有名な歌舞伎役者の一家心中が連日ニュースで取りざたされている。これまで行ってきたセクハラが週刊誌によって暴露されることを深刻に受け止めた結果、というようなことが噂されている。ことの真偽は外部のものにはなかなか分からないが、そういうことがあっても少しも不思議ではないと思っている。ハラスメントは社会のいたるところにはびこっているからである。
私は長い間フリーランスで請負仕事をやって来た。大きなプロジェクトの下請けの下請けという最下流の仕事がほとんどである。その経験から学んだことの一つが、人は権力をふるいたがるということである。無教養な人ほどその傾向は強くなるが、どの人も自分を大きく見せたがるという欲求から逃れることはなかなか難しいことなのだと思う。私自身からしてそういう傾向の強い人間であるから、その辺のところはよく理解できるのである。ただ幸いなことに、私は大して能力のない人間なので他の人に対して優越的な立場になることはなかった。そのおかげで傲慢な人間にならなくて済んでいるだけのことである。だから、話題になっている歌舞伎役者も根はそんなに悪い人ではないと私は考えている。その人は週刊誌で自分の行為が報道されることになって自殺しようとしたと聞いている。つまり、ハラスメントはしてはならないことと知っている。自分のやったことは死ぬほど恥ずかしいと知っている訳である。そのようなまともな感覚を持つ人でも罠に陥る、隣近所の善良なおじさんやお兄ちゃんが戦地へ行けば殺人鬼や強姦魔になるのと同じことである。
ハラスメントが人間の普遍的な性であるからと言って、ハラスメントをする側を弁護しようというのではない。加害者側がハラスメントによって得た快感の何百倍もの苦痛と屈辱を被害者は味わっているのである。ハラスメントは絶対に許してはならない。現代社会は個人の尊厳を前提として成り立っている。どの人も平等でなくてはならないはずである。ところが人間の本性は、人々の平等を前提とする現代社会の理念とは一致していない。悲しいことであるが、強い人間は威張りたがり、その周囲の人間はへつらいたがる、それが人間の性である。普通の社会人なら、そういう例を現実に見てきているはずである。「そんなことはない、私の周りにいる人はみんないい人ばかりです」という人は、とても恵まれた境遇の人であるか鈍い人であるかのどちらかなのだろう。
ジャニーズの創業者であるジャニー喜多川氏による性被害問題が最近クローズアップされている。聞けば、この問題は数十年前から週刊誌ネタになっていて、1960年代には民事裁判においてもそれが事実であったことが認められている。しかし、なぜかこのことは大マスコミの間で問題として取り上げられることはなかった。当事者が亡くなって既に約4年が経過した今やっと大きな問題として取り上げられるようになった。それもそのきっかけはイギリスのBBCがドキュメントとしてこの問題について放映したからだという。淫靡でおぞましいハラスメントが行われていることを知りながら、何十年も新聞社やテレビ局は見ぬふりをしてきた、そのこと自体がスキャンダルではないのか? この問題については、どのテレビ局のキャスターも「我々の責任」と自戒の言葉を口にしている。が、おそらくそれは口先で言うだけで、この次同じことが起こっても同じことを繰り返すだろう。「責任」を口にするのなら、この問題について社内でどのような力学が働いたかを明確にし、個々人の当事者責任を明確にしなければならない。会社全体の過失を後から追認しただけでは、なんの責任を果たしたことにもならないのである。
歌舞伎役者だろうが芸能プロデューサーであろうが、彼らは一人でハラスメントの怪物になるわけではない。必ずその周りには追従する取り巻きがいる。その追従が権力者の自我を拡大させてしまうのである。誰であっても権力者の意志に逆らうことは難しい。しかし、権力者の非道を目にしながら追従することは、自分もその非道に加担することと同じであることはわきまえておかなければならない。その行為に対して直接たしなめることが出来ないなら、せめて顔をしかめて不快の念をアピールすることぐらいのことをすべきではないだろうか。絶対に愛想笑いなどしてはならない。
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