禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

間違っている(と私が考えている)仏教の教説 ( その2 )

2018-01-14 11:42:51 | 仏教

昨日は、離人症のような空観に注文をつけたが、もう一つ気に入らない教説が輪廻説だ。明らかに迷信と分かるような言説がどうしてこのようにはびこるのだろう。たぶん、誰かの単なる思いつきが無責任なうわさ話として広まったのだろう。もしこの手の話が意図的に広まったとしたら、最初に言い出した人間が詐話師であるか思い込みの激しいトンデモさんであるかのどちらかにちがいない。 

六道輪廻という考えからしておかしい。「行いによって、どの世界に生まれ変わるか」だと言うが、一旦餓鬼道に陥ったら善行など行いようがない、二度と人間界に復帰する見込みなど立たず、永遠に地獄めぐりをしなくてはならなくなるというものだろう。 

ある人は、「来世というものがなければ、現世での行動に責任が無くなってしまう。」というが、現世で善行を積めば来世に恵まれるというのは、そこらの新興宗教と変わらぬ安っぽい考えである。仏教の無常観にそのような予定調和的な考えはなじまない。無常は将来のなにものも保証したりしない。善因必ずしも善果を招くとは限らない。たとえ、報酬を得られようと得られまいと、善行を積むというのが釈尊の教えではなかったか。 

そして何より気に入らないのが、「前世の因縁で‥」と無辜の人々に罪科を負わせるという考え方だ。人を脅迫しながら、善根を積めというのは釈尊の教えではない。 

東日本大震災の折に、「これは天罰だ。」と言い放った政治家がいた。彼の発想は「前世の因縁」的思考と同根のものである。なにをえらそうに、なにを根拠にそんなことが言えるのか。自分が神の高見に立っているとでも勘違いしているのだろう。根拠など無い。無責任な方言である。この世に「前世の因縁‥‥」などといえる人間はいないのである。 

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間違っている(と私が考えている)仏教の教説

2018-01-13 11:18:53 | 仏教

一般に仏教の空観は、「すべてはまぼろし」のようなニュアンスで受け止められていることが多い。「世の中を陽炎と看よ」という言葉をそのように受け止めれば、どのようなことがあっても心の静寂が得られるというのだ。このことは仏教に対するもっとも大きな誤解ではないかと私は考えている。 

私に言わせれば、そのような「心の静寂」にどのような価値があるのだと言いたい。龍樹の言葉だからといってなにもかも鵜呑みにしていいはずはない。仏教の教説には多くの人々がかかわっている。手っ取り早く信者を獲得するためにはいわゆる方便も言うし、中にはでたらめな言説も混じっているとみるべきだろう。空観が世界のリアリティを損なうようなものであるなら、仏教にも人生にももともとリアルな価値はないということになってしまうだろう。 

あくまでこの世界の喜び悲しみはリアルなものであるべきだ。空観はそれらリアルさを否定するものではない。その絶対性を否定するのである。世が無常であるからには、絶対的なものは存在しない。愛する人ともいつか別れなければならない。それがいかに不条理なことであっても、受け止めなければならないという諦観をもつ、ということが釈尊の「執着を断て」という意味である。 

どれだけ修行しても悲しいものは悲しい、それが事実である。鈴木大拙居士のように修業を積んだ方でも、親友の西田幾多郎が亡くなったときには、傍目も気にせず子供のように泣きじゃくったという。しかし、大拙居士はいくら悲しくとも、キサー・ゴータミーのように愛する人を生き返らせようとはしない。悲しみは受け止めるしかないのである。悲しみながら、親友のために泣けるということが自分の幸せであったということをかみしめているはずである。それが仏教的諦観をもつということであろうと思う。

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覚王山日泰寺

2017-07-10 20:40:15 | 仏教

名古屋市千種区にある覚王山日泰寺は、日本で唯一の超宗派の仏教寺院です。Wikipediaによれば、各宗派(現在19宗派が参加)の管長が、三年交代で住職を務めているとのこと。というのも、この寺には釈尊の真舎利が安置されているからです。「覚王」とは釈尊のことで、日泰は日本とタイ国を意味します。19世紀末に発見されたお釈迦様の遺骨をタイ国から分け与えてもらったので、日泰寺と名付けられました。日・タイ友好の寺でもあります。

堂々たる山門の両側には通常は阿吽の仁王像が配置されている場合が多いのですが、この寺は少し違っていて、左に迦葉尊者、右には阿難尊者が配されています。二人共釈迦十大弟子で、迦葉尊者は仏法の第2祖、阿難尊者は第3祖とされています。


山門を抜けると壮大な本堂が現れます。ここでお参りして満足して帰る人が多いようですが、できれば北側の大通りの向こう側にある舎利殿の方まで足を延ばしましょう。


この入り口から入ると、右側に舎利殿、正面に拝殿が見えてきます。


正面に見える拝殿の向こう側に奉安塔があり、そこに仏舎利が安置されています。そのように意識すると釈尊が身近に感じられます。右手前に見えるのはどうやら釈尊の涅槃像のようです。


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輪廻転生について

2017-05-23 08:12:34 | 仏教

元外務官僚の佐藤優さんはとても頭のいい人で話も面白い。「ゼロから分かるキリスト教」というのを読んだのですが、内容は結局というかやはりというかさっぱりわからなかった。キリスト教の知識がゼロなのに、シュライエルマッハーがどうのカール・バルトがどうのと言っても分かるわけがない。 分からないのに面白いのはやはり語り口が巧みだからだろう。

