武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

104. マヨルカ島旅日記 -ミロのアトリエを訪ねて-  2012年10月6日(土)~13日(土)

2012-10-31 | 独言(ひとりごと)

 マヨルカ島はスペインのバルセロナ沖、地中海に浮かぶ昔からの一級のリゾート地である。
 単なるリゾート地だけではなく、歴史も深く、見所も多い。

■10月6日(土)予報では晴時々曇/最高気温27℃-最低17℃/降雨確率2%

 リスボン空港を16:20発なのでゆっくり家を出ることができる。土曜日だからセトゥーバルからのバスの本数は少ない。空港には早く着きすぎ、少し待って搭乗手続き。航空機はオーストリアのニキ航空といって初めて乗る飛行機だ。

 手荷物検査の後、乗り込むまでの間に、いつもパリなどに行く場合は機内ですぐに軽食が出るので、コーヒーだけにするのだが、マヨルカ往きではどうも食事はないようだ。少し腹に入れておく方が良いと思って、何を思ったのか、以前からのCMが頭のどこかに引っかかっていたのかも知れない<マクドナルドのビッファナス>を食べてみることにした。しかしこれは2度と食べるべき代物ではなかった。

 飛行機は空いていた。3人掛けシートの殆どに2人ずつ。
 軽食は出なかったが、ソフトドリンクとビスケットかスナック菓子のどちらかをチョイスということだったので、別々に一つずつ貰った。ビスケットはクリームを挟んだもので4枚が入っていた。スナック菓子はうずら卵型のプリッツの様な固パンで荒塩がまぶしてあって素朴な物だがなかなかいける。
 座席はグレーの革張り、客室乗務員はオーストリア美人でスリムなブルージーンズが制服。格好が良い。


●ニキ航空機の革張りシートと安全のしおり

 ほぼ定刻通りマヨルカのパルマ空港に到着。
 今回の旅行は、航空券とホテルがセットになったパックツアーなので、空港からホテルまでのリムジンも含まれている。到着口を出ると<ソルプラン>と言うツアー会社の係員が迎えに来ている筈だから。と教えられていたが、向うからこちらを目ざとく見つけてくれた。日本人の名前だからすぐに判ったのだろう。リムジンは8人乗り位のRV車で、後で判ったのだがナザレから来たという中高年のカップルと僕たちの2組だけだった。

 そのナザレのカップルとは8日間、朝食、夕食の時は時々見かけ挨拶を交わした。勿論帰りのリムジンでも一緒だった。只、ナザレのカップルは3食付で申し込んだらしく、ホテルのチェックインの時に手首に目印のショッキング・ピンクのリストバンドをしてもらっていた。それがあると、呑み放題なのである。2食付の僕たちは飲物、別料金。

 マヨルカに到着が19:00だから空港からホテルはすぐ側といえどもホテルに着いたのは8時頃であったのかも知れない。部屋に荷物を下ろし、すぐに夕食。
 「この食事で7泊はきつい」とMUZは渋い顔をしたが、僕はまあまあかなと満足していた。それというのもサラダが豊富にあったので気に入ったのだ。ビールやワインも高くはない。
 バスタブの大きい部屋と注文したからか、確かにバスタブは大きかったけれど、部屋は2階で道路を行くクルマの音が夜遅くと早朝にうるさかった。

■10月7日(日)晴時々曇/27℃-17℃/降雨確率3%

 夕食に比べて朝食はまあまあだ。と言ってMUZも満足の様子だった。クルマの音がうるさい。と言って部屋を替えてもらった。今度は5階(日本式には6階)の北向きで空港が真正面に見える。ベランダからは長々と伸びるカン・パスティーラのビーチも見える。バスタブは小さくなったけれど、うるさくもなく、眺めも良いので替えてもらって良かった。航空機の発着は見えるがその騒音は殆ど感じない。

 ツアー会社ソルプランの人が13:00からホテルで説明会をします。とのことだったので、遠出はできない。
 午前中は水着に着替えビーチタオルを持ってカン・パスティーラのビーチに出かけた。漁港のあたりはまるで泥水だ。海草が多くてそうなっているのかも知れない。ビーチ沿いの土産物屋が立ち並ぶところを歩いていると空車のトランが来たので乗ることにした。2両連結のトランだがやがて満席になってカン・パスティーラのビーチ沿いの大型ホテルが建ち並ぶ道をどこまでも行く。
 やがてUターンしたので、そのあたりで降りてビーチに寝転がることにした。


●カン・パスティーラのビーチ通りをすれ違うトラン

 10月だと言うのに大勢の人が泳いだり、浜辺で水遊びをしたり。僕も少し泳いでみた。海は遠浅で水もトルコ石ブルーに輝いて綺麗だ。やはり大西洋とは違って海水は温かく波も穏やかで泳ぎやすい。

 帰りもトランに乗った。往復切符だったのだ。トランは超満員だったが、車掌がうまく席を作ってくれた。同席した北欧人は身体が大きくいかにも窮屈そうだったが、中年の男女2人組4人で重なり合って、それを楽しんでいるようでもあった。
 帰りのトランは僕たちのホテルのすぐ側まで行ったのでそこで降りた。
 ツアー会社の説明時間までは少し暇があったので、シャワーを浴びてからロビーに向った。約束の5分前だった。ツアー会社の人は10分遅れてやってきた。いろいろとオプショナルツアーの勧誘があるらしい。僕たちは個人で行くつもりだったので、断わって、昼食に出かけた。

 ホテルはカン・パスティーラという地区にあるので、ビーチ以外どこに行くにも先ずパルマまで市バスで出なければならない。そのバス停を見届けてからその近くの地元の人がよく入っているレストランに入った。期待したけれど注文したものが悪かったのか、期待外れであった。注文は海鮮パエリアである。


●パエリアを注ぎ分けてくれる

■10月8日(月)晴時々曇/27℃-18℃/降雨確立4%

 朝食を済ませ早速、ミロ美術館に行くつもりだったが、予定を変更してソーイェルに行くことにした。郊外に行くのは天気が崩れない内が良いと判断したからだ。カン・パスティーラのバス停から15番のバスに乗り、終点のスペイン広場で降りると、そこからソーイェル行きのレトロ電車が出ている。バスの車窓からその電車が見えたのだが終点まで乗った。終点はスペイン広場ではなく、スペイン広場からさらに3つ4つ乗ったカテドラルであった。終点がスペイン広場だと勘違いをしていたのだ。「それなら」と言うことになってカテドラルを観ることにした。
 10時から開門だが5分前に着いた時には長い行列が出来ていた。入り口の隣のカフェに座ってコーヒーと水を注文。行列が少なくなってから入場。

