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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

歌の橋と実朝

2022-11-14 14:50:46 | 雑感
 先日、鎌倉の鶴岡八幡宮から杉本寺まで歩いていく途中で面白いなまえの橋を見つけた。下の写真を見て欲しい。

 
 
 「歌の橋」とある。なんの変哲もない橋だがなかなか優雅な名前の橋である。私はてっきり「歌」を唱歌のことだと思い、この近くに音楽関係の学校でもあったのだろうかと思ったのだが、このそばに立っている碑の由緒書きによればどうやらそれは和歌のことらしい。

 
 
「渋川刑部兼守謀殺の罪により誅せられんとせし時悲の餘り和歌十首を詠じて荏柄社頭に奉献せしに翌朝将軍実朝伝聞せられ御感ありて兼守の罪を赦されしによりその報賽として此の所に橋を造立し以て神徳を謝したりと伝えられこの名あり」とある。

 インターネットで調べたところ、この「謀殺の罪」というのは、頼家の子である千寿丸を鎌倉殿に擁立しようとした謀反「泉親衡の乱」に渋川兼守が加担していたということらしい。それで死罪を宣告された兼守がその悲しみを和歌にしたためて荏柄天神に奉納したところ、たまたま荏柄天神に参篭していた工藤祐高という御家人が その和歌を持ち帰り将軍実朝に見せたところ、実朝は大いに感動して兼盛を無罪放免とした。兼盛はその恩赦に感謝して荏柄天神参道近くの二階堂川の橋を架けたというわけである。

 工藤祐高がその和歌を持ち帰ったのが処刑の前日であるとか、ちょっとできすぎのようだし、当時の常識からすればそもそも和歌に感動したから無罪なんていうことはあり得ないような気がする。自分にとって都合の悪いものはたとえ親兄弟でも排除する、というのが鎌倉武士の流儀であり、実際に源頼朝や北条義時はそのように身を処してきたわけである。それにそれほどのいわくのある和歌の内容というものが伝わっていない。歴史上の本当の事情というものはなかなか分からないものである。

 実のところはどうであれ、おそらくそれに類した話はあったのかも知れない。このような話が現代にまで伝わっているのは、やはり源実朝が中世を代表する歌人であったことと武士としては特異とも言えるほど優しい性格であったということではなかろうか。少なくとも源頼朝や北条義時にはこのようなエピソードは生まれようがないような気がする。 

 実朝という人はとても気の毒な人のように思う。兄の頼家が征夷大将軍であり続けていれば、もしかしたら和歌の道に没頭して趣味人として生きる道もあったかもしれない。ところが北条氏の都合で頼家は謀殺されてしまい、自分が征夷大将軍に祭り上げられてしまう。自分の意志で将軍になったわけでもないのだから、傀儡に徹すれば平穏な日々を送ることも出来たはずである。ところが折に触れて将軍としての主体性を発揮したくなるのだが、義時に対抗して立ち回るだけの政治的センスもない。所詮ぼんぼんななのだ。
 実朝の政治的センスのなさは育王山を参拝するための渡宋計画に如実に現れている。膨大な費用と労力をつぎ込んだ渡宋船は結局材木座海岸で朽ち果てた。巨大な船が遠浅の浜から出航しようという計画に無理があることを誰も気がつかなかったのだろうか? 鎌倉武士が航海上の知識にいかに疎いとはいえ、もし幕府がこの計画に本気であったらこんなことはあり得ない。はじめから実朝が宋に渡ることなどできるはずもなかったのである。宋に渡るとなると少なくとも何か月もかかる。もしかしたら何年もかかるかも知れないと言うか帰って来れる保証がそもそもない。お飾りとはいえ実朝は征夷大将軍である。そして鎌倉政権による政令には実朝の花押が必要である。長期に鎌倉を留守にすることが実朝には許されるはずがないのである。義時には初めから実朝の渡宋を許すつもりなどなかったのである。そんな理屈も分からない、やはり実朝は武家の棟梁としての器ではなかった。
 初めから実現性のない渡宋計画を義時はなぜやめさせようとしなかったのだろう。頭ごなしに止めさせるにはやはり頼朝の血ということが重かった。鎌倉にはまだ頼朝に恩顧を感じる御家人が多かったはずである。義時は、膨大な費用と労力が無駄になることを分かっていながら、半ば苦々しく思いそして半ば冷笑しながら実朝の計画を見つめていたのだろう。
 すでにこのとき、中途半端な主体性を発揮する実朝を疎ましく思い出したのかも知れない。そのように考えると、公暁による実朝暗殺も非常に腑に落ちる。実朝がただ死んだだけでは、公暁が次の鎌倉殿になってしまい、その後見人である三浦が北条にとってかわる可能性がある。公暁が実朝を殺せば頼朝直系の男子はいなくなって、義時にとっては好都合である。あとは京都から親王を呼び寄せれば、純然たるお飾りの征夷大将軍に祭り上げることが出来る。そうなれば執権としての義時の立場は盤石のものとなる。そして、事実そうなったのである。

