禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

確率と人生と理性

2020-05-25 06:03:43 | 哲学
 大森荘蔵はわが国を代表する哲学者の一人であるが、「確率と人生」というエッセーの中で次のように述べている。
≪ 要するに、一回きりの事件では、前もってその確率を云々しても、その予言の当たりはずれを言うことは意味をなさないのである。確率いくらいくらということが正しかったか誤っていたかを定める方法がないからである。だがわれわれの日常生活で確立を問題にしたいのは大抵は一回きりの事件の確率なのである。明日の天気、来月の株価、‥‥(省略)‥‥、といった一回きりの事件の確率がわれわれの生活での緊急時なのである。ところがこのような一回きりの事件の確率が当たった外れたということが意味をなさないようなものならば、一体われわれはなにをしているのだろうか。 ≫
事後に確率の当たりはずれを云々することは意味をなさない。まったくその通りである。賽の目は必ず丁半のいずれかに収束する。丁が出れば半は全く無い、逆もまたしかりであって、確率が半々であるからといって、結果としての丁と半が0.5ずつになるということは決してない。事後に確率を云々することは、巌流島の決闘の後で、「本当は佐々木小次郎の技量の方が武蔵を上回っていた。」と言うに等しい。そのことを検証する手立てはどこにもないのである。

 確率がなんであるか? ということに答えるのはとりわけ難しい。確率論というのは数学の一分野であるが、そこでは確率がなんであるかということは実は問題にされていない。確率の厳密な定義はおそらく不可能なのだろうと思う。大森荘蔵は確率の意義について次のように述べている。
≪ では一回きりの個別的事件の確率を云々することはなにを意味しているのだろう。それは無意味であるはずはない。とにかくわれわれは「明日はたぶん雨だろう」ということに十分な意味を感じているのだから、私はそれは単なる予測の命題ではなく、自分が生きる上での心構えの表現であると思う。雨かも知れない、という覚悟をしながら晴れだとして生きることに賭ける、という心構えの表現だと。 ≫

 大森は確率を云々することは「生きることに賭ける心構えの表現」であるという。心構えというのは、結果がどうあれ納得しなければならないということであろう。なにを納得させるのかと言えば、それはわれわれの理性であろうと思う。理性はこの世界を整合的なものとして把握しようとする。なにについてもそれなりの理由を要請するのである。ところが未来のことは本質的に不可知である。つまりわれわれは未来のことは分からないまま行動しなければならないのであるが、理性はその行動が合理的であることを要求するのである。確率というのは理性を納得させるための「暫定的な理由」ということになのだろう。
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