 ステンドグラスを通して柱やベンチに当る朝の光が美しかった。


●朝陽がステンドグラスを通してカテドラルの柱に映る。

 ガウディが手がけた礼拝堂はなるほど異彩を放っていた。

 この日はソーイェルもやめて、予定をまたまた変更してこのカテドラルの周辺を重点的に見ることにした。しかしその隣のアルムダイナ宮殿は休館日である。その前の階段から降りてローマ風呂遺跡に行くことにしたが、途中、湖の対岸に巨大なミロの陶板壁画が見える。


●ミロの陶板壁画

 ローマ風呂遺跡は小さいところだが中庭には緑が生い茂ってなかなか雰囲気のいいところだ。椅子テーブルが数箇所に配置されていて、観光客が地図を広げたり、ガイドブックを読んだりしているが、こんなところで1日読書でも良さそうだ。


●ローマ風呂遺跡入り口とモンステラ

 観終わったところで、まだまだ時間はある。ソーイェルまでは50分しかかからない。次の発車時刻に間に合えばゆっくりと行くことが出来そうに感じたので、歩いてスペイン広場まで戻ることにした。

 13:05発のソーイェル行きの列車には充分間に合った。なるほど木製のレトロな列車だが古いままの物ではなく新たに作った車両の様である。昔はこの路線はオレンジなどを運ぶトロッコ列車だったそうだが、今では観光客ばかりが乗って楽しんでいる。


●レトロな連結部分

 車内の電燈、窓枠、連結部分など見ているだけで楽しいが、車窓の風景もなかなかのものだ。急峻な岩山と緑に覆われた山々、トンネル、そしてやがてソーイェルの町の全貌が左に右に幾度となく姿を現わす。
 ソーイェルの駅に着くとまたレトロな路面電車に乗り換えソーイェル港まで乗客を乗せていく。


●路面電車の車内

 何と言うこともない列車の旅だが何かディズニーランドにでも行った様な楽しさがある。


●路面電車に乗り込むドイツ人など観光客たち

 ソーイェル港で軽く昼食。路面電車で再びソーイェルへ。


●路面電車とソーイェルのカテドラル

 何と言うこともない。と書いたがこれが大違い。ソーイェルの駅舎には何とミロの展示室とピカソの陶器展示室が併設されていて、びっくり。


●ミロの展示場一部

 ミロはリトグラフ40点程だがなかなか良い作品ばかりで見応えがあったし、以前、南仏ヴァロリスのピカソ美術館でもたくさんのピカソの陶器は観たが勿論1点1点違うわけで、ここでも壷などの立体が10点程と絵皿が20点程もあり思いがけず良かった。


●ピカソ陶器の展示場

 本命のミロ美術館には未だ行っていないが、これだけでもマヨルカに来たかいがあったと思ったほどである。


●ソーイェル駅のミロの陶板壁画

 ホテルの夕食は趣向を凝らして毎晩飽きさせない工夫がなされていると感じた。それにビュッフェ式だから常に切らさない様に気を使っている様だ。今夜のメニューはMUZも満足そうであった。
 三ツ星ホテルだがプールはあるし、そのプールサイドでは2晩に1度は歌謡ショーが催されていて、その奥には卓球台やテニスコートまである。使ったことはなかったが…。部屋にはテレビも冷蔵庫もないが、1週間や2週間の滞在でホテルばかりに閉じ籠っていたとしても飽きさせない工夫がなされている。

■10月9日(火)晴/26℃-16℃/降雨確立2%

 きょうは郊外のヴァルデモサに行くことにした。スペイン広場のバスターミナルからバスで30分。方角としては昨日と同じ北西方向だ。
 ヴァルデモサも大勢の観光客で賑わう美しい町だ。早速、カルトゥハ修道院へ。ショパンが隠れ住んだ僧院である。

 ショパンは結核療養の為とパリの社交界から逃れる為、そしてジョルジュ・サンドとの隠棲の地を求めて、暖かい筈のこのマヨルカ島にやってきて、一冬を過し多くを作曲した。
 修道院内にはショパンが住んだ部屋とピアノが保存され見学ができる。
 


●カルトゥハ修道院

 ショパンの部屋、ショパンのピアノが保存されていて、その壁には自筆(コピー)の楽譜が沢山展示してある。


●ショパンが使ったピアノと壁やケースに自筆楽譜

 上から上から、物によっては破れんばかりに加筆されている。ピアノを弾く人や作曲家にとっては興味深い楽譜なのだろうと思うが、僕にとっても絵を描く上でのエスキースと同じで、その筆跡に素晴らしさとショパンの息使いを感じる。


●ショパンの自筆楽譜(コピー)

 ピアノの横には小さな窓がある。その窓からショパンは10月の雨だれを見ていたのかも知れない。
 マヨルカ島は文字通り地中海性気候で殆ど雨が降らないのだが、皮肉にも10月が1年の内最も雨が多いとのことで、ショパンもこんな筈じゃなかった、と思ったのかも知れない。
 ショパンがこの地で作曲した「雨だれ」は余りにも有名だ。もっとも雨だれという名称はショパン自身が付けたのではなく、プレリュード作品28、15番、変ニ長調で、ショパンがピアノを弾いている音と、雨だれが軒下から落ちる音とが微妙に調和していた、とジョルジュ・サンドが書いていることから生まれた通称であるとか。他にも諸説あるそうだが…。
 作曲したのはショパン28歳、1838年だが、まさにこの10月。長雨が続き修道院の陰鬱な部屋は底冷えがし、結核は悪化の一途、眺めは靄にかすみ小さな窓の雨だれがピアノの旋律に調和したというのも頷ける。


●ショパンの部屋のピアノの横の窓

 窓から見える庭も素晴らしい。パティオ風に作られた緑豊な庭。棚にはジャスミンの白い花が咲き、そのベランダからは家々の屋根と山が水蒸気を含んで柔らかく穏やかな眺めだ。時折、羊の鈴の音が遠くに聞こえる。

 ショパンの部屋を出て修道院内をもう少し進むと2階に上がる階段があった。階段部分には世界中で催されたミロ展のポスター。日本のも2枚あった。何とその2階は美術館になっていて、ミロのリトグラフやエッチングがたくさんあった。