 実朝に政治的センスは無かったが、歌人でもある彼は感受性の高い人である。渡宋計画に情熱を燃やしながら、周囲の冷淡さを感じてもいたのではないだろうかと私は想像する。おそらくそのような種類の不安や焦燥を彼は将軍になったときから感じていたのではないかと思う。だからこそ彼は仏舎利信仰に傾倒し渡宋計画に懸けなければならなかったのだろう。渡宋計画が幻に終わった時、義時は実朝に何と言ったのだろうか? それ見た事かと言ったような気もするし、言わなかったような気もする。ともかく、義時から見れば、渡宋計画は実朝の一人芝居の喜劇であった。
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祭りの喪失

2022-11-01 11:26:16 | 雑感
 韓国の梨泰院(イテウォン )で154人もの若者が圧死してしまうという恐ろしい事故が起きてしまった。現代の若者は他人とのかかわりを持ちたがらないようにも見受けられるが、一方で人の集まる所へ引き寄せられる。おそらく彼らは祭りのエロスを求めているのだろう。どこの民族どこの地域にも祭りというものがある。日本の祭りではたいていみこしを担いだり、笛や太鼓に合わせて踊ったりする。半裸の男たちが重厚なみこしを担ぎあげ汗をほとばしらせる。荒々しい男たちの中でみこしを担ぐ、その経験を通して一人前の男であることを自覚する、それが若い男の通過儀礼である。また、その喧騒の中で思いを寄せる男を見つけて若い女は胸をときめかせる。それが正しい祭りのあり方だと思う。

 祭りに喧嘩や事故はつきものだということはある程度言える。しかし、154人もの人が死ぬなどということはあってはならないことである。それも死因の大半が圧死であるという味もそっけもない話である。どうしてそのような殺伐としたことが起こり得るのだろう。やはりそこには人口の集中しすぎた大都会という問題がある。本来の「地元」の祭りでは何日も前から笛や太鼓や踊りの稽古、それに山車の準備を行う。だんだん盛り上がった気分が最高潮となった時点で祭りが行われるのであるが、それはあくまで地縁血縁者の集団の中である、無礼講の中にも無意識の秩序はあるのである。

 東京にも三社祭のように伝統的な祭りはあるが、あくまでそれは地元の人の祭りである。そこに集まる観衆のほとんどは他人の祭りを見物しているだけの観光客に過ぎない。観光客は祭りに対してそれ程の感情移入することは出来ない。「地元」を持たない若者には、むしろハロウィンという異国の祭りの方が没入しやすいのだろう、伝統のない行事には参加資格というものは要求されないからである。それは地縁血縁などというものとは無関係の、ただ寄り集まりそして騒ぐための口実でしかない。祭りのあり方としては正しくないと思う。

