武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

021. 今川漆堤(うるしづつみ)公園

2018-10-17 | 独言(ひとりごと)

 僕が生まれ育った家からほんの2~3分のところに「今川漆堤公園」という名の公園がある。
 僕が子供の頃には公園はなかったから当然その名前もなかった。
 その場所が「漆堤」と呼ばれていたのかも知らないが僕たち子供にはどうでもよかった。
 どぶ川が上流でふたてに分かれて又交わっている。
 その場所は島になっていることになる。
 が橋がたくさんかかっているので島という感覚も薄い。
 昔は水門があって、そのあたりでメタンガスが発生してどぶ臭かった。
 それでもオニヤンマやシオカラトンボが飛び交っていて、僕は鳥もちや網で捕まえるのが上手かった。
 大雨が降ったあとには上流から野球のボールが流れてきて、それを橋の上から魚とりの網に竿竹を縛り付けた物を持って待ちかまえる者もいた。
 それまで堤の草などにひっかかっていたのが大雨と共に一気に流れだすのだ。

 また炭屋から炭俵を貰ってきて縄で縛りつけ川に浸け、しばらく置いて一気にひっぱり上げるとたくさんのドジョウが捕れた。
 アメリカザリガニもたくさんいた。

 いま水門はない。立派に公園として整備され、付近の住人の憩いの場になっている。
 相変わらずどぶ川の様に見えるが大きな鯉が泳いでいるのが見える。
 ホームレスらしき人たちが釣り糸を垂らしている。
 いろんな木が植栽されていて、その中でも桜が一番多い。
 春には花見で賑うのだそうだ。
 昔は桜など一本もなかった。
 川の向こう側は田んぼやネギ畑ばかりで溜池や肥溜めもたくさんあった。
 いまそんなものはどこを探してもない。
 マンションや町工場など建物ばかりになってしまっている。

 先日ポルトガルに戻る前、その生まれ育った家で3泊をした。
 その前日、宮崎を発つ日に軽いぎっくり腰をやらかしてしまった。
 初めての経験である。
 宮崎を出発するその時に部屋の前の落葉が気になってほうきで掃き始めた。
 その時にやってしまったのだ。

 大阪での一泊目は腰が辛くて朝は4時頃から悶々としていた。
 5時半に堪らなくなってベッドから這い出した。
 朝刊などを見ていたが、歩いた方が楽に思えたので「今川漆堤公園」に散歩に出掛けた。

 早朝からたくさんの人たちが散歩を楽しんでいる。
 犬との散歩の人も多いが一人二人で歩いている人もたくさんいる。

 僕の前を歩いている人は草笛を鳴らしながら歩いている。
 上手いものだ。
 よく聞いて見るとそれは阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」だ。
 歩くリズムがその「六甲おろし」に合ってしまうのだ。
 僕だけではなくそのあたりを歩いている人は皆が皆「六甲おろし」に歩調を合わせている。
 草笛の音色が高くて大きいからだろう。ついつい合ってしまうのだ。
 でもぎっくり腰にこの歩調はキツイ。

 50歳代から70代くらいの女性が多い。
 2~3人連れからもっと多いグループが同じ方向に向っている様な気がする。
 今川漆堤公園は細長く1キロほどに渡っている。
 その中ほどに少し広くなったところがある。
 どうやらその場所に皆が集合している様子である。

 そうかお袋は生前、まだ元気な頃、ここに朝の体操にやってきていたのだ。
 そんな事を楽しそうに話していたのを思い出した。
 世代は移り変わっているのかも知れないが、それが今も続いているのだ。

 今川漆堤公園の先端まで行って戻ってきた時には体操が始まっていた。
 殆ど95パーセントが女性だ。
 女性たちが100人ばかり扇状に広がったその要のところに年の頃は50代か僕と同年代か、1メートル90センチもありそうなすらっとしていてロングヘアーのそれこそプロのジャズダンサーの様なかっこ良い一人の男が体操を指導しているのが見えた。
 傍にはラジカセが置いてあったが未だ準備体操らしく音楽は流れていない。
 準備体操と言っても激しく腕をぐるぐるまわしたりしていて、ぎっくり腰の僕には見ているだけでキツイ。

 普段の僕ならこういった場面ではすぐさま隅っこででも体操の仲間に入ってしまうのだが、この時ばかりはその男を羨望の眼で見るより他にはなかった。
 それどころか、この元気な女性たちに出来ることが自分には出来なくて本当に情けない思いをした。

 ポルトガルに戻ってきて1週間。
 ポルトガルの気候風土が余程僕に合っているのか?
 御蔭様でいつの間にかぎっくり腰も治ってしまっている。
 さあ、ぼちぼちラジオ体操でも始めて元気を取り戻すとしようか…?
VIT

 

(この文は2004年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

 

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020. NACKのサイト

2018-10-17 | 独言(ひとりごと)

 昨、2003年12月に「ポルトガルのえんとつ-MUZの部屋」がこのサイトから独立して一人立ちした。

 MUZはせっせと一人で更新に努め少しずつ充実したサイトを作りつつある。

 

 その勢いを駆って僕は大胆にも出身高校の美術部OBのサイトを立ち上げるべく奔走した。

 「奔走した。」は大げさである。

 昨年定年退職された恩師F先生への年賀状の隅っこに「僕にやらせてみてください」と書いただけである。

 それと現職の美術部顧問のY先生にその旨メールを送った。

 そして管理人を拝命し2004年1月中旬から少しずつ作りはじめた。

 

 僕が高校を出てから早いもので40年になろうとしている。

 私学であるからその美術部顧問の先生に転任はない。

 昨年退職された恩師F先生がづーっと変わらずにお一人でやってこられた。

 だから卒業生は年代を問わずその恩師によって繋がっている。

 

 不定期刊行誌「NACK」というものを作っておられて、僕の現役時代は7号から11号までの発刊であった。

 その後も毎年一冊ずつの発行で今までに34号が発行され35号を準備中との事である。

 このNACK誌は現役のための機関誌ではある。とのことであるが広くOBを繋いでいる。

 その「NACK」誌発刊は今の現役のY先生が受け継がれておられる。

 

 卒業生の中には美術に関した職業の人も多い。

 デザイナー、イラストレーター、絵描き、漫画家、美術教師等々。

 

 僕が卒業してしばらく経った頃に卒業生が寄り集まって「展覧会をしようと」いう話になったらしい。

 1970年のことである。その第一回展には僕も参加した。

 その次の年には僕は外国にいたから参加はしていないがその後もその「NACK」展は続いている。

 「NACK」展も毎年途切れなく続いて今年34回目を先日開催された。

 

