禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

この世界はなぜ不条理なのか?

2021-01-23 16:05:18 | 仏教
 ほとんどの人は失恋の1回や2回は経験していると思う。平和な社会に育った人にとって、失恋ほどつらい体験はそれほどあるものではない。悲嘆にくれ、自分を全否定されたほど落ち込んでしまい、生きる気力を無くしてしまいそうになる。そういう時に、自分が相手を好きになったほど相手も同じほど自分を好きになる、というふうな仕組みに世界がなっていたらどんなにか良かっただろう、と思ったことがある。現実はそうはなっていない。なぜか? 
 
  このことについて西洋では、世界は超越的な意志(つまり、神)によって創造されたという考えが主流である。だからこの世のすみずみまで神の理性(ロゴス)が行き渡っているとみる。一見この世界は不条理に見えても、すべてを神様が見ていて下さって必ず(あの世で)帳尻合わせをしてくれるのである。

 そういう考え方は東洋にもあって、死んだら閻魔大王の決裁によって極楽行きか地獄行きに振り分けられる、というようなことを子供の時分に教えられた人が多いと思う。しかし、それは本来の仏教的な考え方ではなく、いわゆる方便として伝えられたものである。仏教では超越的な神というものを考えない。たぶんこの世界は偶然できたものであるとする。「偶然」というのは、なんらかの意志によって意図的に計画されたものではないということである。だから、この世界は人間のご都合に合わせて設計されているわけではない、つまりこの世界が不条理であるのはある意味当然なのである。
 
 仏教における無常観というのもこの偶然というところから出てくるのである。キリスト教世界ではすべてが神さまの思し召しであるが、仏教においてはそのような超自然的な存在はないので、われわれの運命を差配するものは何もないのである。つまり、われわれの運命を保障するものは何もないということになる。そこに実存的な不安がある、それが無常観である。

 キリスト教を信じることが出来る人、それはそれで幸せである。神の意志に従って善根を積めば、必ず報われることが保証されているからそこには何の不安もない。信仰深い人は迷いのない力強い一生を過ごすことが出来る。では、神さまのいない仏教徒はどうすればよいのか?  せっかく良いことをしても神様が見てくれているわけではない。なんの報酬もなく働けと言われているようで、なんか損するような気がする。確か、仏教においても因果応報とか善因善果と言っていたのではないのか? 多分それは方便として言われているような気がする。残念ながら神さまがいない以上、仏教には契約関係における因果応報というようなものはありえない。将来的な見返りが有ろうとなかろうと、善いことをしなさいと言うのが釈尊の教えである。

 そういう意味では、仏教は性善説と言える。困っている人がいたら助けてあげたくなる、それが「慈悲」、現代語でいうところの「愛」である。助けてあげて、その人が幸せになったら自分まで幸せな気分になる。それが仏教本来の因果応報、善因善果である。将来の見返りを期待して善行を施すというのは、仏教的見地から言えば、単なるビジネスでしかない。私たちにはこの世界をあるがままに受け入れなくてはならない。「世界はかくあるべし」とこの世界に自分の恣意を押し付けることは出来ないのである。

 美しい女性を好きになったら、その人に自分を好きになって欲しいと願うのは当然のことである。なんとか自分のことを振り返ってもらうために、スポーツを一生懸命やって格好いいスタイルになるとか、勉強を一生懸命して一流大学に入るとか、一生懸命働いて大金持ちになるとか、そういう努力をするのもいいだろう。しかし、どんなに頑張ってみても、その人が自分以外の人を好きになってしまうということがある。どれほど好きであってもあきらめなければならないことと云うのはあるのである。人は現実を受け入れなくてはならない。「自分はこれほどあの人を好きなのだから絶対あきらめることはできない」というのは執着に他ならない。執着が煩悩を生むのである。

 「世界をあるがまま受け入れる」とは無常の理を知るということである。「この世界が不条理」であるのは自分の恣意的な価値観を世界に押し付けているからである。世界が無常であるということを骨の髄から理解した時、その不条理は解消され、この世界の絶妙さを理解することが出来るのである。考えてみれば、それほど人を好きになれることができたこと、そのこと自体が素晴らしいことに違いないのである。私たちはそういう世界に生きていることに気づくべきだと思う。
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仏教は無常から始まる

2020-04-18 13:26:01 | 仏教
 前回記事では、ゲシュタルトなどというカタカナの言葉を使って空を説明した。そのことについて違和感を覚えた人もいたのではないかと思う。だが、大乗仏教の祖である龍樹の言葉を忠実にたどるとそういう見解に至るのである。空は決して神秘的な概念ではない。仏教も決して神秘的な教えではない。神秘的なのはこの現実の世界である。

 ゴータマ・シッダールタは王族の子として生まれ何不自由のない暮らしをしていたが、29歳の時無常を感じ出家したと言われている。この「無常」を検索してみると、

 仏教で、一切のものは、生じたり変化したり滅したりして、常住(=一定の
 まま)ではないということ。「―観」。人の世がはかないこと。
 
となっている。 要するに、ものごとは常に変化しているということだが、それがどうして儚いのだろうか? 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を
 あらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
 はほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 

