まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

雪となり 畳拭きつつ 長話

2017年01月24日 | たまにはご法務

 さぬき市地方は冬型の気圧配置が続いたけれど、概ね晴れていた。夜は雲が広がり、雪の降る所がある見込みらしい。気温は1.6度から6.7度、湿度は88%から56%、風は2mから7mの西風が冷たかった。明日の25日は、冬型の気圧配置は次第に緩むため、概ね晴れるらしい。

 

 昨夜から雪が降ったりやんだりとしていたが、そんなに積もるほどの雪ではなかった。

 

 二階のベランダや車庫の屋根にはうっすらと白い物が見られたが、道路上には雪は見られなかった。

 

 でも、場所によってはそれらしく降ったところがあるらしい。そんな雪を眺めながら、隣町の寒川町神前(かんざき)という地区にお仕事でお邪魔した。そこでの雑談中に、「この村(旧神前村)からはエラモン(偉い人)が出とるんぞい」という話になった。その人は現職の国会議員さんのことを言うたらしいのだが。

 

 私が「真嶋正市博士ですよね」と言うと、「ああ、この隣の人やがな・・」と納得。真嶋博士は、香川県下で最初の文化功労者となった方で、応用物理学の父とも言われている。お墓もこの地にある。

 

 正市少年は一升びんに水をいっぱい入れ、近くの小川の岸辺に友人を連れて行った。そして、一升びんを逆さにして小川に立て、小川の底を棒でつついたのである。すると、川底のヘドロの中から泡がポカポカと出てきたので、それを一升びんに集めるのである。友人が「あぶないぞ。」と声をかけたが、正市は自信満々で、一升びんの口にマッチをすって火を近づけると、「ほら、すごいだろう。」と、正市はうれしそうに笑顔を見せたのである。それは青い炎を出して燃えたのである。これは、ヘドロの中にたまったメタンガスが燃えたもので、これも、正市少年が応用物理学の道へ進むきっかけとなる実験の一つであった。

 

 さぬき市立神前小学校の正門を入ると、すぐに真嶋正市博士の胸像が建っている。この胸像は真鴫博士の研究の成果を称え、平成8年11月に多くの人々の力によって、功労顕彰碑とともに建てられたものである。真鴨博士は、応用物理学の研究や世界に誇るわが国の工業の発展のためにつくし、香川県で最初の文化功労者として表彰されている。

 

 たいへんまじめで勉強好きの正市少年は、学校(現三本松高等学校)に入学したが、香川県立大川中学当時、校舎建築が間に合わず、私の所属する勝覚寺というお寺で授業を受けていた。明治35年頃の話である。当時は交通機関もなくて、下駄履きで歩いて20キロもの距離を通学していたらしい。

 

 その後、明治36年に香川県立大川中学校として独立、校舎移転。昭和24年に香川県立三本松高校と改称された。勝覚寺も、保育園や幼稚園として使われたこともある。

 

 さて、Windows10に乗っ取られたノートPCである。数日、電源を落として冬眠させていたのだが、久しぶりに立ち上げても、動くことは動くが動作が鈍い。遅い。何かのスクリプトが働いている模様。まだ、新しいマシンなのでゴミにするのはもったいない。

 

 再セットアップメディアがないので、作ろうとしているのだが、ディスク1枚を作るのに何時間もかかっている。それを三枚も作るとなると、何日もかかるのかもしれない。

 

 今日の掲示板はこれ。「過去のどうにもならないことを悩むより 現在、自分が置かれているところから 将来に向かって人生を切り拓いていこう」という新井正明さんのことばから。住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏のはなしである。兵役にあった新井さんはノモンハン事変に参戦して被弾、右足を付け根から切断した。二十六歳だった。 帰還した新井さんを会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。その最中(さなか)、新井氏は安岡 正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とす る。「自分の身体はもう元には戻らない。ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在、自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いて いこう」この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。



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