武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

010. IL DE FRANCE 佐伯祐三の足跡を訪ねて

2018-10-10 | 旅日記

 今年もサロン・ドートンヌとル・サロンに出品した。
 最初に出し始めた 1991 年の会場はエッフェル塔が建てられたのと同じ時に万博会場として造られた 100 年前と同じグラン・パレであった。
 1994年からグラン・パレの老朽化によって改修工事に入るとの事でエッフェル塔近くのテントの会場に移ったのだが、テントの会場と言うのもパリでは伝統があるものなのだ。
 展覧会の他にファッションショーなども行われている。
 1887 年の博覧会の時にマネとクールベらがやったサロン・ド・リュフューゼ(落選展覧会)もテント会場であった。

 サロン・ドートンヌは 1904 年ルオーやヴラマンクらがフォービズムの発表の場として始まったといわれている。
 そのサロン・ドートンヌに佐伯祐三は 1925 年「コルドヌリ」と「煉瓦屋」を出品して初入選している。
 一時帰国のあと 1927 年「新聞屋」と「広告のある家」が再び入選。

 翌、1928 年 2 月の寒い一ヶ月間、サン・ジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランに写生旅行をしている。
 その 6 月パリの東、ヌーイイ・シュル・マルヌのセーヌ県立エブラール精神病院に入院。8 月死去。

 僕が佐伯祐三の足跡を訪ねてみようと思ったのはちょうどサロン・ドートンヌがテントに移った年だった。
 かつて天王寺美術館の半地下にあるデッサン研究所に通っていた頃、研究生は美術館の入場はフリーパスで、僕はデッサンに飽きると美術館をうろうろとうろつき回っていたものだ。
 その時々架け替えられる常設展で佐伯祐三を観ることができるのは楽しみであったし、そんな中で観た「モランの寺」は僕に強烈な印象を与えたのを昨日のことの様に憶えている。

 モランがパリの郊外にあるということは知っていた。
 それがどのあたりにあるのかフランスの地図を丹念にたどってみるけれど一向に判らなかったのだが、ミッシュランのイル・ド・フランス地方の地図を買い求めてすぐに見つけることが出来た。
 小さい村だからフランスの全国地図には載っていなかったのだ。
 パリの東方 30 キロ程のところにサンジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランがある。
 それは最近できたユーロ・ディズニーのすぐ東側にあたる。
 地図上の鉄道の線路をたどっていくとユーロ・ディズニーはリオン駅から RER(郊外電車)で行く事ができるが、モランに行くには東駅からの昔からの鉄道になっていてユーロ・ディズニーとは線がちがう。

 東駅の案内所に行き地図を示しながら「モランに行きたいのだけれど」と尋ねると「それならリオン駅からです」と即座に答えたので「おかしいな」とは思ったのだが半信半疑でリオン駅に行った。
 リオン駅ではインフォメーションと切符売り場が一緒になっている。
 そこでも同じ様に地図を示しながら聞くとインド人風の係員は、古文書館にでもあるような褐色に変色したぶ厚い文献を持ち出して調べ始めた。
 即答した東駅の案内所のフランス人の女性とは大違いである。
 その間にインフォメーションは切符売り場でもある訳だからたちまち長い行列になる。
 文献も二冊目。それと僕が示したミッシュランの地図。
 いろいろ見比べ検討した結果「Couilly-St-Germain Quincy」という駅「Villiers-Montbarbin」という駅が浮かび上がったのだ。
 モランという文字は一つも無い。そしてそれはこのリオン駅からではなく東駅からだ。
 やはり僕に間違いはなかったのだが、駅名と町名が違っているのでなかなか判らなかったのだ。

 東駅の案内所の女性は何故即答できたのだろうか?
 日本人は皆が皆ディズニーランドに行くとでも思っているのだろうか?

