武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

027. オーヴェル7月最後の20日間-ゴッホとドービニーに関する考察-

2018-10-22 | 旅日記

 先日パリのオルセー美術館でドービニーの下の作品を観た。

 何回となくオルセー美術館は訪れているがこの作品を観たのは初めてである。

 気がつかなかっただけなのかも知れない。

 [1989年付与によりオルセー美術館が獲得]となっているから、それまでは個人コレクションだったのだろう。

 タイトルは「雪」となっているが、恐らくはオーヴェルの風景だ。

 雪原に小カラスの群れ、深く垂れ込めた雲、僅かに青空と茜の空が覗いている。

 清々しい明るい絵である。

01.「雪」1873年作・Salon de 1873出品/シャルル・フランソワ・ドービニー[1817-1876]オルセー美術館蔵

 

 ドービニー [1817-1878] はコロー [1796-1875]、テオドール・ルソー [1812-1867]、ミレー [1814-1875] などと共にバルビゾン派(外光派)の画家である。

 そしてオーヴェル・シュル・オワーズに最初に住んだ画家でもある。

 船を持ちオワーズ川やセーヌ川に漕ぎ出し、刻々と変化する光をとらえるため船の上でも描いたと言われている。

 作品は今までにもフランス各地の美術館で少しずつは観ているが、その多くが上の絵の様に横に細長い風景画を得意としている。

 

 普通キャンバスにはF(Figure-人物)、P(Paisage-風景)、M(Marine-海面)と言う規格のサイズがあるが、もちろん「F」なら人物を描かなければならないと言ったものでもない。P、Mになるに従って細長くなってゆくだけの話である。

 日本と欧米はそのサイズも微妙に違い「日本サイズ」「フランスサイズ」などと言って区別している。

 日本で規格サイズ以外を描いたならば結構大変である。

 木枠は特別に誂えなければならないし、額縁も特別注文になってしまう。

 ポルトガルでも一応の規格サイズ(フランスと同じ)は決まっているのだが、それを誰も気にしない。

 画材店で売られている既成の木枠にしても規格外のものさえ多い。

 大体がいつでも何でも注文してから作る。

 逆に言えばどんなサイズでもお構いなしなのだ。

 だから「何号」といった言い方もあまり通用しない。

 何センチかける何センチというやり方だ。

 フランスもそうなのかも知れない。

 ドービニーの多くの絵は明らかに「M」よりもまだ細長い変形で縦のサイズの2倍が横のサイズだ。

 写真で言う今流行のパノラマである。

02.「曇り空の麦畑」50x100.5cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館蔵/アムステルダム

 

 ドービニーのあと、普仏戦争(1870年)が終ってからはルノアール [1841-1919]、モネ [1840-1926]、ピサロ [1830-1903]、シスレー [1839-1899]、ギョーマン [1841-1927]、それにセザンヌ [1839-1906] などもオーヴェルにやってきて絵を描いた。

 

 ゴッホ [1857-1890] がこの地にやって来たのはドービニーの30年後である。

 サン・レミのサン・ポール・ド・モーゾール精神病院からパリを経由して精神科医ガシェ医師の住むオーヴェルに到着したのは1890年5月20日であった。

 ガシェ医師 [1828-1909] はその当時の進歩的画家たちの良き理解者でもあった。

 自分でもP・ファン・リセルと言う雅号をもって絵やリトグラフをやる。

 ピサロやセザンヌなどもガシェ医師の勧めでこの地を描いたと言われているし、近隣に移り住んだ画家たちも多い。

03.「藁束」50.5x101cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ダラス美術館蔵

 

 ゴッホはオーヴェルでは発作の再来を恐れながらも充実した日々であった。

 代表作の一つである「オーヴェルの教会」をものにしたし、「ガシェ医師の肖像画」も描いている。

 

 僕たちは5~6度はオーヴェルを訪れている。

 2度目に行った時はサロン・ドートンヌの期間であったから、10月末か11月頃の寒い時季であった。

 駅に着くと右手にゴッホが描いたオーヴェルのカトリック教会が見える。

 駅から道を右にとり急勾配の坂道を登って行くとカトリック教会の横手にぶつかる。

 そこにドービニーの銅像がある。

 ゴッホの時代にはもう既に建っていたのであろうか?