●ミロの展示室と版画プレス機

 ミロだけではなくピカソも10数点、ポリアコフやアンドレ・マッソンなどを含め50点ばかりの作品で、そこだけでも見応えのあるものであった。


●ピカソの作品群

 修道院の元厨房なども別棟で見学ができる。
 カルトゥハ修道院前広場のレストランで軽く昼食。食べ過ぎると夕食が入らないので昼は少しだけ。隣に座った中高年のドイツ人も2人で1人前を注文しただけであった。彼らも朝晩は2食付パック旅行なのかも知れない。


●ヴァルデモサの眺め

■10月10日(水)晴時々曇/24℃-17℃/降雨確立10%

 今までも思いがけず、かなりミロを観たが、いよいよ本命ミロ美術館の日である。
 やはりスペイン広場から市バスを乗り次いでミロ美術館へ。乗るときに運転手に「ミロ美術館に行きますか?」と尋ねた。
 ミロ美術館とは関係なくジョアン・ミロ通り何々番地という停留所が3つ程もあった。それを通り過ぎて暫く走り、市内地図を見比べてもうそろそろかな…、と思ったので、運転手に「まだですか?」と尋ねると「一つ停留所を過ぎてしまったよ」と言ったので、慌てて下車した。一停留所を戻ったところでカフェテラスの用意をしていた人に聞くと、丁寧に教えてくれた。「ミロ美術館はこちら」という標識がなかなか見当たらないので聞くしかなかった。

 坂道を5~6分上がったところにミロ美術館はあった。作品は少ししかない。と聞いていたがどうしてどうしてたっぷりで見応えがある。


●ミロ特別展の幟

 パルマ市内にミロ展の幟がたくさんあったので、特別展なのだろう。やはり常設だけではなく、常に企画展をしているのかも知れない。ガウディに関連のミロの作品。これが企画なのかも知れないが、大きなタペストリが沢山掛かった展示室もあった。


●ミロ美術館展示室

 ミロの自由奔放な線、形、色彩。クレーやピカソと同時代、絵画革命とも言える一つの時代を築いてきた画家であるが、21世紀の現代にあっても色褪せることなく素晴らしい作品ばかりだ。

 ヨーロッパのどこの美術館でもよく見かける光景だが、この美術館でも小さな子供たちがミロの絵の前で説明を聞いている。先生はどんな話をしているのであろうか?


●ミロの絵の前での子供達の課外授業

 僕は子供は誰もが絵の天才だと思う。それがやがて物心がついてどんどん絵は面白くなくなっていく。絵を描きたいという純粋さがなくなって行くからだと思う。上手に描こうとする下心が生れるからだと思う。

 絵を描く者にとってピカソやクレー、ミロなどの純粋さ、いや子供の持つ純粋さを取り戻して絵を描きたいと思っている画家が少なからずいる筈だ。僕もその一人だ。ピカソやクレー、ミロなどは子供の純粋さを自分の物としたのだと思う。

 この美術館で説明を聞いていた小さな子供達は恐らく未だ天才だと思う年頃だ。そんな絵の天才の子供たちに、恐らく天才ではなくなった先生は何を説明していたのであろうか?

 美術館とは別棟のミロのアトリエはモンドリアンを思わせるモダンな建物である。


●ジョゼップ・ルイス・セルト設計のミロのアトリエ

 広く明るく数々のイーゼルに沢山の描きかけの絵が掛かっている。
 壁やテーブルにはモティーフとなった様々な物。そしてパレット、絵の具、作業着などがそのままに配置されている。中2階にも置物や玩具、民芸品などがあって一つ一つ見てみたかったが中2階へは入室禁止で残念であった。


●ミロのアトリエ

 アトリエを出てさらに港を見晴らせる階段道を登ると古くからの建物があり、そこが元々の初期からのアトリエとのことであった。


●ブーゲンビレアとミロの階段道からの眺め

 ミロは当初、パリのアトリエでは狭くもっと広いところが望ましいと願って、ノルマンディーのカーンあたりにアトリエを構えようとした。
 でも当時、ナチス・ドイツの侵攻で戦禍は激しさを増し、疎開をするつもりで母の生れ故郷であるマヨルカ島にやってきた。
 そしてここが余程気に入ったのだろう。1956年に本格的にアトリエを構え1983年90歳で亡くなるまでをこの地で制作した。
 ミロは同時にパリとバルセロナにもアトリエを持ったが、アメリカや日本など各国でも作品を作った。
 フランスのコートダジュールでも作品を多く残している。以前訪れたサン・ポールのマーグ財団美術館にはミロのオブジェが多数展示されていた。
 ミロの作品は世界中で観ることができる。版画なども数多く自筆サイン入りのリトグラフを宮崎の友人が数点もコレクションしていて驚いたが…。動かすことが出来ない、そこでしか観ることができない物がアトリエにはある。


●木炭エスキースが壁にいっぱいのミロの住居兼アトリエ

 その元々からのアトリエ件住居の2階は入室禁止であったが、1階だけでもホールと小さい小部屋3つと台所などがあって、その部屋の壁全てにミロ自身が描いた木炭でのエスキースが残されている。


●アトリエ件住居の内部

 まさに今、ミロが木炭を走らせた如くに生き生きとした線だ。床には絵の具が飛び散った跡。何と素晴らしい。これこそが展覧会では観ることができない。現地に赴かなければ決して観ることができないものだ。


●アトリエ件住居のホールと階段、いたる所にエスキース


●壁に描かれた木炭エスキース(一部)

 ミケランジェロの壁に描かれたエスキースはフィレンツェのメディチ家礼拝堂の新聖器室でしか観ることができない。ピカソの小さな礼拝堂の壁に描かれた「戦争と平和」は南仏ヴァロリスに行かなければ観ることはできない。また、パリ、オペラ座のシャガールの天井画はオペラ座に、デュフィの「電気シティ」はパリ市立美術館に行かなければ観ることはできない。
 その他にも決して動かすことができない、そこでしか観ることができない美術が世界中には数多くある。

 ミロ美術館で堪能して再びバス停まで戻り、同じバス路線上にあるベルベル城に行く。バスの運転手にそう告げると「プラサ・ゴミラで降りなさい」と教えてくれる。降りて運転手に手を上げて合図。運転手も納得の様子。今度は乗り過ごすことはなかった。
 なかったけれどベルベル城は随分と遠く遥か彼方上方に見える。クルマ道からやがて階段道になり、道脇の植生などを眺めながらゆっくりと登った。ポルトガルと距離的にはかなり離れているが、植生はよく似ている。歩いてみると思ったほど遠くもなかった。


