前回記事で私は、「この世界の成り立ちに関する、本当に根源的なことには因果関係は及ばない」と述べた。このことについてもう少し説明したいと思う。
根源的な問題とは「なぜこの世界があるのか?」というような問題であると思っていただければよい。近年は科学の進歩により、この宇宙が138億年前にビッグ・バンによって誕生したということが分かっているらしい。今後も研究の進歩とともに、宇宙誕生の詳細ないきさつが明らかにされることだろう。しかし、どれだけ科学が進歩しても、ビッグ・バンがなぜ起こったのかという問題が依然として残る。つまり、「なぜこの世界があるのか?」という問題は手つかずのままである。
もうひとつ「根源的な問題」の例を挙げるなら「脳内で起きている物理現象からどうして意識が生じるのか。」ということがある。いわゆる「意識のハードプロブレム」というやつである。「なぜ空が青く見えるのか?」と言い換えてもよい。科学は、波長が450nmの光が目に入ると「青色」が見えるということを教えてくれる。しかし、波長が450nmの光がなぜ青色に見えるのかということは教えてくれないのである。
いわゆる科学というものは、この世界のさまざまな現象からその秩序を抽出して法則を見出すものでしかない。現にあるこの世界がどのような秩序に支配されているかを探るものである。「なぜ世界がこのようであるのか?」ということと科学は初めから無縁なのである。ところがわれわれ人間には、なにごとも因果の枠組みの中でとらえたいという欲求がある。だから、つい「なぜ?」と問うてしまうのである。しかし、このような問いは問いを発した本人が、実は何を問うたかわからないのである。どのような答えがあれば満足なのかも見当がつかないこのような問題は擬似問題である可能性がある。
情報さえあればすべては因果関係の図式に還元できるという思い込みは特に西洋思想の方が強いようである。おそらくそれは一神教の影響だろう。神の主催するこの世界には隅々まで神の意思が行き渡っている。すべて神の目的に沿う必然のシナリオに従っているはずだ、西洋思想にはそのような刷り込みがあるのだろう。
そのように考えると、サルトルの「嘔吐」の主人公であるロカンタンがこの世界の偶然性に戸惑い吐き気を覚えた、ということも理解できるのである。必然の王国の囚人である彼には、自分自身が今そこにあることの「偶然性」からくる不安に耐えきれなかったのである。
この世界を必然だと思い込むと、現実に対して不可避的に「なぜ?」と問うてしまう。どうしても偶然に対する不安や不条理に対する執着が避けられないのである。そこで仏教は、この世は所詮無常であると説く。無常というのは神による差配がない、つまり偶然ということである。したがって神による保証もない。そのような無根拠の世界を受け入れよと釈迦は説く。それが仏教的諦観である。
「この世界がこのようであること」に理由などない。特に禅仏教では、現前する世界そのものが究極の真実である、と説く。「空が青い」ということに理由はない。すでに「空が青く」見えている、そのことを疑うべきではない。そこに隠された真実というものもまたない。すべては現前しているままである。「あるがまま」を受け入れよということはそのようなことである。