 そんな活動をサイト面で紹介したい。という思いと海外に住んでいても自分でも参加したい。

 という思いがあって「NACKサイト」を思いついた。
 実際サイトと言う物は海外であろうが、日本国内であろうが、ハンディはさほど感じない。
 それと日本国内に居る人は皆が結構忙しい。
 僕は彼らに比べれば比較的閑でもある。

 絵を描いたり、スケッチ旅行に行ったり、本を読んだり、メルカドや露店市に買物に出かけたり、ポルトガルドラマのテレビを寝そべって見たり、といった日常であるが…

 少しずつなら「NACK」サイトを作っていくことは出来るかもしれない。と思った。
 どこまで出来るか判らないがとにかく始めてみる事が肝要かとも思った。
 そうして今一ヶ月が過ぎようとしている。

 やはりNACKの仲間は良いものである。
 予想以上の皆の協力の賜物で着々と充実してきている。
 現役のY先生もお忙しいなか奔走して頂いている。

 話は変わるが先日芥川賞の発表があった。
 受賞したのは2人の若い女性である。
 本当に今女性が元気である。文化面でもスポーツでも。
 もちろん文章はパソコンで書く。
 そんなことを話題にする番組(ニュース)の中で、もっと若い女子高校生がベストセラーの作家として活躍している、という話もあった。
 授業の休み時間などでも良い文章が思いついたらすぐに携帯電話に文字を打ち込み自宅のパソコンにその都度転送するのだそうである。
 携帯もパソコンも使いこなしているな~。と驚きである。

 でも考えてみると「NACK」サイトも同じようなことをやっている。
 K君は自分の作品を携帯電話で撮って写メールでポルトガルの僕のメールに送ってくれる。
 それを僕はちょっと修正を加えてNACKサイトのK君のページに載せている。
 まあ作品写真としてはちょっと無理があるかも知れないが一応は出来ている。
 驚くべきことが出来る時代になったものだと感心している。

 NACK「掲示板」を見るのは僕の日常に加わった。
 ポルトガルの僕もであるが、東京に住んでいるNACK仲間も大阪の仲間も今、高校時代当時の様に雑談が始まっている。
 いずれメキシコからの書き込みもあるかも知れない。或いはそれ以外の国からも…。
 高校の時に言い忘れた事、喋りたりなかった事、今後の方針と雑多な内容が飛び出してきている。
 NACK以外の人からの書き込みも加わりその枠は少しずつ広がっている。
 そして毎日のアクセス数は驚くばかりでこのサイトを追い抜くのも時間の問題である。

VIT

  「NACK」サイト
http://www.geocities.jp/nack735/

(この文は2004年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。この文章はブログに移しますが、NACKサイトはジオシティーズ閉鎖に伴い閉鎖しなければなりません。ご了承下さい。始まった2004年当初はNACK会員各位のご協力もあり、充実したものにもなりましたが、最近は書き込みもなく、サイトよりも新たな物、フェイスブックなどが主流となりつつある様です。)

 

 

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019. ラミレス社のツナ缶

2018-10-17 | 独言(ひとりごと)

高校時代からの絵を描く仲間から唐突にも次のようなメールが届いた。

[日本→ポルトガル]

武ゃん 手紙着いた?そちらへ届くのに何日ぐらい普通はかかるのですか?

追伸 ラミネス社の魚のカンズメ、ロシアに輸出するために作った少し塩のきいた分などスーパーに売っていますか。

カタプラーナ鍋を使ったことがありますか。

一番小さいので直径何センチぐらいでいくらぐらいするものか教えてほしい。

日本との時差と云うか日本の21:00はそちらの何時なのですか?

 

高校時代と大学でも、僕は武やんと呼ばれていた。

手紙が日本から何日くらいかかるのかやら、時差が何時間なのかを問題にしているのではない。

「カタプラーナ」という単語を何故この男が口にするのか?

勿論、ポルトガルに住んでいる者にとって「カタプラーナ」なる物は知っている。

でも何故彼が…?

それと不可解なのは「ラミレス社」の魚の缶詰め?

これは一体何なのだ?

塩の利いた分?ペットフードではないのか?

これは聞いたこともない。ポルトガルの会社なのか?

すぐさま返事を出した。

 

[ポルトガル→日本]

郵便は通常で5日~1週間くらいだと思います。メールに慣れたら郵便の遅い事。

でもこれでも日本=ポルトガル間は早いのですよ。ポルトガルとフランスはもっと掛ります。

セトゥーバルから車で1時間の町まで2週間掛ったこともあります。

 

ラミネス社の魚の缶詰め。とは急に何ごとですか?

何の事か訳が解りませんが今度大型スーパーに行った時に調べておきます。

ただここセトゥーバルは古くからオイルサージンで栄えた街です。

その歴史は古代ローマ時代まで遡ります。

カタプラーナ鍋とはどこからそんな情報を仕入れたのですか?我家にはカタプラーナはありません。(2018年現在はあります。)

時々レストランで食べる時出てきますが。

これも銅版の厚いもの薄い物によっていろいろでしょうが。

それも今度調べておきます。

 

時差は 9 時間です。日本時間 21 時でポルトガルの正午です。

 

このメールを出してすぐにスーパーに買物に行く機会は訪れた。

メールが来て、返事を出してすぐだから、幸い忘れることはなかった。

すぐさま荒物売り場に行って、カタプラーナの価格をメモした。

缶詰め売り場ではラミレス社のものをすぐに見つけることが出来た。

そして一個を買ってみた。

家に帰ってすぐに返事を書いた。

 

[ポルトガル→日本]

きょうスーパーに買物に行ったので忘れずに調べてきました。

カタプラーナはそのスーパーには一種類しか置いていませんでした。

直径 27 センチの普通に良く使う大きさだと思います。

価格は 28.60ユーロだから 3700円くらいです。

勿論打ち出しの銅製ですが、スーパーのものだから上等品ではないのでしょう。

荒物専門店に行けばもっと豊富にあるのでしょうが…。

夏祭の露店市には銅製品の専門店が2~3軒毎年出ていますが、そういった店のほうが良い物を売っているようです。

ラミレスの缶詰めも見てきました。

小さいのから大きいのまでいろいろありましたが、全て味付けの違うツナ缶でした。

ポルトガルの会社なのですか?ラベルにポルトガルの国旗がデザインされています。

以前から知らずに見ていたのでしょうけれど、他のメーカーのよりかなり割高でしたが、試しに一個買ってきました。

385 グラム一個が 3,62 ユーロ(470円)もしました。

工場はペニシェとマトシーニョとなっています。

ペニシェはポルトガル中部の港町で大きな漁港があり、何度か行きました。

半島に突き出す様に城跡があります。

今は美術館とカルチャーセンターになっていますが、独裁政権の頃は政治犯の刑務所に使われていたとのことです。

マトシーニョはポルトガル第二の都市ポルトの隣町です。

やはり漁港で美味しくて高級なレストランが何軒かあり、だいぶ以前ですが一度そんなレストランに入ったことがあります。

 

以上本日調べてきたことの報告です。

でもこれは一体何なのですか?日本でも売っているのですか?