●ベルベル城中庭

 入場券売り場の横のカフェテラスで軽く遅い昼食。ベルベル城入り口まで2階が空天井の市内観光オープンバスが来ていた。


●ベルベル城の台所

 ベルベル城の展示物を観、屋上からパルマの町並みや港を眺め、再び階段道をプラサ・ゴミラまで。市バスを乗り継ぎホテルに。

■10月11日(木)晴時々曇/24℃-16℃/降雨確立35%

 先日、カテドラルを見学した日は休館日だったアルムダイナ宮殿とパルマ博物館の予定。でもそれだけでは時間が余りそうだったので、朝の内にと思って先ずメルカドへ。

 スペイン広場で市バスを降り歩いてすぐ。大きなメルカドで魚も新鮮。そして珍しい小魚が沢山でセトゥーバルとはだいぶ魚の種類も違う。メルカド内のあちこちにタパスを食べさせるカウンターがあり、昼食は出来たらここが良いな~と思いながら繁華街を抜けてアルムダイナ宮殿へ。

 見学の後、先日見学したローマ風呂遺跡のすぐ側を通りパルマ博物館へ。

 実は今まで僕は勘違いをしていたのだが、マヨルカ陶器である。フランスでもイタリアでも美術館、博物館で数多く観てきたマヨルカ陶器。渋い黄色と紺色が特徴で多くは真ん中に肖像画などが描かれた重厚な陶器だ。そして中川一政のバラの絵に描かれたマヨルカ壷。僕はてっきりマヨルカ島の特産だと思っていた。調べてみるとマヨルカ島とはあまり関係がなさそうだ。それらは実はイタリアでルネッサンス期に作られた陶器らしい。だから勘違いしていた当初はパルマ博物館で、それの古く良いものが沢山観られると期待していたのだが、それは違っていた。

 でも歴史の深いマヨルカのパルマ博物館は楽しみにしていた。だが残念ながら、入り口から覗くと空が見える程の大規模な工事中であった。

 仕方がないので、その手前で見かけたダリ美術館へ。ダリはあまり好きではない画家なのでどちらでも良いのだが、一応鑑賞。


●ダリ美術館展示室

 再び繁華街を戻って大急ぎでメルカドへ、軽くタパスで昼食。食べ終わった後見てみると牡蠣の専門店がそこで食べさせるカウンターがあった。牡蠣にすれば良かったと後悔。
 ホテルに戻ってホテルのプールででも泳ごうかと思って、スペイン広場のバス停まで。


●市内観光オープンバス

 バス停にはオープンバスが停まっている。これに乗ってみるのも悪くはない。1台目は満席で、すぐに2台目が来るという。
 24時間乗り放題、降り放題であちこちを観て回れる様になっている。リスボンのオープンバスと同じ方式だ。ポイントポイントで停車。パルマ市内を1周、1時間半ほどのコースだろうか、朝から晩まで1日中乗っていても構わない。それに乗ると苦労して階段道を登ったベルベル城には簡単に行けてしまう。

■10月12日(金)晴時々曇/24℃-16℃/降雨確立35%

 行っても行かなくてもどちらでも良いと思っていた、ドラック洞窟に行くことにした。
 スペイン広場からバスで1時間15分。バスは観光客と地元の人たちでほぼ満席である。途中の村で地元の人が少し降りてあとは殆どがドラック洞窟行きの観光客である。
 洞窟入り口前には路線バスだけではなく、観光バスなどもたくさん並んでいた。

 1時間に1回の入場で12時の入場に間に合った。さすが大勢の人たちが詰め掛けるだけあって、見応えのある洞窟である。効果的にライティングがしてあって幻想的な風景のあちこちに監視員が立っていて観光客が写真を撮るのを注意する。撮影禁止なのだ。でも写真を撮りたくなる気持ちは抑えがたい。


●ドラック洞窟

 たくさんの人がこっそりデジカメや携帯をかざす。一番奥深いところに地底湖があり、その前にベンチが並んでいて、前から順番に座ることになる。1回の入場でおおよそ300人くらいは居ただろうか。

 やがて地底湖の奥から音楽が小さく聞こえ、演奏者を乗せた小船が現れ音は次第に大きくなる。オルガンとチェロなどトリオの演奏だ。ショパンの「雨だれ」を奏でている。右から入ってきて、左に消え、また左から右に消えていく。何とも幻想的で300人の観客はしんと静まり固唾をのんで聞き入っているが、一人の赤ん坊だけが泣き叫んでいた。監視員から母子がその場所から退場させられたが気の毒であった。

 演奏は洞窟の中だからノートルダムのパイプオルガンの如く、ぐぉーんぐぉーんと反響するのかと思っていたが、そうでもなく、まるで鍾乳石の隙間隙間に消え入る様な演奏であった。オルガンの音は聞こえたがチェロとヴァイオリンの音は殆ど聞こえなかった。それが何だかショパンの「雨だれ」に相応しい様にも感じた。

 演奏の後、その地底湖でボートに乗ることが出来た。希望者だけが乗ることができるとのことであったが、あまりの人の多さに駄目かな、とも思ったが3隻目に運よく乗ることが出来た。
 1隻に10人ほどが乗るが、5隻の船が次から次に往復をしている。ほんの50メートル程の少しの距離だが貴重な経験だ。マヨルカというリゾート地は観光客を楽しませることが上手だ。といろんなところで感じた。

 帰りのバスまでは1時間あまりの時間があったので、その港町、ポルト・クリストまで歩いて行くことにした。15分の道のりであった。カフェテラスで軽くタパスとビールで昼食。雲行きが怪しく風が吹き始め、どうやら雨になりそうである。そろそろバスが来る頃、とバス停に向うと既に大勢の人がバスを待っていた。そしていよいよ雨である。それもかなり激しく降り始めたが、殆どの観光客は傘を持っていない。僕たちはシェルブールで買った小さな折り畳み傘を広げた。

 やがてバスは来た。少しでも早く雨から逃れ様と人々は入り口に殺到。でもそのバスはパルマ行きではなかった。続いて来たバスは空いていてそれがパルマ行きであったが、もう動き始めていて、あわてて手を振った。もう少し遅かったら停まってくれなかっただろう。バスが発車してすぐに雨は止んだが途中の道もパルマに着いてからの歩道も雨の跡で濡れていた。
 ホテルに戻りパックツアー最後の夕食をとった。

