あるSNSにおいて、「言語は思考の最小単位ですか?」と問いかけた人がいる。なかなか難しい問題だと思う。一般に、思考は言語によってなされるもの、と考えられているからそのような問いが出てくるのであろう。少なくとも、思考は言語によってしか表現できない、したがって言語以上の思考が表ざたになることは決してない。ヴィトゲンシュタインは彼の生前における唯一の著作「論理哲学論考」の序文で次のように述べている。
≪‥‥ およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない。
かくして、本書は思考に限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してというべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。 ‥‥≫
私たちは自分の思考の限界について考えることは出来ない。思考可能なことしか考えることができないからである。「思考に対してではなく、思考されたことの表現に対して」限界を引くというのは、例えば、円い三角というものについて考えてみる。私たちは「円い三角」という言葉を発することはできる、しかし、それがどういうものであるかを思い浮かべることは出来ない。つまり、「円い三角」という言葉を通じて、われわれの思考が及ばない領域があることを知ることができる。「円い三角」に限らず、「全知全能の神」とか「永遠の魂」であるとか「存在そのもの」というような、形而上の概念は無意味で「語りえない」ものであると、ヴィトゲンシュタインは言うのである。
以上のような事情から鑑みれば、言語の方が思考を上回っているというような印象を受ける。少なくとも言語以上の思考を表現する手段がない以上、「思考が言語以上である」という表現は語りえない、つまりそれは無意味な表現であるということになってしまう。
しかし単純な私は、人間が言語以上のことを考えることができないのであれば、言語は永久に固定されたままで、新しい概念など生まれようがないのではないか、と考えてしまうのである。私はもう10年以上もブログを書き続けているが、未だに思うように記事が書けたためしがない。言語に尽くせぬすごいことを考えていると言いたいわけではないが、思考にはいろいろな情動や具体的状況が含まれているにもかかわらず、言語は抽象的過ぎて、一旦言語化されると思考の方向性が限定されてしまって、本来言いたかったことからはかなりずれてしまう(ような気がしている)のである。そんなわけで、私は個人的には、言語は思考以上ではないと考えている。
ヴィトゲンシュタイン自身、「語りえぬことには沈黙すべし」と言いながら、「論理哲学論考」において、実は語りえる領域から逸脱しているのではないかと思われる部分がある。そして、その出版に当たって、ある編集者に対して次のように伝えたことが知られている。
≪私の仕事は二つの部分から成っている。一つはここに提示したこと、そしてもう一つは、ここに書かなかったことの全てだ。そして、重要なのはこの第二の部分である。≫
第ニの部分とはもちろん「語りえぬこと」のことである。彼は形而上学を語りえぬものとしたが、決して否定したわけではなく、まさにそれこそが重要であるということを指し示したかったというのである。
「竹の秋」