禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

いじめについて

2018-11-18 08:50:27 | 雑感

あるSNSでいじめについて議論されていたのだが、 そのなかで「学校に自動小銃を持った警官を配置」するというような極論が出てあきれてしまった。不条理を一挙に解決したいという気持ちは分からないでもないが、力で子供たちを制圧するという発想そのものが暴力的である。いじめは決してなくならないという諦観をもつことも必要だと思う。

人は完全ではない。力があれば他者より優位に立ちたいという欲求を常に持っている。状況次第で、誰もがいじめたりいじめられたりする可能性がある。子どもの世界は一種の野生状態であるから、いじめが不健全であるとは一概にいいがたいのである。むしろいじめたりいじめられたりする経験を通して、人は社会性を身に着けるとさえ言える。問題はいじめが先鋭化・固定化しやすいということだろう。義務教育で強制的に子供たちを学校という枠の中に押し込めておくことは、本来極めて不自然なことである。いじめられて学校に行きたくないという子供には逃げ場が絶対に必要である。「学校に行かなくてもよい」という選択肢へのハードルはもっと下げられるべきだ。 

過度にいじめられた人間は、ル・サンチマンをなかなか解消することはできない。贖われることのない補償をもとめて、社会に対して厳しい規矩を押し付けようとする。それが、「学校に自動小銃を‥‥」というような意見になるのだろうと思う。暴論と言っても良いのだが、無視できないのは、このような意見が高じればポルポト的全体主義につながると考えられるからだ。人間は本来潔癖には生きられないのに、なぜか思想的には潔癖を求めてしまう動物である。中庸とはその極端性を戒める考え方でもあるのだろう。 

いじめという視点から見ると、藤子不二雄は興味深いマンガ家である。藤子不二雄F氏はおそらく幸せな子供時代を送ったのだろう。「ドラえもん」にはジャイアンとスネ夫といういじめっ子が登場するが、彼らは決して悪人としては描かれていない。登場人物はすべて「健全」な子供達であり実は仲良しでもある。やがて健全な大人としてお互いの子供時代を懐かしく語り合えるような将来が透けて見える。 
一方の藤子不二雄A氏の方は、少し子ども時代のいじめに対するル・サンチマンが感じられる。そのことについては過去に一文をものにしたことがある。(==> 「少年時代」と「長い道」 

しかし、ここで強調したいのは、二人はかなり違う境遇の元に育ちながら、マンガを通じて親友となり、立派な社会人として自立するに至ったいうことである。A氏もかつてのル・サンチマンを乗り越えて、「少年時代」という素晴らしい傑作に結実させている。 

みんな苦労して大人になる。静観してよいというわけではないが、不条理は決してなくならない。それが無常の世界であるということだろう。

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この世界は言葉では表現できない

2018-11-14 08:56:09 | 哲学

前回記事「言葉によって世界を認識するのか?」に対して、ある人から次のような意見を頂いた。

【 問題は、「非言語的な世界の受容」という言葉が指示している事態を、言語なしでは、判断という形式に構成することができない、ということではないでしょうか? そして、認識するということが一つの判断だとすれば、「言語なしでは世界を認識できない」という言い方も決して言い過ぎではないと思います。もちろん、判断を伴わない認識があり得るとすれば話は別ですが。 】

何年か前に夜の京都の木屋町を散歩していた、その時どこからともなくホルモン焼の匂いが流れてきた。瞬間的に私は半世紀前の学生時代にタイムトリップしたような気分に陥った。私はそこで「懐かしさ」を感じたのだが、その時すぐに「懐かしい」と言語化したわけではない。しかし、何か(つまり「懐かしさ」)をそこで認識したに違いない。このように明瞭に意識化することはあまりないが、私達は日常的に言語化しないままいろんなことを認識していると私は考えている。懐かしさは「懐かしい」という言葉が無ければ表現できないが、言葉以前に懐かしさというものを認識していなければ「懐かしい」という言葉も生まれてこないではないのか。

言語なしでは、判断という形式に構成することができないというのは、私がその時感じた感覚を「懐かしさ」という言語によって懐かしさとして同定できて初めて、私がその時感じた感覚を「懐かしさ」として認識できたと言うべきだというのだが、どうだろうか。だとすると、ボクサーは試合中はほとんど何も「認識」していないことになる。それは奇妙なことではないか。相手の動きを認識するからこそ対応できるのである。その過程が非言語的だからと言って、そこに「認識」がないなどとは言えないのではなかろうか。