■10月13日(土)雨/22℃-14℃/降雨確立55%

 長い8日間の贅沢な日々を過し、いよいよセトゥーバルの我が家へ帰る日である。パルマ飛行場の見えるこのベランダともお別れである。

 ホテルの部屋にはテレビは付いていなかった。毎晩、夕食の後、ベランダから飛行機の発着を眺めるのが日課であった。右前方の空にまるでUFOの如くオレンジ色の灯りが2つ見える。それが少しずつ近づき、その後にまた別の灯りが現れる。同時に6つ、そして8つ。やがて滑走路へと消えて行く。左前方からはこちらに向って飛び立つ。遅れて小さく轟音が聞こえホテルの建物の影に隠れ、海の上でユーターンして右の空遥か上空を北へ向って行く機体が見える。2分おきに離陸し、2分おきに着陸している。次から次で見ていて飽きない。毎日、もの凄い数だ。小さい飛行機ばかりだが1機に100人から200人位は乗っている筈だ。
 シーズンオフなのにこれだけの人がマヨルカを訪れる。これを見ている限りスペインの経済危機などは全く信じられない。何でも年間1000万人の観光客がマヨルカを訪れるそうだ。

 僕たちが訪れた10月は1年の内で最も雨の多い時期だとのことであったが、殆ど雨にもあわず、それほど乾燥もせず、しっとりとして実に過し良い気候であった。
 様々な色のブーゲンビレアが咲き誇り、レモンが実る様子は我々のセトゥーバルとさほど変わらない風景だが、ピンクのノウゼンカズラがまさに盛りで家々の庭先からこぼれ出る様に咲いていて、何故か、普通にあるオレンジ色は見ることはなく、全てがピンク色であったのも印象的であった。


●ピンクのノウゼンカズラ

 ゆっくりと最後の朝食。朝食の後は部屋で荷造りとのんびり読書。8日間、退屈かも知れないと思って、荷物の中に先日知人から頂いたばかりの文庫本上下2冊を入れておいた。

 ジョルジュ・サンドの『マヨルカの冬』でもあれば良かったのだが、本はカルロス・ルイス・サフォンの『風の影』。スペインの作家でフランコの時代の1945年から1965年頃のバルセロナが舞台で古本屋と本を巡る話。面白い本で2人で奪い合う様に8日間で一気に読破してしまった。このままバルセロナに行ってしまいたいとも思った程だ。ベランダの前方にある筈の海をひとっ飛びすればバルセロナだ。
 今後、この『風の影』とマヨルカがオーバーラップして心に残るのかも知れない。

 12時にチェックアウトを済ませ、ロビーで迎えのリムジンを待つ。着いた時に一緒だったナザレのカップルも一緒だったが、その他にも8人ほどが同じリムジンで空港に向った。
 夜に雨が降ったらしく歩道は濡れていたが出かけるときは真っ青に晴れていた。空港で軽くサンドゥイッチを半分ずつの昼食。飛行機は往きにはニキ航空だったが、復便はベルリン航空機であった。


●エアベルリン航空機

 革張りだし、ジーンズの制服だし、スナック菓子も同じで、内容は全く同じで姉妹会社の様である。
 セトゥーバルの上空あたりを通過してリスボン空港に到着。
 
 ナザレのカップルとはリスボンの荷物受け取りコンベアのところで別れた。別れるときに手を振ったその手首には未だあのショッキング・ピンクのリストバンドがあった。

 セトゥーバル行きのバスまで少し時間があったので、ガレ・オリエンテの炭火焼フランゴで早い夕食。マヨルカに比べてポルトガルの物価の安さを改めて感じた。

 セトゥーバルの我が家に戻って普段の生活に戻った途端、いよいよ雨季に突入した模様である。VIT

 

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103. セトゥーバルからリスボン往復の立ち寄り処(マヨルカの旅プロローグ)

2012-10-20 | 独言(ひとりごと)

 セトゥーバルからリスボンに行くには必ず4月25日橋かヴァスコ・ダ・ガマ橋の何れかでテージョ河を渡らなければならない。橋は高速から繋がっているが、高速はあまり好きではない。急いで行く必要もないので、往きは国道10号線を通り、4月25日橋で行くことが多い。

 帰りにはたいていヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡る。セトゥーバルからは大きく時計回りに円を描く様な格好だ。
 距離的にも時間的にも同じくらいで片道約1時間。どちらを通っても良いのだが、橋の長さは違い、微妙に橋の通過料金が異なる。
 4月25日橋は2キロと短く1,55ユーロとこちらの方が安い。それに4月25日橋からのリスボンの眺めが良い。橋は高くリスボン全体を南西上空から俯瞰できる格好だ。ことさら夕方などリスボンの夕陽に映える町並みは赤瓦と白い家並がサーモンピンクに染まり筆舌では尽せない素晴らしさだ。

 どちらの橋でも、リスボンに入る時だけ料金がかかるが帰りは無料だ。と言うよりリスボンに入る時に往復料金が取られていることになる。だから往きにヴァスコ・ダ・ガマ橋を使うより、4月25日橋を通過する方が安上がりに往復できる。
 帰りはどちらでも無料だから渋滞もなく道幅が広く気持ちの良いヴァスコ・ダ・ガマ橋を走る方が何となく得した気持ちになる。全長17キロのヨーロッパで一番長い橋だそうで、橋を渡りきったあたり、モンティージョの塩田にはフラミンゴの姿も見ることができる。但し、そのあたりではスピードは110キロ程が出ているから一瞬だ。それを更に猛烈な速さで追い抜いていくクルマもいる。片側3車線で1車線の幅も広く、事故が起こることもあまりないのかも知れない。

 最近は歳を取ったせいで、前立腺の影響か小用が近い。情けのないことだが、筋肉が低下し、全てが下がり、膀胱を圧迫し小水の蓄債容量が少なくなっているのだ。
 リスボンに入って渋滞などに巻き込まれる前に小用を済ませておきたい。往きはその間、サービスエリアがないので僕もいろいろと考えている。

 先ずは最近出来たばかりのコイナ・ショッピングモールのトイレ。これは国道から少し入って、ロータリーを2つも通過しなければならないし、駐車スペースに停めてからもショッピングモール内をかなり歩く。でもここは綺麗だし誰に気兼ねをすることもなくトイレが使える。トイレの手前に赤い提灯が掛かったたぶん中国人が経営する寿司店があるが勿論入ったことはない。