 どんなに人が多く集まっても、「他人の体に接触してさえも移動しようとしない」という最低限の遠慮・節度さえあればこのような惨事は起こり得ようはずがない。密集の周辺部の人が人込みを避けるという常識を働かせればこのような惨事をまぬかれたはず、というのは年寄りの繰り言かもしれない。若者は人との接触を求めているのだろうから‥‥。都会では神事に代わる新しい「祭り」の形を創る必要がある。スポーツや文化という視点から新しい試みができないだろうか。
 
 
私の故郷における「御坊祭」 (和歌山県御坊市)
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著作権と表現者の問題

2022-10-25 10:40:02 | 雑感
 音楽教室のレッスンで講師や生徒の楽曲演奏から著作権使用料を徴収するのは不当だという判決が最高裁で下された。ヤマハ音楽教室などの事業者が日本音楽著作権協会(JASRAC)を相手取り訴えていたものである。というのは、JASRACが音楽教室に対し年間受講料収入の2・5%を楽曲使用料として要求していたからである。この訴えに対し、判決は「生徒の演奏については教師から指導を受けて技術向上を図ることが目的で、課題曲を演奏するのはその手段に過ぎない」と指摘し、音楽教室側の言い分を認める結果となった。 

 この問題に違和感を覚えた人は少なくないのではなかろうか。少なくとも私はある種のけち臭さを感じた。先生が生徒に楽器の演奏を教える、その時使用された楽曲の作者はその使用料を本当に欲しいと思っているのか? いやしくも表現者ならばそんなことを考える人は一人もいないと思う。作曲者は一人でも多くの人に自分の曲を演奏してもらいたい、作詞者は一人でも多くの人に自分の歌を歌ってもらいたい、と願っているはずである。かくいう私も一ブロガーとして出来るだけ多くの人に自分の記事を読んでもらいたいと願っている。もし私が大金持ちなら私の記事を読んでいただいた人には、その労に報いるためにこちらの方からお金を払いたいほどである。それが表現者の本能というものだろう。

  芸術家も霞を食っているわけではないので著作権料というものも必要だとは思う。しかし、現実の著作権は余りにも過保護の扱いを受けているような気がする。大体著作権の有効期限が作者の死後70年までというのはどう考えても長すぎる。果して、そこまで著作権を大事にしなければ作者は創作意欲がわいてこないのか? 作曲家は曲を作りたいから作るのであり、小説家は小説を書きたいから書くのである。より多くの人に自分の思想を届けそして認められたい、そう願うのが表現者である。仮に、著作権の期限が自分の生きている間だけに限られていたとしても創作意欲にはなんの関係もないはず。自分の死後著作権は消滅しても作者としても名誉は永遠に残る、それで十分である。

 著作権法というのはあくまで文化の興隆発展のためにあるのであって、それが文化を阻害することがあってはならないと思うのである。音楽教室で教える楽曲は自由に選ばれるべきであって、それが著作権法によって左右されることがあってはならない。より広いすそ野があってこそより大きな文化の高まりがあるのである。いかに傑出した芸術家であっても、作品を全く自分一人で生み出すわけではない。いろんなモチーフが他者から与えられるのである。文化的基盤の中にあってこそその人は作品を生み出すことが出来る。科学的な発明発見にしても同様である。おびただしい基礎的な科学的発見があってこそ新しい発明発見がある。その途中のどれが欠けても今日の発明発見にはつながらない。いろんなものの因縁がある一人の人に結集して初めて、一つの作品、一つの発明となるのである。

 音楽教室の選曲は全く自由であるべきである。そして、その事を望まない作曲家は一人もいないと私は思う。

 
称名寺の池で陽光が星のようにきらめいていた。 たまたま光の角度とさざ波の大きさでこのように写った。因縁である。私の創意工夫ではない。
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天才子役