 「でもわざわざ東駅まで行くよりもこのリオン駅から RER に乗ってユーロ・ディズニーで降りて、近くだからバスも出ているだろうし…その方がいいかもね」とインド人風の係員が言ったのでそうすることにした。
 長い行列は既に一人も居なくなっていた。皆別の窓口に移動したのだろう。

 ユーロ・ディズニー駅に着き、停まっているバスの運転手にモラン行きを尋ねると
「たった今出たところで次は二時間あとです」ということだったので奮発してタクシーを使うことにした。
 タクシーはユーロ・ディズニーの周りを半周ぐるっと大回りして国道に出た。
 運転手は「モランのどこに行けばいい?」と聞いた。
 まあどうせ小さい町だからどこでもいいけれど中心にと思って「セントラルへ」と答えたはずが、運転手は「レストラン?」と聞き返した。「ノン、セントラル」。
 ほんのしばらく走っただけでタクシーは停まった。
 「ここがモランだけど、此処で良いかね」
 それはレストランの前だった。

 「ちょうど昼だしここで昼食とするか」とタクシーを降りてレストランの反対側に目をやると、なんとなんとそこにあの天王寺美術館で観た佐伯祐三の「モランの寺」が 1928 年当時のそっくりそのままの姿で僕の目の前にあったのだ。

 教会の周りを歩きながら、また佐伯がイーゼルを立てたと思われるあたりに立ってみると、僕はたちまち 70 年前の佐伯祐三の時代にタイムスリップしていた。

 レストランもまるで古くからの店の様で、佐伯祐三たちもこのレストランできっとお昼を取ったに違いないとさえ思えてくる。
 パリではあまり旨いフランス料理には当らないけれど田舎ではたいてい満足できる。
 ワインも一本空けてデザートにもピリッと辛口の珍しいチーズを食べて、大満足のモランでのひと時であった。

 ほろ酔い気分でローカル列車に乗りあっという間に次の駅「Villiers-Montbarbin」に到着。
 もう一つのモランである。

 画集では何枚も「モランの寺」があり、どれも「モランの寺」となっているため、同じ教会を何枚も角度を違えて描いたのかな?と当初は思っていたのだが、実は隣町の別の二つの教会を描いたのだったのだ。

 画家が描いたその現場に立って周りの環境や空気や温度やにおいを感じて、さらには歴史的背景を考慮して、そのモティーフをどういう風な捉え方をしているのかを考えるのは楽しい事だしとても勉強になるとおもっている。

 モランの他には佐伯祐三が最初の滞仏で住んだパリ郊外のクラマールにも行った。
 教会と町役場のある町の中心へは駅からまっすぐ伸びる道をかなり歩いた。
 さらに教会の後ろ側へ回って坂道を登ったはずれに佐伯祐三が住んだリュ・ド・スュッド2番地を見つけることが出来た。
 かつてはお屋敷でもあったのだろうか?古い塀がめぐらされた中に今は新しくマンションが建っている。
 入居者はまだ決まっていないのか、売出し中の看板がある。
 佐伯祐三は随分不便な奥まったところに住まいを見つけたものだ。

 帰りは駅まで戻るのも遠いし教会のところからバスが出ている様なのでパリ市内までバスにした。
 途中は町つづきで町工場やガレージ(自動車修理屋)コルドヌリ(靴屋)といったかつて佐伯祐三が描いたモティーフそっくりのパリ市内ではもう見られなくなってしまった街並みがあった。

 22 年ぶりにシャルトルにも行った。
 ここには世界一のステンドグラスのカテドラルがあるので観光客も多い。
 最初このステンドグラスを見た時はすぐにルオーの作品をオーバーラップさせて「なるほど」と感心した。
 ジャポニズムの影響でベルナールやゴーガンが始めたクロワゾニズムを更に進めたルオーだが、推し進めることによって古いステンドグラスに到達したことになったのではないのだろうか?