 もう少し先にイズィという日曜大工の大型店がある。ここは国道からすぐで、店に入って入り口の側にトイレがあり誰でも使える。でもそこではまだ一度も買い物をしたことがなく何となく気が引ける。

 もう一つはトータ・デ・アゼイタオンのアンテナショップだ。ここではトイレだけ、という訳にはいかない。トータ・デ・アゼイタオンの4個入りか6個入りの1パックを買う。自分で食べても良いし、お土産にしても良い。小さなロールケーキだが、卵がたっぷりでシナモン味が利いてポルトガルのお菓子としては甘すぎもせず美味しく、お土産としては手頃だ。ただそのアンテナショップでなくてもどこのスーパーででも手に入るから珍しくはない。
 そのアンテナショップはたいていいつも他の客の姿はなく、がらんとして、またトータ・デ・アゼイタオンが入ったショーケースは店の一番奥にあるから、入店からそのショーケースに辿り着くまでに従業員たちから注目されて何となく居心地が悪い。
 トータ・デ・アゼイタオンは日本へのお土産にもしたいくらい美味しい物だが生菓子なのでそれ程は持たない。
 トイレはモダンで掃除も行き届いていて明るく気持ちが良い。コーヒーを飲むことも出来る店だが、コーヒーを飲むとまたトイレが近くなるのでそこでは飲んだことはない。

 日本に比べて欧米ではどこでもだが、案外と公衆トイレが少ないのに困る。
 最近はポルトガル国内至る所に大小のスーパーが出来たので、地方ではそんなところのトイレを利用することが多くなった。

 一方リスボンに着いてからは小用の出来るところがなかなかない。
 カフェやレストランに入れば出来るが、駐車の問題もあるし、リスボンに行ってカフェに入ったり、食事をしたりはあまりしない。画材を仕入れたり、何かの買い物をしたりで、そういったところにはトイレはない。急いで帰ることになる。

 帰りはヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡る。ヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡りきって塩田を過ぎたところにはサービスエリアがありトイレだけでも使えるし、時々はそこでサンドイッチを食べることもある。温かいベーコンやソーセージのバゲットサンドイッチとポテトフライと飲物がセットになって案外と美味しくて安い。

 或いはもう少し走って高速から外れモンティージョのショッピングモールに入ることもある。大型スーパーと映画館、色んなブランドのアパレルも入った総合モールだ。いつも行くスーパーの大型店舗が入っているのでついでに買い物をすることもある。

 そのスーパーの通路手前に絨毯屋があった。通路からガラスを通して店内が全て見渡せる。ペルシャ絨毯などの良い物がいつも掛かっていて、それらを眺めるのも楽しみの一つだった。先日そこを通ると閉店していてガラスには紙が貼られ、次の店舗、ドラッグストアに改修中と書かれていた。楽しみが一つ減ったことになる。

 そのショッピングモールには当然ながらトイレは数箇所にある。
 その入り口付近のドーム屋根になったところは吹き抜けになっていて、エスカレーターを上がった2階にセルフサービスのファーストフード店が20軒程もある。ハンバーガーやピッツァ、アイスクリームは勿論、スープ専門、中華、パスタ、ケバブ、鶏の炭火焼、ポルトガルの郷土料理のファーストフードまで。早くて安くて手頃だし、そのあたりのビジネスマンや家族連れなどでいつも賑わっている。まあまあ悪くはないので我々も時々は利用する。

 その日はリスボンに用事で出かけ、食事もリスボンで済ませ、小用とちょっとした買い物だけで立ち寄った。いつも買う牛乳、ヨーグルト、肉類、野菜程度の買い物だ。
 絨毯屋が閉店し改修工事中だったので、買い物の帰り、駐車場まではショッピングカートを押しながらいつもと違う別の通路を引き返すことにした。斜めに通る通路ではなく、直角にある通路で、子供の遊び場と子供服の店舗があり、我々にはあまり用事がないのでいつもはあまり通らない。
 それにその通路にはいつも携帯電話やケーブルテレビ、カード会社などの勧誘員が立ってこちらを伺っているのでどうしても敬遠がちになる。

 その子供服店の隣に今までは気が付かなかったのだが、旅行エージェンシーがあった。表のガラスに張り紙が幾つかある。カートを押しながら何となく見てみると 『マヨルカ、7泊8日、3星ホテル、2食付、往復航空券、保険、税金サービス料全て込み、360ユーロ』 の文字が目に入った。

 マヨルカ島には以前から1度は行ってみたいという気持ちがあったので、いっきに触手が動いた。早速、店に入ってパンフレットを貰うことにしたが、パンフレットはないという。ガラスに貼ってある紙を外してコピーをしてくれた。

 家に帰って丹念に検索をしてみた。航空会社、出発、到着時刻、ホテルの口コミ評価、場所も悪くはない。天気予報も徐々に崩れそうだが今のところは良い。行くなら早いほうが良さそうだ。

 翌日早速、エージェンシーに戻り「明日からはないですか」と聞いてみた。「明日は満席で、2日後の土曜日出発ならあります。」とのことだったので、それで申し込んだ。
 小用で立ち寄っただけがひょんなところでマヨルカ島に行くこととなった。

 

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102. 砂糖の小包コレクション Sugar Packets Collection

2012-10-18 | 独言(ひとりごと)

先月は「箱入りワイン」というタイトルで書きましたが、早速、宮崎に住む友人から下記の様なメール(一部抜粋)が届きました。

 < 今は、箱入りとは言わないで、紙パック入りの焼酎とか紙パックの牛乳と言いますね。プラスチックのはペットボトル入りお茶とか…日本語もいつの間にか言い方が変わっているので、大変ですよね。>

 本当に時代と共に新しい物、新しい言葉が出てきます。

 日本にずっとお住まいの場合はいつのまにか慣れてしまって、そういった物がいつ頃出現したのか案外と気が付かないのかも知れませんが、僕が未だ20歳の頃には紙パック入りの牛乳はありませんでした。牛乳は一合入りのガラス瓶と業務用の五合のガラス瓶入りでした。