言語化は必然的に抽象化を伴う。私が木屋町で感じた感覚は決して「懐かしさ」という言葉では表現できないものだが、「懐かしさ」という一語によって、故郷の記憶や幼馴染との思い出などと同じ一つのカテゴリーに押し込められてしまう。言語は平板で粗いと言いたいのである。ボクサーが試合中に経験しているものはとても微妙で変化が激しいものだから、平板な言語に抽象化することはできない。言語による状況の再認識などしていたら、確実にそのボクサーは負けてしまうだろう。ボクサーは言語を介さなくとも状況を正確に認識し判断している、でなければ精密な反応などできるものではない。

龍樹が言語による世界解釈を拒否するのも当然だと思う。

八十八大師 ( 山梨県 三つ峠 )

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言葉によって世界を認識するのか?

2018-11-13 04:56:57 | 哲学

いつも感じるのだが、思い通りにブログ記事が書けたためしがない。書き終わってから、「あれっ、ぼくはこんなことを書こうとしていたんだうか?」といつも思うのだ。そういうことからも「思考は言葉に支配されている」というのはつくづく本当のことだと痛感する。考えてみればそれは当たり前のことで、思考を表現するには言葉で表現するしかないからである。しかし、思い通りに記事が書けないというのは、思考が自分の言葉以上であることの証左でもあるのではないのだろうか。常に自分の言葉を越えたいと言う欲求が私の思考を支えている。だが、その思考は言葉にならなければ思考したことにならないのである。

「肩こり」という言葉を知らない人は肩がこるということはない、「うま味」という言葉を知らないとうま味に気がつかない、ということがよく言われる。そういうことから「世界は言葉によって認識される」ということになるのだろう。本当だろうか?

私はちょっとそれは言い過ぎだと思う。言っているのはたぶん哲学者である。哲学者はいつも考えてばかりいるから、「思考 ≒ 世界」になってしまっている。思考世界は言葉によって構成されているから、哲学者がそう思うのは無理もないし、それを聞いた私達もその時は思考中であるからその言葉をやすやすと受け入れるのであるが、人間はいつも考えてばかりいるわけではない。思考世界は世界の一部分であってすべてではない。ほとんどの人は非思考的に世界を受容している部分がかなりあると考えるべきだと思う。

というのは、は既に9年以上もブログを書き続けている。(=>最初の記事2009.04.13) その頃から見ると、思考方法も表現方法もかなり変わったけれど、私の世界はほとんど変わっていないからである。言葉による思考世界は確かにある程度変わったのは間違いない。しかし、それは私の世界の一部分でしかない。私はよく散歩をするが、その間私はほとんど言葉による思考はしない。ただ、歩行とともに移り変わる景色をたのしんでいる。そんな私にとって、言語による思考が変わることは散歩の経路が変わることとほぼ同じ程度のものでしかない。

シナモン味の紅茶による接待を受けた時、「シナモン」という言葉を知らなくともその味の違いははっきり分かる。その言葉を知っていれば、「シナモンの香りが良いですね」と言うし、知らなければ「この紅茶の香りは素敵ですね」と言う。それだけのことである。

世界は言葉によって認識できるものではない。この美しさは言葉では決して表現できない。表現できるかのように錯覚するのは、言葉によって過去の記憶を再現しているからに他ならない。

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遺伝子と言葉

2018-11-11 10:23:21 | 哲学

「利己的な遺伝子」という本が一時もてはやされたことがあったが、まるで遺伝子そのものに意志があるかのようなタイトルである。センセーショナルなタイトルだが、たぶん出版社が付けたタイトルであるような気がする。淘汰圧に直接さらされるのは個体であって遺伝子ではないのだから、「利己的な遺伝子」というのは言い過ぎのような気がするのだがどうだろうか。

 近年では「代理母」などということも行われていて、生まれた子どもを契約通りに引き渡してくれないなどというトラブルもままあると言われている。このトラブルの原因は、「母親」の概念が「生みの母」と「生物学的母」に引き裂かれていることにある。

実のところ、私はこの「生物学的母」という言葉には大いに抵抗を感じているのである。単に遺伝子を引き継いでいるだけなのだから「遺伝学的母」と言うならまだわかるのだが、遺伝子のことを人間の本質であるかのようにとらえるような風潮には異を唱えたいと思う。