 そのカテドラルの裏手に美術館がある。
 美術館のはなれの館といったところにヴラマンクがまとめて 30 点ばかりがあった。
 普段なら見逃してしまうところだ。
 「トイレ」の矢印があって「ちょっとトイレ」と思って階段を下りたところ、そのトイレの隣にヴラマンクの館があったのだ。

 このシャルトルとヴラマンクがどういうつながりがあるのかは知らないけれど、佐伯祐三の足跡を訪ねる旅をした後だけに何だかヴラマンクのあの一喝が聞こえてきそうだった。
 「このアカデミック!」

 佐伯祐三はパリに着いて 3 日目に里見勝蔵に連れられて、オーヴェール・シュル・オワーズのヴラマンクのアトリエを訪ねている。
 その時に観てもらった 50 号の「裸婦」に対してのヴラマンクの一喝だ。

 その後、佐伯祐三の絵は急速に変わっていった。
 ヴラマンクの影響をまともに受けている作品も少なくはない。
 このシャルトルの美術館でもそんな佐伯祐三に影響を与えた様な作品がたくさんあった。
 いっぽう、その時代のフランスの画家の多くがそうであったように、ヴラマンクもまたジャポ二ズムの影響を受けていて、この美術館にヴラマンクの「屏風絵」があったのも面白い。
 ヴラマンクは時代によってかなり大きく作風を変えている。

 パリの北西ポントワースの近くオーヴェール・シュル・オワーズはゴッホの終焉の地。
 あのカラスの舞う麦畑でピストル自殺をした村である。
 ゴッホと弟テオの墓のあることでも知られているが、その他にもドービニィが先ずアトリエを構えたところでもある。
 ピサロもたくさんの作品を残しているし、セザンヌが「首吊りの家」やヴラマンクの「オーヴェール駅」など、多くの画家のゆかりの場所が数多くある。
 それらの画家たちと交流の深かったガシェ医師の家も残っている。

 ゴッホはこの村のいたるところを描いているが、ゴッホと同じ「村役場」と「オーヴェールの教会」を佐伯祐三も描いている。
 その頃から佐伯祐三はヴラマンク一点張りからユトリロの影響も見られ、そして独自の世界「広告の壁」へと進んで行った。

 佐伯祐三がクラマールの後移り住んだモンパルナス付近などは高層の駅ビルが建ち、僕達が初めて訪れた 1968 年~72 年頃と比べても少しは違っては見えるけれども、パリは本質的にはちっとも変わっていない気がする。
 ちょっと郊外へ足をのばすと 70 年前の佐伯祐三のモティーフや 100 年前のゴッホのモティーフさえもそっくりそのままの姿で残っている。

 モラン河はユーロ・ディズニーの北でマルヌ河と合流し、さらにマルヌ河はヌーイイの下流ヴァンサンヌの森でセーヌと出会い、セーヌはパリを横断しつつクラマール付近へ向って蛇行、さらに大きく蛇行を繰り返しながらポントワースの南でオワーズ河を抱き込み、ノルマンディー地方を悠々と流れやがて英仏海峡へと注ぎ込んでいる。

 英仏海峡に海底トンネルが開通して TGV や高速道が発達しても、河の流れは佐伯祐三やヴラマンクさらにゴッホがいた 70 年前も 100 年前も、そしてこれからの 100 年先、いやそれ以上何世紀をも変わることなく流れ続けるのだろう。VIT


この文は 1994 年に書いたものにこの度少し書き加えました。

 

(この文は2003年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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009. ムズ と ビット

2018-10-10 | 独言(ひとりごと)

 日本人が「R」と「L」の発音が苦手な様に、ポルトガル人には「H」の発音があまり出来ない。
 ポルトガル人に限らずラテン系の人たちは皆その様だが…。

 「HONDA」は「オンダ」「YAMAHA」は「ヤマア」「HITACHI」なら「イタチ」になってしまう。
 テレビのニュースキャスターでさえそう発音する。
 『「オンダ」と「ヤマア」がトップ争いをしています。あっ、「ヤマア」がカーブで抜け出した。』
 『あっ、「ヤマア」転倒。「オンダ」引っ掛けた。両者共転倒。「ススキ」抜け出した~っ。』と言った具合。観ている方もずっこけてしまう。