よく引き合いに出される平家物語の冒頭の一節である。あまりにも美文であるために、無常の儚さがかえって美しいもののように感じられる。文学的には非常にすぐれた作品ではあるが、その儚さが平家の滅亡に焦点が限定されすぎていて、仏教本来の無常観の意味が少しずらされてしまった感がぬぐえない。 

 無常の恐ろしさはいかなる意味においても約束というものがないということにある。西洋的な考え方だと神さまがおられるから、すべては神様の思し召しである。あらゆるものが神さまの差配の許にあり、すべてのことは必然的である。しかし逆に言えば、神さまがいなければなにも保証されていないということになる。すべては偶然的に流動しておりとどまることがない。そうすると、固定された概念というものも成立しない。そういうよりどころのなさが無常である。感受性の強いシッダールタはそこにある種のすさまじさや恐ろしさを感じたのだろう。

 なぜ、無常に不安を感じるのか? それは我々に理性があるからである。理性が整合的な世界観を要請するのである。私たちの理性はあらゆることに理由がないと納得しない。すべてのことに必然的な根拠があるという思い込みがある。しかし、そもそもこの世界があるという最も根源的なことについて根拠が見当たらない。そこに神様の出番がある。最も肝心な一番最初の理由として神様を措定するわけである。だから昔からどの民族にも神様があるわけである。民族によって信じる神様は多様であり、決して普遍的な神様というものは存在しない。しかし、神さまを信じる行為そのものは普遍的である。だから、シッダールタ太子も神様を信じればよかったのだが、どんな神様もケチを付けようと思えばつけられる。必ずどこかに超自然的な物語が付随している。インド人は思弁的である。特に、シッダールタは既成の神様を信じるには知的に過ぎたのだろう。

 では、シッダールタはこの問題をどのように解決したのだろう? 彼はそこに問題など存在しないということに気がついたのである。 理性は惰性によって根源的な理由を求めているに過ぎない。「世界はなぜあるのか?」、「私はなぜ私なのか?」、「私はどこから来て何処へ行くのか?」、このような存在に関する問いに対する解は無い。問いを発しながら、実は自分が何を問うているのかが分かっていない。あるべきはずのない概念に執着していることに気がついたのである。ここに無記という概念が生まれる。 経典に記されていないということから「無記」と言われるが、単に分からないという意味ではなく、問いとして発しないという断念の哲理である。

 この世界が如何なる有り様をしていようと、われわれはあるがまま受け入れするしかない。そういう諦観を得た後にあらためて世界を眺めてみると、 無常の世界は奇跡的な玄妙の世界に転じるのである。栂ノ尾の明恵上人はある時、野のスミレを見つけてはらはらと落涙したという。一輪の小さなスミレがそこに存在する、その不思議が尋常ではない、有難いものと感じたからである。「有難い」とはまさに有ることが難いという意味である。明恵はそこに一輪のスミレの奇跡性を感じ取ったのである。

次回は「無常と空の関係」について考えてみたい。

この世界はまことに玄妙である。 (美ヶ原にて)
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実感を持って生きる

2020-04-02 10:37:09 | 仏教
 日本に伝えられた禅宗は二四流あったと言われている。そのうちの曹洞宗の三つと黄檗宗の一つを除けば、すべて臨済宗である。現在の日本臨済宗は14派り、それぞれに本山を頂いているが、法系的には江戸時代の白隠慧鶴(はくいんえかく)の一流しか残っていない。白隠は妙心寺派の流れをくむ人なので、実質的には妙心寺が日本臨済宗の総本山と言っても良い。その妙心寺の御開山が無相大師・関山慧玄 (かんざんえげん)禅師である。一般的には関山国師と呼ばれることが多い。日本臨済宗にとってはものすごく重要な人物であるが、あまり一般に名を知られていないのは素朴な修行底の人だったからかもしれない。

 妙心寺は京都の花園というところにある。花園法王の離宮のあったところで、熱心な禅の信者であった法王がそこに禅寺を立てようと思い、彼の禅の師であった大燈国師の推薦により関山国師を開山として迎えることになったのです。その当時関山国師は美濃の井深で農家の下働きのようなことをしていたらしい。誰も彼のことをそんな高僧だとは知らずに、便利屋としてこき使っていたということです。ところが、朝廷から迎えが来て、みんなびっくりしてしまった。そんな偉い坊さんなら、お別れする前に一度教えを請いに行こうと、ある夫婦が関山の許にやってきた。すると、関山は両手をその夫婦の頭にかけて、あろうことか二人の頭をガツンと鉢合わせしてしまったのである。

 そんなことをされたら痛いに決まっている。今まで散々こき使われた腹いせに仕返ししたのだろうか? もちろんそんなことはあり得ない。もうこの先二度と会うことのないこの夫婦に短い時間で、実になるような教えを説く言葉は関山には無かったのだ。あえて言えば、「頭をぶつければ痛い」という当たり前のことを教えたのである。禅には迂遠な真理というものはない。常に真理は現前している。その現前する「痛み」が真理である。「痛み」が尊いのである。「痛み」を通して、この世界の玄妙さを知る。それが禅である。

 若者は時に、「人生の意味ってなんだ?」とか「どうせ死ぬのになぜ生きる?」などと口走るが、おそらく生きているということが実感できてないのだろう。問い方がまずい。そのように問うてる人はじぶんがなにを問うているかわかっていないのである。生きることに意味や目的など無いに決まっている。すでに生きているのにその意味や目的を問うことはできない。生きることそのものが意味である。意味のただ中にいて意味を問うなどということはナンセンスである。関山国師はもうこの世にいないから、国師の代わりに自分で自分のほっぺたを叩いてみれば、そのことが分かるかもしれない。

 
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
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量子論で空を説明する?