それはそうと、仏教について次のように述べられていたのがちょっと引っかかってしまった。 

《 仏教の場合は原罪観はないけれども、中観においても、とくに唯識においても、人間は悪に傾きやすいという人間観を持っています。われわれは輪廻転生を何度も繰り返しているわけです。もしかしたら前世はサソリだったかもしれないし、その前はミミズだったかもしれないし、或は仙人だったかもしれない。天女だったかもしれない。いろんな輪廻転生がある。でも、私がかつてミミズだった時の記憶、皆さんがかつてトカゲだった時の記憶は今残っていない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」とかいう記憶は残念ながら残っていないのだけれど、それはわれわれが思い出せないだけで、大きなわれわれの無意識の中には残っているんだと、仏教は考えるわけ。》 (P.114) 

輪廻転生ということはよく言われるが、おそらくそれは仏教本来の考え方ではない。釈尊の教えはそのような超越的な物語とは相いれない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」という記憶が大きなわれわれの無意識(阿頼耶識)の中には残っていたとして、誰がそのようなことを確かめたのか疑問だし、そのようなことから生産的な思想が生まれてくるはずもない。 このようなヨタ話から仏教を語り、ひいては日本人の精神文化まで語ってしまうことには問題がある。

世界は有限であるが無限か、肉体と霊魂は一つのものか別のものか、悟りを得たものは死後に生存するかしないか、それらの問いに釈尊は答えなかったと言われている。このことを指して「無記」と言う。このことと輪廻転生説は明確に背反している。

あるところで上記のような話をしていると、「禅定を深めてゆくなら、一切の前世の記憶を思い出す能力が開発されるのだということが、原始仏典の『沙門果経』に説かれています。」ということを教えてくれた人がいた。率直に言って、仏典というのはこのように矛盾だらけなのだ。

充足理由率というのは「なにごともこのようであって他のようでないことの理由がある。」という原理のことである。「無記」という概念は仏教にとって極めて大切な概念であるにもかかわらず理解しにくいのは、われわれが無意識のうちに充足理由率を受け入れているからだろう。その一方で、輪廻転生説のようなある意味荒唐無稽と言ってもいいような言説も、図式的にはシンプルであるためやすやすと受け入れてしまうのである。

もともとこの世界は訳の分からない世界である。そのわけのわからなさをそのまま了解し受け入れよ、と釈尊は言うのである。そのような視点に立てば、輪廻転生説というのはいかにも荒唐無稽である。禅定を深めて「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」と言う人がいたら、たぶんその人は詐話師であるか、良く言って思い込みの激しい妄想家に違いない。


※(公案解説はこちらを参照 ==> 「公案インデックス」

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すべてはまぼろしか?

2017-02-21 10:45:32 | 仏教

前回記事の「世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ」について、「すべては虚妄である」と龍樹自身が述べている、とある人から指摘されました。私は仏典に疎いので、そこまで言われたらそうかもしれないとも思います。しかし、あえて言いたいのですが、重要なのは龍樹の表層的な言葉ではなく、その精神その真意です。龍樹の著作というものは古くて多くの人の手を経ています。細かく見て行けば矛盾も多々あるはずです。彼の真意をくみ取れば、「すべては虚妄である。」などと彼自身が言ったはずはないと私は思うのです。重要なのは表層的な言葉による理解ではなく、実感を伴った理解でなくてはならないということです。

「すべては幻のようなものだから、執着してはならない。」というお坊さんもいます。私はこれを非常にまずい説き方であると考えているのです。なぜまずいかと言うと、仏教についてあまり知識のない人だとそれを神秘的な言葉として受け取ってしまうからです。「ふーん、よく分からないけど、本当のところはみんなまぼろしなんだ」などという了解にどれほどの意味があるでしょうか。
愛する子供が死んだとします。「すべてはまぼろしだから」って平気でいられますか? 恋人を抱擁している時に、自分の腕の中のものはまぼろしだなんて思えますか?

釈尊はわが子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と言いました。キサー・ゴータミーは必死になって駆けずり回り、「ひとりも死者を出したことのない家」を探します。わが子を取り返したいという情熱のあまり、精も魂も尽き果てるまで探し回った結果、「ひとりも死者を出したことのない家」など無いのだという悟りに到達します。

釈尊は愛する子供を失くした悲しみがまぼろしだと教えたわけではありません。子供を亡くした親が悲しくないわけはないのです。その悲しみはあくまでリアルです。ゴータミーは、すべての人は死ぬということ、いわば無常の理を知ったのです。

人は、今の幸せがいつまでも続く、子が親より早く亡くなることはない、と思いがちです。ゴータミーはそれらが根拠のない思い込みに過ぎないことを悟ったのです。走り回って精根尽き果てたその時に、この世界の無根拠性を腹の底から了解した、ということでありましょう。その時、この悲しみを受け入れるしかないという覚悟ができたのです。あらゆる思い込みに根拠はないということ、つまりすべては無自性であるということ、それが龍樹の言いたいことではなかろうかと私は考えているのです。決して神秘的なことを龍樹は述べているわけではなく、実に当たり前のことを言っているのです。

すべてはまぼろしと言い、苦しみもなく悲しみもないなどと言っていると、行き着く先は離人症です。そのような仏教理解は邪道と考えます。私たちは、ありありと現前する世界をそのままリアルに受け止めるしかない。柳は緑花は紅というのはそういうことであろうと思うのです。

( 参考 ==> 公案に関する哲学的見解 )

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