禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

無常の恐ろしさ

2018-06-05 09:09:11 | 仏教

無常とは「万物が生滅変化し,常住でないことをいう。」とある。虚心坦懐に世界を見つめればこれは当たり前のことである。それがなぜ恐ろしいか? 
なんら固定的なものはないということは、何か形をとどめようという力というものが一切ないということである。すべては偶然であり過渡的かつ完成に向うということも無い。つまり、この世界を差配するものは何もない。それは実は当たり前のことなのだが、実存的な視点からその景色を見た時に恐ろしい様相を呈することになる。なんの根拠もない世界の中に、生身の身体を持ったこの私が存在することの恐ろしさである。 

人は天罰を恐れると言うが、この世界が天罰の下るような世界であれば、実はそれほど恐ろしくない。天の意志に従って生きて行けばよいだけのことである。しかし、無常とは従うべき天の意志が存在しないということを意味している。ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、仏教的世界には初めから神などいなかったのである。

哲学者の永井均さんが、「無常という概念は平板だ」というようなことを言っているらしいが、それはおそらく文学的無常観と言うべきものについて述べているのである。仏教的無常観は決して平板ではなく、底なしのニヒルとも言うべきものだ。

無常は決して明日の朝が来ることを保障しない。仏教者はそのことを諦観しなくてはならない。その諦観をえられた時、初めて朝の光の絶妙さを知るのである。

尾瀬ヶ原

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輪廻説が仏教にとって不必要なわけ

2018-06-04 08:15:22 | 仏教

前回記事で「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたら、「此れはしかし同時に、仏教(仏説)であっても自分が共感する部分だけを受け容れたら良いといっているのと同じ事の様にみえます。」という方がおられたので、少し言い訳しておきたいと思います。

前にも述べたように、仏典は多くの人の手によるもので仔細に見れば矛盾もあります。しかし、仏教は学問ではなく宗教なのだから、人それぞれの解釈があってどれが正しいとかいう断定はするべきではない、ということは理解できます。そういう意味で前回記事の「仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」とまで断定するのは言い過ぎだったかもしれません。南直哉師も「輪廻説は間違っている」とは言っていません、「輪廻説は仏教には必要ない」と言っているだけです。一切皆空を標榜する仏弟子は断定を避けねばならないので、そういう表現になるのでしょう。

しかし、アマチュア哲学者たる私は、輪廻説のネガティブさというものをもう少し強く訴えたいと思います。

輪廻説は生まれる前と死んだ後のことについて言及しているわけですから、これはもうはっきりと無記ということと背反しています。早く言えば「いったい誰がそんなこと分かるの?」ということです。それと、南直哉師は「輪廻説は仏教には必要ない」といいますが、私は「輪廻説を信じられる人に仏教は必要ない」と言いたいと思います。

仏教の動機というのは無常ということしかないわけです。無常というのは一切のものが常に変化しているという意味ですが、文学的には「人の世がはかないこと」と解釈されています。そのような詠嘆的なとらえ方も間違ってはいないと思いますが、実存的な視点からとらえるとこれはものすごく恐ろしい意味をもちます。すべては偶然的で無根拠であることから、自分が今ここでこのように存在していることの意味がわからなくなる。禅宗でいうところの大疑団です。そのような切羽詰まった状況があるから仏教が必要になってくるわけです。

輪廻説を信じることができる人は、おそらく神様を信じることもできるし、天国を信じることもできる人だと思います。そういう人には仏教は必要ないでしょう。権威がありそうな人に「あなたは必ず天国に行けます。」と言ってもらうのが一番手っ取り早いような気がするのです。

それと、私が輪廻説が嫌なのには理由があります。宿業論と一体になって詐話師のネタになりやすいというということです。なんの罪とがもない人に、前世の業とかなんとか云って余計な罪悪感を負わせる、というのはかなり理不尽なことと思うのです。

尾瀬ヶ原


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南師曰く、「仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である」

2018-05-23 09:38:08 | 仏教

先日(5/17)、横浜の朝日カルチャーセンターで、南直哉さんの講話を聴いてきました。このところ毎年聴いているので、だいたい同じような内容なのだが、絶妙な語り口で何度聴いても、とにかく腹を抱えて笑うほど面白い。失礼な言い方を許してもらえば、下手な漫才を聞くよりよっぽど面白いので、毎年聴きに行っているのです。