2022-10-17 06:51:02 | 雑感
 最近は毎朝NHKの朝ドラを視ては泣いている。「舞い上がれ」の主人公を演じている9歳の子役・浅田芭路(あさだ・はろ) さんがとても可愛くて演技が上手だ。演技と言うより完全に劇中の少女役に入り込んでいるような気がする。それで見ているこちらもつい引き込まれてしまうのである。彼女が涙ぐんでいると、つい自分の孫娘が悲しんでいるような気がして胸が締め付けられる。最近の子役それも特に少女役の俳優はどの人もとても上手だと思う。何年か前に「義母と私のブルース」というドラマが放映されたが、この時も子役の横溝菜帆さんがとても魅力的で見入ってしまった。少女役に要求されるひたむきさ、可愛らしさをそなえており、感情表現も実にスムースである。悲しみの場面ではごく自然に目に涙を湛えている 。

 昔も天才子役と言われる人はいた。しかし現代の子役と比較すればそれは「カメラの前でも臆することなく元気に振舞える」という程度のものでしかなかったような気がする。昔はよく「子役は大成しない」と言われたりしたが、最近はそうでもなく子役出身の俳優が目白押しである。「舞い上がれ」の成長後の主人公役である福原遥さんにしても子役出身だ。最近の子役は既に完成された俳優であり、基礎は既に出来上がっている。それが大人になっても十分通用する理由だと考えられる。

 ドラマを見ているこちら側は画面に没頭しておればよいだけであるが、登場する子役側にすれば、演じる人が皆上手であるということは、それだけ層が厚く競争が厳しいということでもある。昔に比べて我が子を子役にしたいと願う親が圧倒的に多くなっているということがかんがえられるが、その期待に応えられる子は一握りであろう。子役のレベルが高ければ高いほどそのハードルも高くなるのは理の当然である。思い通りに行かぬ子に過大なプレッシャーをかける親がいないだろうか、気がかりである。

東海道線・根府川駅付近から見た相模湾
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Jアラートって、なんだかちょっと恥ずかしい

2022-10-05 18:16:28 | 雑感
 昨日Jアラートが5年ぶりに発信されたが、最初に北海道と東京都の島しょ部に発信されたのが午前7時27分のことだという。私の記憶では、かなり長い間テレビのアナウンサーが何度も「北朝鮮からミサイルが発射されたものとみられます。建物の中、または地下に避難してください」 とアナウンスを繰り返していた。ところが、実際には7時29分には青森県上空を通過していたのだという。私たちはその後も無意味な警報音と同じ文言のアナウンスを繰り返し聴かされ続けていたわけだ。

 なんともおかしい話ではないか。日本にはアメリカから購入したミサイル迎撃システムがあるのではなかったか? 飛んでくるミサイルを打ち落とすというほど精密なシステムなのだから、瞬時に日本に着弾するおそれがあるかどうかぐらいは判断できるくらいでなければ用をなさないのではないか。もし日本の領土内に着弾するおそれがあるのであれば迎撃すれば良いし、その可能性がないのなら警報は必要ない。いずれにしろ何十分間もテレビの全チャンネルを占有して大騒ぎするのは行き過ぎというものではないか。

 おそらく2017年当時、政府には国民に安全保障問題に関して、国民に危機意識を植え付ける必要があったのだろう。多分アメリカの要請に応じて防衛費を増額する必要に駆られていたのだろう。それで、まるで戦時下でもあるかのような警報音を響かせたわけだ。しかし、北朝鮮がミサイルをロシアや中国の方に打てるわけはないので、どうしても東の方向に打つしかない。大陸間弾道弾なら必ず日本上空を超えることになる。これからも北朝鮮がミサイル実験をするたびに、大仰に警報音を鳴らして戦争ごっこをするのだろうか。うんざりを通り越してなんだか恥ずかしい。


吉野家の牛丼並盛 + 肉だく
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