ラミレス社のツナ缶

さらに返事が届いた。

[日本→ポルトガル]

唐突な質問に答えてくれて有難う・・・・

ツナ缶はいろんな種類があり沢山輸入もされていますが、ラミレス社のカンズメは輸入されていません。

ただフランス土産とロシア土産で同じメーカーなのに塩味がかなり違う、ロシアの方が塩辛く今なら白菜と煮るだけでなにも加えなくてもあっさりとおいしいものでした。

冬にいろんな鍋料理に飽きたとき思い出します。

ただし、メーカーの製品管理が悪くて、たまたまそうだったのか、国別に味を変えているのか定かではありません。

私の中でポルトガルのラミレス社のロシア経由のものが最高、もう一度食したいと思った訳です

 

カタプラーナ鍋はアサリの酒蒸しに,鯛の姿酒蒸しに、熱伝導が良さそうで旨味を逃がさない構造、それでいて圧力釜でないので食素材の素材感をなくさない優れものの感じがする。

以前居酒屋も経営していたこともあり、食べることも、料理することも好きなんです。

 

以上のやりとりが一両日で出来てしまう。

まったくEメールとは便利なものだ。

これが郵便だと片道5日づつとしても一ヶ月はかかってしまう。

 

その後、「ラミレスのツナ缶の味はどうだった?」

というメールが来たがまだ食べていない。

 

あいにく今我家に白菜はない。

ポルトガルにも白菜は売ってはいるがいたって貴重なのだ。

今度白菜が手に入ったら早速やってみることにしようと思う。

それまでラミレスのツナ缶はおあずけ…。

戸棚に飾っておこう。

 

たぶんこれはロシア経由と同じ、塩辛い分だと思う。

だいたいに於いてポルトガルの缶詰めはどれも比較的塩辛い。

 

もう一つ問題の「カタプラーナ」であるが、

 

 

直径 30 cm、高さ 14 cm。

これらのメールの後、今はある我が家のカタプラーナ鍋。友人からの頂き物だが上等である。

 

今度の夏祭りの時にでもひとつ買っておくべきかな?(だから買ってはいない)

VIT

(この文は2004年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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018. 真冬の雨あがり・小さなドライブ・スケッチの旅

2018-10-16 | 旅日記

 

 雨もあがり天気が良くなったので急に思いたってスケッチ旅行に出かけることにした。

 思いたったのがもう昼近くになってからだ。

 とりあえず一泊くらいは出来る様にとパジャマと下着の替え、洗面道具を大急ぎでリュックに詰めた。

 クルマのエンジンをかけていざ出発。

 でも別にどこに行かなければならないというあてはない。

 

 セトゥーバルの町を抜けて国道10号線沿いのガンビアの入り口にある、以前にも入ったことのある食堂で先ずは腹ごしらえ。

 この食堂はいつも地元の人やトラックの運転手たちで満員。

 今日は少し早めなのでまだ席はある。

 

 本日の定食。

 コジード・ア・ポルトゲェーサ(野菜と豚足、サラミなどの煮込み)とフランゴ・アサード(鶏の炭火焼)を注文。

 食事をしながらどこに行くかを考えた結果、昨年にも行ったことのあるポルテル Portel を目指すことにした。

 食事が終る頃には5人ほどが立って席の空くのを待っていた。

 

 アルカサール・ド・サルからアルカソヴァスを抜けポルテルまでずーっと田舎道を走る。

 ところがアルカサール・ド・サルからアルカソヴァスへ抜ける道は先日降り続いた大雨のせいか穴ぼこと水溜りの最悪の悪路。

 ほとんどクルマは通らないがたまにすれ違っても全てトラックかRV車。

 乗用車では無理なのかもしれない。

 ラリーの気分で穴ぼこをよけながら走ったが時々は「ガツン」とやってしまう。

 時速はせいぜい20キロしか出せない。

 ところどころに土が盛られている。

 穴ぼこに埋めるための土が用意されているのだろうが、その盛り土もよけてハンドルを切らなければならない。

 

 小さな野鳥がたくさん道に出てくる。

 コウノトリもところどころに巣をかけている。鷹の様な猛禽類が空を舞っていた。

 道路脇に猟犬の檻を牽引したクルマが駐車してあったから、このあたりで狩猟をしているのだろう。

 ウサギだろうか?イノシシだろうか?鹿かもしれない。

 道路標識に鹿の絵が描かれたものがある。

 けっこう森は深いようだ。

 松とユーカリそれにコルク樫。

 このあたりは夏の山火事にはさいわい遭わなかったようだ。

 

 やはり南国アレンテージョだ。

 真冬だというのに黄色と白の小さな花が沿道を埋めつくしていちめんに咲いている。

 でも春にはこんなどころではない。

 これに赤、青、紫が混色してまるで錦の絨毯を敷きつめた様になる。

 

 かなりの距離を走ってようやく悪路から抜け出した。

 悪路から抜け出すと田舎道とはいえ真っすぐなので90キロくらいは出てしまう。

 スピードは意識して70キロに押えて走行。

 

 アルカソヴァスに到着。でもこの町は今回はノンストップで素通り。

 アルカソヴァスは何度も来てかなりのスケッチをしているし、油彩にもたくさんなっている。

 

 アルカソヴァスからは道も立派でポルテルにあっというまに着いてしまった。

 町の入口からの風景がみごとなのだ。

 ポルテルのお城と街並みそれに手前にオリーヴ畑がある。

 この風景を以前もスケッチして20号の油彩に描いたのだが、一旦は仕上げてもどうも気に入らないまま消してしまった。

 絶好のモティーフなのだが巧くはいかなかったのだ。

 今日は以前とはほんの少しだが角度を変えてスケッチをしてみた。

 何度も挑戦してみる価値はある。

 スケッチが巧くいっても油彩にならない時もあるし、逆にスケッチがもひとつでも油彩にしたら巧くいく場合もある。

 いずれにしろ僕のやりかたは先ずはスケッチをする事が肝腎なのだ。

 

 スケッチブックはいつもクルマのトランクに入れてある。

 鉛筆もベストのポケットに入れてあるのだが今日はカッターナイフを持ってくるのを忘れた。

 最近はテロの関係で飛行機に乗る時はカッターナイフとかハサミとかは厳重で持ち込めなくなった。

 そのせいでベストのポケットやリュックにはカッターナイフを入れなくなったのだがうっかりしていた。

 しかも今日に限って鉛筆は一本しか入っていない。

 芯が折れたら大変だ。力がはいりすぎてよく折ってしまうのだが今日はなんとか折れなくて済んだ。

 次からは鉛筆とカッターナイフもクルマのトランクに入れておく方が良いようだ。

 