南師は恐山の住職代理で、哲学にも造詣深くて、今や曹洞宗を代表する論客でもあります。彼は常々仏教の要諦は、無常・無我・空・無記に尽きるという考えで、彼の法話もこの4つのキーワードを中心に話を膨らませていくという手法です。

だから、この仏教の原理とも言うべき概念から外れるような教説はバッサリと切り捨てます。例えば、「輪廻転生などという概念は仏教に必要ない。」と言い。「確かに仏典には輪廻転生のことが書かれている。しかし、それが仏教であるというなら、私は仏教徒ではなぁ~いっ!」とまで言ってのけます。

その意気やよし、禅僧たるものかくあるべしと思います。仏典は大勢の人の手によるもので、常識的に考えれば、すべてが最高の智者によって書かれたとは考えにくい。禅宗においては、仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない、という態度はあってしかるべきでしょう。

釈尊は人間の経験の及ばない超越的なこと、いわゆる形而上のことについては言及しないということを教えています。それが「無記」ということです。なぜか日本の仏教では「無常・無我・空」についてはよく言われるのですが、「無記」ということは禅宗以外では余り問題にされていないような気がします。このことは、原始仏典が明治になるまで日本には伝わらなかったということが影響しているような気がします。

で、輪廻転生ですが、これはもともとインドの土着的な思想で仏教由来のものではないことははっきりしています。釈尊の死後、布教のための方便として、誰かがいつの間にか仏典にも潜り込ませた。しかし、死んだのち、あの世からよみがえった人は(多分)いない。私たちの知っているのはすべて他人の死であって、決して自分の死ではない。著名な哲学者が言ったとおり、「死は経験することのない概念である。」 つまり「自分の死」という言葉が実は何を意味するか私たちは知らない。それは意味をもたない言葉なのです。だから、死後のことについてはなにを言っても無意味であるということになります。無記とはそういうことであります。

港の見える丘公園 沈床花壇

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析空観と体空観

2018-03-13 14:53:54 | 仏教

前回記事で、析空観(しゃっくうかん)という言葉が出てきたので、この際に仏教における空観というものを以前書いた記事をもとに整理しておきたい。

析空観とはウィキペディアによれば、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とある。

つまり、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。と言うようなものの見方を析空観と言うのである。それに対して体空観というのは、「すべては空であること」を直感することを言う。

インターネットで検索すると、析空観は小乗的であるのに対して体空観は大乗的である、と言うような説もあり、わざわざ「小乗的析空観」などと言う例もある。しかし、どんなものだろう。個人的には、大乗仏教の本家本元である龍樹にしてみても、その説いているところは析空観であるように思えるのである。空観を言葉で表現しようとするならそれは析空観にならざるを得ないのではないだろうか。

臨済宗においては、本格的な修行の第一歩として、まず法身というカテゴリーの公案が与えられる。「趙州無字」とか「隻手音声」とかいうのがそれである。この初関を通るのがなかなか大変で、中には一か月くらいで通る人もいるが、普通は真剣にやったとしても何年かはかかる。何が大変かというと手がかりというものがないからだ。例えば、「趙州無字」ならば手がかりというものは「無」の一文字しかないわけで、一日中「ムームー」と念じるしかない。しかし、とにかく師家を信じて愚直に公案と向き合っていれば、ある時「無が自分か、自分が無か」というような状態になっていく。そうなって初めて見性を認められることになるのである。

見性というのはいわゆる悟りのことであるが、悟ったと言ってもこれで一丁上がりというわけではなく、これで初めて禅の道に踏み込んだということにすぎない。だが、ともかく一応これで空を体感したとは言えるだろう。

空を体感したということで、即座に龍樹の言うことが即理解できるかというとそうでもない。単に三昧を通じて空を体感しても、禅的な言語操作にはなじんでいるとは限らないからである。見性してすぐ龍樹の言葉を理解できるようになったという人は、おそらく中論などを読んでいて、不生不滅だとか不去来というような言葉に対し、もともとあるイメージを抱いていて、体感した空観をそのイメージにすり合わせたというだけのことであろう。