 1970年頃の話ですが、僕は丁度海外に行くためにお金をせっせと貯めていた時で、昼はガソリンスタンドで、夜は喫茶店でバーテンのアルバイトをしていました。

 ガソリンスタンドでは僕はパンク修理が得意で、同僚たちはあまり好きではない仕事の様だったので僕が一手に引き受けていました。
 オートキャンピング旅行ということも視野にありましたので、いずれは役に立つとも思っていました。そしてそれが現実になりました。4年間でヨーロッパを5万キロ走りましたが、幸か不幸かパンクは1度もしませんでした。
 ポルトガルでクルマに乗り始めて12年になりますが、先日初めてパンクをしました。パンク修理でガソリンスタンドに行きましたが、その方法はかつてとは全く違っていて驚きました。いちいちタイヤを外さないでやってしまいます。そもそもチューブ自体がない様です。

 喫茶店でもプリンが得意で、毎日12個のプリンを仕込んでいました。たぶん、今でも上手に作れると思いますが、材料は卵が6個に砂糖が何グラム、バニラ・エッセンス少々、そして牛乳が五合と覚えています。カラメルも砂糖を焦がして作っていました。

 1971年からストックホルムに住むことになりました。レストランで皿洗いのアルバイトなどをしましたが、ストックホルムの牛乳は既に紙パック入りでした。僕が初めて見る紙パックの牛乳を開けるのに手間取っていると、スウェーデン人の若いコックは「こうするのだよ」と教えてくれたのを覚えています。
 今では牛乳パックは資源ごみですので、解体して紐で一纏めにして出さなければなりませんが、解体するのも一仕事です。

 スウェーデンでは文化の違いとして感じたこともいろいろでしたが、その頃日本では、喫茶店でコーヒーを注文すると、スプーンの上に角砂糖が2個乗せられてきました。今ではあまり角砂糖を出す喫茶店は少ないと思いますが、スプーンごとコーヒーの中に沈めるとシュワーと溶けるものです。
 それがストックホルムでは角砂糖も少し平べったくて石のように硬くてなかなか溶けないものでした。1個づつ紙に包まれているのもあり、まるで砂糖菓子の様に見えましたが、かじると歯がもげそうになるほど硬いものでした。

 ストックホルムの人はコーヒーをブラックで飲む人が多くて、僕もそれに習い、それ以来今でもブラックで飲んでいます。

 あるレストランでコックをしていた時もあります。そのレストランのコック仲間は皆外国人ばかりで、シェフがギリシャ人のコンスタンティン、副シェフが亡命ポーランド人そしてオーストリア人と僕が日本人、それにポルトガル人も居ました。ルイスという名前で、小さく細くてひょうきんでコック仲間からは軽く見られていましたが、真っ黒い髪をポマードで決めてクラーク・ゲーブルを少し崩した様な面持ちで、アルバイトの若いスウェーデン人女性にはもてていました。朗らかでいつも笑っていましたが、笑うと歯並びが悪く、その歯にニコチンがこびり付いていて、何故女の子にもてていたのか未だに僕には判らない謎です。
 そのルイスは休憩時間、コック仲間全員で座ってコーヒーを飲むのに皆の目の前でその硬い角砂糖を8個もカップの中に入れたりもしていました。スウェーデン語で「エン、トゥオ、トゥレ、フィーラ、フェム、セックス、フィーユ、オッタ…」とゆっくり数えながら入れていくのです。コック仲間からはひんしゅくを買います。コーヒーはカップからあふれてソーサーにこぼれ出ます。それでも構わずにかき回すのです。半分はひょうきんな冗談なのでしょうが、それを平気で飲み干します。ソーサーにこぼれたコーヒーももう一度カップに移して飲み干していました。
 ストックホルム随一の百貨店の側にあるレストランでしたから、昼時には戦争の忙しさで、豚のフィレ肉などはあらかじめ焼いておいて注文に応じて何種類かのソースをかけて効率よく出すと言うのがその店のやりかたでした。
 ルイスは忙しくて食事の時間が取れない時などはパンにその焼いた肉を挟んで旨そうに立ち食いをしていましたが、まさに今ポルトガルで、僕たちが好んで食べている「ビッファナス」そのものだったのです。あの時ルイスは多分、ポルトガルの郷愁を味わっていたのかも知れません。8個は入れ過ぎですが…。
 もう何十年も前の思い出ですが、僕はそのルイスの生れたポルトガルに今住んでいるのです。

 ポルトガルのコーヒーは殆どがエスプレッソですが、小さなデミタスカップに半分程の極濃いコーヒーです。それにポルトガル人たちはグラニュー糖の紙袋を振り、端っこを無造作に破りたっぷりの砂糖を入れます。多分、どろっとしたものになるのでしょう。

 これも日本では紙袋入り砂糖とは言わないでペットシュガーと言いますが、ポルトガルでは [Pacotes de Açucar] パコテシュ・デ・アスカー、直訳すると小包砂糖です。英語では[Sugar Packets ]。そもそもペットボトルとかペットシュガーというのは恐らく海外では通じない和製英語なのかも知れません。ペット・フードなら通じますが…。 そう言えば、昔、ドリス・デイのティチャーズ・ペットという歌がありました。映画にもなりました。軽快な歌で今も耳に残っています。

 今、日本でもコーヒーの砂糖は紙袋入り、ペットシュガーが主流だろうと思います。かつてアメリカでは殆どがガラス容器入りでステンレスの特殊な蓋が付いていて、一度傾けるとスプーン1杯分の砂糖が出る仕組みのものでした。アメリカ映画には今もよく出てきます。一時は日本でもたまに見かけましたが今はどうなっているのでしょう。
 ストックホルムでも今、コーヒーの砂糖はどのように変わっているのかは知りませんが、ポルトガルでは殆どが紙袋入りです。

 紙袋の中に恐らく10グラム程のグラニュー糖が入っているのでしょう。日本との違いは、その紙袋のデザインが様々でポルトガル人のコレクター心理を誘います。

 以前、ポルトガル語のマリア・ルイス先生が砂糖紙袋のコレクションをしているとのことを書きましたが。その後、蚤の市でもそんなコレクションの交換をしている人をみました。郵便切手もありますが、コインは相変わらずの人気の様です。その他、ロゴ入りコーヒーカップとかサッカーグッズ、或いはお菓子のおまけ、などあらゆる物がコレクションの対象になっています。

