武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

139. 映画の中のジャズ Jazz no filme

2016-10-31 | 独言(ひとりごと)

 先月、山火事があったばかりで、痛々しく赤茶けた松林に周辺が囲まれた、お隣のホテル屋上ベランダで今夜は何やらパーティーがあるらしく、着飾った人々が大勢集っている。正装した蝶ネクタイのボーイが颯爽と人々の間をすり抜けカクテルなどのサーヴィスに忙しそうだ。そしてピアノ、ギター、ベース、ドラムスのクアルテットでジャズが生演奏され、女性歌手が軽快な歌声で「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」などを歌っている。

 ポルトガルに来てからはジャズについてはまったく皆無であった。

 ところが最近になってほんの少しだがジャズが耳に入るようになった気がする。

 数年前にインターネットをケーブルテレビに替えてからはテレビの映画が見放題となって、毎晩ベッドに横になりながら映画を楽しむようになっている。

 映画の中ではジャズがよく使われている。「あっ、これは聴いたことがあるぞ」とか「いや~懐かしいな」とか「誰だったかな」などと思いながら映画を観ることも多い。BGMとして使われている映画も多いが、ジャズそのものがテーマの映画もある。

 先日、マット・デイモンとジュード・ロー主演の映画で、昔のアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」(1960年ルネ・クレマン監督)の焼き直し版の映画「リプリー」(1999年アメリカ映画)を観た。焼き直し版といっても、こちらのほうが原作に忠実だそうだ。

 テレビの映画はしょっちゅう同じ映画を繰り返しやるので、もうこれも3回目くらいだ。でも途中からだったりすることも多い。先日は最初から観ることができた。良い映画なら3回でも4回でも見たいものだが、くだらない映画は途中で他のチャンネルに替えてしまう。

 あらすじは、ニューヨークのホテルで働く貧しい青年、トム・リプリーが、急遽、ピアノ弾きの代役としてパーティーでピアノを弾くことになる。ボーイ服ではまずいというので、プリンストン大学のジャケットを借りて弾いたことから、資産家の客は息子と同じ大学だと勘違いし、イタリアのリゾート地で遊びほうけている息子を連れ戻す様に依頼する。これはチャンスと思い、とっさに息子のディッキー(ジュード・ロー)の友人を装ったトム・リプリー(マット・デイモン)。

 息子のディッキーはジャズが好きだという情報を得たトム・リプリーは、一夜漬けでジャズの勉強。

 ジャズのLPレコード数枚を携えてイタリアへと向う。その中には僕にとっても懐かしいLP、チェット・ベーカーの「シングス」も含まれていた。そのLPの中では「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が歌われている。

Chet Baker「Sings」1956年Pacific

 イタリアのリゾート地に着きディッキーに近づく事が出来た訳だが、夜には案の定、ディッキーはジャズクラブなどに常連として出入り。トム・リプリーを誘う。ディッキーは何でも出来る放蕩息子だが、ジャズクラブではプロのミュージシャンに混じってアルトサックスなどを披露する。ジャズと言えばニューヨークだが、ニューヨークから来たトム・リプリーも舞台に招きいれ一緒にジャズの歌などを歌いすっかりうちとける。

 舞台に上がったトム・リプリーも調子に乗り、もう一曲、チェット・ベーカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を歌う。

 僕は映画「リプリー」のあらすじを書くつもりもないし、解説を書くつもりもない。ジャズの話である。

 そのトム・リプリー、つまりマット・デイモンの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が実に素晴らしいものであった。

 マット・デイモンは名門ハーバード大学出の俳優で、才能豊かで何でもこなす。ピアノもこなすから僕はこの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」もピアノの弾き語りで聴いてみたかったなと思ったほどだ。

 さてそのチェット・ベーカーの話である。

 いや、その前にニューヨークの話である。僕は1975~6年頃、1年間をニューヨークで過した。住まいはウェストの75丁目42番地、地上階。ワンルームにシャワー室とトイレ、台所も付いていた。エアコンも暖房器もなく、小さな窓を開ければお隣の室外機からの熱風。夏はサウナの暑さで、冬には凍えるほど寒かった。パークサイドウエスト通りまでは1分。その道を渡ればセントラルパークである。72丁目のあのダコタ館から3ブロックほど北の裏手といったところだが、マンハッタンとはいえ摩天楼とは違い5階建てほどの低層ビルばかりが建ち並ぶ閑静な集合住宅街。

 仕事は90丁目と91丁目の間でブロードウエーに面していたが、ハーレムにも近くあまり環境が良いとは言えない場所にあった。事実、僕がいる間にも3回のピストル強盗に見舞われて新聞にも載った程だ。そのマクロバイオティックレストランでコックの仕事である。

 帰りはたいてい仕事仲間と一緒に帰ったりもしたが、往きは一人であった。僕にはレストランの仕込み仕事があって、皆よりも早くレストランに入らなければならなかった。75丁目の自宅から90丁目までぶらぶら歩いて行ったり、自転車で行ったりだったが、途中、86丁目だったかに大通りがあるが、そんなところに一軒の小さなジャズクラブがあった。名前は忘れた。昼間はもちろん閉まっていたが、閉ざされた入り口の横にライブミュージシャンの名前が小さく張り出されたりしていた。ジャズクラブと言えばビレッジ周辺かせいぜいミッドタウンまででアップタウンにはあまりジャズクラブはない。あまりジャズクラブ、どころかお店も何もない環境で、「エ、こんなところに」という感じの店で、それでも3~4度はライブを見に入ったが、店内も狭かったが舞台などもなく、普通のお客はあまり居なくて、お客も黒人のジャズメンばかりがカウンターに寄り掛って身体を揺すりながら飲んでいる、という感じの店であった。

