前回記事で、析空観(しゃっくうかん)という言葉が出てきたので、この際に仏教における空観というものを以前書いた記事をもとに整理しておきたい。
析空観とはウィキペディアによれば、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とある。
つまり、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。と言うようなものの見方を析空観と言うのである。それに対して体空観というのは、「すべては空であること」を直感することを言う。
インターネットで検索すると、析空観は小乗的であるのに対して体空観は大乗的である、と言うような説もあり、わざわざ「小乗的析空観」などと言う例もある。しかし、どんなものだろう。個人的には、大乗仏教の本家本元である龍樹にしてみても、その説いているところは析空観であるように思えるのである。空観を言葉で表現しようとするならそれは析空観にならざるを得ないのではないだろうか。
臨済宗においては、本格的な修行の第一歩として、まず法身というカテゴリーの公案が与えられる。「趙州無字」とか「隻手音声」とかいうのがそれである。この初関を通るのがなかなか大変で、中には一か月くらいで通る人もいるが、普通は真剣にやったとしても何年かはかかる。何が大変かというと手がかりというものがないからだ。例えば、「趙州無字」ならば手がかりというものは「無」の一文字しかないわけで、一日中「ムームー」と念じるしかない。しかし、とにかく師家を信じて愚直に公案と向き合っていれば、ある時「無が自分か、自分が無か」というような状態になっていく。そうなって初めて見性を認められることになるのである。
見性というのはいわゆる悟りのことであるが、悟ったと言ってもこれで一丁上がりというわけではなく、これで初めて禅の道に踏み込んだということにすぎない。だが、ともかく一応これで空を体感したとは言えるだろう。
空を体感したということで、即座に龍樹の言うことが即理解できるかというとそうでもない。単に三昧を通じて空を体感しても、禅的な言語操作にはなじんでいるとは限らないからである。見性してすぐ龍樹の言葉を理解できるようになったという人は、おそらく中論などを読んでいて、不生不滅だとか不去来というような言葉に対し、もともとあるイメージを抱いていて、体感した空観をそのイメージにすり合わせたというだけのことであろう。
思想というものが概念と概念に関する総合判断であるとするならば、空観というものは思想的には空虚である。なぜならばそれは概念の解体に他ならないからだ。体空観というのは、心理学的にはゲシュタルト崩壊と言ってもいいと思う。赤ん坊は視力があってもものを見ることが出来ないという。経験というものが全くないので、地と図の区別ができないからだ。ルビンの壺という絵を見るときは、視点の置き方で地と図が反転しまう。赤ん坊のようにニュートラルなものの見方をすると、視野の中に写るものの意味付けが出来ないのである。
これは視覚の問題にとどまらない。あらゆる概念というものは我々の関心のあり方によって意味が構成されているのである。体空観というのは禅定を通してその実感を得ることである。つまり概念によって紡ぎだされるものを思想と呼ぶなら、概念を解体させる空観というものは到底思想ではあり得ない。言葉によって伝えるべき内容がもともと伴っていないのである。だからそれをあえて言葉にしようとすれば否定的な表現にならざるを得ない。逆に言えば、否定的な言葉はすべて空観と通底しているとも言える。
「無が自分か、自分が無か」という状態にあるのは概念の解体ということに違いない。そこでは空間や時間の概念さえも解体される。だから、あちらとこちらの区別もなくなるし、ときには言葉の意味を逸脱させて「永遠の今」などという矛盾した言葉遣いをする人もいる。しかし、空観にはもともと思想としては、伝えるべきものが何もないということはわきまえていなくてはならない。矛盾や否定は単に空に「感覚的」に通底しているだけであって、完全に一致しているわけではない。思想的に空虚であるということは、空の観点からは否定もまた否定されねばならないのである。不去来は不不去来であって、不生不滅もまた不不生不不滅なのである。空を予定調和的な否定で表現してはならないのである。それが中庸ということの意味である。
空観は概念の解体ではあっても否定ではない。一切皆空と言ってもそれは空しいとか儚いということではない。現実はあくまでリアルで肯定的でなくてはならないのである。空観をすり抜けてこの世界を再認識するとき、玄妙な世界が現出する。いったん解体した後で、この世界を素朴に再構成する。これは理屈ではない、「柳は緑花は紅」と言うのはこのことである。「あるものが無い」とか「すべてはまぼろし」だとか、そういう話ではない。いたずらに神秘的な言葉を並べるのは禅臭いだけであって全然禅的ではないのである。