禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ

2021-10-03 21:49:44 | いちゃもん
 昨日(10/2)の朝刊によれば、秋篠宮家の内親王である真子さんが複雑性PTSDに陥っているという。結婚相手の親の金銭トラブルがもとで、「皇族の結婚相手としてふさわしくない」という風潮が日本中に満ちているからだろう。もし近所の娘さんが小室圭さんと結婚すると分かっても、その結婚にとやかく言う人はそう多くはあるまい。ところが皇族が結婚するとなると、一般人がテレビの前で堂々と「それはちょっと・・」と言ってのける。SNSの中だともっと露骨に相手をぼろくそにけなす。その果てに、真子さんのことを「皇族としての義務をわきまえておられない。」というような、昔なら不敬罪で逮捕されかねないようなことまで言う。金銭トラブルと言っても、誰も犯罪を犯しているわけではない。単なるもめごとに過ぎない。当事者間で解決すべき問題である。なんらの責任も持たない赤の他人が、そのことについて好悪の感情を持つことは自由だが、一方の当事者の息子の結婚にまで口出しすることは明らかに行きすぎだと思う。

 忘れてはならないのは、どんな人も結婚する権利があるということである。やくざであろうが犯罪者であろうが、金持ちでも貧乏人でも成人でありさえすれば、結婚の自由は誰でも持っている。憲法24条1項 によれば、結婚の唯一の必要かつ十分な条件は「両性の合意」、それしかない。だからこそ、真子さんの父親である秋篠宮さんは彼女の結婚について、心配しながらも容認するしかなかった。

 実の親が認めたのであるからには、もうこれ以上他人がとやかく言う問題ではないだろう。誰かがうまいことを言っていた。「真子様だって失敗する権利はある。」 その通りだと思う。惹かれあったならとにかく一度結婚するしかない。その結果、上手く行かないことだってあるかも知れないけれど、良いではないか。成功もあれば失敗もある、それが人生だと思う。

 ある人のブログで、「眞子様を心配するのは日本の国を心配することと同義です。 」と述べられているのを見た。あくまで、それはその人の主観でしかなく、そのような実体としての「日本」は実在しない。一部の人にとっては「皇室=日本の中心」かもしれないが、誰にでも通用するような信条とはなり得ない。真子さんが誰と結婚しようが、日本経済には何の影響も与えないし、ほとんどの日本人の暮らしには何の変化もないだろう。

 私から見れば、皇室崇拝は一種の宗教的信仰だと思う。だから、他人が皇室を崇拝すること自体については、とやかく言うつもりはない。しかし、その信仰をすべての日本人に押し付けたり、皇族の基本的人権を否定したりすれば、それはもうはた迷惑な妄想でしかない。真に皇室を尊崇するというのであれば、 皇室の頽廃を嘆くかのような忠臣面は、下々の民にとっては畏れ多いことと弁えるべきである。もうやめた方が良いと思う。 

銚子電鉄 外川駅 (本文とは関係ありません。)
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