 以前来た時は閉まっていた城門は今日は開いていた。

 城壁の上に登ってそこからもスケッチをした。

 手前に赤瓦のドーム屋根の古い建物があって曲がりくねった道沿いに丘の上まで小さな建物が軒を連ねていて重なり具合が面白い。

 これも20号くらいの油彩にできるかもしれない。

 お城は城壁と塔だけであとは空っぽである。

 ポルトガルの城はほとんどがこういったものである。

 彫刻が施された柱の一部などが転がっている。

 当時はさぞや立派なお城だったのだろうと偲ばれる。

 

 今日は悪路をかなり走ったので後になって疲れがどっとでたようだ。

 予定通り一泊することにした。

 クルマもラリーを完走したごとくに泥だらけである。

 明日はどこかで水道場を見つけて洗ってやらなければならない。

VIT

 

(この文は2004年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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ポンタヴァン旅日記 (下) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

2003/10/29(水)曇り時々雨 ポンタヴァンPont Aven-カンペルレQuimperle-ル・プルデュLe Pouldu

 

 朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。今日はトレマロ礼拝堂Chapelle de Trémaloに行く予定だ。

 トレマロ礼拝堂にはゴーギャンが描いた黄色いキリスト像がある。

 

 ホテルの年配の方のマダムに尋ねると4キロの道のりだという。

 往復で8キロはとても歩けない。

 道もよく判らないし雨も降っているのでタクシーを呼んでもらうことにしたが「タクシーが来ない」と言う。

 マダムは「歩くしかないわね。途中の道は散歩には素晴らしいですよ。

 往復で2時間だからバスにはギリギリ間に合うわね」と簡単に言ってくれる。

 朝食が済んだ頃には雨もあがっていたので歩くことにした。

 幸い標識は出ているのでそれに従って行けば道に迷う事もないだろうと急ぎ足で歩き出した。

 町外れから森の道に入った。

 しばらく行くとまた道路標示があって《トレマロ礼拝堂まで500M⇔ポンタヴァンまで700M》と書いてあった。

 合計で1200メートルしかないわけだ。

 ホテルのマダムは歩いたことがないのだろう。ホテルを出てからたった20分で着いてしまったのだ。

 途中は本当に素晴らしい散歩道であった。

 栗の木がたくさん生い茂っていてその実をいがごと道いっぱいに落していた。

 だれも拾わないのがもったいなくて不思議であった。

 どんぐりもたくさん落ちていたし、野生化したような小さなリンゴも足の踏み場もないくらいに落ちていた。

 昨夜の雨で落ちたのかもしれない。

 それに紅葉も美しい道であった。標識には《愛の散歩道》と書かれてあった。

 

リンゴ

 

トレマロ礼拝堂

 

クリ

 トレマロ礼拝堂はそれ自体絵になる可愛い礼拝堂であった。

 礼拝堂の内部の正面にはゴーギャンが描いた黄色いキリストはなかった。

 マリア像とか他の聖人像が何体かがあったがキリスト像はなかった。

 どこかに貸し出しでもしているのであろうか?と思った。

 あるいは貴重なものだからどこかの博物館入りになったのであろうか?とも思った。

 聖人像たちはやはり彩色木彫でカンペールの博物館で観たのと同じ様に面白みがあって素晴らしいものであった。

 

 狭い小さな礼拝堂であるが一番うしろまで下がって全体を見てみることにした。

 そうすると天井から少し下がった梁のところに薄ぼんやりとキリスト像が見えるではないか。

 入口の所にホテルにあるような時間が経てば自動的に切れる仕組みの電灯のスィッチがある。それに飛びついた。

 まさしくゴーギャンが描いた黄色いキリストがそこに浮かびあがったのだ。

 名もない木彫師が作った素朴なキリスト像であるが、僕にとっては絵を描き始めの頃からゴーギャンの《黄色いキリスト》として慣れ親しんできた絵のモデルである。

 ちょっと大げさな表現であるが『感動的』な出会いであった。

 

聖人彫刻

 

黄色いキリスト

 

トレマロ礼拝堂内部

 今までは単なる黄色いキリストとしか考えていなかったが、この旅を通して感じたことは、この黄色いキリスト像が木彫、つまり木であったというのはゴーギャンにとって重要な要素であったのだ。

 もちろんブルターニュの家具(リ・クロ)。その木彫装飾。木骨煉瓦造りの家屋。

 どれもポンタヴァン派の画家たちとは切っても切れない関係にあったと言うのが理解できる。

 それにジャポニズムの浮世絵木版画が加わる。

 観光客の誰一人も訪れない。落ち着いてゆっくり眺めることが出来た、まったく静かな礼拝堂であった。

 

 来る時は途中の標識までは急ぎ足だったのが帰りはのんびりと《愛の散歩道》を引き返した。

 町外れまでくると家の庭に季節はづれの紫陽花が二輪、蔦の紅葉と競い合う様に鮮やかなブルーに咲き誇っていた。

 町に戻ってもバスの時間まではまだまだあったので港まで行ってみることにした。途中は軒並み画廊が林立していた。

 大きな岩がごろごろと川にころがりまるで日本の渓谷の様な景色である。

 ところどころで水車が回っていた。

 

ポンタヴァンの水車

 なるほど100年前からのリゾート地であったことがよく分る。

 港には今は豪華なヨットが数隻停泊してあった。

 

 ホテルでチェックアウトを済ませる時「次はル・プルデュに行く予定だけどそこにホテルはありますか?」と尋ねてみた。

 「ああル・プルデュね。あの村にはマリー・アンリの家があるものね」

 「えっ、マリー・アンリ?」

 「そうですよ、ゴーギャンが家の天井、壁、ドアに絵を描いたところですよ」

 

 意外であった。そんなところが残されているとは思ってもみなかった。

 当時ル・プルデュにも女性が経営する下宿屋があってお金がない画家からは下宿代を請求しないので、それをよいことにゴーギャンたちはたびたびここに滞在して絵を描いていた。

 といった話は知ってはいたのだが、まさかその家が今も残されていて見学が出来るとは…。

 それならばどんな事があっても観てみない訳にはいかなくなった。

 

 ゴーギャンの画集にはル・プルデュの絵がよく出てくる。

 海辺に立つ十字架の水彩画があって、その十字架だけでも見ることができればよいと当初は思っていた。

 どんな村なのか?海の色は。波の音は。それと美味しい牡蠣が絶対に食べる事ができる漁村だと信じていた。

 でも交通の便が悪かったり、天気が悪くなったりする様だったら、このル・プルデュはパスをしてもよいとも思っていた。

 でもそうはいかなくなった。どんなことをしても絶対行かなければならなくなったわけだ。

 

