禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

あるようにあるとしか言いようがない

2021-09-06 12:09:04 | 哲学
 私達は言葉を使わなければ思考することが出来ない。なのでつい言葉によってあらゆることを表現できると思いがちである。言語の限界は思考の限界でもあるが、現実の具体性は言語の限界には収まり切れないのである。所詮、言葉というものは抽象化されたものだからである。先日、「多様性と無差別智」という記事でも取り上げた、はるな愛さんの言葉をもう一度振り返ってみよう。

  私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。≫

 私達は何でも分類して一般化したがる、これは私たちの持つ理性の渇望である。「一般化して分類して整理する」、それが「理解する」ということなのだろう。人類はそういったことを積み重ねて高度な文明を作り上げてきた。しかし、はるな愛さんはそのような一般化をはっきりと拒否している。自分というものを真剣に見つめてきた当事者にとっては、LGBTというような一般化には収まり切れないものを見ているのだろう。
以前、テニスの大阪なおみさんはインタビューの中で、「ご自分のアイデンティティについてどのように思いますか?」と訊ねられたことがある。それに対して大阪さんは「うーん、あまり気にしない。私は私です。」と答えた。 周知のとおり、大阪選手のお父さんはハイチ系アメリカ人、お母さんは日本人、生まれは大阪で、3歳からはアメリカで育っている。 インタビュアーは、大坂さんがどの程度日本人の自覚を持っているかを、言葉によって確認したかったのかも知れないが、大坂さんにすればそう簡単に言葉に依って規定しきれるものではない。「私は私です。」という、それ以上の解答はありえなかっただろうと思う。

 私たちはみな、これ以上の具体性はない唯一無二の現実の中を生きている。それは決して一片の言葉で切り取ることは出来ない。「あるようにある」としか言いようがないものである。

乾徳山恵林寺の庭 本文記事とは無関係です。
コメント
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