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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

中道とゲシュタルト・チェンジ

2020-04-16 14:12:40 | 哲学
 下の図はご存知の方も多いと思いうが、「ルビンの壺」と呼ばれている。


黒い部分を地とし白い部分を図とすれば壺が見え、逆に白い部分を地とし黒い部分を図と見れば二人の人の顔が見える。決して、壺と人の顔が同時に見えることはない。ゲシュタルトとはドイツ語の「形態」という意味だが、この場合はディスプレイ上のただの白黒模様を、壺あるいは人の顔とみなす「ひとまとまりの形」のことを指す。私たちは常に視界の中からなんらかのパターン(意味)を読み取ろうとしているが、その視点の置き方というものにはある種の恣意性があることを、この図は教えてくれる。時に、私達は同時に同じ景色を見ながら別のものを見ているということがあり得るということだ。

 ゲシュタルトは視覚だけではなく、我々が認識するものすべてにおいて意味として現れる。思想においてもそうである。特にいろんな価値観が競合する倫理問題において、誠実なもの同士に深刻な意見の対立が生じるのも、お互いにゲシュタルトの構成に相違があるからだと考えられる。例えば、捕鯨問題について考えてみましょう。日本側から見ると、欧米人は毎日おびただしい牛や豚をしその肉を食べている、なのにクジラやイルカを殺すのは残酷であるという、これは明らかにダブルスタンダードである。他方、欧米人から見ると、クジラ類はとても知能が高い、イルカショーやホエイル・ウォッチングを通じて、すでに友情のようなものを彼らに対して感じているわけだ。欧米人にとってはクジラ類は犬や猫と同様に共感しあえる動物らしい。人間の友人たるクジラが目の前でもりを打ち込まれて殺戮される。それはとても残酷な仕打ちに見えるわけである。

 捕鯨問題については、一応どちらにも言い分がある。一概にどちらが正しいとは言えない。視点があまりに違いすぎるため、この問題には円満な妥協点というものがみあたらない。おそらく正解というものはない。しかし、どこかで折り合いというものはつけなければならない。どちらも自分の言い分を100%通そうとすれば戦争になってしまう。そうならないためには相手側の言い分も理解できなくてはならない。相手側と自分側の切実さというものをはかりにかけお互いに納得できるための苦渋の決断をしなければならない。

 相手側の立場になって考えてみる。これをゲシュタルト・チェンジと言う。たいていの倫理問題には正解というものない。ゲシュタルト・チェンジを何度も繰り返しながら妥協点を探る、これを反照的均衡と言う。そうするより他はない。釈尊は二千年以上前からそのことを見抜いていた。究極の善もなければ悪も存在しない。善と言うも悪と言うも、それはその時々の都合によるものである。空とはいかなる恣意的視点も持たないことである。恣意的視点が無ければゲシュタルトは構成できない。あらゆるものの相貌が失われ、意味というものがなくなってしまう、それが空である。

 空の立場に立てば、どのような解も正解とは言えない。特定の恣意的視点に基づかない解は存在しないからである。中道とは右と左の真ん中という意味ではない。どのような意見も恣意的視点に基づかないものはないという諦観のことである。釈尊は、「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。」と仰られた。お釈迦さまのような偉い人でも「これが正しい」などということは言えないというのである。

 無力な私たちが中道から遠ざからないためには反照的均衡を続けるしかないのだろう。
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