武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

034. ゴッホの足跡をたずねて

2018-10-28 | 旅日記

 セトゥーバルからパリまでサロン・ドートンヌに出品するための100号の絵を運んでいって、それが始まるまでの一週間をアルルで過ごすことにした。

 

 アルルではラ・マルティーヌ広場1~3番地のホテルに一ヶ月も前から予約を取っておいた。

 ぜひともその番地のホテルに泊まってみたかったからだ。

 ホテルは駅からほんの1~2分。

 ロータリーに面していてクルマはひっきりなしだし、そのロータリーに沿った公園には移動遊園地が出ていて、ひょっとしたら夜はうるさくて眠れないかも知れないとも思った。

 部屋はがら空きで「どこでもお好きなところをどうぞ」とのことであったが、あえてそのロータリーに面した2階の部屋にした。

 

 そのロータリーがラ・マルティーヌ広場である。

 かつてこのラ・マルティーヌ広場2番地に黄色い家があった。

 ゴッホの<黄色い家>である。

 

01.アルルの黄色い家/1888/ゴッホ美術館

 残念ながら今はない。

 ロータリーの外側のホテルの前の、今駐車スペースになっているあたりにたぶん建っていたものと思われる。

 ゴッホの絵の黄色い家のうしろに描かれている4階建ての家は今も健在だし、さらにうしろの汽車のガードもそのまま。

 黄色い家と雑貨屋はないけれどゴッホの絵の中の風景の、まさにその場所に泊まることができたというわけ。

 

 フランスでホテルはだいたいいつも2つ星程度に泊まることにしているが、ここは1つ星。

 名前は『オテル・ドゥ・フランス・エ・ドゥ・ラ・ガール』。

 日本語にすると<駅前フランスホテル>といったところか。

 かつてゴッホが食事の世話になっていた<ジヌウ夫人>のカフェ・ドゥ・ラ・ガール(駅前喫茶)がこの場所であったのかも知れない。

 

02.ジヌウ夫人/1888or1889/メトロポリタン美術館


 1つ星といっても部屋にシャワーもトイレも付いているし、ベランダからはラ・マルティーヌ広場を通してカヴァルリ門を見ることもできる。
 移動遊園地がなければローヌ河も見えたはず。
 朝食も広場に面した明るいテラスで、ぱりっと温めてあるクロワッサンとエスプレッソのカフェ・オ・レそれに手作りマーマレード。
 なかなか気が利いている。
 忙しそうに働くその女将も少し若いけれどどことなく<ジヌウ夫人>に似ている様な気がする。


 アルルではゴッホが描いた場所を判るかぎり全て見て歩いた。

 

03.アルルの跳ね橋/1888/クレラー・ミュラー美術館

 

04.フォーラム広場の夜のカフェテラス/1888/クレラー・ミュラー美術館

 

05.アリスカン・ローマ墓地1888/クレラー・ミュラ-美術館

 

06.アルル病院の中庭/1889/オスカー・ライナー・コレクション

 

07.アルルの闘技場遠望/1888/ヴィンテルフール美術館

 

08.星空のローヌ河/1888/オルセー美術館

 

09.モンマジュール僧院遠望/1888/ゴッホ美術館

 

10.赤く色づいたぶどう畑/1888/プーシキン美術館

 

 ヨーロッパの良いところは100年経ってもほとんど変っていないこと。
 ゴッホの絵の場所がほぼそのまま残っている。

 アルルからサン・レミ・ド・プロヴァンスへも足をのばした。
 モンマジュールの僧院を通ってドーデーの風車小屋にも立ち寄った。
 ドーデーはゴッホが愛読した、ということだったので僕もポルトガルに住んで間もなくの頃、もう7~8年前になるか、一冊だけ「タラスコンみなと」という小説を読んだ。
 次にはぜひ「風車小屋だより」も読んでみたいと思っている。

 そして一級の観光地レ・ボー。
 中世の時代、1400年代に城があった岩山の廃墟。
 その岩山が圧巻。
 岩山をくりぬき、削り、柱や梁を差し込むための四角い穴。
 穴のたくさん掘られた岩の壁。
 どんな彫刻家もかなわない山ごと大きなまるで現代彫刻。

 サン・レミ・ド・プロヴァンスに到着したのは暗くなってから。
 町の入口でツーリストオフィスが目に付いたので飛び込む。
 まさに今、閉めようとしているところであったがホテルを紹介してもらう。
 ホテルは教会の前の広場に面したところ。

