武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

131. 目覚まし時計 Despertador

2015-12-01 | 独言(ひとりごと)

 もう随分以前から朝は7時に起床と決めている。自由業で何時起きても構わないのだが、自制しないと歯止めが利かなくなる恐れがあると思って、そう決めている。いつの頃からは忘れてしまったが、少なくともポルトガルに来てからの25年は朝7時の起床だ。

 小説家などとは違って絵を描く人間はやはり電灯の明りではなく自然光での仕事が必要だ。だから出来るだけ太陽と共に寝起きするのが望ましいのだ。

 日本の朝7時は既に明るくてそれ程早朝という感じはしないが、ポルトガルは他のヨーロッパ諸国との時差をあまりつけない様にしている為か、日本より2時間程の違いを感じる。朝の7時は日本の5時ほどで、夜の10時は日本の8時と言った感じだ。だから朝の7時は未だ真っ暗なことが多い。夏の夜には10時でも煌々と太陽が照っている時季もある。ポルトガルはヨーロッパの西の外れで例えばパリまで行くのに飛行機で3時間も乗ることになる。ポルトガル時間はグリニッチ時間と同じでドイツ、フランス、イタリアなどとは1時間の時差しかない。

 ポルトガルにも夏時間、冬時間があるが、先日、冬時間に変る時、その5日前から30分ずらせて起床時間とした。今回が初めての試みで、いっきに1時間でも別に構わないのだが…。

 ポルトガルに来る以前にカシオの腕時計を買った。飛行機の機内誌で広告を見て良さそうだと思ったので量販店で買った。タッチパネル式のデジタルでアラーム、ストップウオッチ、防水など多機能の腕時計で愛用していて、何年使っただろうか?何度かは電池も換えたが液晶が駄目になり使えなくなってしまった。同じものかそれの改良版を買いたいと思って、わざわざカシオまで問い合わせてみたものの作られていないとのことであった。

 その腕時計のアラーム機能とストップウオッチ機能は随分と役にたった。買うときは「腕時計の目覚ましなど蚊の鳴くような音で役には立ちませんよ。」と言う店員の話だったが、使ってみるとどうしてどうして大きな音で、だいたい朝の7時などは静寂そのもので、小さな音でも充分目が覚める。ストップウオッチも4分にセットしておくとだいたい応用が利き便利に使える。圧力鍋で米を炊くとき、煎茶のお湯を冷ます時、栗を焼く時などいつでも4分だ。スパゲッティを茹でる時は4分を2回。ラーメンなら少し茹で過ぎになってしまうが…。

 何年も同じ時刻に起きることを習慣付けていると、不思議なことに、目覚ましが鳴る1分前に目覚める様になる。だから目覚まし時計はもはや必要のないものだ。目覚まし時計が必要なのは早朝に飛行機に乗るとかと言った時に限られてくる。

 腕時計がなくなって丁度マイルが期限切れになるとのことだったので、それで全日空の腕時計と交換した。当然、アラーム機能などは付いているものと思っていたが、案外と何も付いていなかった。最近の流行はいっときのデジタルからアナログ的になっている様だ。でも防水は10気圧だし電子時計とかで正確さは優れているのだろう。優れた腕時計らしいが自分ではベルトを縮めることが出来ず、それ以来腕にははめなくなってしまった。

 腕時計がなくても意外と不便は感じていない。日本では至るところに時計がある。ポルトガルは日本程でもないが町角でデジタルのものを見かけるようになった。時計と気温が交互に表示されるものが多い。以前に町角のデジタル時計の気温が52度を示していて驚いたことがある。さすがにその日は暑かった。

