の他にヤマちゃん、ミッちゃん、それに皿洗いに入れ替わり立ち代わり誰かがいた。たまにはタキさんやチカさんに連れられ中央卸売市場に魚の仕入れに行くこともあった。

 僕は早朝からの勤務なので自転車で通っていたのだが、帰りは仲間と一緒なので自転車を押して歩いて帰ることも多かった。

 自転車は映画でワイリーが乗っていたような快速車ではなく、車輪が小さくハンドルとサドルは上下できる当時としては流行りの自転車であった。男女兼用で、勿論、休日の違うMUZも休みの日には使う。一人でセントラルパークなどをサイクリングしていたそうだ。

 その当時ヘルメット義務などはなかった。警察官だけはヘルメットをかぶっていた様にも思う。マンハッタンにはパトカーの警察官も居たが、乗馬の警察官も、オートバイの警察官も、徒歩の警察官もそして自転車の警察官も居た。

 先日観たジョセフ・ゴードン=レヴィットの映画で悪徳警察官ではなくワイリーを追いかける天敵、自転車の警察官も居た。その警察官がかぶっていたヘルメットはこの程僕が『リドゥル』で買ったヘルメットにそっくりなのだ。出来たら、ワイリーがかぶっていた様なヘルメットにしたかったのだが。

 ニューヨークを一旦引き揚げ、南米旅行に行くことが決まった頃だったと思う。SOUENには皿洗いとして入って来たのだが、ポルシェに乗っていたアメリカ人から「マイアミにマクロバイオティックの店を出したいと思っている。来てくれないか」と僕にオファーがあった。その前から僕が一手に仕込みを引き受けているのを見ていたのだろう。僕に「豆腐の作り方を教えてくれないか」などと質問をしていた。僕は豆腐の作り方は知ってはいて、一応は教えたが、日本レストランのコックだからと言って豆腐を一から作るコックもあまりいないと思う。SOUENではコロンバスアヴェニューにあった田中豆腐店から仕入れていたのだ。

 チカさんは僕がマイアミに行くことについては「それは駄目だよ」と即答してくれた。その後、南米旅行中だったので、どうなったか僕は知らないが、風の噂ではチカさんが開店の指導にマイアミ迄行ったと言う様な話を耳にした。

 僕たちが住んでいたアパートはイタリア系のアメリカ人が持ち主であった。住人はそれぞれ仕事を持っていてあまり顔を合わせることもなかったが全館ほとんど日本人が暮らしていたらしい。『BENIHANA』の花形コックなども居た。自転車は玄関ホールに「この自転車売ります」と張り紙をしたのだが、その日の内に日本人が買ってくれた。1年余りを乗ったにも拘らず新品同様だったし、重く太い鎖と南京錠迄付いていたのだから。

 映画『プレミアム・ラッシュ』を観ながら、マンハッタンを懐かしく思い起している。

 SOUENのオーナー、タキさんはその後、ポルシェに乗って交通事故死したという話は聞いた。僕たちの頃にはVWのステーションワゴンの地味なクルマに乗っておられたのに。昼食時間が終わって夕食時間までは一旦店を閉める。その間に僕を色んな店に珈琲を飲みに連れて行って下さった。その時の満面の笑顔は今も忘れられない。

 皆が同時に休みの時も何度かあった。ロングアイランドの先端まで船釣りに連れて行ってくれたこともあるし、ゴルフに誘われたこともある。セントラルパークでソフトボールをしたこともある。そして僕が誘って全員でジャズライブに行ったこともある。

 良いことばかりではない。黒人3人組のピストル強盗に襲われたこともある。それも3回も。一瞬の出来事で、その日の売り上げ全額を強奪されたのだが、3回共、従業員全員に怪我はなかった。

 その後音信不通になっている駒ちゃんはどうしているのだろう、などと思う。

 そういえば先日、ストックホルム時代の友人トニーさん、ワコさんご夫妻が神戸から宮崎まで会いに来てくださった折にも駒ちゃんの話題にものぼった。たぶん、マンハッタンで元気に過ごされているのだろう。

 出来ることなら今猛烈に会いたい人だ。そしてあの時のお礼を改めて申し上げたい気持ちで一杯だ。

 今から思うと、たった1年余りの短い期間だったが、あのマンハッタンでの生活は僕の人生にとって重要な位置を占めていることは間違いがないことなのだから…。

武本比登志

 

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209. なるほどナッツ黄金比率 Entendo, a proporção áurea da noz

2023-10-01 | 独言(ひとりごと)

 朝食をとり一仕事を終えたところでコーヒータイムとなる。

 コーヒータイムにはたっぷりのナッツが付く。

セトゥーバル半島先端エスピシェル岬に自生するピスタチオの野生種

 アーモンド、クルミ、マカダミアナッツ、カシューナッツ、それにピーナッツ。たまにはピスタチオがあったり、ヒマワリの種があったり、柿の種があったりする。いや柿の種はナッツではない。おかきだ。それに必ず一片の料理用チョコレートを付ける。チョコレートはカカオナッツが原料だがナッツとは言はない。

 コーヒーはポルトガル式のデミタスではなく日本式にドリップで大きなコーヒーカップにたっぷりと入れ、海などを眺めながらゆっくりと味わう。砂糖もミルクも入れないでブラックだ。ブラックなので、お酒ではないが少しのあてがあれば幸せな気分になる。