2020-02-05 19:53:33 | 仏教
 科学理論の進歩が私達の世界観を一変させることはよくある。ニュートンの万有引力、ダーウィンの進化論、アインシュタインの相対性理論、等々。我々は固定観念に陥りやすいのであるが、なかなか気がつかない。時には科学が私たちの曇った目をぬぐってくれることもある。しかし、科学というものは、現象を合理的に説明するための仮説であるという事は常に心に留めておかねばならないことである。
 ある人が言うには、「量子力学によって龍樹の空についての思想の正しさが証明された。」ということなのだが‥‥。はたして、龍樹の思想は科学によってその正しさを証明されねばならないような性質のものだろうか? もしそうだとしたら、科学上の新しい発見によっては龍樹も否定される可能性もあるということなのか? 

 そうではあるまい。龍樹の空観というのは仏教における原理とも言うべきものである。龍樹は「空とは縁起である」と説く。縁起とは中村元博士によれば相依性であるという。つまり相対的な関係性のことである。ものごとの識別・判断は相対的な関係性の中から生まれてくる。そこには必ず何らかの恣意が忍び込むというのが空の思想である。入定すると、あらゆるものから相貌が失われる。すべてのものの意味が脱落する。山は山でなくなり、川は川でなくなる。もちろん机も机ではないし、カレーライスはカレーライスではない。鈴木大拙博士の言う即非の論理「AはAにあらず、ゆえにAである」とはそのことを言っているのである。もちろんそういうところでは量子力学どころではない。数学も物理学も識別・判断することから成り立っているからである。

 もちろん、私達が生きていくには識別・判断というものがなければならない。しかし、仏教はその識別・判断は恣意的であると説く。つまり、それはニュートラルではなく、私達の都合であるというのである。数学や物理学だけではない。善悪や美醜というのも突き詰めてみれば、私達の都合によって成り立っている。もちろん私達は、その都合というものを否定しては生きていけない、そういう卑小な存在であることを忘れてはならないのである。私たちは卑小であるから、区別や差別をして生きている。しかし、本来はいかなるものにも差別などというものはない、と言うのが仏教の教えである。
考えようによっては仏教はとてつもなくニヒリスティック見えるかもしれないが、それだけ射程が大きいということなのだろうと思う。量子論によって説明することなどできるはずもない。
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無記と仏教的諦観の関係

2020-01-27 08:14:27 | 仏教

 疑似問題というものについてもう少し考えてみよう。「世界はなぜあるのか?」という問いを我々はなぜ発するのだろう。問いというものが答えを求めるものであれば、問いを発する以上は自分が何を求めているかを知っていなければならない。しかし、この問いを発する時、私は自分がどのような答えを期待しているか分からないで発しているのである。そもそも私は「世界がない」という状態がどのようなものであるかを想像できないまま「なぜあるか?」を問うているのである。ウィトゲンシュタインに言わせれば、この時私は自分で自分が一体何を問うているか分からないままなにかを問うていることになる。つまり、「世界はなぜあるのか?」という問いに実質的な意味はないということになる。

 それでも問いたくなるのは、私が暗黙の裡にライプニッツの充足理由率を受け入れているからであろう。 

  「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」 

 充足理由率を受け入れていればこそ、我々はこの世界を秩序だって理解できる。それがなければ因果律も受け入れることはできず、科学というものは成立しない。しかし、充足理由率の適用範囲は、既に現に存在している事実間の関係性に限られるのであって、決してあらゆることに及ぶわけではない。既に存在してしまっているこの世界の根拠や私の実存については問うことはできないのである。 それを無記と言う。

 どんなことにも理由があるのならすべては必然でなければならない。しかし、それにしては、この私の実存は分からなさすぎるのである。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンは、あるときからこの世界のあまりの偶然性に気づき不安を感じるようになる。この世界の一つ一つの事象に納得がいかなくて、終いにはマロニエの根っこを見ただけでそのグロテスクさにおびえ、吐き気を感じるようになってしまう。 その不安はこの世界の摂理を求めようとしても求められない、その絶望にある。

 仏教における無常とはこの世界の偶然性のことである。この世界には根源的理由などない。その理由のなさに納得することを「仏教的諦観」と言う。諦観は単なる諦めではない、いわば実存の究極的根拠に対する断念の哲理である。現実存在に比較しうるものなど実ははじめから何もなかった、私は決して他の様ではあり得なかった。そのことは空観を得て初めて納得できるのである。

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