 僕の名前「HITOSHI」は「イトシ」。なんだか漫才師のイメージが強い。

 もちろん「H」の発音が出来る人もいて、それが自慢なのか、「ヒトーッチッ」などと呼ばれたりもする。
 画廊のペドロはいつもそうだ。

 まあどう呼ばれようと良い様なものだがこの際だから、「ヒ」に濁点を付けて「ビ」つまり「ビトシ」としてみたらどうか?と考えたのである。
 さらに「シ」も「チッ」などとなる恐れもあるので、外してしまって、簡潔に「ビット」「VIT」とした。

 ポルトガルには「VITOR](ビットール)という名前の人がいる。
 セトゥーバルのクラブサッカーチームの名前が「VITORIA」(ビットリア)という。
 「勝利」と言う意味あいがある。
 ポルトガルの一部リーグで今、12~3位のところをうろうろしている。

 イタリアには「ビットリオ・デ・シーカ」が居た。
 あの「靴みがき」(1946)や「自転車泥棒」(1948)の監督である。
 「自転車泥棒」は名画中の名画であるし、テレビでも何度もやっているので
殆どの人は観ていると思う。
 僕も何度観ただろうか?
 『主人公は自転車を盗られてしまう。
 看板貼りにとって自転車がなければ仕事にはありつけない。
 思い余って他人の自転車を盗ろうとする。
 あの、子供を先に帰して自転車を泥棒するシーン。
 子供は帰らないで建物の陰から隠れて見ているその前で、皆から寄ってたかって捕まってしまう。あのシーン。』
 あまりにも悲しくて、あまりにも残酷で…涙無くしてはとても観ていられない。
 「あんな時代に生まれてこなくて良かった。」と以前は思ったものだが、今世界中どんどん失業者が増え。
 あんな時代に戻りつつある…。様に思う。

 藤田嗣治は洗礼名をレオナルドとした。
 レオナルド・フジタである。

 クルマでもポルトガルに来れば名前が替わる、
 「日産マーチ」は「ミクラ」という。「トヨタビッツ」は「ヤリス」である。
 「スズキジムニー」は「サムライ」となる。

 そんな訳で
 「VIT」ならすぐに憶えてもらえるだろうし、呼びやすいだろう。
 と思ったのだが、実際には誰もそうは呼んでくれない。
 
 「MUTSUKO」にも同じような問題がある。
 「HITOSHI」よりも更に憶えにくい名前らしく、ようやく憶えても「ムチュコ」などと発音している。
 「MITSUBISHI」は「ミチュビチ」になる。
 ポルトガルで「ミチュビチ」の RV 車は人気が高い。
 ぬかるみではまってしまいそうな名前である。
 いっぽう「MATSUDA」は始めから「MAZDA」としてほぼ正しく呼ばれている。
 「ムツコ」も濁点を付ければ「ムヅコ」「MUZKO」略して「MUZ」とした。
 が実際にはまだまだ浸透はしていなくて、相変わらず「ムチュコ」であるが…。

 「MUTSUKO」や「HITOSHI」よりも、むしろ「TAKEMOTO」の方がポルトガル人にとっては憶え易い様だ。
 もっともポルトガルには「K」の文字はないから、「TAQUEMOTO」などと書いたりはするが…。
 ちなみに「TOKYO」は「TOQUIO」と書く。

 ポルトガル人に「TAKEMOTO」と書いた名刺を差し出したとしたら「HONDA」「YAMAHA」「SUZUKI」「KAWASAKI」の代理店の人と思うかも知れない。

 セトゥーバルのバイク屋さんに「TODIMOTO」と言う店がある。
 ルイサ・トディ大通りに面しているからTODI、
 「MOTO」には「モーター」とか「動く」といった意味がある。
 「地震」のことを「TERRAMOTO」と言う。
 大地が動く。のである。
 もし「寺本」さんがポルトガルに来たならば、すぐに憶えてもらえる?名前である。 VIT

 

 

(この文は2003年4月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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