武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

165. 霧と靄 neblina, nevoeiro, cerração, nebulento, nebuloso, neblinar,

2019-09-01 | 独言(ひとりごと)

 きょうも靄(もや)が出ていて大西洋の水平線がはっきりとしない。先日には霧の日も何日かがあって、こんな夏はセトゥーバルには珍しい。

 普通、霧や靄が出始めるのは秋から冬にかけてで、夏はカラカラに乾燥して霧や靄と言った現象は出る余地がない。

 ポルトガルは日本とは反対で秋から冬が雨季で霧が沸き立ち雨が降る。日本の冬は乾燥し、暖房に火を使うので冬場に火事が起こりやすいが、ポルトガルの冬場は湿り気があり火災の心配は少ない。逆にカラカラに乾燥した猛暑の夏が火災のリスクが高いということになる。

 このところの毎夏はポルトガルの大規模山火事がニュースになってきた。

 その点でいえば今年の夏は火災の心配もなく涼しく過ごしやすい。扇風機も箱に入ったまま、風呂上りにうちわを使うくらいだ。

 そのうちわが傑作で、もう随分前になるのだろう。『いよいよ決定!7月13日(金)2008年オリンピック開催都市が決定されます。大阪2008立候補』と書かれたうちわで、杭全町から難波までの大阪市営バスに乗った時に運転手さんから頂いたうちわなのである。大阪は落選し、2008年の北京オリンピックも遠い昔、霧の彼方に過ぎ去ってしまったが、うちわだけが寂しく働いているわけである。寂しくと書いてしまったが、色褪せることもなく頑丈なうちわで、その文字を読むのがつらい。

 オリンピックと言えば、その選考大会にもなっているのだろう。先日8月30日に東京で行われた柔道世界選手権男子100キロ級でポルトガル代表ジョルジュ・フォンセッカが金メダルを獲った。

 さて、気を取り直して、霧のはなし。僕の記憶から言えばセトゥーバルの夏の霧などは記憶にない。

 秋から冬にかけては霧が良く発生する。朝、目が覚めるとトロイア半島やサン・フィリッペ城はおろか100メートル先にあるカルチャーセンターですら薄ぼんやりとしか見えない、ということもある。そしてもくもくと真っ白い水蒸気が塊になって流れる。それがこの夏には3~4度もあった。

 十数年前の元旦、セジンブラに住む日本人夫妻の家で新年会があって出掛けた。数組の日本人が招かれての新年会であったが、僕たちはバスで出かけた。元旦は朝から濃い霧に包まれていた。バスもノロノロ運転で普段の2倍もの時間がかかり到着が40分も遅れてしまった。2時間に1本しかない路線でそのバスに乗るしかなかったのだが、元旦早々の早朝、濃霧の中を運転手と僕たち2人だけのバスは見慣れた道を走っているにも拘わらず、まるで初めて見る夢の中の風景の様で幻影に包まれていた。

 雨はあまり好きではないが霧は何だか美しく幻想的で好きだ。

 霧のロンドンなどと言われるが、ポルトガルテレビの天気予報などを見ていると、雲はアソーレス諸島からポルトガル北部、スペインのガリシア地方に掛かりフランスのブルターニュとイギリスからベルギー、さらにオランダ、ドイツへと雲が延びていることが多い。イギリスのターナーの絵は靄の中に輝く光線の絵だ。

 ポルトガルでも北部は幾分雲がかかり、霧に包まれ、ドウロ川周辺などは寒暖の差が多く良いワインが出来る筈だ。

 新年会は食材が揃わない中、工夫されたご夫妻手作りの豪華なお節料理と、お屠蘇はその日本人ご夫妻がワインセラーの会員になられていた『シャボーコ』という銘柄の白ワインでことのほかフルーティーで美味しかった。

 良いワインが出来るドウロ川沿岸地域。それ以南は高気圧に覆われる。イベリア半島中南部は雨が少なく砂漠化が懸念されているが我々が住んでいるセトゥーバル半島も同じだ。

 そのセトゥーバル半島のパルメラで9月1日の今日11:00から、ヴィンディマスが行われる。ヴィンディマスとは葡萄の収穫祭でパルメラのサン・ペドロ教会前広場に牛車に山積みされた葡萄が運ばれてきて特設プールの中で葡萄踏みが行われ、その絞り汁の糖度などを計測し今年のワインの出来を占う、というもの。

 安くて旨いワインが一杯あるけれど帰国の際にワインを持って帰ることはしない。

 宮崎では『霧島焼酎』を飲む。いや、飲むという程は飲まない。ほんの味わう程度。

 帰国すると毎年、霧島神宮にお参りに行くのを楽しみにしていた。温泉旅館に1泊するのであるが、温泉を楽しむのとその旅館の料理が美味しかった。その旅館も数年前に大手チェーンに売却されてしまって料理に魅力がなくなったのと、新燃岳や硫黄山の相次いだ噴火で行かれなくなってしまったのでこのところは行ってはいない。