 どこのジャズクラブでも毎週演奏者が替わる。ニューヨークには「ヴィレッジ・ヴォイス」という週間新聞が売られていて、それにはジャズライブの広告が出る。僕は毎週必ずこの新聞を買って、その広告を検討し、その週に行くジャズクラブを決める。毎週1軒か多い時には2軒、仕事が終ってからか、休みの日の夜、どこかのジャズクラブのライブに必ず行っていた。そのヴィレッジ・ヴォイスには86丁目の店の広告は出ない。

 だから僕は仕事に行く途中、その86丁目の店の張り紙を見ながら行くわけであるが、ある日「チェット・ベーカー」の文字を見つけた。それまでチェット・ベーカーは麻薬に溺れて廃人同様になっていると言われていた。だからという訳ではないが、僕はそのライブには行かなかった。たまたま別のジャズクラブでもっと見たいミュージシャンが出ていたのであろうと思う。とにかくチェット・ベーカーには行かなかった。今から思えばそれが残念である。

 その後、チェット・ベーカーは表舞台に復帰したというニュースがあった。86丁目のライブはチェット・ベーカーにとって復帰の前哨戦だったのだろうと思う。その後は主にヨーロッパで活躍したそうである。それから10年ほどして、アムステルダムのホテルの窓から転落死のニュースが報じられた。事故か自殺かは判らない。謎のままである。

 チェット・ベーカーの楽器はトランペットである。派手さはなく、渋い音色、メロディは心にずしりと浸み込む。チャーリー・パーカーのコンボで活躍した時期もあったし、マイルス・デイヴィスと人気を二分した時期もあった。又、歌も歌う。素朴で語りかけるような歌いかたで、これ程味のある歌い方は他にはない。あのボサノバのジョアン・ジルベルトがチェット・ベーカーの歌い方に感化されボサノバ誕生の一因になったというのは有名なはなしである。ジョアン・ジルベルトの奥さんのアストラット・ジルベルトが歌った「イパネマの娘」は世界中で大ヒットした。

 「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は実に多くのミュージシャンが歌っているが、チェット・ベーカーの歌が僕は一番好きだ。心に沁みる。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=My+funny+valentine&tid=22c98f64459e298db323660725883c49&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

 歌は、音楽は、テクニック(技術)ではなく「心だ。」と言っているように思う。それは絵も全く同様だと思う。絵はテクニック(技術)ではなく「心(気持ち)なんだ」とつくづく思う。

 この映画「リプリー」ではマット・デイモンがそんな感じで歌っている。

 その一週間後、ジュード・ロー主演の「アルフィー」(2004年)を観た。ジュード・ローにとっては「リプリー」から5年後、あの「コールドマウンテン」の翌年の映画だ。この「アルフィー」も1966年の同名映画(マイケル・ケイン主演)のリメイク版だ。1966年の映画の舞台はロンドンだが2004年はニューヨーク。

 主人公アルフィーはロンドンからニューヨークにやってきてリムジンの運転手をやっているのだが、開放感からか恋人が居るのにも拘らず、いろんな女と一夜を共にする。その内、全ての女との破綻が起きる。と言った内容。ある女(シエナ・ミラー)との別れ話が持ち出されたそのアパートの壁には何とチェット・ベーカーのポスターが貼られていた。若い頃のチェット・ベーカーではなく、復帰した頃のチェット・ベーカーのポスターである。

 チェット・ベーカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は女の唄で男のヴァレンタインのことを歌った唄だ。「ヴァレンタイン、あなたはちっともハンサムではなく、むしろ滑稽だけど、そんなそのままのあなたでいいのよ」といった内容だと思う。別れ話の歌ではない。それがその別れ話のシーンの壁に張られていたのは神様の悪戯だろうか?皮肉にも最近の映画界ではジュード・ローほどハンサムな俳優もそうそう居ない。シエナ・ミラーは真っ暗な夜、トランク一つ荷物を纏めてそのアパートから出て行き、大雨の中、タクシーに乗る。淋しいシーンだ。その映画がきっかけでジュード・ローとシエナ・ミラーは実生活では婚約をすることになる。そして2年後、映画と同様の破綻が待ち受けている。

 2004年版映画「アルフィー」はジャズではなくミック・ジャガーであるがこれがまた良い。

 1966年の映画「アルフィー」の音楽はジャズでソニー・ロリンズが担当している。

Sony Rollins「Alfie」1966年Impulse

https://www.youtube.com/watch?v=5_moRogiog0

 僕にとって「アルフィー」と言えば映画よりもソニー・ロリンズのイメージが強い。丁度僕が道頓堀の「ファイブスポット」で赤いタータンチェックのベストを着て黒の蝶ネクタイを締め、颯爽とバーテンダーの仕事をしていた頃に発売されたLPであったと思う。半世紀もの昔、未だ18歳の頃だ。ファイブスポットのJBLからは大音量で「アルフィー」がしょっちゅう流されていて、そのメロディやアドリブまですっかり身体に浸み込んでいたものだ。LPの掛ける順番を決めていた主任の中野さん。ジャズよりゴーゴーダンスが好きだった杉田くん。広島からやって来た英語が得意だった中島君。あの時の仲間たちとはその後1度も会ってはいないが、ソニー・ロリンズやマイルス・デイヴィスなどの音が聞こえると、彼らの顔が今も瞼に浮ぶ。僕にとっては短い僅かな時だったけれど、青春時代の想い出は貴重なものとなっているのは確かだ。 そして映画は、ジャズは、いろんな想いを膨らませてくれる。VIT

 

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コメント (1)
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