 翌朝は早くからサン・ポール・ド・モーゾール精神病院を目指す。
 病院はサン・レミ郊外、グラーヌム遺跡(ローマ神殿跡)と隣り合わせにあった。
 その病院は今も精神病院として使われていて見学は出来ないが、病院に付属の教会には入ることが出来る。
 その2階に当時ゴッホにアトリエとしてあてがわれていた6畳ほどの小さな部屋が保存されていた。
 部屋の前の壁にはゴッホが修道女長宛てに書いた礼状のコピーが張られている。
 びっしりと手書の文字で埋めつくされている。
 何が書いてあるのか分からないが、礼状ということは、サン・レミを出てパリからかオーヴェールから投函したものだろう。
 いずれにしろ死の少し前の手紙ということになる。
 ひとしきり部屋や廊下を眺めまわして後、窓の外に目をやって「あっと」目を見張った。
 そこにはあの<囲われた畑>そっくりそのままの風景があった。

 

11.囲われた畑/1889/個人蔵


 グラーヌム遺跡の発掘調査が始まったのは1921年。
 ゴッホがこの病院にいた時より22年後からのことになる。
 遺跡の規模はかなりのもので、我々は半日も居たが見学者は最初から最後まで我々2人だけで、出口のところで3~4人の観光客が入場するのにすれ違っただけ。
 そのローマ遺跡からゴッホの絵にある<穴のあいた山>を確かに見ることができた。
 ゴッホの絵では前景がオリーヴ園になっているから、その遺跡も発掘前はオリーヴ園だったのかも知れない。

 

12.穴あき山/1889/ウイットニ-コレクション

 

13.石切り場1889/個人蔵


 ゴッホが描いた<石切り場>もそのまま。
 その石切り場はグラーヌム神殿のために切り出した石切り場であったとは当時のゴッホにはどの程度判っていたことであろうかと不思議な感覚になる。

 グラーヌム神殿を見下ろす小高いところに立つとサン・レミの町が遠望できる。
 その風景を見てまたまた「あれーっ」と叫び声を出してしまった。
 あの<星月夜>の風景なのだ。

 

14.星月夜/1889/ニューヨーク近代美術館

 昼間なのでもちろん星はないが、絵の中の渦巻く星空の下に描かれた教会の塔と町並の風景がそっくりそのまま。
 あの<星月夜>はサン・レミの町を遠望した風景だったのだ。
 しかも昨夜はその教会の塔のまん前のホテルに偶然にも泊まったことになる。

 サン・レミからはゴッホが辿ったのと同じ道をタラスコンまで。
 ゴッホはここから一人でパリへ戻り、リヨン駅で弟テオの出迎えを受け、無天蓋馬車でシテ・ピガルへ。
 そしてヨハンナと初対面。
 3日後オーヴェールへ向かいラヴウ亭に下宿することになる。

 我々はタラスコンから一旦アルルへ戻り、又一泊してアヴィニヨンでTGVに乗り換えパリ・リヨン駅へ。
 サロン・ドートンヌで自分の作品を見、ハッと夢からさめ我に返った、というわけ。
 それ程、ゴッホを辿る旅はまるで夢の中の出来事の様に感動の連続であったのだ。

 次の日リスボンへ戻る便が夕方だったので我々もオーヴェールに行くことにした。
 オーヴェール・シュル・オワーズへ行くのはこれで4回目。
 以前はラヴウ亭がずっと修復工事中で中が見られなかったのが、やっと今回念願かなって見ることができた。
 やはり6畳程のせまいせまい屋根裏部屋。
 となりのヒルシフの部屋と共に当時のままに復元されていた。

 僕にとっては作品(絵)そのものだけでなく画家がその風景をどの様に捉え絵にしているのか、周りの環境も含めてどういう空気の中で描いたのか、或いは何をどうして省いたのか、又強調したのか。
 そのもの風景を通して作品を見直してみる、というのは勉強にもなるし、大きな楽しみでもある。

 今回の旅では充分な時間がなくモントーバンやサント・マリー・ド・ラ・メールまでは足を延ばすことができなかった。
 又機会があれば早いうちに訪れたいと思う。
 それとズンデルトとヌエネンにも是非行ってみたいと今、思っている。
 いや以前にはその近くは必ず通過していた筈であるが、あらためて行ってみたいと思う。
VIT

(1999年2月3日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.85」に書いた文を2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載した文ですが、2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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