禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

われ思うゆえにわれはあるか?

2016-11-27 06:27:24 | 哲学

デカルトは本当の真理というものを求めるために、疑えるものはすべて疑ったうえで本当に確かなものは何だろう、と考えました。そのように考えると、今まで受け入れてきたことが実はすべて疑わしい。しかし、徹底的に疑ったとしても、どうしてもそこに疑っている自分がいることは否定できない、ことに気づいたのです。つまり、すべての思考には、「私は考える」ということがついてまわるというわけです。

しかし、「私は考える。だから私はある。」という言い方には問題があります。まず、「私」がなければ「私は考える。」ということが言えないわけで、前提の中に既に結論が組み込まれているわけです。「私は考える。」と言えるためには、まず「私」がどのようなものであるかが分かっていなければならないはずです。果たして、考える「私」とはいったいどのようなものでしょうか。

今この記事を読んでいるあなたの脳裏にはいろんな感覚が渦巻いていますね。「御坊哲は一体何を下らんことを言っているのだ」というような考えがよぎったり、空腹を感じていたり、なんとなく腕のだるさを感じていたりするかもしれません。しかし、その中に「これが自分だ」と明晰にとらえることが出来るものがあるでしょうか。おそらく、今浮かんでいる考えや感じている感覚そのものを自分だと感じているのであって、「考えている自分」や「感じている自分」は把握できていないはずです。

ここのところが難しい所ですが、仏教哲学ではどこをどう探しても「これが自分だ」というものは見つからなかったというのが結論です。単に「考えた」だけでは自分があることの根拠にはならない。何かを考えても、「考え」があるだけで「考えている自分」が見当たらないのです。禅のお坊さんは、木を見ると「自分が木になる」というふうな言い方をします。それは、木を見ている時には、そこに「木が見えている」だけであって、「見ている自分」というものが実はないということを言っているのです。

ところがヨーロッパ語では、何かが脳裏に浮かんだ時には、必ず考える主体がなくてはならないことになっています。文法として、「考える」という動詞には主語が必要なので、すべての思考には「私は考える」ということが文法的に必ずついてまわります。不可避的に、「考えているのは私である」ということになってしまうのです。だからデカルトが、「私は考える。だから私はある。」と考えたのも無理はないのです。

禅者は言語に迷わされないで直接自分を内観します。そして「無だっ!」と喝破するのです。自己を究明していくと、あるはずと思っていたものがない、だから究極の自己は「無」であるというわけです。色即是空の「空」と混同されて論じられるむきもありますが、別の概念です。

大船観音 (神奈川県鎌倉市)

 

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3 コメント

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Unknown (外れ者)
2016-11-28 12:38:35
なるほど、英語では 『I』無しでは文が成り立たないので、I ばかり使っている気がします。極力 『I』の使用を控えてはいますが、常に主語を決める必要があって、自分中心に言語が成っている感じです。
ですが、英語に慣れてくると、I っていう単語は、『です、ます』の代用語として使われたりすることも大有りです。
自分という概念を語るには、文字制限上や哲学上、無理強いな気がします。 
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外れ者さん (御坊哲)
2016-11-29 10:49:42
日本語と英語の違いを論じる場合に、川端康成の「雪国」の冒頭の部分がよく引き合いに出されるますね。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」に対し、サイデンステッカーの訳は、”The train came out of the long tunnel into the snow country. ”

この例は主語が〝Ⅰ″ではありませんが、日本語の方が情景がより automatically に立ち現れてくるような印象をうけます。やはり、日本語の方が禅的視点に近いような気がします。
 
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Unknown (外れ者)
2016-11-30 23:06:59
鋭い視点です。雪国の引用部分は、さすが意味は通っていますが、その風情が伝わりませんね。
勝手な意見ですが、御坊哲さんのブログを英語で訳すとすれば、案外、日本語より伝わりやすいかもしれません。
何故なら、日本的すぎないからです。
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