 ポンタヴァンのホテルを出る時には再び雨が降り出した。しかもかなりのどしゃぶりになった。

 バスは5分程遅れてやってきた。昨日ここまで乗ってきた時と同じ運転手である。

 ル・プルデュに行くには一旦カンペルレに行かなければならない。

 そこからル・プルデュ行きのミニバスが運行されているとのことである。

 

 カンペルレの駅前には2台のミニバスが停まっていた。

 運転手がいたのでル・プルデュ行きを聞いてみたらバス停に張ってあるその時刻表を指し示して「次は17時半です」という。

 人の良さそうなその男は「俺がその運転をして行くのだがね」と付け加えた。

 

 まだ昼すぎであるからこの何にもない町で半日も待たなければならない。

 地図を見るとル・プルデュまでは僅か17キロ程の距離である。

 タクシーで行く事にした。でも駅前のタクシー乗り場にはタクシーは停まっていない。

 

 とりあえずは腹ごしらえ。サンドイッチでも食べようと駅前カフェに入った。

 ところが食べる物は何も置いてない。「その先にスーパーがあるので買ってくれば?」とカフェの人は言った。

 まあなければル・プルデュまで我慢すれば海産物の旨い物が食える。

 コーヒーだけを飲んでいるとタクシー乗り場に一台のタクシーが停まった。

 大急ぎでコーヒーを飲み干しリュックを担いでタクシー乗り場に走った。

 

 でもそのタクシーは客から呼ばれて来ていてやがて列車が着くのだという。

 「1時間あとなら戻ってきて乗せていくがね。」

 「他のタクシーを無線で呼べないのですか?」

 「いや俺はこの町のタクシーじゃないのでね」

 

 そうこうしている内にもう一台のタクシーがうしろに止まった。

 ポンタヴァンのホテルのマダムに教えてもらったル・プルデュのホテル「オテル・パノラミクへ」と言うと「ああ」と運転手は親しげに答えた。

 

 ホテル・パノラミクからは名前の通り海が見渡せた。黒々とした海に大きな白波がたっていた。

 ホテルのマダムに「メゾン・マリー・アンリ」を尋ねると「ホテルの横の道をまっすぐに1.4キロ先のカフェ・レストランの隣ですよ」と教えてくれた。

 さすが海からの風は冷たい。夏場ならおそらく開いているのであろう所々ある店は全てが閉ざされていた。

 途中海岸通の公園の中にツーリストインフォメーションの建物があったので寄っていくことにした。

 次の《メゾン・マリー・アンリ》は3時半からだという。なんでもガイドが付くらしい。

 

 《メゾン・マリー・アンリ》の入口を確かめてから隣のカフェ・レストランに入った。

 それほどは時間がないからサンドイッチくらいがちょうどよい。

 「サンドイッチはありますか?」というと「ない」という。

 仕方がないので他を当ってみることにした。

 すぐ側にもレストランがあったが閉まっていた。ここも夏場のリゾートシーズンしか開いていないのだろう。

 クレープの看板を見つけたので行ってみた。

 クレープ屋の前は大規模に掘り返されていて道路工事の真っ最中であった。ブルドーザの音がうるさい。

 工事の人が近寄ってきて「通るのか?」と聞く。

 「いや、そこのクレープ屋が開いているかだけ知りたいのだ」と言うとわざわざ見に行ってくれた。

 戻ってきて「いや、開いてない」という。

 

 MUZは遠くの方から見ていて「あたりまえやんか」と言っている。それもそうだ。

 仕方がないので再び最初のカフェに戻ってビールだけでも飲むことにした。

 結局この村で開いているのはこのカフェと泊まっているホテルとインフォメーションの3軒だけである。

 それと3時半には隣の《メゾン・マリー・アンリ》が開く。

 ビールを注文して「ポテトチップスがあリますか?」と聞くと、それも「ない」。

 「でもクローク・ムッシュゥだったら出来るけど…」と言うではないか。

 “それを何故もっと早く言わないの!そうすればうろうろしなくて済んだものを。”

 でもこれでなんとかめでたく昼食にありつけたわけである。

 

マリー・アンリの家入口

 3時半を5分過ぎて隣の《メゾン・マリー・アンリMaison Marie-henry》の扉を押した。

 既に3人の観光客が来ていた。

 受付の女性が「2人で9ユーロですよ。」「説明はフランス語でしますけれど分りますか?」

 「分らない時はいつでも質問してください」と言いながら英語で書かれたプリントをくれた。

 他の3人の観光客はいずれもフランス人である。

 入口の扉は鍵を閉めてしまってその受付の女性が皆を案内していった。

 

 大きなはきはきとした張りのある声と強弱をつけた話っぷりはまるで演劇を観ているようで内容が解らなくても思わず引き込まれてしまう。

 ゴーギャンが住んでいた部屋。相棒のマイエル・デ・ハーンが住んでいた部屋。

 行水用の大きなブリキのたらいが置いてある部屋。

 などどの部屋にもポンタヴァン派の画家たちの絵や版画が飾られていた。

 マリー・アンリの寝室にはエミル・ベルナールの油彩もあった。

 僕が目を近づけて熱心に観ていると、ガイドの女性は「これは本物ですよ!」と強調していた。

 各部屋にはポンタヴァン派以外にもマリー・アンリが当時からコレクションしていた様々な絵が飾ってある。

 英泉、晴信、歌麿などの浮世絵版画も5点ほどの本物が飾られていた。

 

 2階から見学して階下に下りた。

 ガイドの女性は一階の扉をおもむろに開けた。

 壁からドアから全てに絵が描かれている。

 中には画集で見慣れている絵もたくさんあった。

 「もちろん外せるものはみんなアメリカの美術館が持っていってしまって、今は印刷が張ってあるけど雰囲気は当時のままですよ」

 観光客は僕たちも含めて皆が圧倒されていた。

 

 僕は『月と6ペンス』の最後のシーンを思い描いていた。

 ブルターニュを旅するにあたっていろいろな本を読み漁った。

 と前にも書いたが『月と6ペンス』サマセット・モーム(角川文庫)もその内の一冊であった。

 この本を最初に読んだのは僕が高校生の時だった。その後も何回か読み返した好きな本の一冊である。

 『月と6ペンス』はゴーギャンをモティーフにして描かれた小説だと誰もが分る。

 でも主人公の名前はチャールズ・ストリックランドというイギリス人でゴーギャンのようにフランス人ではない。

 有能な証券取引人だった主人公は突然妻子を捨て画家になる決心をする。

 やがて自分の絵の真髄を求めてタヒチに渡る。

 最後には頼病に冒されるが、自分の住む小屋の天井から壁からドアまで全てに絵を描く。

 そしてチャールズ・ストリックランドの絵は完成をみる。

 原住民の妻アタに「自分が死んだらこの小屋もろとも燃やしてくれ」と頼む、壮絶な最後である。

 その小屋はサマセット・モームが描いた架空の物だと僕は思っていた。

 でもその下敷きになっていたのがこの《メゾン・マリー・アンリ》なのだろう。

 