 霧島と言う名前の島はないし山もない。韓国岳、高千穂峰、新燃岳などいくつかの山が連なって霧島連山という。

 霧島連山の語源は諸説があるものの、その連山が霧の海に浮かぶ島々の様に見えたことによる、ともいわれている。

 霧島神宮から更に上に登るとえびの高原があり、そこの国民宿舎が『あさぎり荘』と言った。確かにいつ行っても朝霧が立ち込めて部屋から眺める霧の中を鹿が横切る。

 ポルトガルに移住する前、宮崎では山の中に住んでいた。霧島連山のすそ野に当たるのだろう。

 夜の内に庭に降り立った水分が朝日と共に水蒸気となって大気中に昇っていく。すぐ目の前から雲が沸き立つ感じだ。お客さんから「ここは温泉が湧くのですね」と言われたことがある。温泉地の湯煙に見間違えられたのだろう。実際に青井岳温泉と高木温泉の中間地点にあったから掘れば温泉は出る場所ではあった。

 霧と靄はどう違うのかを検索してみた、靄(もや)は1キロ程度の視界で、それ以下が霧となるらしい。更に視界が悪くなれば濃霧ということになる。

 日本には霧や靄といった名前や歌なども多い。万葉集にも幾つかある。

 高田渡の歌で『鉱夫の祈り』という好きな歌がある。

 先々月(2019/07)号で僕は僕自身の絵の原点のことを書いたが、この歌も僕の絵の原点を形成している一つだ。

 絵を描こうとする人なら『ゴッホの手紙』を1度は読んでいる筈だが僕も絵を描き始めの高校生の頃に読んで感銘を受けた一人だ。

 ゴッホは叔父さんの伝手を頼って弟テオと同じ画廊に就職した。最初の勤務地は霧のロンドンであった。お客さんから「この絵が買いたい」などと言われると「そんな絵は駄目ですよ。これからはこちらの絵ですよ」などと言って、お客には興味のない印象派の絵を勧めてはお客を怒らせた。正直すぎるのだ。

 画商の仕事は向かないと思ったゴッホは父親の仕事でもある宣教師となった。オランダ南部ベルギー国境にほど近い炭鉱の地ボリナージュが赴任地であった。人々は貧しく、疲れ切って日曜日の礼拝どころではない。ゴッホは自分の僧衣も着たきりで給料の殆どを炭鉱夫の子供たちの食べ物として与えた。プロテスタント本部から訪れた監察官はゴッホを激しく攻め立てた。「宣教師は立派な法衣を身に纏い信者から仰ぎ見られる尊敬される人間でならなければならない」と。

 ゴッホは逃げるようにしてボリナージュを後にし、父の教会のあるヌエネンにたどり着いた。何をしても長続きがしないゴッホには居る場所がなかった。そうして外に出て絵を描き始めた。

 ヌエネンではまるで炭鉱夫の如く黒光りした農夫を描いた。炭鉱の町ボリナージュでの経験がかねてより尊敬していたミレーの持つ精神性をゴッホはその時に身に着けたのだと思う。やがて、名画『馬鈴薯を食べる人々』が生まれている。

 その絵の一部で婦人像の部分を僕は中学生の時に模写した。それは今も実家の父のアトリエに置いてあり、帰国するたびに眺めてはいる。

 高田渡がこの『鉱夫の祈り』をゴッホを意識して作ったかどうかは判らない。実は僕は高田渡と一緒にこの歌を歌ったことがあるが、そんな話は一切していない。

 僕は『鉱夫の祈り』とボリナージユ時代のゴッホ、そして絵を描き始めの僕がオーバーラップして見える。その歌い出しが、

 『朝靄のなかに一つ、こだまする汽笛の音、応えはいつも一つ、いつもこだまは一つだけ。』

 そして、サビの部分は、

 『お願いだ、聞いておくれ、街に住むお偉い方、この子らが泣かない様に鉱夫の祈りを聞いておくれ』

 中学生の頃、遠足に行くと帰りのバスはマイクを回されて、のど自慢大会であった。勿論、カラオケのない時代である。マイクの取り合いという時代でもなかった。僕などはマイクの回ってこないことを願った。同級生で成績も中くらい、口数が少なく、全く目立たない友人がいた。その同級生にマイクが回って来た。歌い始めた途端に水を打った如くに皆が側耳を立ててしまった。巧いのだ。歌は石原裕次郎の『夜霧よ、今夜もありがとう』だった。僕などは幼くて、その意味も判らないまま巧いと思った。

 2019年のブドウは昨年比30%増で糖度も申し分なく上出来だそうだ。夏の霧、異常気象が良かったのだろう。

 さて、今日から9月。例年通り9月中旬から雨季が始まるのだろうか。VIT

 

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