 きょうお昼を食べたレストランでは壁掛け時計が天井近くの薄暗いところに掛かっていたが冬時間になって一ヶ月以上になるのに未だ夏時間のままであった。

 セトゥーバルでは正午にサイレンが鳴る。教会も毎時鐘を鳴らしている様だが、控えめなのであまり気付かない。日曜日のミサの鐘はよく聞こえる。日本では昔からお寺が毎時鐘をついて時を知らせていた。ミレーの『晩鐘』は心を打つ名画だが、農作業をする人にとっては今も有難いものなのかも知れない。当然のことだが昔は誰も腕時計などはしていなかった。

 以前には町角でよく他人から「今何時ですか?」と聞かれた。フランスでもアメリカでも南米でもよく聞かれた。最近はそれもあまりない。

 以前に成田空港の免税ショップで電池式の髭トリマーを見かけて買った。それまで髭の手入れはハサミでしていたのだが、髭トリマーなら便利だと思って買った。出発までの待ち時間に暇を持て余していたし、それまではだいたいそういうものの存在すら知らなかったのだ。パナソニック製だが買ってからはなるほど便利に使っている。その成田空港の免税ショップではおまけにカシオの小さな目覚まし時計が付いていた。電池式のアナログの基本的な物でいざ早朝などに起きなければならない時には便利に使っている。もう6~7年ほどになるが、未だ電池が切れたことがない。留守の時も、日本に帰国した時もポルトガルの我家で針を回し続けている。

 もう随分昔、まだ日本に住んでいた頃の話だが、読売新聞を1ヶ月以上の購読で目覚まし時計の景品が付いた。景品に惹かれて購読をした訳でもないが、勧誘員が置いていってくれた。その目覚まし時計も優れもので今でも実家に置いて使っている。思えば目覚まし時計はおまけでばかり手に入れている。

 最近は目覚まし時計の安さに驚く。1000円も出せば立派なメーカー品の物が売られているし、100円ショップにもある。買ったことはないが使えるのであろうか。

 昔、1974年だったと思うが、ストックホルムからニューヨークに行く時に清水さんという友人から餞別としておしゃれで小さな目覚まし時計を頂いた。物価の高いスウェーデン製だし、その頃は未だ高価だった筈だ。ゼンマイ式で小さな割には大きな音が鳴った。毎日ゼンマイを巻かなければならないのだが、ニューヨークでも使っていたし、南米旅行にも携帯した。南米では早朝にバスに乗らなければならない時など、随分と役に立った。しかしゼンマイを強く巻きすぎたのか途中ボリビアで動かなくなってしまった。何かの拍子に直るかも知れないと思ってその後の南米、中米の旅行中もずっと一緒に旅をした。そして動かないまま今は宮崎の自宅でインテリアとして鎮座している。

 動かなくなってしばらく後だったと思う。ペルーのクスコからマチュピチュまで行く列車が早朝5時発であった。実は5時発と8時発の1日2便があったのだが、8時発は観光客用で直接マチュピチュまで行ってしまう。僕たちはその一駅手前のアグア・カリエンテ(温かい水、つまり温泉という駅)で何泊かするつもりで、そこからインディオの道を歩いてマチュピチュまで登る計画を立てていた。だから5時発の各駅停車、地元住民用に乗らなければならなかった。乗らなければならなかった。と言うより常にそんな旅を楽しんでいた。

 クスコの安宿でモーニングコールをお願いした。時間は早朝4時である。安宿の男は拳(こぶし)を握りしめて「よし、分った。」と確かに言った。そして爆睡の中起こされた。大急ぎで服を着て、顔を洗い歯を磨いた。リュックを背負っていざ出発と勢い込んで5分とかからない駅まで急いだ。駅の時計は、ななな何と~ッ!未だ真夜中の2時であった。古典落語で言う丑三つ時である。子供の頃には真夜中は怖いものであった。「草木も眠る丑三つ時、お寺の鐘が陰に籠ってグオ~ォ~ン」などと九九を覚えるより先に声を震わせながら丸暗記していた。