 帰りもう一度ツーリストインフォメーションに寄って海辺に立つ十字架の場所を尋ねたが、その存在自体判らなかった。

 

 一旦ホテルに戻った。ホテルの向かいにはレストランがあるが、今日は休みだという。
 夕食はどうすれば良いのだろう。

 海産物や牡蠣どころではない。夕食からあぶれる恐れさえ出てきた。

 小さなスーパーも店の一軒もない。

 でも最悪の場合でも親戚の人から頂いた小袋のおかきがある。

 それにコンカルノーで買ったビスコットも半分は残っている。飢え死にすることはない。

 あとはメゾン・マリー・アンリの隣のカフェに望みを繋ごう。

 昼に見た時、黒板にチョークで肉料理のメニューなら書いてあった。

 

 7時過ぎに再び凍える道を歩き出した。

 カフェに着いて「レストランは開かないのですか?」と尋ねると「開かない。夜に開くのは夏場だけだ。」とのこと。

 カウンターでビールを飲んでいた客たちが口々に「レストランなら4キロ先にある。」と教えてくれるがこちらには車がないのでわざわざ夕食を取るために4キロも歩けない。

 もう既にホテルから1.4キロを歩いてきているのだ。

 

 昼のクロークムッシュゥが結構旨かったので、もう一度それを食べる事にした。

 それしか残された道はなかったのだ。

 ただし夕食なのでダブルで注文した。それに例によってシードルの大瓶。

 よほど僕たち二人は情けなく惨めな顔をしていたのだろう。

 キッチンで奥さんと相談してきたのか「よかったらサラダも出来るけど?」と言う。

 サラダも二人前注文した。デザートには昼からショーケースに入っていた、プラム入りのカスタードケーキがある。

 仕上げにはやけくそでカルバドス(この地方で産するリンゴの絞り粕から抽出した強い焼酎)を飲んだ。

 立派なディナーになった。

 

 クロークムッシュゥといえば思い出すことがある。

 かつてスウェーデンでストックホルム大学に通っている時に夜中にレストランでコックのアルバイトをしていた。

 夕方から夜中の3時までキッチンにはたった一人での勤務である。

 百貨店の前にあるレストランだから昼時は猛烈に忙しい店だった。

 夜は経営者も交替し、黒人のピアノ演奏が入りバーが主になる。

 一通りの食事メニューはあるのだが、殆ど注文はこない。一日にほんのひとつか二つ。

 でも一応のことは出来なければならないから給料は良かった。帰りには毎日自宅までのタクシー代がでた。

 夜中になってよく注文が来るのがクロークムッシュゥだった。

 僕はクロークムッシュゥに腕を振るった。

 クロークムッシュゥはその店で評判になりますます注文が増えた。

 「いったい誰がクロークムッシュゥを注文するのか?」と聞いたことがある。「娼婦」との答えだった。

 それは仕事にあぶれた娼婦のささやかなディナーになっていたのである。

 

 良い気持ちでカフェを出た。

 気温はますます下がっていた。

 そして満天の星空がそこにあった。これほど美しい星空を見たのは久しぶりである。

 セトゥーバルでは昼間は雲一つない快晴でも夜になれば雲がでだして星空の美しい夜空をあまりみたことがない。

 もっとも早寝早起きを心がけているせいもあるが。

 ホテルまでの1.4キロを星座を眺めながら帰った。

 みち半ばまで戻った時である。

 北斗七星の取っ手のあたりから大きな流れ星がこぼれ落ちるのを2人で目撃したのである。

 

ブルターニュの家

 

月明りのル・プルデュ夜景

 

2003/10/30(木)曇りのち雨 ル・プルデュLe Pouldu-カンペルレQuimperle-ヴァンヌVannes

 

 その日は祭日でミニバスの運行はなかった。同じ道をタクシーで戻るしかなかった。

 同じタクシーを頼んだが昨日とは違う女性の運転手であった。

 カンペルレに着いて料金を払おうとするとメーター料金よりも安い金額で良いと言う。

 往復割引が付いているのかも知れない。

 「またカンペルレに来る事があったら、私のタクシーを使ってください。」と言って名刺をくれた。

 本当にそんな日が近い内に来れば良いと感じている。

 

 カンペルレからは列車である。ブルターニュの古都ヴァンヌでもう一泊してからパリに戻る。

 ヴァンヌに着くとまた雨であった。

 駅前のホテルでも良かったのだが最初に泊まったレンヌのホテルが良かった。

 そのチェーン店がこの町にあることを知っていたので、雨の中そこまで歩いた。

 

ヴァンヌの洗濯場

 

ステンドグラス

 

ヴァンヌの家

 

ヴァンヌの木靴屋

 ヴァンヌでは美術館見学の予定はない。街を楽しめば良いことにしていた。

 先ずはカテドラルを観た。内部は一部工事中であったがここでもステンドグラスが美しかった。

 フランスにはステンドグラスの美しいカテドラルが各地にある。

 雨が降っていたので雨宿りのつもりで《ヴァンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Vannesにも入った。

 全体に大きな作品が多くて、ルーベンスやドラクロアの作品もあった。

 

 雨は降ったり止んだりである。傘をさしたりたたんだりが忙しい。

 初めから傘を持たないでアノラックのフードだけでびしょぬれになっても平気な観光客がたくさん歩いていた。

 港にも行ってみた。「今夜は絶対に牡蠣を食べるぞ。」と決心していた。

 その日の夕食は港の近くの城門の内側で見つけたブラッセリーに決めた。

 

 早くからそこのカフェでビールを飲みながらレストランの開くのを待った。

 7時にレストランが開いてすぐに席を移したつもりだったが、もう既に何組もの客が座っていた。

 今夜は牡蠣だけではなく、表のメニューに掲げてあったシーフードの盛り合わせを頼む事にした。

 蟹、手長海老、普通の海老、2種類の巻貝、あさり、それに牡蠣の盛り合わせである。

 豪華に注文してしまったが、蟹や海老、巻貝などはセトゥーバルの自宅でいつも生きた新鮮なものを食べているのだから

 やはり牡蠣だけにしておけば良かった。

 

ヴァンヌの家並み

 

ヴァンヌの街門の家

 

ヴァンヌ夫妻の木彫

 

店先のシードル

 

