まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

雨上がり晴れ間の光卯月尽

2022年04月30日 | 時には日々是日

 4月30日のさぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は11.0度から18.7度、湿度は74%から46%、風は3mから1mの西北西の風が一時は強く冷たかった。明日の5月1日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇り、明け方から朝は雨の降る所がある見込みらしい。

 

 収縮期118mmhg、拡張期71mmhg、脈拍80bpm、体温36.6c/酸素濃度98%/体重65.8Kg 室内気温15.3c/室内湿度64.4%/気圧1019hPa 体調に変化はない。今日の日の出は05:16分、日の入りは18:47分 月齢は28.9の大潮。

 

 大型連休だかゴールデンウィークだか知らないが、奥山の仙人みたいな暮らしをしている私には全くの平常日。だから、今日みたいない天気の日には相変わらずの「遍路墓」探しの朝になった。我が家から少しばかり走れば、もう、そこは徳島県の阿波市というところである。このイチョウの木が「境目のイチョウさん」で、「境目(さかいめ)」というのは、讃岐(香川県)と阿波(徳島県)の「境界」という意味だとおばあちゃんから聞いたことがある。

 

 で、相変わらずの「石碑」である。 院号は寺院や宗派などに多大な貢献をされた方、居士は院号ほどではないが厚く信心されていた方、信士は居士ほどではないが信心されていた方に授けられるようである。 故人の生前の行いやお寺への貢献度などによって授けられるもの(宗派・宗旨によって差があるので、このあたりは曖昧に)。女性の場合には「清大姉」「大姉」「信女」などがある。

 

   

 だから、こうした「石碑」を見るだけで、その人となりが伺い知れるのである。ちなみに、この人の戒名が読めないでいる。「□光信士」なのだが、頭の文字に見覚えがない。江戸時代には普通に使われていたようで、あちこちで見かけるのだが、いくら調べてもわからない。「夏」らしいが、夏に、このような崩し方はないし、古い字体でもないという。

 

 いやいや、今日は、その並び方というか、私の調べたものの道順なりの並びを整理するために走っただけである。図面上にプロットするのに、どれがどこにあったのかを確認するためだった。こういう不動明王が随所に建てられているが、この石仏は悪を絶ち仏道に導くことで救済する役目を担っていることから恐ろしい表情をしている。怖い様相から「戦いの仏」のように見えるが、実際は迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で慈悲深いらしい。また日本では「敵国退散の守護神」として扱われたり「疫病退散の守護神」としても扱われていたようである(これまた、宗派・宗旨によって考え方に違いがあるので曖昧に)。

 

 そんな石仏調べをしていたらば、「このあたりにフキはありませんかねぇ」と、高齢のご婦人が車を停めて言う。「さぁ、ほとけさま探しをやってるもんで、フキには興味がないものですみません・・・」と答えておいた。しばらくすると、「このあたりにタケノコはありませんかねぇ」と、高齢のおじさんが車を停めて言う。「さぁ、ほとけさま探しをやってるもんで、タケノコには興味がないものですみません・・・」と答えておいた。町の人は山にあるものは自然のものだから自由に採っていいと思っているらしい。山にだって所有権はあるし、持ち主がいるのである。

 

 へんろ道から抜け出ると、そこは農村の田園地帯。麦の穂が実っているし、

 

 連休中に田植えを終わらせておきたいと、息子や孫を頼んでの田植えの真っ最中。私も、冷たい田んぼの中で田植えをしたなぁと、思い出しながらの高見の見物。立場が違えば大違いである。

 

 若者たちは連休だからとキャンプ生活を楽しんでいるらしいが、風が冷たいせいか、そのわりに人影が少ない。でも、そういう風の冷たさも、キャンプ生活には楽しいのかも知れない。

 

 我が家では、スズメの夫婦がせっせと巣作りをやっている。まだ、ヒナがかえったような雰囲気ではない。

 

 さて、四月も終わって、明日からは五月。来月分の日の出、日の入りカレンダーをダウンロードしたり、

 

 五月の「月齢表」の準備などをあっておいた。このデータで、毎日の日記の書き出しが始まるからである。

 

 今日の掲示板はこれ。「何事もすぐに信じてはいけない。本に書いてあることや、誰かが言っていたこと、昔からずっとある伝統。まずは疑い、自分で考えなければいけない」というもの。カーラ-マ経の言葉らしいが確かなことはわからない。最近のSNSやツィッターなどの情報は、そのまま頷いたら危険だと思うことはいくらもある。「まずは疑ってみよ」と思うことばかりである。それに新聞やテレビの情報もまたしかり。テレビで云うていたからとか新聞に載っていたからとか週刊誌に出ていたからなんぞは危険極まりない情報が多い。昔からの伝統だという教えもあるが、よくよく調べてみたら明治になってからや昭和になってからのことだって多いのである。最近のロシアのプロパガンダを見聞きすると、報道の曖昧さや威力などはすごいものだなぁと、その怖さを思いらされたりして・・・。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたらいいね。


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