 今年の初め宮崎に一時帰国した時に神戸からストックホルム時代の古い友人が遊びに来てくれた。自宅に立ち寄ってくれた時にコーヒーでも出そうと思って『ドン・キホーテ』でナッツでも用意しておこうと思って買い物に行った。すぐ通路の目立つところにミックスナッツがあったのでそれを買った。でも友人夫妻は僕たちの金婚式祝いにケーキを買ってきてくれたので、ナッツは開封せずじまいになってしまった。それをそのままポルトガルまで持参した。そして食卓にその袋がある。買う時は気が付かなかったのだがコピーが凝っている。

 『お酒に合うナッツの要望が多かったので ナッツを愛しすぎた担当者が 自慢の『黄金比率ナッツ』をベースに 複数の胡椒をミックスし味付け 濃厚なのに手が止まらなくなる自信作 ド 情熱価格 黒胡椒ミックスナッツエクストラEX』という長たらしいコピーだがいつもついつい全文を読んでしまう。

 僕はナッツ類の中ではカシューナッツがいい。

 カシューナッツと言えば昔、南米を旅行中にイギリス人で友人になった彼がエクアドールあたりだったか?盛んに「カシューナッツ、カシューナッツ」と騒いでいたのを思い出す。その辺りがカシューナッツの産地だったのだろう。原産地なのかもしれない。やはりいつも食べている食品を原産地の物との違いを味わいたのだろう。僕たちもエクアドールのカシューナッツを食べてみたがいつものと何ら変わりはなかった様に思う。

 アーモンドの原産地はトルコあたりと聞くが昔から南ヨーロッパにもあった。

 ゴッホがアルルで描いた『巴旦杏』は名画のひとつだが、弟テオの子供、それも名親のゴッホの名前ヴァンサンと名付けられた赤ん坊の寝室にその『巴旦杏』の絵はずっと飾られていたと言う。

 巴旦杏はアーモンドのことである。アーモンドは住んでいるセトゥーバルの郊外の沿道などでも毎年1月には花を楽しませてくれる。まるで桜の花にそっくりで春の到来を告げる花でもある。露店市では殻付きのアーモンドなども売られている。

 ポルトガルではアーモンドをそのままではなく粉にしてクッキーを焼いたりもする。贅沢なクッキーだ。

 ピスタチオの原種は我がセトゥーバル半島の先端エスピシェル岬に沢山自生している。食べるには少し小さすぎるが、それでも松の実くらいにはなるのだろう。野鳥の餌だ。

 クルミもトルコあたりが原産と聞くがヨーロッパには古くから栽培がされているし、野生種もあるようにも思う。メイエ村のイクオさん宅の庭にはクルミの巨木があった。庭で取れた小さなクルミをワインの充てに出して下さったが味は濃厚で旨かった。

 クルミも露店市では殻のまま売られている。クルミを殻から開けるにもアーモンドを殻から開けるにもくるみ割りが必要だ。

露店市で売られているアーモンドとクルミ

 我が家でもくるみ割りの道具は幾つかがある。

 くるみ割りと言えば、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』がすぐに頭をよぎる。昔、僕が未だ子供の頃、父はいち早くステレオを買った。同時に何枚かのクラシックレコードを揃えたのだがベートーベンの『運命』と共にチャイコフスキーの『くるみ割り人形』と『白鳥の湖』もあった。

 クルミはロシアにもあったのだろうか?とも思ったがチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の原作はドイツの童話『くるみ割り人形とネズミの王様』だそうである。

 ナッツで一番ポピューラーなのはやはりピーナッツであろう。ピーナッツは木の実ではなく土の中に出来るとのことであるが僕はこの歳になっても栽培されている姿を未だ見たことがない。露店市やスーパーで売られている、殻に入ったピーナッツ或いは殻から出されたピーナッツしか知らない。

 昔、宮崎でお店をしていた時にはコーヒーに殻付きのピーナッツをつけていた。ウエイトレスからは「掃除が大変」と言われていた。やはりあちこちと散らかるのだ。

 映画『エリン・ブロコビッチ』でジュリア・ロバーツが署名を集め回っている先のバーに立ち寄った時、そこで飲んでいた何となく胡散臭いお客が重要な証言を話し始めた。もう夜で早く帰宅して子供たちに夕食を与えないといけない時間だし、本人もお腹が空いてくるし、でも重要な証言を聞き逃すわけにはいかない。夕食代わりに殻付きのピーナッツをむさぼり食べながら証言をメモするジュリア・ロバーツのその殻を割る指先は印象深い。これだけでもアカデミー賞級である。

 ナッツとは言えないのかもしれないが乾燥したグリーンピースがある。

 子供の頃、家族で海水浴によく行った。明治生まれで村上水軍の血を引く父は海水パンツの内ポケットに、その硬いグリーンピースを数粒忍ばせていた。父に言わせると「遭難した時の非常食になる」そうである。海水で適度にふやけて柔らかくなり、塩気が付いて旨くなる。万が一遭難しても非常食があれば落ち着いて行動できる。と言っていたが海水浴から上がってそのふやけた青豆で一杯やるのが楽しみの一つだったのだろう。武本比登志

 

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