 教会の正面に周ると、あのゴッホが描いた場所に出る。

 それを過ぎたあたりから風が吹きだし横殴りの雨になった。

 墓地への道は右手に麦畑を見るが、小カラスが群れ飛んでまるでゴッホの絵そのままの景色であった。

04.「雨のオーヴェル風景」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ウォレス国立美術館蔵

 

 ゴッホは充実したオーヴェルでの制作の日々を送っていたが、7月6日にテオの赤ん坊、その名もゴッホが名親になっている、ヴィンセントが病気になったと言うので見舞うためパリに出かける。

 その時に或いはテオの画廊で上のドービニーの作品「雪」を観たのではないか?と思う。

 もしかしたらガシェ医師の家であったのかも知れない。

05.「草葺の家と丘」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] テートギャラリー蔵/ロンドン

 

 パリから戻ってから7月6日以降に急にゴッホは細長い絵を描き始めている。

 ここに掲げたゴッホの絵は全て1890年7月に描かれた作品である。

 それまでパリでもアルルでもサン・レミでも細長い絵は一点もないと思う。

 僅かに初期ヌエネンの時代には描いてはいるが…、

 

 絵を描き始めの頃からミレーの精神性を師とし模写を続けてきたゴッホがバルビゾン派として仲間でもある、そしてオーヴェルの先駆者である、ドービニーを意識していなかったわけがない。

 今まではガシェ医師を通じてオーヴェルとドービニーと言う共通点は考えていた。

 でも今回オルセー美術館で観たドービニーの「雪」は季節こそ違えゴッホが「荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑」として表現を変えても不思議ではないのではないだろうか?と直感したのだが…。

 ドービニーの作品も「カラスが群れ飛ぶ雪景色」と題しても良いようなモティーフでもある。

06.「荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑」50.5x103cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館蔵/アムステルダム

 

 その間には細長い絵ばかりではなく普通サイズの絵も勿論あるのだが、ゴッホが細長く描いた最初の作品が「ドービニーの庭」である。

 「ドービニーの庭」を描きながらゴッホはどんな心境だったのだろうか?

07.「ドービニーの庭」50x101.5cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] バゼル美術館蔵

 

 その後にもオーヴェルに住んだ画家は多い。

 ヴラマンク [1876-1958] もその1人。ヴラマンクはオーヴェルの駅を描いている。

 その駅を出て教会とは反対側の左に道を取ると、ゴッホの死んだ年に生れたザッキン [1890-1967] 作のゴッホ像の建つ公園がある。

 その隣がドービニーの庭である。

 さらにその道を行くと右手にゴッホが下宿したラヴゥ亭とその真向かいに町役場がある。

 「町役場」はゴッホが恐らく最後に描いた作品として知られているが、僕は佐伯祐三 [1898-1928] も描いたその「町役場」を見たくて最初はオーヴェルにやって来たのだった。

 佐伯祐三はヴラマンクに絵を観てもらうためにオーヴェルにやってきたのだが…。

08.「畑を横切る二人の夫人」30.3x59.7cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] マリオン・クーグラー・マックネイ美術館蔵/サン・アントニオ

 

 ゴッホは1890年7月27日に自分の胸に銃弾を撃ち込んだのだ。

 そして29日午前1時30分。ラヴゥ亭の屋根裏部屋で息を引き取った。

 この短い20日間に描いた横に細長い絵の数々は何かを意味しているのであろうか?

09.「根と幹」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館/アムステルダム

 

 日本ではカラスというと厄介者である。

 そして不吉?な鳥でもある。

 都会では生ゴミを漁るカラスが増え人まで襲うと言う。

 

 オーヴェルにいるのは小カラスである。

 ハシブトカラスとルリカケスのちょうど中間くらいの大きさだろうか?

 フランスでも不吉な鳥なのかも知れない。

 

 ポルトガルではそれほどカラスの姿をみかけない。たまにいても2~3羽。

 コウノトリやカモメの方が多い。

 ポルトガルでカラスは神聖な鳥として崇められている。

 聖人サン・ビセンテは9世紀ポルトガルの南西の地、サグレス岬に埋葬され小さな教会が建てられた。

 その教会をカラスが守った。

 12世紀モーロ人によりこの教会が破壊され、サン・ビセンテの遺骸はリスボンに運ばれることになった。

 その船がリスボンに着くまでカラスが付き添い遺骸を守り通したのだと言う伝説がある。

 リスボン市の紋章は船とその両側にカラスがいる図柄である。

 そしてたびたび郵便切手などにも登場する。

 


▲カラスとリスボン市の紋章の切手


▲リスボンで開催されたヨーロッパ文化祭記念

10.11.12.13.

 これはポルトガルで売られているジュースのパッケージでテレビCMにも登場する。

 真四角に切り取られたゴッホの「荒れ模様の空にカラスが群れ飛ぶ麦畑」がデザインされている。

 オレンジ、バナナ、レモン、人参と麦がミックスされた健康に配慮された飲物であるが、麦が少しばかり入っているからと言うだけで、何故ゴッホなのであろう?

 飲みながらもおおいに悩み考えさせられ、この考察を書くきっかけにもなった。

VIT

 

(この文は2004年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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