 真夜中のクスコ駅も意味は違うが怖かった。眠り足りないまま冷たいベンチに座り5時発の列車まで震えながら待った。一時は安宿の男を恨んだものの、お陰で列車は立錐の余地がないほど満員になったが、座る場所を確保できた。ホテルでゆっくり寝て5時ぎりぎりに駅に着いていたらアグア・カリエンテまで立ったままの状態であったろうと思う。立錐の余地がない満員の中、物売りがしょっちゅう来る楽しい列車であった。インディオの女性がくちゃくちゃ噛んで作るトウモロコシのお酒とかを、その瓶を下げて、柄杓からコップに注いで一杯幾らという訳である。買った人はそのインディオの女性の顔を見ながら味わうのである。そんな時に買って食べた巨大粒のトウモロコシの味は僕たち夫婦間では今でも語り草になっている。

 ポルトガルに移り住んでから毎年、展覧会のため日本へ帰る。大体が3ヶ月ほどの日本滞在となる。大阪では実家に泊まる。固定電話の上に掛けてある壁時計が随分と狂っている、と思って針を直した。でも実は狂っていなかったのだ。その時計だけポルトガル時間に合わせてあって、父がポルトガルの僕まで電話をするのにポルトガル時間が分るようにしてあったのだ。

 時間には秒、分、時、日、週、月、年とあるように1年が365日でそれを分割しているのだと思う。日の出、日没などが重要な単位だ。そして月の出、月の入り、人々は随分と自然と向き合って考え続けてきたのだ。巨石文化時代の遺跡は日時計の様な形をしているし、古代ローマ時代の遺跡にも日時計はある。コペルニクス以前、何千年前から人々は時間の中で生きてきたのだと思う。洋の東西を問わず古代建造物と太陽は密接な拘りを持っている。

 そして天動説から地動説に変っても人の生活には何の変化もなかった。多くの人々にとって関係のない事柄であったのだと思う。私たちの住む地球は宇宙の中に浮いていることは今では誰でもが知っている。燃え盛る太陽とその引力、そして地球の引力、更に月、微妙なバランスのお陰で生活が出来ているのだ。引力が突然なくなれば人類は宇宙の藻屑となってしまう。普段の生活の中で我々の住む地球は太陽の周りを正確に回転しながら回っているちっぽけな一つの星に暮らしているなどと考えながら生活をしている人はあまり居ないのだと思う。「地球は絶えず回っている」などと言うと「そりゃ、あんた、呑み過ぎやろ」などとMUZは言う。

 何十万円もするロレックスやブルガリの時計でも、おしゃれなスウォッチでも、100円ショップの時計でも同じ時を刻む。でも人によって、環境によって随分時間の流れ方は異なる。時間の欲しい時には時計は早く進んでしまうし、待ちくたびれている時などには一向に針は進まない。

 日本では春夏秋冬が正しく四等分されている。季節に乗り遅れたら米も食べることが出来ない。それゆえ勤勉にならざるを得ない。そんな国とそうでない(米など1年中出来る)国とでは人々の時間に対する考え方に違いがあるように思う。

 時間に遅れたら人は遅れを取り戻そうとする。勤勉な人の普通の行為だと思うが、それが事故に繋がったりもする。人々は目の前の時計に縛られながらあくせくと生きている。尤も最近では腕時計をしている人は少ない。

 知人が絶えず携帯を開いているので「そんなにしょっちゅう広告メールが来るのですか?」と聞いたところ、大あくびを噛み殺しながら「いや、広告なんか来ません。時間を見ているのですよ」との返答だった。

 僕は携帯を持たないのでその便利さを享受はしていないが、携帯は今やパソコンにもなるし、カメラにもなるし、財布にもなるし、勿論、時計にもなる。目覚ましの音も蚊の鳴くような音ではなくて、大きさや音色も自由に設定できるのであろう。

 携帯も腕時計も持たず時間に縛られずに、お日様と共に生活をしている自分に満足をしている。などと負け惜しみを言いながらパソコン画面の右下の時計をちらっと見つめたりする。 VIT

 

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