前回記事では曹洞宗のお坊さんに文句をつけたので、今回はある臨済宗のお坊さんのブログの「不殺生戒と死刑制度は矛盾しない」という主張について取り上げることにする。
そのお坊さんは、「仏教とは『個人の生き方』についてのみの教えであって、『国の在り方』についての教えではありません。」と説く。
そして、
「仏教は『国の在り方』に言及をしない立場です。ですから、本来、仏教者は、『国の在り方』については、仏法を持ちだして論じることをしないのが、正しいあり方ではないかと思います。」とも言います。
「仏教とは『個人の生き方』についてのみの教え」というのは構わない。しかし、政治に対する態度決定も「個人の生き方」の一部である。もし仏教を信じそして不殺生戒を自分への義務として認識しているなら、死刑制度に反対するのは当たり前すぎる話だと思うのだが、どうだろう? 死刑制度に賛成することによって、公権力による殺人に加担しているわけで、これはお釈迦様の「殺生することに関わるな」という言葉に明らかに背いている。
「仏法を持ちだして論じることをしないのが、正しいあり方」としているが、仏法のもとに不殺生戒を信条としている人が、その信条をもとに死刑制度に反対するのは決して「間違ったあり方」であるはずがない。
もちろんこのお坊さんは死刑制度に賛成の立場だからこのように述べているわけである。つまり、死刑制度が凶悪犯罪への抑止力になるという理由で賛成している。本当に凶悪犯罪への抑止になるかどうかは議論の余地があるのであるが、ともかく犯罪者を殺すというマイナスを行うことにより、他の命を生かすというより大きなプラスを得ることができる、と考えているわけである。
(ここで私の個人的な意見をさしはさめば、冤罪により無実の者が殺されるという途方もなく大きなマイナスはどうするのだと言いたくなるのだが、これはこの際無視することにする。)
問題にしたいのは、「より多くの利益を得るために、犯罪者を殺すという最低限の犠牲はやむを得ない」という功利的な考え方である。
カントは道徳律は定言命法でなくてはならないと言う。定言命法とは無条件に順守しなければならない法のことである。それに対して条件付きのものは仮言命法という。「とにかく殺してはいけない」というのは定言命法で、「殺されたくなかったら殺すな」というのは仮言命法である。
だとすると、死刑制度賛成の立場をとるということは、「より多くの命を生かすためには、一人の人間を殺してもよい」ということだから、不殺生戒を仮言命法であるとみなしていることになる。これはまずい。なぜまずいかというと、このような方便を認めてしまうと、倫理というものがすべて功利主義に還元されてしまって宗教とは独立したものになってしまう。戒律が意味をなさないのである。
オウム真理教の信者は次から次へと人を殺した。自ら仏教者であると名乗りながら、そして仏教が殺生を禁じていることを知りながらである。彼らは誠実に人を殺し続けた。それがその人を「救済」することだと信じてやったのである。戒律が仮言命法であるなら、彼らもまた道徳的な人々と言わざるを得ないのである。
「救済するためなら人を殺すこともOK」というように、仮言命法というのはその人その時によって、解釈が違ってくる。戒律は定言命法でなくてはならない。各自が勝手な解釈をしてはいけないのである。
自分が検証したわけでもないのに、「凶悪犯座抑止効果」を理由に死刑制度を支持するという態度には、ある種の冷たい小賢しさを感じる。仏教が慈悲の宗教であるというのならば、もっと冤罪によって処刑された人々の無念・苦しみに寄り添うべきではないかと思うのである。
前回と今回の記事内容について、僕は概ね同感です。
但し、僕も禅宗僧としてその末席を汚す者ではありますが、僕も死刑制度を支持します。
そもそもブログは、自由な発言の場だと思っています。
「サラリーマンのブログはサラリーマンらしくなければならない」とか、「学生のブログは学生らしくなければならない」とは思いません。
同様に、僧侶のブログも、戒律の枠組みに捕らわれない「ぶっちゃけの本音」で良いのではないか?と思っています。
で、僕は、例えば何人も人を殺すような殺人者を絶対に許せません。
従って僕は、僧侶としてではなく、人として(或いは一国民として)、死刑制度を支持します。
まあ、いずれにせよ、ブログは楽しいものです。
いろんな人達が自由な発言が出来るのですから。
今後も、貴方の切れ味の良い記事に期待しています。
失礼しました。
禅蔵 合掌
ご丁寧なコメント、ありがとうございます。
死刑制度には、凶悪犯罪に対する抑止と犯罪者への復讐心の慰撫という、2つの要素があります。そのうち『抑止効果』についてはなかなか客観的な裏付けを得られないことから、識者の間ではあまり問題にする人は少なくなってきています。
(もし抑止効果があるのなら、年に千人単位という桁外れの死刑執行がなされる中国では凶悪犯罪が一掃されねばならないはずです。)
ですので、最近の死刑制度に関する議論は、「こんな悪い奴はなんとか懲らしめてやりたい」という、復讐心の慰撫という点に重点が移ってきつつあります。おためごかしの「抑止力」を前面に持ってくるよりは、その方が議論の在り方としては健全な方向になっていると思います。
「悪い奴を懲らしめて、なんとか溜飲を下げたい」という感情は、人間として正当なものであり、無下に否定されるべきものではないでしょう。が、問題は冤罪の可能性があるということです。無実の人間に対して死刑執行してしまったら、もう取り返しはつきません。その人の無念の大きさを想えば、とても死刑制度を指示する気持ちにはなれません。
それと、宗教家には犯罪者を憎まないでその更生を願うという、広い心を持っていただきたいという私の勝手な思い込みもあります。「罪を憎んで人を憎まず」というのはなかなか難しい境地でありますが、仏教の目指すところはそういうところではないかと思います。「悪い人間を憎む」のは人間の自然な感情ですが、修行というのはそれを克服するためにあるのだと思います。勝手なことを申しましてすみません。