思想というものが概念と概念に関する総合判断であるとするならば、空観というものは思想的には空虚である。なぜならばそれは概念の解体に他ならないからだ。体空観というのは、心理学的にはゲシュタルト崩壊と言ってもいいと思う。赤ん坊は視力があってもものを見ることが出来ないという。経験というものが全くないので、地と図の区別ができないからだ。ルビンの壺という絵を見るときは、視点の置き方で地と図が反転しまう。赤ん坊のようにニュートラルなものの見方をすると、視野の中に写るものの意味付けが出来ないのである。

これは視覚の問題にとどまらない。あらゆる概念というものは我々の関心のあり方によって意味が構成されているのである。体空観というのは禅定を通してその実感を得ることである。つまり概念によって紡ぎだされるものを思想と呼ぶなら、概念を解体させる空観というものは到底思想ではあり得ない。言葉によって伝えるべき内容がもともと伴っていないのである。だからそれをあえて言葉にしようとすれば否定的な表現にならざるを得ない。逆に言えば、否定的な言葉はすべて空観と通底しているとも言える。

「無が自分か、自分が無か」という状態にあるのは概念の解体ということに違いない。そこでは空間や時間の概念さえも解体される。だから、あちらとこちらの区別もなくなるし、ときには言葉の意味を逸脱させて「永遠の今」などという矛盾した言葉遣いをする人もいる。しかし、空観にはもともと思想としては、伝えるべきものが何もないということはわきまえていなくてはならない。矛盾や否定は単に空に「感覚的」に通底しているだけであって、完全に一致しているわけではない。思想的に空虚であるということは、空の観点からは否定もまた否定されねばならないのである。不去来は不不去来であって、不生不滅もまた不不生不不滅なのである。空を予定調和的な否定で表現してはならないのである。それが中庸ということの意味である。

空観は概念の解体ではあっても否定ではない。一切皆空と言ってもそれは空しいとか儚いということではない。現実はあくまでリアルで肯定的でなくてはならないのである。空観をすり抜けてこの世界を再認識するとき、玄妙な世界が現出する。いったん解体した後で、この世界を素朴に再構成する。これは理屈ではない、「柳は緑花は紅」と言うのはこのことである。「あるものが無い」とか「すべてはまぼろし」だとか、そういう話ではない。いたずらに神秘的な言葉を並べるのは禅臭いだけであって全然禅的ではないのである。

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この世界はあくまでリアルである

2018-02-09 09:18:26 | 仏教

龍樹の「すべてを陽炎のごとく見よ」という神秘的な言葉を真に受けて、「この世界はまぼろしのようなものだから執着するな」と解釈する向きが多いようだ。まるで感受性が鈍いことが良いというふうなニュアンスで語られているのが気にかかる。空観に対して大きな誤解が敷衍されているような気がする。私は仏教において神秘的な言説というものはないと信じている。神秘的なのはこの世界であって、仏教自体はちっとも神秘的ではないのである。

空観を得て執着を断つというのは、単に無常の理をわきまえるという以上の意味はない。なにごとも永続しないから諦観が必要であるという当たり前の理屈である。 

愛する息子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言った。キサーは一日中駆けずり回ったあげく、そんな家は一軒もないことを悟る。彼女はようやく息子の死を受け入れなければならないことを知るのである。命あるものはいつか死ぬ、それは当たり前理屈だが、その理屈がなかなか受け入れがたい。それをうけいれるためにはある程度の修業が必要なのだろう。だから釈尊は彼女に対し一つの修行を課した。「死人が出たことのない家」を探すことは言わば一つの公案と言ってもいいだろう。ゴータミーは一日中その公案に取り組んで、心身共にへとへとになった結果、ようやく無常の理を骨の髄から知らされるのである。 

悲しみは悲しみとして受け入れねばならぬものは受け入れる、それが仏教的諦観であろうと思う。「みんなまぼろしだから、なにが起こってもへっちゃらだい。」というようなことではない。 

この世界が無常であるならば、すべてははかないということは本当である。しかし、はかないからこそ美しいという見方も成り立つ。栂ノ尾の明恵上人は、あるとき野原に咲く一輪のすみれを見つけて落涙したという。はかないほど小さなスミレに妙を感じたのだろう。この感受性が仏教的慈悲につながっている。

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