2003/10/31(金)曇り時々小雨 ヴァンヌVannes-パリParis

 昼すぎのTGVでパリに戻る日である。

 ヴァンヌの町角でサンドイッチとペリエールを買って乗り込んだ。

 二人席であるが喫煙席しか取れなかったのだ。

 喫煙席と言うのは困ったものだ。

 以前のどこでも喫煙できた時代より今の喫煙席は嫌煙家にとってはきつい。

 愛煙家が禁煙車に座っていてタバコが吸いたくなると喫煙車にやって来て空いた席を見つけて吸い始めるのである。

 吸い終わると又自分の禁煙車両に戻って行く。

 それが入れ替わり立ち代わりだから、喫煙車両から動けない嫌煙者は堪らない。

 見渡すと幼児も何人か乗っていた。この問題は何とかしなければならないと思う。

 

 今は飛行機は全部禁煙になったから愛煙家は大変だろうと思う。

 でもそれになる前に一度大変な思いをしたことがある。

 僕たちは禁煙席を希望したのだが、禁煙席の一番後ろの席で次の列からは喫煙席になっていた。

 前の方の禁煙席に座っている愛煙家が入れ替わり立ち代わり喫煙席にタバコを吸いに来るのだ。

 僕たちの席にはタバコの煙がパリから日本に着くまでずっと漂っていた。

 

 TGVの喫煙車両では幼児が祖母らしき人に絵本を読んでもらいながら、無邪気な可愛い声でずーっと唄を歌いつづけていた。

 祖母らしき人も一度もタバコを吸っていなかったから、僕たちと同じ様に禁煙席が取れなかったのだろう。

 モンパルナス駅に入った時には唄はぴたっと止んでいたので見てみるとすやすやと眠っていた。

 ああいった子供に害が及ばなければ良いがと心配する。

 

 モンパルナスからメトロに乗り換えていつものルクサンブールのホテルに入った。

 フロントの男は僕たちの顔を憶えていた。毎年1~2泊しかしないがもう10年近くもこのホテルを使っている。

 空港との行き帰りにもパリをうろうろ歩くにもこのルクサンブールは僕たちにとって便利な位置にある。

 昨年からル・サロンの会場が替わったがそれにもメトロのクリュニューまで歩けば乗り換えなしのメトロ一本で行ける。

 

 ル・サロンの前にサン・ジェルマン・デ・プレにあるドラクロア美術館に向う。美術館の前に着いたのが5時半だった。

 今回も閉まっている。開館時間の表示をみると17時15分までとなっていた。

 ドラクロア美術館を訪れたのは4回目位だろうか?

 工事中であったり今回の様に時間切れであったりとなかなかうまくいかない。

 また次回に楽しみを残す事になった。

 

 さっそくル・サロンに出かけた。その日はベルニサージュ(オープニング)なので人で溢れていた。

 僕の絵は入口からすぐのところにあった。でも少し歪んでいるのが気になる。

 まっすぐに直してひと回りしてくるとまた歪んでいた。紐の取り付けが悪いのだ。

 人の多いのに閉口して早々に退散した。


2003/11/01(土)曇り時々小雨 パリParis-サン・ジェルマン・アン・レーSt.Germain en Laye-パリParis

 今日は忙しい。

 ホテルで朝食を済ませて《タヒチのゴーギャン展》が催されている、グランパレまでのメトロの路線図を調べているとMUZは「歩いたらええやん」という。

 メトロで下手に乗り換えをたくさんするより返って歩いた方が良いこともある。

 ちょっと遠いと思ったが歩くことにした。歩くのなら簡単である。セーヌ沿いに下って行けばグランパレに着く。

 でもルーブルのところからチュイルリ公園の中に入って紅葉を楽しみながら歩いた。

 

 グランパレに着いた時には既に200人位の行列が出来ていた。

 別の入口では「ヴイヤール展」が催されていた。そこにも少しの行列が出来ていた。

 随分経って、もう少しで開館という時間になって列に向って大声でアナウンスしている関係者がいた。

 側に来たので聞いてみると「今日の午前中は予約をしている人だけの入場です」という。

 「予約をしていないのなら午後1時からまたここに並んでください」

 

黄昏のグランパレ

 今パリでは同時にルクサンブール美術館で《ボッチチェリ展》ポンピドーセンターで《コクトー展》それにここグランパレで《タヒチのゴーギャン展》と《ヴイヤール展》が開かれている。そしてこの行列である。

 常設のルーブルやオルセー、ポンピドーそれにピカソ美術館やロダン美術館とたくさんの美術館が他にもあるのにこの人たちはどこからやってくるのだろうか?と不思議に思う。

 昔はどこでもこれほどの人だかりはなかった。世界中で美術ブームなのであろうか?

 

 午前中はサン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》に急ぐ事にした。

 一度行ったところなので地図も何も見ないで歩き始めた。

 セーヌを渡ったところのRERの駅から乗れば一本で行けると間違って思い込んでいたのだ。

 間違った思い込みのお陰で随分複雑な乗換えで時間もたっぷりかかって、ようやくサン・ジェルマン・アン・レーにたどり着いた。

 駅から《プリウレ美術館》への道のりもすっかり忘れてしまっている。

 ちょうどとおりかかった在住らしき日本人に尋ねてみたが行った事がないという。

 方角だけ聞いて歩き出したら見覚えのある道にさしかかって無事プリウレ美術館の塀が見えた。

 

プリウレ美術館

 プリウレ美術館はかつてはモーリス・ドニの屋敷であった。

 ドニの手になる教会がある。ステンドグラスや壁画それにそのエスキース。

 ドニのタイル絵が天板として張られた木彫家具もあった。

 それにドニ自身が集めたコレクションがたくさんある。当然のことながらポンタヴァン派のコレクションが多い。

 ゴーギャンのタヒチでの素晴らしい木彫が2点あった。

 その内の一点は木の葉型の大きな皿に熱帯魚が二尾彫られ一本の繋がった紐のようなものを二尾がそれぞれの口にくわえている。

 

ゴーギャンの木彫

 

ドニの木彫レリーフ

 

ドニのドア

 これと同じ図柄を別の絵でも見たことがあるが、なにか意味があるのだろうか?

 それと珍しいモーリス・ドニの6号くらいの着色木彫レリーフも素晴らしいものであった。

 彩色の施し方はあのブルターニュの聖像の彩色に似ているとおもった。

 ここでもエミル・ベルナールやセリジェの作品とゴーギャンの油彩。

 

E・ベルナール

 

P・セリジェ

 それにボナールやヴイヤールの作品もあり結構見ごたえがある美術館であることを再認識した。

 でもパリの美術館の行列が嘘のようにここでは僕たちのほか一組の家族づれがいただけであった。

 庭に出るとブールデルのブロンズ像がいくつもあり、紅葉の蔦とコントラスト良く映えていた。

 

ブールデルと蔦

 こんどの旅は本当に強行軍で、お昼はたいてい電車かバスの中でのサンドイッチということになってしまった。

 サン・ジェルマン・アン・レーからの電車でもサンドイッチである。幸いフランスのサンドイッチはどこで買っても旨い。

 いや但し、フランスでのサンドイッチはパン屋で買うべしである。

 シシカバブ屋のサンドイッチは量ばかり多くてあまり旨くない。

 帰りはまともにシャンゼリゼに到着した。

 

 ゴーギャン展の入口に着いたのは1時をかなり過ぎていた。

 行列はたいしたこともなさそうで、2~30人づつどんどんと入って行く。

 入口でテロ対策の荷物検査をやっているのだ。

 入ればかなりの人でしかも多くの人が『電子解説』とでも言おうか?