遺伝子はつまるところ4種の塩基による配列からなるデジタル情報である。その遺伝子情報をすべて解読したら、人間が作れるだろうか? 作れるはずがない。遺伝子によって人間が作れると考えるのは、精密な工業製品を工場長一人で作れると考えるのと同じようなことである。もし、その工場長がラインの仕組みをすべて知っていたとしても、そのラインの中のちっちゃな部品の一つも実際に作ってはいないし、また作れないと考えるべきだろう。遺伝子配列だけで決して人間は造れない。それを解読して、必要なものを必要なタイミングでつくり組み合わせる、そういうシステムが遺伝子とは別に備わっていないと人間はできないし、その遺伝子以外のシステムの方がはるかに複雑で大規模なはずである。遺伝子は重要なパーツではあっても、あくまでパーツに過ぎない。遺伝子と人間を同一視するというのはとんでもない錯誤であると思う。

同様な錯誤は言葉に対してもある。 

   菜の花や月は東に日は西に

ご存じ与謝蕪村の句である。画家である蕪村の句は一般にイメージ喚起力が強い。この句も、菜の花畑を挟んで西と東にひと月が対峙するという、雄大なスペクタクルを想起させるそんな作品である。実は、この句のテキストはコンピュータ的には24バイトの情報量しかない。ちなみに私のコンピューターのモニターの壁紙に使用している写真は2メガバイトを超えている。蕪村の句のざっと10万倍である。蕪村の句が伝えるものが壁紙の10万分の一しかないほど貧弱であるとは思えない。一体これはどういうことだろう。俳句の言語としての情報量はごくわずかなものでしかない。これが芸術作品として成立するためには、作者と鑑賞者に共通の類似体験が前提となっている。素晴らしい光景を目にした蕪村は感動を他者に伝えたいと思い、その光景を「菜の花」、「東の月」、「西の日」という概念に分解し、12文字のテキストにおさめる。鑑賞する側は、テキストにおさめられた概念をKeyとして対応するイメージを自分の経験の中から検索して合成するのである。当然のことだが、読者がイメージを合成する場合のイメージは読者自身の経験によるものであり、作者の経験とは全く無関係である。作品は作者と読者の共通の経験に支えられていると言っても、各個人の経験は他者とは遮断されている。であるから、「菜の花」という概念から読者がイメージするものは、蕪村の見た光景とは全く別のものになるのは当然である。

これはなにも俳句だけの話ではない。言葉が通じるということの裏には、話し手と聞き手の双方に共通の経験が有るということが前提されている。ところが、話し手と聞き手の双方の共通の経験が同じであるとは考えにくい。話し手は自分の経験をもとに言葉に恣意的に思いを託し、聞き手は自分の経験をもとにその想いを恣意的に再構成しているのだ。われわれは話すことと聞くことは一つの行為であると思いがちだが、実は全然別のできごとなのである。われわれは直接言葉を相手に送り届け、また直接受け取っているつもりになっているが、そこに錯覚がある。言語は共通であると言いながら、実は各人が恣意的に運用せざるを得ない宿命にある。

言葉と遺伝子はよく似ていると私は思う。そしてどちらも過大評価されているとも思う。

三つ峠山 (山梨県)

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意志を意志することはできない

2018-11-06 09:03:28 | 哲学

「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようという意志を意志することはできない。」とウィトゲンシュタインは言ったが、これほど深い洞察の言葉もあまりないのではないかと思う。

立ちたいときに立ち、座りたいときに座る。束縛されていなければ、思うままに体を動かすことができる。それが「自由」という言葉の意味だろう。それで、主観的な観点からすると、無制限の「自由」とは何でも自分の意志によって決定することだと思いがちである。

しかし、よくよく反省すれば、私が手を上げようとしたときは、すでに「手を上げよう」という意志は生まれてしまっている。問題はその意志を誰が起こしたのかということである。その意志を「私」が起こしたと言えるなら、究極の主体は「私」であると言えるだろう。しかし、どこを探しても意志を引き起こす「私」というものは見つからない、私が手を上げようとしたときは既にその「意志」は生まれてしまっているのだから。意志の生じる過程を「私」が承知しているはずはない。

果して、どこから意志が生まれるのか? 究極の主体はなにかと問われたら、趙州従諗和尚なら「無」と答えるのではないかと思う。

(関連記事)狗子仏性(趙州無字)

京都・錦市場にて (本文とは関係ありません)

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