「無常観」と聞けば、多くの人は平家物語の冒頭の「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり‥‥」を連想するでしょう。ウィキペディアの説明には「日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。」とまで書かれています。今では無常を文学的詠嘆を表す言葉となってしまったようです。しかし、そもそもの仏教における無常観は少し違うのではないかと思うのであります。
仏教は絶望の宗教であると言われます。何に絶望するのかと言うと、無常に対する己の無力さに絶望するわけです。鎌倉時代は日本で最も仏教が興隆した時代でありました。武士という新しい支配階級が現れて、人々がより強く荒々しい力の支配にさらされた時代です。困難の極致におかれた人々が最後にすがるよすがが仏教であったわけです。
平家物語には「盛者必衰の理をあらわす」という一節があります。無常は変化することだから「盛→衰」というのは一見筋道が通っているように見えます。無常とはこの世界のそこにルールがないことを言うのであります。「盛者必衰の理」というものがあるのならそれは無常ではありません。もし神様や閻魔様がいて、我々の苦しみや悲しみをテイクノートしてくれていて後で帳尻を合わせてくれる、というのならそこには「常なる」ルールがあると言える。
無常とはそういった超越者によってこの世界が差配されているのではなく、我々の思惑とは無関係な「偶然」によって支配されているということです。だから、盛者は衰亡することもあるが盛者であり続けることもあるし、善行を行い続けてきた人が悲惨の極地に追い込まれることもあります。要は、この世界においてはなんらの保障も無いということであります。
無常は無情に通じます。そこには絶対者の差配が行き届かない。我々の感情は一顧だにされない偶然の世界、つまり無情であるということです。仏教的無常観ということは、世界が無情であることを知ることであります。世界に私たちの願いが届かない。そこに絶望があるのです。本来は、日本人の美意識云々とは関係のない概念であります。
無常の辞書的意味は不断に変化し続けるということでありますが、しかしそれでは仏教的無常観というには不十分です。
幸せな家庭に生まれた子供は、両親の深い愛情に包まれてそのまま幸せであり続けたら、多分その子は無常を感じません。周りの環境が変わり続けることを知っていたとしてもです。自分が幸せであることを「当然」と思い、暗黙のうちにそれが保障されていると感じるのです。
ところがある日、お父さんが事故で亡くなり家庭が没落しはじめます。
家は経済的に没落し、お母さんはやくざな男の後妻になり自分も引き取られます。そこで、そのこが前妻の子に毎日いじめられる様な事態に至った時、初めてその子は無常を知るのです。
そのまま平和で温かい家庭が保障されていると漠然と信じていたが、実は何も保障はされていなかった。この「保障されていない」という感覚が無常観の底にあるわけです。私たちは何も保障されていない。この世界に予定調和的な約束事はなく、世界は私たちの気持ちや思惑を無視して動いていく、それが仏教的無常観です。
それゆえこの世は怖ろしい。苦に満ちていると言えます。だからと言ってそれらを避けるすべはない。
仏教においては、起きてしまった事柄に対してはすべて受け入れるしかない。それが仏教的諦観です。執着を断ちすべてを受け入れる、そのような境地に立ったときに無常の中に妙を見出すのではないかと思うのです。
仏教は絶望の宗教であると言われます。何に絶望するのかと言うと、無常に対する己の無力さに絶望するわけです。鎌倉時代は日本で最も仏教が興隆した時代でありました。武士という新しい支配階級が現れて、人々がより強く荒々しい力の支配にさらされた時代です。困難の極致におかれた人々が最後にすがるよすがが仏教であったわけです。
平家物語には「盛者必衰の理をあらわす」という一節があります。無常は変化することだから「盛→衰」というのは一見筋道が通っているように見えます。無常とはこの世界のそこにルールがないことを言うのであります。「盛者必衰の理」というものがあるのならそれは無常ではありません。もし神様や閻魔様がいて、我々の苦しみや悲しみをテイクノートしてくれていて後で帳尻を合わせてくれる、というのならそこには「常なる」ルールがあると言える。
無常とはそういった超越者によってこの世界が差配されているのではなく、我々の思惑とは無関係な「偶然」によって支配されているということです。だから、盛者は衰亡することもあるが盛者であり続けることもあるし、善行を行い続けてきた人が悲惨の極地に追い込まれることもあります。要は、この世界においてはなんらの保障も無いということであります。
無常は無情に通じます。そこには絶対者の差配が行き届かない。我々の感情は一顧だにされない偶然の世界、つまり無情であるということです。仏教的無常観ということは、世界が無情であることを知ることであります。世界に私たちの願いが届かない。そこに絶望があるのです。本来は、日本人の美意識云々とは関係のない概念であります。
無常の辞書的意味は不断に変化し続けるということでありますが、しかしそれでは仏教的無常観というには不十分です。
幸せな家庭に生まれた子供は、両親の深い愛情に包まれてそのまま幸せであり続けたら、多分その子は無常を感じません。周りの環境が変わり続けることを知っていたとしてもです。自分が幸せであることを「当然」と思い、暗黙のうちにそれが保障されていると感じるのです。
ところがある日、お父さんが事故で亡くなり家庭が没落しはじめます。
家は経済的に没落し、お母さんはやくざな男の後妻になり自分も引き取られます。そこで、そのこが前妻の子に毎日いじめられる様な事態に至った時、初めてその子は無常を知るのです。
そのまま平和で温かい家庭が保障されていると漠然と信じていたが、実は何も保障はされていなかった。この「保障されていない」という感覚が無常観の底にあるわけです。私たちは何も保障されていない。この世界に予定調和的な約束事はなく、世界は私たちの気持ちや思惑を無視して動いていく、それが仏教的無常観です。
それゆえこの世は怖ろしい。苦に満ちていると言えます。だからと言ってそれらを避けるすべはない。
仏教においては、起きてしまった事柄に対してはすべて受け入れるしかない。それが仏教的諦観です。執着を断ちすべてを受け入れる、そのような境地に立ったときに無常の中に妙を見出すのではないかと思うのです。