 携帯電話の様な器械で作品の前に来たらその書いてある番号を押すとその解説が聞こえる仕組み、を入口で借りていてなかなか次へ進まないのだ。

 でもさすがいままで画集で観ていた本物がよく集められていた。

 アメリカのボストン美術館からロシアのプーシキン美術館から日本の倉敷のものまで、それにオルセーのもの、個人所蔵の物もあった。

 そしてやはり木彫と木版画も多い。

 ゴーギャンは画家であると同時に僕は彫刻師であるとここでも実感した。

D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

『われわれは何処から来たか?われわれは何か?われわれは何処へ行くのか?』の集大成的油彩大作(139.1X374.6)もボストン美術館から運ばれてきていた。

 が今まで画集で観なれていた印刷物とは全く異なった鮮やかな色彩に驚いてしまった。

 

 僕は今年日本に帰国した折にゴーギャンの小説『ノアノア』を探したが残念ながら手に入らなかった。

 その『ノアノア』の原画、原稿も展示されていた。

 

2003/11/02(日)曇り パリParis-リスボンLisboa

 

 いよいよポルトガルに戻る日。今日もスケジュールは目いっぱいである。

 ドゴール空港を15時45分発のエール・フランス機に乗る。

 ドゴール空港には2時間前の13時45分に着く必要があるのだ。ルクサンブールを13時に出れば間に合う。

 それまでに3つの美術館のハシゴをする予定である。

 朝食を済ませ、荷物をまとめてホテルのチェックアウトを完了しておいてリュックをホテルに預けた。

 ホテルからサンジェルマン大通りを歩いて先ずはオルセー美術館に行くのだ。

 今日は日曜なので美術館は無料である。

 オルセー美術館には今日の開館の9時を少し回っていたがすんなり入る事が出来た。

 エスカレーターで最上階まで上がってポンタヴァン派の部屋を観るのだ。

 途中ゴッホの部屋を通り過ぎた。横目で見ながら通り過ぎたが以前来た時とはかなりの絵が入れ替わっている。

 やはりオルセーにしろルーブルにしろポンピドーにしろしょっちゅう来なければ駄目だ。

 

紅葉のルーブル

 

夕映えのノートルダム遠望

 

エッフェルとA三世橋の欄干

 

オルセー美術館

 エミル・ベルナールとポール・セリジェの絵を初めて観たのがここオルセーであった。

 ここにも作品は少ししかないが今回の旅でたくさんまとめて観ることができたので僕には充分である。

 ゴーギャンの部屋ではタヒチ時代の絵はグランパレの特別展に行っていたので

 その分ポンタヴァンの絵が多く展示されてあったのは僕にとって好都合であった。

 この一週間でこれほど多くのゴーギャンをまとめて観たこともない。

 

 タヒチに向う前にゴーギャンはゴッホと弟テオの要請にしたがって、ポンタヴァンを去り南仏アルルでゴッホとの共同生活に入る。

 でもそれは2人の強烈な個性のぶつかりあいによって僅か2ヶ月で破綻を迎えることになる。

 しかしその僅か2ヶ月のアルル生活がゴーギャンにとっても、ゴッホにとってもその後の作品に大きく影響を与え転機になったことは言うまでもない。

 ゴーギャンが他のポンタヴァン派の画家たちよりは強さに於いても、文学性に於いても、また装飾性豊かな色彩の多様さに於いても一歩抜きんでているのにはアルルでのゴッホとの2ヶ月の共同生活を抜きにしては語れないのではないのだろうか?

 それはまたゴッホに於いても同様のことが言える。

 

 オルセー美術館を早々に退散して次は《市立近代美術館》に向った。RERを2駅乗ってセーヌを歩いて渡ればすぐだ。

 ところが行ってみると《市立近代美術館》は先月から一年間の工事に入っていて休館であった。

 

 仕方がない、あとは《ポンピドーセンター》を観るのみである。再度メトロに乗りシャトレで降りた。

 勝手知ったる駅である筈がひとつ出口が違うと戸惑ってしまう。

 

 ポンピドーセンターでも以前と展示内容が随分と違っていた。

 ルオー、マチス、ピカソ、ブラックなどの作品もかなりが入れ替わっていた。

 それに市立近代美術館にある筈のモディリアニとスーティンがポンピドーセンターに避難?してきていた。

 

 予定をしていたドラクロア美術館には4度目の挑戦で今回も観ることは出来なかった。

 市立近代美術館も工事中でかなわなかった。

 

 市立近代美術館では今回重点的に観てきたポンタヴァン派の後に続くナビ派とポンピドーセンターではフォーヴィズムとキュビズムをちょっとだけ覗いておきたかった。

 

 またドラクロアは近代美術に大きく暗示を与えている画家である様に僕には思えるから、そのアトリエをちょっとは見てみたいとかねてから思っているのだが…。

 

 今回のポンタヴァンへの旅はタイムリーにも《タヒチのゴーギャン展》に出くわしたこと、ル・プルデュで《メゾン・マリー・アンリ》の存在を知り、観ることが出来たことなど、思いもかけずに観ることができた、といったものを差し引いても予想以上に収穫の多い旅であった。

 そしてこの旅が今までにしてきた全ての旅がそうであった様に、今後の僕にとって宝物となることを確信している。

 

 ルクサンブールからドゴール空港までのRER内でもサンドイッチの昼食を取る事にしていた。

 日曜なのでいつものサンドイッチ屋は閉まっている。

 学生アルバイト風の男が駅の入口のところでサンドイッチとクレープの店を開いていた。

 僕たちの前に2人のパリジェンヌがクレープを焼いてもらっていた。

 僕たちはブルターニュで本場のクレープをさんざん食べたので、ここでは普通のチーズとハム入りのサンドイッチを注文した。

 男はクレープ台の上でサンドイッチを温めてくれた。

 今日もいまにも雪にでもなりそうなしんしんと冷える寒いパリである。

 

 パリからリスボンに戻ってくる飛行機では隣になんと半そでに短パンの髭顔男が座った。

 どこか熱帯の国から来てパリを中継してリスボンまでの旅の途中であろう。

 まさかタヒチではないであろうが、べつに聞くこともしなかった。

 さすがパリ出発の時には寒そうにはしていたがリスボン空港に着いた時には僕たちも服を2枚は脱がなければならなかった。VIT

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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