 砂糖紙袋のコレクションと言っても砂糖は目立たない穴を開けて出してしまいます。それを名刺入れの様なファイルブックに保存して楽しんでいる様です。希少なものもあるのでしょう。僕もコレクションをするつもりもありませんでしたが、カフェでコーヒーを注文すると必ず砂糖袋が1つ付いてきます。ブラックで飲むのでそのまま残すことになります。捨ててしまうのも勿体ないので持ち帰ることにしました。それがいつのまにか溜まっています。中味はマーマレードを作るときに使います。

 今回はその砂糖紙袋(ペットシュガーの空き袋)の写真集です。

甘いお菓子ばかりのコレクション

左側上からガンジー、バスコ・ダ・ガマ、ペッソア、アインシュタイン、右はデルタ・コーヒー80周年そして何かのイヴェント


地方限定のデザインも


ホテル専用もあります


世界遺産など名所の写真も


モデルの写真や可愛いイラストも


文字だけのシンプルな物から写真やイラストを使った凝ったものまで


表のデザインが同じでも裏が違っているのもあります


同じように見えても微妙に違い幾つかのバリエーションがあったり


上はリスボンのスケッチ下は文章が全部違います


色違いもあります


コーヒーメーカーが同じカメロでもいろいろあります


同じに見えても少しづつ違います


少数派ですがスティック型もあります

 

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101. 箱入りワイン Caixa do Vinho

2012-10-18 | 独言(ひとりごと)

 セトゥーバルの我が家の晩酌ではもう随分以前から箱入りのワインを呑んでいる。せっかくワインが美味しくて安い国に住んでいるのに、何とも味気ないと言われればその通りだ。


セトゥーバル郊外モシュカテル用ブドウ畑とアラビダ山(2012年8月26日撮影)

 そう言えば毎年、宮崎に帰った時も箱入りの「霧島焼酎」だ。大阪では瓶ビール。何だか場所によって呑み分けている様だ。

 買い物の効率化からそうなっているのだが、瓶入りなら750ミリリットル、箱入りは1リッターで、中味もさることながら瓶と箱では随分と重さも嵩(かさ)も違う。瓶入りを4本(3リッター)よりも箱入りを6箱(6リッター)の方がはるかに運びやすい。 それに箱入りは概して安い。

 箱入りの安物と言えども味、香り、色合いなどは安定していてそれほど悪くはない。と書けば余程多量に呑む酒豪に聞こえるかも知れないが、アルコールには至って弱くて、全くの下戸というわけでもないが、毎夕食の晩酌にグラス1杯程度づつのみ。

 初めの頃は様々な瓶入りを買っていて、ラベルを見ては選ぶ楽しみもあったし、味や香りの違いなども試していた。
 その頃から箱入りは料理用として買っていたのだが、それがいつしか「箱入りでも別に良いではないか」と言うことになってしまった。(最近の瓶ラベルは変にモダンで面白くないものが多い)


セトゥーバルで売られている1リッターの箱入りワインの一部。それぞれ赤と白。

 我が家で通常呑んでいる箱入りは箱入りの中では一番高価(?)なカサル・ダ・エイラ(1リッター1,43ユーロ=約140円/2012年8月現在/写真上段中央)。箱入りワインは0,79ユーロから1,43ユーロまで様々だが安いものばかりだ。
 我が家では買ったことはないが、普通の家庭では5リッターの箱入りを呑んでいる様だ。露店市でも売られているし、スーパーでもそれを買っている人をよく見かける。

 たまにヴィニョ・ヴェルデ(カサル・ガルシアなど)を呑みたくなれば重い瓶を買って帰る。当然ながらヴィニョ・ヴェルデ(発泡ワイン)に箱入りはない。
 そんなことを言っているくらいだから僕にはワインについて講釈を述べる資格は全くない。

 今年(2012年)は冷夏でブドウの出来が心配されている。
 7月にはドウロ地方で大量の雹(ひょう)が降ってブドウ畑に大きな被害をもたらした。ワインの出来にはあまり良い気候だったとは言えない。

 良いワインが出来るには、昼間の太陽が思いっきり暑くて、夜間には霧がかかり冷え込むと言った、昼と夜の寒暖の差が大きいほど良質のワインが出来るとされているらしい。ポルトガルの気候はそれにぴたりと合って良いワインが出来ると言われている。正にポルトガルの内陸部の気候は全くその通りで、ドウロ川沿い上流部の南斜面などはその最適地なのだろう。

青々と繁るアレンテージョのブドウ畑(2012年8月18日撮影)


 ポルトガルは全国、北から南までそれぞれ特徴のあるワインの生産地だが、気候にあった独自の品種も改良され、赤は芳醇、白もフルーティーで香り高い高級な V,Q,P,R,D や D,O,C の銘柄からまるで水代わりに呑むアグアペー(2番絞り)まで様々なものが生産されている。


 最近はワインブームとかでアレンテージョ地方でも以前は荒地や羊の放牧地であったり、ヒマワリ畑であったりしたところがブドウ畑に変身していたりして、ブドウの栽培面積が増えている様に感じる。そしてそれでポルトガルの経済も少しは潤っているのかも知れない。


 先日、大阪に住んでおられる画家の先生からお便りを頂いた。たびたびポルトガルを訪れてはポルトガルの風景も絵にしておられる方だが、<秋のブドウの収穫期の景色をまだ一度も現地で見たことがなく、折をみて写真の掲載を…>とあった。

 その時丁度、アレンテージョに出かける用事があったので、ブドウ畑などの写真を撮っておいた。収穫期には未だ少し早いが、8月下旬現在はアレンテージョでは青々と繁っていて、ブドウの付きも良く、見た目には豊作の様だ。



近づいてみると赤、白共にこんなに実っている。上はブランコ(白)(2012年8月18日撮影)


チント(赤)(2012年8月18日撮影)


 これが晩秋には紅葉する。あまり紅葉のないポルトガルにとっては貴重な紅葉だ。又、紅葉の写真が撮れれば掲載したい。

 そして例年通り、隣町パルメラでは8月30日から9月4日までヴィンディマシュ(ワイン・ブドウの収穫祭)が始まる。
http://blog.goo.ne.jp/takemotomutsuko/e/139cdd77c8e56c2ced490913a4dc6d79


ヴィンディマシュを知らせる広告塔


8月30日から9月4日まで。ピサの儀式は2日(日曜日)10時より

 さて、ヴィンディマシュにでも出かけて、箱入りではなく、たまには瓶入りのワインでも買ってくるとしようか。 VIT


セトゥーバル郊外のモシュカテル用ブドウ畑と後ろに見えるのはサド湾(2012年8月26日撮影)

 

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